Saturday, March 16, 2013

平原生まれの少年ウーゴ・チャベス、格好ばかりの左翼のリーダーとなる…Hugo Chávez: poor boy from the plains who became leftwing figurehead


平原生まれの貧しい少年チャベス、格好ばかりの左翼のリーダーとなる…
Hugo Chávez: poor boy from the plains who became leftwing figurehead
By Rory Carrol (3/5, The Guardian)  

 誰もが、こんな最期は想像さえしていなかった─病院のベッドで、静寂に包まれた、視えない、やつれきった遺体。ウーゴ・チャベスの燃えさかるドラマのような人生も、司令官を演じる彼の姿も…その友人たちや、敵たちもみな…彼についてはオペラのようなフィナーレを思い描いていたというのに
 
 彼は…何十年も政権を支配し続けて、ベネズエラとラテンアメリカを変貌させ…仕事を終えた年老いた男として王宮のバルコニーから支持者たちに別れを告げるはずだった。あるいは…もう一つのパラレルな幻想の光景は─彼が権力から転げ落ち、革命の燃えによって倒され恥辱を与えられその熱狂の日々を社会からののけ者として終える、というものだった。

  しかしその代わりに、58歳の指導者の死火曜日に副大統領のニコラス・マドゥーロNicolás Maduroによって…彼カラカスの病院でガンに斃れたのだと報じられたのだ…オフィシャルな秘密のの陰に、世界を置き去りにして…。バリナスBarinasの平原から来た、絵を描くことや歌うことが好きな少年は成長して軍人になり、クーデターの計画者となり、世界的な大統領となり…勝利と、破壊と、不確実さの曖昧な遺産を遺していった。

 それはシュール…スローモーションのような死だった。彼は、2011年6月にガンを公表して、国民を驚愕させた。コマンダンテ(司令官)が病気?彼は、破壊しがたい者─所有者(possessor)なのだ、と─ガブリエル・ガルシア・マルケスGabriel Garcìa Márquezはいつぞや、彼の鉄筋コンクリートの肉体についてそう書いた。チャベス は一日に30杯以上のブラック・コーヒーを飲み、午前3時まで働き、彼のウィークリーTVショーで8時間ぶっ続けに、台本なしで(あるいは休憩なしで)喋り続けた。

 「我々は、この病を打倒する 」と彼はベネズエラに向かって宣言した…その国を彼自身のサルのための戦いに参戦させて。そして…昨年、彼がキューバでの治療のために公的な場から姿を消して官僚たちが憂慮をし始めるまで、政府は1年半の間、彼がどんなにむくんで見えたり、やつれて見えたりしても、彼は治癒しつつあるのだ…といい続けていた。
  2012年にはチャベスは暫くの隠遁状態を破ってTVに登場し、その日の新聞に書き立てられていた…人質が生存していることを証明するビデオのように。多くのベネズエラ人は、ガンは邪悪な対抗者たちへの計略として装っていたのだろうと思っていた。

 ─しかし、彼は死につつあった。ガンの種類や、そのオフィシャルな診察記録は、フィデル・カストロFidel Castroの医療記録と同じく秘密の場所に匿われた。 死はチャベスをスポットライトの許へと立ち戻らせた。彼の葬儀は、号泣する人々や、外国の指導者の車上パレードが織り成す壮大で騒々しい事件となるだろう。

 1998年に彼が最初に選挙で選ばれて以来、チャベスのことをチャンピオンだと思っていた何百万人もの…その殆どが貧しいベネズエラ人たちは彼を失うのだ。「Uh, ah, Chávez no se va(ううああ、チャベスは行かない)」という呼び声がこだました。ああ、チャベス は行かない。それは、彼の追放しをもくろみながらも失敗した対抗者らに対して、叫ばれたことのある…陽気で大胆な返答のシュプレヒコールだった。いまや…彼は逝ってしまった─しかし彼の、カリスマ性と豊富な石油収入とに裏付けられた「21世紀の社会主義革命」というユニークな実験は、いったいどうなるのだろうか?

 憲法は、30日以内の選挙の実施を要求している。そのスピーディーなタイムテーブルは、チャベスが聖別した後継者のマドゥーロを、組織化に苦戦している野党連合に対抗させることだろう。その野党の候補者とは、若い州知事のエンリケ・カプリレスHenrique Caprilesになるとみられるが、彼は昨年10月の大統領選でチャベスに、精力的ながらも不運な挑戦をしていた。政府は、何週間も前から非公式な選挙キャンペーンを開始してカプリレスに反対するレトリックや中傷宣伝を増大させていた。
 
 ここには沢山の質問がある。もしも カプリレスが勝てば、チャベス支持の市民の私兵勢力や軍の勢力は彼らを受け入れるのだろうか?…肥大した公共セクターや政治化した官僚たちは彼らの政権を妨害するだろうか、あるいは彼らの赤いTシャツ(チャベス支持派を表す)をゴミ箱に捨てて、由緒あるsaltando la tanquera(塀の上でジャンプする風習)を行い、新しい治世を支持するのだろうか?もしもマドゥーロが勝てば、そして彼がもっとも好ましい者だと見られたなら、彼は分裂気味のチャベス支持者の草の根活動家の連合や、思想家(イデオローグ)である市民たちや、軍のプラグマティストたちや、キューバ人のメンターたちをコントロールできるのだろうか?チャベス主義の残党たちはアルゼンチンのペロン主義がホアン・ペロン自身よりも長く生き延びたように、生き延びられるだろうか?
 
 もう一つの質問とは、歴史家や政治的パルチザン(同志)たちも何十年も論議していたことだが、チャベスの遺産とは何なのか、ということだ。彼は地元でも海外でも憧憬と同時に強い嫌悪を掻き立てて、その両極化は両者の側をしばしば盲目にさせた。そこには、テロリストからの資金援助をうけて敵対者を投獄し、人々を飢えのなかに置き去りにする独裁者チャベスがあった。そこにはまた貧困層を力づけ、民主主義を深耕し、反米に立ち上がるヒーロー、チャベスがあった。

 そのリアリティとは、より複雑で魅惑的な存在だった。チャベスはハイブリッドな…民主主義者であり独裁者であり、プログレッシブで、かつ虐待者(苛めっ子)だった。彼の「ボリバル主義革命Bolìvarian revolution)」は…19世紀の革命家シモン・ボリバルに因んだものだったが…こうした矛盾を体現していた。彼はそのパーソナリティでカルトをつくり、再選への制限を撤廃し、私営メディアを制限し、軍と立法府、司法府と政府系石油会社PDVSAを彼の個人的支配下においた。彼はコロンビア国境近くのFarcのゲリラキャンプに盲目的な視線を投げかけ、ムガベMugabeや カダフィ Gaddafi、アサドAssad のような人間たちを賞賛した。(…後略) 
http://www.guardian.co.uk/world/2013/mar/05/hugo-chavez-poor-leftwing-figurehead

良くも悪くも、チャベスはベネズエラ人たちの自画像を変えた By ウィリアム・ニューマン(3/6, Nytimes) 
 
  グラシエラ・ピネーダは、大統領ウーゴ・チャベスの最初の任期中の1999年に、ベネズエラの海沿いで起きた破壊的な土砂崩れで何千人もの人々が犠牲となり…彼女の家が流されて以来…チャベスが再建への約束を果たしてくれることを待ち続けていた。 

 「待って、待って…13年が過ぎたのに、私たちは何も得ていない」、と50歳の女性ピネーダGraciela Pinedaはいう─彼女は瓦礫が散乱し、多くの空家が残る荒地に放置された建物を無断占拠し8人の家族とともに詰め込まれるように住んでいる…そこはかつてはロス・コラーレスLos Coralesと呼ばれる洒落た地域だった。
       

  Ms.ピネーダはいまだにチャベス氏を支持し、10月に彼が更なる6年間の任期を獲得した選挙の際にも彼に投票していた。「彼は、ベネズエラを前進させた」─彼女は昨年暮れに、チャベス氏がガンの治療でキューバの病院に滞在していた折にそう述べた。「彼は最も貧困な者たちの側に立っている。そして我々は、みな彼を支持している。」
  
 経済の数値には問題があり続け、多くの約束は反故にされるか…半分しか実現されなものばかりだった14年間にもかかわらず─火曜日に死去したチャベス氏が遺した根源的な遺産とは、コンクリートや鉄骨の建造物でも、ハイウェイでも、家でもなく…もっと、手では触れにくいものだった─彼はベネズエラ人たちが抱く、彼ら自身や国についての考え方を変えたのだ。

 「彼は、かつては自分たちは民主主義国家の一部だとは思っていなかったような人々に、自分たちがシステムの一部なのだ、と思わせた」と、市民団体 Washington Office on Latin Americaのディレクター、ジョイ・オルソンJoy Olsonは言う。「そういうことは、余り多くの国々で起こってはいない。たとえば米国をみても、貧しい人々は…自分たちがシステムの一部だとは余り感じていない」
それは首都カラカスの街角や、この国のいかなる地域でも目に見える力学(ダイナミクス)なのだ─商店では、憲法の条文コピーや、チャベスの政府が決めた、ランドマーク的な法律を掲載したブックレットを売っている。昨年夏新たに成立した労働法は最新のホットな売れ筋なのだ─あるカラカスのバーテンダーは、暇な時間にカウンターの陰に座ってそのコピーを読み…労働者やオフィスワーカーたち、仕事帰りの道すがら地下鉄に乗ってそれを読んでいる姿も目につく。

   もちろん、政府はそれを物質的な意味でも刻印した。ロス・コラーレスにおける政府の怠慢のカウンター・ポイントとして、マクートMacutoと呼ばれる地域の優良経営の小さな病院は、1999年の洪水の後の復興のシンボルになった。土砂崩れ以前には産婦人科病院だったその病院は、今では拡張されて毎月200人の赤ん坊が生まれ、ドクターたちは眼科や乳がんの外科手術を含む生命に関わる沢山の手術を行っている。そうしたサービスは、すべて無料なのだ。

  しかし、352,000人の人口をもつこの国にたった3つだけある病院の1つは、チャベス氏の革命の矛盾の一例でもある─それは災厄の後に全面的に営業を再開するまでに10年以上を要した。 「それはとても、遅々としていた」と、2010年にその施設を開業した同病院のディレクターのDr.ルス・ステラ・アントリネスDr.Luz Stella Antolinezは言う。「そこには、その仕事を完遂しようとの意志が欠けていたのだ」 

  しかしそれでも、Dr.アントリネスは、チャベス氏を南米の独立革命の英雄シモン・ボリバルSimón Bolívarや、ジャンヌ・ダルクのような人物ににさえなぞらえ、歴史的な人物と呼ぶ。  

「彼は、我々の意識を変えた」、とDr.アントリネスは言った。「ベネズエラはかつての姿に戻ることはない。この何百万人もの国民の全てが、14年間にわたって大統領が彼らと対話したことが、何らかの価値があるものだったのだと知っている」  

 イデオロギーの面ではチャベス氏は一種のカメレオンのような人物で、彼自身の好みに合わせ、政策やプログラムを好き勝手に切り刻んだ。  

 彼は自称社会主義者として、私企業とその資産を接収したが、一方では政府の契約から得る利潤で自らを潤す、日和見主義者にもみえた。 彼は経済的な自立に関して説教をし、国の補助金でグローサリーストアのチェーンを設立したが、農業を無視し、食料供給を輸入に大きく依存した。 彼は資本主義者たちを激しく非難し、国への奉仕をレクチャーしたものの、拡大する腐敗に関しては容認するか、無視していた。   

 彼は民族の自決について語ったが、彼自身はリビアやシリア、そしてイランの独裁者たちと手を結んだ。チャベス氏はベネズエラの貧しい大衆層と、ミドルクラスやアッパークラスとのにある溝を一層深めさせ、深刻に分裂した国の上で首長を務めた。彼は彼に同意しない者たちを容赦なく愚弄し…憤らせ、彼らのことをファシストとか役立たず、裏切り者、オリガルキー、反動主義者、米国の操り人形などと呼んだ。 そして彼は、彼の政府のもとで利益を得た貧困層からそれを奪おうとしていると彼が言う、内外の敵に対して絶え間なく警告した。

 貧困層の生活の条件は過去15年間には確かに改善され、そして貧困層の規模は縮小した。政府のプログラムは、貧困な人々に低コストな食べ物や無料の医療サービスへのアクセスを与えて、高等教育へのバリヤを崩したのだが、しかしそれら多くのプログラムは非効率性と、サービスを受けるまでの長い待機期間によって悩まされた。 

 ベネズエラは世界でも最大の原油埋蔵量を有し、その経済状況は、石油産業によって大きく上下させられる。チャベス氏がはじめに大統領になったとき、石油は1バレル10ドル以下で売られていた。今年、それは100ドル以上で売られている。

 こうした石油による富裕層は彼の運動を後押ししたが、批判者たちは彼の私企業の没収や価格コントロールを含む政策が国の経済を阻害し、生活に必要なベーシックな商品を欠乏させ、持続不可能なシステムを創ったのだと述べる。石油の生産は停滞し、政府の石油公社はその拡大のための巨大な投資に失敗した。8月に石油精製施設で起きた大きな爆発は何十人もの犠牲者を出し、メンテナンスや安全性に関して多くの疑問を生じさせた。  

 電力ネットワークなどの経済に必要な他の重要分野の機能は不完全で、国の多くの地域で恒常的な停電が起きる。道路や橋の状況は悪く、港では交通障害が多発し、石油価格の継続的上昇にも関わらず、国の累積経済成長率は99年以来、南米の7カ国中で最低であると、国連のデータは示している。


 チャベスは彼の運動を彼の英雄のシモン・ボリバルにちなんで名づけて、21世紀の社会主義と呼んだ。しかし、それが本当は何だったのかを、名づけることは困難だ。「Chavismo(チャベス主義)には、イデオロギー的な一貫性が余りない」と、ワシントンのポリシー・グループ、Inter-American DialogueのMichael Shifterはいう。「それは気分的で、感覚的なもので、トラディショナルな政治秩序や、より大きな社会正義への懸念や、排除されてきた人々のより大きな政治参加というものを、真に拒絶するものだ。



 チャベス氏は彼自身が幾度もの選挙で再選されたことを誇りに思い、彼の政府は一般に不正工作が自由にできるとされるデジタルな投票システムを導入した。彼の反対者たちは、チャベスの選挙キャンペーンに巨額の政府の資金が使われたことから、ベネズエラの選挙は自由だが公正ではない、と呼ぶ。



 チャベス氏は権力の民主的な勢力分立を排除した。柔軟な立法府は彼に、彼自身が法を制定する独裁的な権力を与えた。そして彼は彼に忠実な判事が彼の気に入る判決を下すような司法機関をも支配した。彼は国営のテレビ局とラジオ局を権力のプロパガンダマシンの一部に用い、その国でもっとも良く視聴されていた野党のアジェンダを推進する放送業者、RCTVによる放送を強制的に禁じた
  

 チャベス氏の国内での貧困層へのアグレッシブな擁護は必然的に、彼の…最も富裕な国家米国に対する攻撃へと帰結した。反抗的な、反帝国主義的主張によって、彼はラテンアメリカの左翼に力を注入し、米国の影響を低減しようとする左翼的な政府を持つキューバやニカラグア、エクアドル、ボリビアのような国々からなるグループをリードした。そして彼は、ラテンアメリカのアイデンティティを強調し、その均衡を米国の影響からより一層、離脱させようとするより広い地域的グループ─南米諸国の組織Unasurのような組織の形成を補助し、強化した。

  そんななかで海岸沿いの都市は、その長い道路を1999年の土砂崩れから復旧させることに苦闘した。ウォーターフロントの2つの大きなホテルは、かつては人々に大量な雇用を与え、旅行産業で何百万ドルもの利益を上げていたが、二度と再開されてはいない。この12月に予定されていたSouth American Beach Gamesに合わせて、それらを補修しようとした最新の救済策は昨今、放棄されたとローカルニュースは伝えた。

 
 多くの人にとってそれらのホテルの永久的な空室もまた、破られた約束のシンボルのひとつだ。しかし他の者たちにとってそれらは、チャベス氏の貧困層に対する権限委譲(擁護)と、富裕層に支配される国際的秩序への彼の拒絶というものの、ありそうにないサイン(いまいち…信じがたい兆候)でもあるのだ。


 かつてシェラトンホテルの宿泊客のための場所だった砂浜の小さな一帯に近いビーチで、小さなレストランを営む50歳のベンハミン・ホセ・アストゥジョBenjamin José Astudilloはチャベス氏がビーチを、「グリンゴ(米国人)たち」のためではなく、ベネズエラ人たちのために生かすことを望んでいた、という。そして彼はいう、「グリンゴたちはもうここにはこない。」

http://www.nytimes.com/2013/03/07/world/americas/for-good-or-ill-chavez-altered-how-venezuela-views-itself.html?pagewanted=all 

チャベスの後のベネズエラと中東 By ホアン・コール (3/6, Informed Comment)
 
  ベネズエラの亡き指導者ウーゴ・チャベスは、社会主義と反帝国主義は同じものだとイメージして…そして彼は、自分が一種の新たな社会主義インターナショナルを率いることができると考えていた。(彼は反米思想と反帝国主義を区別してはいなかったようでもある。)そのような思考が、彼の中東政策を矛盾を孕んだ、偽善的なものにした。民衆の側に立つと考えられていた男、チャベスは、イランの2009年のグリーン革命の運動に反対し、ムアマール・カダフィを失墜させるためのリビアの革命に反対し、シリアの革命にも反対した。

 イランとは、米国に対する根深い批判者だが、社会主義国家ではない。その国の社会的な不平等の度合を表すジニ指数は、いまや、おそらく1979年に追放された前国王モハマド・レザ・パーレビの時代よりも悪化している。他の全ての産油国と同様に、同国には大きな公共セクターがあるが、同時に、同国は大きな私企業セクターももっており、それはアヤトラたちや、革命防衛隊のような組織を含む、富裕なオリガルキ-たちによって支配されている。イランは右翼的な神権国家だといえるが、左翼的な社会主義国家ではない。もしもチャベスが、単に反米だからというだけで、富裕なオリガルキーの利益のための抑圧的な神権政治を支持するというなら、彼に許されることのないような、どんなロジカルな曲芸があるだろう?


 同じように、リビアのカダフィに対するチャベスの支持は、リビアの政治的、経済的、社会的システムに対する極度に表面的な解釈に基づいたものだった。カダフィ・ファミリーはその国から富を奪い、それをアフリカの破滅的な冒険のために浪費し、あるいは…それを西欧の銀行や不動産に貯めこんでいた。リビアは社会主義国ではないが、ポスト・ソ連タイプの、ロシア・スタイルのオリガルキーだった。一般のリビア人たち、特に東部の住民たちは…その国の石油の大当たり(bonanza)の分け前から…ますます阻害されつつあった。私は昨年その国を訪れた際、ベンガジが余り発展しておらず、いかにみすぼらしい街なのかにショックを覚えた。カダフィは明らかに、その国で第二の都市に多くの金を使うことを拒否して、懲罰を与えたのだ。


  カダフィは…2010年には特に反帝国主義者
とはいいがたかった。彼はヨーロッパ諸国が彼の国の石油・ガス産業に投資することを歓迎し、ブッシュ政権との関係もかなり改善させていた。反米とはかけ離れた状態で、カダフィはコンディ・ライスに特別な好意を持ち、バラク・オバマのことを。アフリカの息子と呼んだ。チャベス自身の協力者であったイランは、あるアヤトラが「この戦争ノイローゼにかかった(頭が混乱した)個人ら」と呼んだ…闘争するリビアの民衆たちのことを広く支持していた…勿論、イランはNATOの空爆による干渉に対して非難したのだが。

 シリアもまた、もはや社会主義
国家ではない。支配者のアサド一族の親族や取り巻きたちは、彼ら自身を億万長者となし、政府との繋がりを利用して実入りのいい契約を結び、モノポリーをうちたてた。過去10年、シリアの勤労者たちは実質賃金の低下と高い若者の高い失業率とに遭遇した。貧困は拡大していた。シリアもまた特に、反帝国主義ではなかった。1970年代、80年代のレバノンや、シリアのバース党員たちは喜んでパレスチナの解放組織を潰すことに協力した─そのドゥルーズとムスリムの連帯者たちを、親米の右翼的ファランジスト党(キリスト教徒の支持を受けた)の名の下に潰していたのだ─。

 9月11日に以降シリアの政府は、ブッシュ政権のためにアル・カイダの容疑者らに拷問を行った。2003年にシリア(との連帯)を断ったのは、他でもなく米国議会だった。そしてオバマが2009年に米国大使館を再開して関係改善を模索したとき、アサドは完全にそれをハッピーに受け入れた。

 彼はまた、こうした国々が反米的
存在だとイメージし(イランだけが真にそうだったのだが、)そしてそうしたスタンスが、そうした国のエリート層がおかした数多くの罪を清算する(カバーアップする)と信じていたように見受けられる─そうした国の(富を)略奪し、彼ら同士でその巣(恣意的な逮捕や拷問を行う専制的独裁制と警察国家の巣)に集まって羽根を休めていたエリート層の罪を。リビアやシリアの例では、その政権は何千もの国民を、市民の居住地域に対する空爆や、重火器や戦車からの砲撃によってすすんで虐殺した。米国の帝国主義は中米での多くの罪や、ラテンアメリカ全般の右翼独裁政権への支持において有罪だ。それはチャベスにどんなに悪い印象を与えたかを理解できるだろう。しかし米国は1960年に、アルジェリアなど、君主制を撤廃した多くの国々を支持し、そして「帝国主義」とは、すべての包括的(網羅的)な分析ためのツールであると同時に、薄っぺらい笛の吹き口(リード)でもあった。そこには資本主義のロシアが、中東の一部で超大国としての優越性を獲得すべく模索している、という感覚がある。チャベスはそうした状況の進展に、喜んで連帯した。

  チャベス政権下のベネズエラの中東での姿勢は、いかなる実際的意味でも重要ではない。その冗漫な言葉数の多さにも関わらず、そのイランとの経済協力は両国にとってマイナーなものだった、そしてチャベスはリビアとシリアに関しては、怒れるスピーチを行っただけだった。イランとベネズエラの良い関係は、米国におけるヒステリーを大いに誘発したが、しかしそれは、経済や国の安全の範疇においては、重大ではない。米国の強硬派による暗い予測にも関わらず、ベネズエラが現在の外交政策を維持するか否かは余り重要ではない。


 しかしチャベスは確かに彼の進歩的(プログレッシブ)なレガシーを、彼の「反帝国主義」に対する表面的な理解がもたらすものと…中東のネオ・リベラル主義的警察国家がいかなる存在となったのか、を見抜けない彼の無能力で汚してしまった。

http://www.juancole.com/2013/03/venezuela-middle-chavez.html

 

Wednesday, March 6, 2013

残忍な世界でのパラダイスへの切符─ムンバイの狙撃実行犯アジマール・カッサーブ、事件の4周年を前に処刑される- Ticket to paradise in a brutal world- By Praveen Swami


残忍な世界でのパラダイスへの切符─By プラヴィーン・スワミ (2012/11/22, The Hindu)

 急増するジハーディストの兵卒たちの背後に横たわるのが絶望にみちた田舎の生活だ、というこ─それはKasab物語が、より一層重要であることを理解させてくれる。

 彼Kasabのことを、世界が「ザ・ブッチャー」(屠殺人)と呼ぶようになったわけは、彼がカラシニコフの攻撃型ライフルで、55人の女や男や子供たち、ヒンズー教徒モスリムを至近距離から撃ったからではなく、その事件彼が南パンジャブ地方の恵まれないカーストに属していたことの証(しるし)となったからだ

   2008年11月26日にチャットラパティ・シバのターミナル駅を、その男が歩いていく姿を捉えていたTVカメラのモニター映像は、何百万人ものインド人た ちにとって悪の相貌となった。しかしそのイメージ、そのストーリーについては語ってはいない─少なくともその重要なポイントに関してはつまり、彼の悪がいかに 平凡なものだったのかというストーリーについては。 
Kassabは犯人たちの中で唯一生き残った

 銃を抱えたその男は、世界を変えるべく殺人を行ったのでもなく、復讐のためでも、名誉金のためでも、まして何かの「動機」に似たもののために行ったのですらなかった。彼は流血というものを…5番目のランクの取るに足りないその人生を、力やその代理(エージェント)というものに到達させることのできる、唯一の手段として(…奇怪に聞こえるかもしれないが…何らかの尊厳ある人生へと到達するための手段だと捉えて、殺人を行っていた。 カッサーブの人生にピリオドが打たれることも、彼とまったく同じような何千人もの男が存在するという事実を、変えたりしない─そのことは、彼のストーリーがより一層、重要であることを理解させてくれる。

貧困にすり潰される The grind of poverty

   Ajimal Kasabは、1987年713日にパキスタンのオカラ地方の小村ファリドコットで、土地をもたぬ小作人の一家に生まれた。パンジャビ州の、Kasabのカーストに属する7大部族は、 ラジャスタン州に住む彼らのライバルのカースト同様に、バッティ(Bhatti) またはコハール(Khokhar)という偉大な部族の子孫だと自称していたしかし彼らは、そのような特質の誤った末端にいた。Kasabの父親、Muhammad Amir Imanは、最後にはその村でスナックを売る手押し車を押し、dahi purisを売り歩いていた。彼の母親のNoori Taiは主婦で、彼女には他に4人の子供があった─29歳のAfzalと、26歳のRukaiyya Husain18歳のSuraiyyaと、15歳のMunirだ。

  南アジアの他の多くの家族らと同様、Imanの一家は、彼らの乏しい収入を長男の教育のために消尽したが、それは報われなかった。Kasabの兄、)Afzal Imanは初等教育を終えるとラホールにわたり、そこでYadgar Minarの近隣の長屋に住んで、肉体労働者として働いた。しかしImanの家族は、第4学年を終えたばかりの無関心な次男を教育する金銭的余裕がなかった。Ajmal Kasab 2000年に13歳でFaridkotにある公立の初等学校をドロップアウトし、年上の兄の許に移り住んだ。彼は何らかの職に落ち着くことはなく、FaridkotLahoreの間を頻繁に行き来していた。

Ajmal Kassab
   そして、Kasab2005年に家に帰った折に父親とはげしい喧嘩をした。「エイドの祭日のために新しい服がほしい、と彼は私に頼んだが、私はそれを彼に 買ってあげることはできなかった」、とIman氏は、カラチの新聞に対して語った。「彼は、怒って出て行った」。彼はもはやAfzalの家では歓迎され ず、半端仕事が見つかるまでの間、Syed Ali Hajveriの聖人の祠で過ごしていた。彼は肉体労働者として働き始め、2007年までにその仕事は、彼に一日に200ルピーの稼ぎをもたらした。

  Kasabには兄とは違って、大きな夢があった。彼はやがて、ラホールで軽犯罪者たちと一緒にすごし始めた。それらの友達のうち、Attockから移住してきたMuzaffar Lal Khanとともに、Iman武装をして強盗を働こうと決意した。2007年のBakr Eidの日に(と彼はムンバイ警察に語った)2人の男らは武器を買おうと、ラワルピンディのRaja バザールに行った。

もう一つの学校へ To a different school

   しかしその市場で二人の男はパンフレットやポスターを配るJamaat-ud-Dawaの活動家たちに出会ったそのグループとは、Lashkar-e-Taiba (LeT) の親組織である。数分間の会話の後、両人は彼らのグループに加わることを決めた彼らのイスラム主義の確信のためなどではなく、そのジハードの訓練が、彼らの犯罪者としての人生を助長してくれることを期待して。

  そのストーリーは、パキスタンのジハーディストの新兵募集の世界が拡大し続けていることを、少なからず物語っている。2009年のエッセイで、パ キスタンの学者Ayesha Siddiqaは、ジハーディストの新兵のリクルート活動を下支えする田舎の絶望というものについて書いている。「数年前に私は、ジハードに参加しようとし ている、Bahawalpurの近くの私の村から来た、若い少年らに出会った。私が彼らに、目を閉じて彼らの未来をイメージするよう頼んだときに、彼 らは謙遜気味に微笑んで、「僕らはあなたに目などつぶらなくても、僕らには何も見えないのだと告げられる」と語った。

  ジ ハーディストの指導者Muhammad Masood Azhar Alviがコーランのジハードに関する4つの詩句を長々しく論じた教本、Fathul Jawwadによれば、田舎が彼らに与える機会というものを、ジハーディストたちは明白に理解していた。そのテキストは貧困な小作農民の聴衆に向けて 書かれていた。Azhar は書いている、「陽の光と水は作物のために重要で、それなくしては枯れてしまう。同じように、国々の生命は殉教者たちに負っている。国家の畑は、 最良の心と魂の血によってのみ潤される。」ジハーディスト運動は、パキスタンの腐敗したエリートたちが貧困層に約束することを拒む地上の楽園よりも、 もっとよい何かを約束し「我々が飛行機でこの世界を飛ぶとき、殉教者たちの魂は緑の鳥の体内に入り、再生のためのパラダイスへと入る」のだ、と約束す る。

 社会科学者のTahir Kamranはこう説明する「マルクス主義やリベラリズムのような代替的イデオロギーも持たず、または封建的な牙城に挑戦しうるような言語的象徴さえ持たないために…(彼らには)武装することが、それに対する数少ない対抗手段として残されている。」

Life in the Lashkar  ラシュカールでの生活
 
 ムンバイ警察の警察官たちはKasabを、彼が捉えられた数時間後に、はじめに病院のベッドの上で尋 問した。インタビューのビデオの中で、彼は何故ムンバイに来たのか、と尋ねられている。警察官は、彼の呟くような答えを聞き取れなかった。「シャバーブ (Shabaab)」。疑わしげに尋ねた彼は、その答えが、ムンバイの街角の会話で特殊な含意をもつ、ウルドゥ語の言葉だと誤解した。「君は女が欲しい ために来たのか?」「シャハダート(Shahadat)」ゆっくりと傷ついたテロリストは答えた。「殉教(martyrdom)。」しかし、さらに尋ね かけられたKassabは、それが何を意味するのかを説明できなかった。それは、パラダイス(天国)に関する何かだった。

   Kasab の世界観というものは、LeTの新たにリクルートされた者たちの「ラーニング・センター」であるMarkaz Taibaによって形成されていた。インドがカシミールで行ったとされる残虐行為に関するフィルムや、LashkarのチーフHafiz Mohammad Saeedらを含む説教者たちの荒々しい講義のフィルムが、彼にLashkarの運動を信じさせたその組織のプレゼンテーションによれば、イスラムの もっと偉大な栄光は彼にとって生命を捧げるに値するものだった。しかし、その捜査に参加した上級警察官がThe Hindu紙に語ったところでは、Kasabは、自分が影響を受けた思想的な冊子や、宗教的書物のタイトルをただの一つも思い出したり、その名を挙げたり もできなかった。彼はLeTの教義については何の理解もなかった。その代わりに警官は、ジハードの訓練キャンプの雰囲気が彼に、長らく人生において失って いた家族の感覚というものを与えた、と指摘した。

  パキスタンの支配下のカシミールでの、Lashkar の2度にわたる21日間の訓練に続く、Lashkarのベースキャンプでの思想教育のあと、Kasab2ヶ月間の休暇をとって家に帰った。彼は人生の殆どで彼が失っ ていた、彼のコミュニティや家族のなかでの尊敬を発見した。かつてはKasabのことが重荷と見なされていた場で、彼は自己充足的な存在とみなされそして 宗教的熱情の後光を宿していた。彼は、言葉を変えれば最後に、彼の家族が彼にそうなって欲しいと望んだ者になっていた。

  その年のその後の日々にKasabは、LashkarManshera近くのキャンプでの上級訓練のために選ばれたその組織がDaura Khaasと呼ぶコースのために。そして遂に彼は、そこでムンバイを標的とするfidayeenのユニットとしてマリン・コマンドーとナビゲーション訓練の特殊部隊となる11人の少数精鋭にすら選ばれた。

 Lakhviの最後の指示とはKasabはいったラッシュ時に列車の駅への銃撃を開始し、人質を取り、そして彼らを更なる指示を受けるテラスへと連れて行くことだった、と。それらの指示は一度も来なかった。Kasabと仲間の攻撃者、Muhammad Ismailは上層のフロアに上る階段を発見し損ねたそして警官たち(Hemant Karkareと、Vijay Salaskar およびAshok Kamte)によって行く手をさえぎられた。この3人の警官たちは殺されたが、Kasabは負傷して人質を取る計画は失敗した。


 LeTの司令官Zaki-ur-Rahman Lakhviはいまや、パキスタンにおいて、彼のこの攻撃への役割に関する裁判にかけられている…彼はKasabに、彼が犠牲になったなら、彼の家族に1.5 lakhルピーの報酬が与えられるだろう、と約束したThe Hindu が接触したパキスタンの信頼できるジャーナリストによれば、彼の家族はそれよりも多い額を受け取ったがしかしその運勢は大きくは変わらなかったという…The Hindu は、この情報を確認するための独自の方法を持ってはいない。

http://www.thehindu.com/opinion/op-ed/ticket-to-paradise-in-a-brutal-world/article4120451.ece?css=print

ムンバイの狙撃犯、事件の4周年を前に処刑される
http://www.bloomberg.com/news/2012-11-21/mumbai-gunman-kasab-hanged-on-four-year-anniversary-of-attack.html

Hang Ajmil Kassab! - 生き残ったKasabは、インドの一般大衆の憎悪の対象となった

Monday, February 4, 2013

エジプト各都市で、反ムルシのデモ発生/チャック・ヘーゲルの指名に関して Egyptian Cities Erupt in anti-Morsi Demonstrations By Juan Cole



著名な中東専門家のホアン・コール教授が…エジプト情勢と米国の状況の昨今のアウトラインを解説している。
 …エジプト大統領の、ムスリム同胞団のムルシ氏の最近の動きは、典型的なヒットラー独裁にむかっていると憤慨し… 警戒感をあらわにする人もいるが、本当なのか?

エジプト各都市で、反ムルシのデモ発生 Egyptian Cities Erupt in anti-Morsi Demonstrations (2/3, Juan Cole)

この21日の金曜日には、何万人ものエジプト人たちが寒さや、アレキサンドリアやカナルゾーン(灌漑地域)での雨天にも関らず全国各地でデモを行った。カイロだけでも、Heliopolisのムルシの大統領宮殿の前には多くの群集が集結、モロトフ・カクテルを投げ込む若者たちもいた。主な都市における群衆が、新たな大統領選挙を要求して声を合わせて叫んだ─すなわち、ムルシの大統領辞任を求めて。
 彼らはまた、エジプトの「モスリム同胞団化」をも非難した。ポート・サイード(Port Said)では何千人もの人間がデモを行い、ムルシ政府の解散を要求したが、彼らの中には「ポート・サイード共和国」の独立を宣言する者たちさえもあった。

デルタ地帯の都市カフル・シーク(Kafr Sheikh)では25人のデモ参加者たちが、警察の使用した軍用レベルの催涙ガスによって負傷した。カフル・シークはテキスタイル産業の中心で、その産業の労働者たちが2006年頃以降には、デモやストライキを率いている。モスリム同胞団は社会的に保守派でビジネス偏重の傾向であるために、その体制は組合の利益には反しており、エジプトにおける多くの反対運動は組合労働者たちの怒りの表明という部分も多いようだ。

ムルシは昨年6月の選挙では辛うじて勝利を得たものの、この秋以降はますます独裁的にふるまい始め、彼自身の立場を裁判所の司法権限の及ばないものと規定し、原理主義的色彩のある憲法を制定しようと推し進め、世俗主義者や女性たち、コプト派のキリスト教徒たちを怯えさせた。ムルシは司法権を無視した彼自身の刑事免責への要求は取り下げたものの、いまだに高圧的にふるまっている。彼自身が概ね任命を行った、モスリム同胞団の支配する諮問委員会(上院のようなもの)は、下院議会を選出するのを待たずして、法律を制定しようとしている。
                       
   なかでも最悪な点とは、ムルシが、2年前の反ムバラクの革命の主要な牽引勢力であった労働者たちによる、賃上げと労働環境改善の要求を受け入れていないということだ。彼の憲法制定への試みでは、労働者を組織化して、単一産業分野ごとに一つの組合のみを認可しようとしている。あらゆる事のなかでも特に…2週間前に、ポート・サイードの20人のフットボール・フーリガンたちに対して、1年前の同市のスタジアムでの騒乱事件を誘発し、数十人を死亡させ事件での彼ら役割において、死刑を宣告したという事がある。この宣告の発された後には、地元の家族らが彼らの親族や子供らを助け出そうと刑務所に乱入して衝突が発生し、41人の死者を出した。

木曜日に、ムルシと世俗派、あるいは中道派の野党議員らとの間に、和解への会合が持たれたにも関らず、そこに和解の兆しはみられていない。
ムルシは、憲法を性急に成立させようと急ぐべきではなかったのだ。彼は大胆なジェスチャーを取ってみせて、彼に対するさらなる反対の動きを阻止したい…とも望んでいた。しかし、その代わりに彼は、革命の先頭を切っていた若者たち…昨秋までは同胞団との協力を進んで受け入れていた左派の若者たちを遠ざけてしまったのだ。

http://www.juancole.com/2013/02/egyptian-cities-demonstrations.html

エジプトは内戦の縁にあるのか?ムルシは非常事態法を撤回 (Juan Cole,1/30)

国防大臣のGen.Abdel Fattah al-Sisiは火曜日、もしもこの国で動乱が続くなら、エジプトは国家崩壊の危機に直面するだろう、と述べた。

怖れを知らぬCNNの記者Ben Wedemanは、エジプト警察のアンビバレントな心情についてレポートをしている。─彼らはムスリム同胞団の大統領から、抵抗する若者たちを弾圧せよ、との指令を受けた。そして彼は、なぜ、Ismailiaと、Port Said、そしてSuezの街が大統領の非常事態法と戒厳令の公布に逆らっているのかについて説明している。

Wademanは、さらに引退したGen. Sameh Seif al-Yezalにもインタビューを行っている。彼はal-Sisiの声明は国が内戦状態へとずり落ちて行くことへの警告だと解釈していて、al-Yezalは、それが現実的な可能性であると考えている。

そんななかでMuhammad Morsi大統領は、彼の命じた非常事態法と、運河の都市Suez、Port Said、Ismailiaにおいて市民の自由に制限を課する法令を撤回した─それらの都市では、1月25日の革命2周年以来、強烈な反政府運動が起きているのだが。

 Morsiはこれら3つの都市の地方知事たちに、非常事態法を実施するか否か、いかにそれを実施するか、あるいはキャンセルするかの権限を委任した。彼のスポークスマンは、それは平和的抵抗運動を停止させるよう意図したものではないという。

 3都市の民衆は、月曜と火曜の夜に大統領が命じた戒厳令を守ることを拒否し、政府の建物の前でデモを行い、サッカーを行った。Wedemanがレポートしているように、警察はそれを妨害しようとは考えていない。

 大方のエジプト人たちは、アルジェリアの過去の事例に比較されることへの憤りを抱いているが、それはDr. Morsiにとっては警告的な事例なのだ(チュニジアのムスリムのリーダー、Rashid Ghanoushiの場合の例と同じように)。1992年から2002年にかけて、15万人のアルジェリア人が、世俗主義者と原理主義者たちの間の熾烈な内戦によって死亡した。同じような分裂がエジプトにも生じつつあり、そして世俗派と穏健な宗教勢力が、ますますMorsi支配の正当性を拒絶しつつある。権力を競い合う2つの勢力というものは、内戦の原因となるものなのだ。

 Morsiはこのような両極化を、原理主義者の色合いに染まった憲法と、野党勢力を排除したムスリム同胞団政府の樹立によって惹き起こした─彼は、大きな票差で選出されなかったにも関わらず。彼の示している、徹底的な法令を発したり、同胞団の同僚を贔屓するという傾向は、彼が原理主義者のムバラクになりたいと望んでおり、真の民主主義的な本性を持たないのではないか、という怖れを生じさせている。 
http://www.juancole.com/2013/01/backs-emergency-decree.html

チャック・ヘーゲル、奇天烈な米国上院世界の袋叩きにあう? Chuck Hagel Mauled in Bizzaro World of US Senate (2・1、Juan Cole)
 
オバマ大統領による、チャック・ヘーゲルに対する国防長官への指名をめぐる上院での公聴会は、見るのも辛いものだった─なぜならそこには…馬鹿馬鹿しい行いと、見せ掛けの態度、独善的なKnow Nothing主義(Know-nothingism)と、アメリカの壊れたデモクラシーを支配している、困惑すべきリアリティからの乖離の光景が展開されていたからだ。まるでそれは、ネブラスカの平凡な男がサーカス小屋のフリーク(畸形)たちをけしかけているようだった…モラル的な小人の集団や、猫男のストーカーたち、性質の悪いロブスター・ボーイ(えび少年)たち、倫理主義者をよそおう狼男たちのような輩を…。

ヘーゲルが滅多に彼の立場を主張しなかったこと─しばしば、細かいことに拘泥した質問で方向を逸らされたり、時々はネオ・コン風のオーソドックスな教理を復唱したりなどして─を憂えた人々は、ワシントンにおいて重要なことは口先において積極的に調子を合わせることだ、と(…当人が、本当は何を信じていようと、どう振舞おうと)いうことを想起すべきなのだ。ヘーゲルは、彼が彼の(議会の)・同僚たちに押しまくられたかのように見えたことには、同意するかも知れない(彼らの面子と、彼自身の面子を守るために)。だが彼は、ひとたびその職務に任命されたならば、押しまくられることには同意しないことだろう。

テキサスのTea Party主義者、テッド・クルス(Ted Cruz)議員は─ 数年以内にテキサスが青色州(大統領選での民主党支持州)に転じたならば、彼はおそらくもうそこには居ないだろうが─ヘーゲルに対してFox News風の待ち伏せ攻撃を仕掛けた(http://www.huffingtonpost.com/2013/01/31/ted-cruz-chuck-hagel-_n_2592699.html)。彼は2009年にアル・ジャジーラがヘーゲルに核軍縮の件に関して訊いたインタビューの件を持ち出して、彼を刺激した。

インタビュー中のある時点で、ロンドンから電話をかけてきた人物が、ダブル・スタンダードについての憤りを表明した─他の国々はより厳しい基準のもとにあるのに、アメリカとその同盟国だけが国際法から自由である、といって(たとえば核兵器の所有や、その使用において)…その人物は、オマール・アル・バシール(スーダン大統領)が犯したダルフールでの戦争犯罪に関して国際刑事裁判所から訴追されても、イスラエルの指導者たちはパレスチナ人への戦争犯罪にも関らず、お咎めなしであるといったこと(*)からも、不平等に法が適用されていることは明白だと主張した。彼は怒りを吐きつづけて、スリ・ランカ政府がタミール・タイガーに対して犯したとされている戦争犯罪についての文句を言い、そして番組のホストは彼に対して、ヘーゲルにひとつ質問して終えるようにと頼んだ。ヘーゲルはそれに答えた際、電話の相手の論点には同意するといい始めた…私が思うには、ダブル・スタンダードがあった件については彼が同意していたのは明白で、彼はその後、アメリカとロシアが核軍縮の先導をきることによってそれを克服すべきだとも述べた。電話の相手には酷いアクセントがあり、彼が怒りつつ言ったことをヘーゲルが全て理解していたかは不明であったし、そのことからも彼がその相手に同意する必然性もより低かったといえる。クルスはヘーゲルが、スリ・ランカの件に関しても同意していた、と捉えたのだろうか?
 (* 2009年初頭のイスラエルによるガザ攻撃においては、イスラエル軍とパレスチナ武装勢力の双方に深刻な戦争犯罪があったとされ、調査を行った国連調査団はIDFも国際法に規定された人権法侵害で有罪に当たるとした。(コールはイスラエル元首相のリヴニ戦犯としてICCに告発されており英国に入国できないのではないか…と揶揄している

UN mission finds evidence of war crimes by both sides in Gaza conflict )

私はネブラスカ州出身の前・共和党上院議員のチャック・ヘーゲルには疑いもあり、私はアメリカの国内政治については殆ど全て同意する。しかし彼は、住宅都市開発省の長官に指名されたのではない、彼は防衛長官に指名されたのだ。そして、国防や外交政策については、ヘーゲルの見方は彼らに対して推薦すべき点が多くある。私は20044月に、ヘーゲルが委員を勤めていた上院の外交委員会の前で、イラクで叛起しているマハディ軍の件について証言を行った。その際の議長だったリチャード・ルガーとヘーゲルの両者が、その状況についての知識も豊富で、関心も深かったことに私は驚かされた。その他の人間たち、たとえばサム・ブラウンバックなどは、私の同僚のパネリストたち(そこに叛乱などない、と主張したネオコンのリチャード・パールなど…)に対し、殆どロボットのようにソフトボールを投げているに過ぎなかった。ヘーゲルはイラク戦争を容認することに票を投じた一人だったが、状況がどうなりつつあるかに関するアメリカの無知について、その時点でさえ疑問を呈しており、そしてブッシュ政権の後期においては、イラクからの撤退を主張する民主党の立場に賛成していた。ここに、ヘーゲルの指名に関するいくつかのポジティブなポイントがある:
 
1.チャック・ヘーゲルは勲功ある戦争の英雄で、ベトナムでは歩兵部隊のリーダーとして二つのパープル・ハート勲章を得ている。彼は、戦争とは何かを知っている─それは、よくある(戦いもしないで戦争を論ずる)チキンホークたちが彼を、戦争心が欠けるなどといって嗤うこととは、相容れないことだ。ウィリアム・クリストルが軍服を着た姿という考え、そのものには忍び笑いをもらさずを得ないのだが、しかしここにはその影響力のある男がいる(それはなぜなのだろうか?)彼は、彼が愛さない戦争には出会ったことがないのだ。ヘーゲルは戦争を知っているだけでなく、歩兵部隊とNCOの立場からそれを知っている─将校たちの部隊の視点からではない。ヘーゲルは戦争と、それが何を達成できるかに対して慎重で、そして時を経るごとにより慎重になってきた─彼の手がイラク問題の解決でやけどを負ったことによって。この慎重さとは、国防長官として賞賛すべきものだ。

2. ヘーゲルはベトナム戦争の擁護者であり続けた。彼はイラクへの派兵に期限を設ける法案を提案してきたが、その法案は通らなかった。(多くのイラク戦争帰還兵たちは18ヶ月の兵役を複数回にわたり経験し、そして彼らの問題の多くは長期の兵役に起因していた)。彼は上院議員ジム・ウェッブの提案した、GIに関する法案の主な共同署名者だった─それは911日以降に兵役に就いた者たちへの、教育機会を拡大するものだった(その法案は立法化された)。多くのベルトウェイ内部の強硬派論者たちが政治的な目的で兵を用いようとしながらも、帰還兵たちへの戦争終了後の社会保障をカットしようとするのとは異なり、ヘーゲルはそのことに対し注意を向けているのだ。

3.ヘーゲルは長らく、中東において外交的解決の代わりに制裁を用いることに対し反対してきた─2001627日に、米国イラン人評議会(American Iranian Council)の会議において、リビアとイランへの制裁というものは、「我々を孤立化させる」と論じたのだ。

4.ヘーゲルは、米国がイラクのような国に侵攻して民主主義をうちたてようといった…ジョージ・W.ブッシュと彼のネオコンの男性主義(マスキュリズム)的なウィルソン主義に反対した。ヘーゲルは2006年に、「私の意見としては、あなたがたは民主的な政府というものを、そうした歴史や文化や民主主義の伝統の全くない国に押し付けて樹立させることなどできない。…我々は、そうしたファンダメンタル(状況的発生要因)というものに、常にコネクションを持っているとは限らないのだ」と述べた。
5.2006年の夏に、イスラエルがレバノンを空爆してQana10数人の子供たちが殺されたとき、ヘーゲルはブッシュ政権が停戦への要請を拒否したこと(すなわち、イスラエルの更なる軍事行動を支持したこと)を批判して、「両サイドの胸の悪くなるような殺戮は、いま終わらねばならない、この狂気の沙汰を止めるべきだ」、と述べた。
 (中略…こうしたヘーゲルのリベラルな立場に関する推奨項目は10項目続く…)
 
…ヘーゲルは指名され、そして上院によって受諾されるだろう。そしてそのプロセスは、米国政府のイスラエルとその米国におけるロビーとの関係にとってのターニングポイントとなるだろう。それは非常にポジティブな状況的進展であり、特に、パレスチナにおいてヨルダン川西岸地域の併合によっては生き伸びることのできないイスラエル自身にとっては、そうなることだろう。
http://www.juancole.com/2013/02/mauled-bizarro-senate.html

ホアン・コールがBizarro…というのも頷け…チャック・ヘーゲルの公聴会については、
保守派のコラムニスト罵詈雑言はひどかった…たとえば、このJennifer Rubinのコラム…
http://www.washingtonpost.com/blogs/right-turn/wp/2013/01/31/hagel-sinking/
 Hagel sinking

Neocons Press Hagel in Confirmation Hearings  Hagel was largely submissive to right-wing bullies, passing up opportunities to defend his own views ちらはリベラル・ウェブサイト

─右派のキョウリョクなイスラエル・ロビーとキリスト教原理主義者たちは、ヘーゲルの長官任命をゆるすのだろうか?