Monday, May 7, 2012

サルコ王の首と一緒に去れ…Off with King Sarko's head - By Pepe Escobar


サルコ王の首と一緒に去れ By ペペ・エスコバル(5/5、Asia Times

 彼は、リビアでの偉大なるスペクタクルにおいて、新帝国主義 neo-imperialismによる解放者として振舞った─ 彼の2007年の大統領選でMuammar Gaddafi大佐が彼に6500万ドルのクールな資金援助をおこなってからわずか数年後に。

 聖なる(カダフィの)幽霊と、ニューヨークのアフリカ人ルームメイドとのあいだのミステリアスな同盟から得た利益で、彼は再選のための大統領選から、阻止不能な挑戦者だった、IMF総裁にして国際的なセックスマニアのDominique Strauss-Khan.を排除することができた

 そして未だに、この日曜日にフランスの有権者たちは─Facebookスタイルのバスティーユ牢獄陥落によるリミックス状態のなかで…叫ばずには居られずにいる、「あいつの首と一緒に消えろ」と。

 なぜかって?傲慢のせいだ。フランス大統領Nicolas Sarkozy、またの名を、新ナポレオン風のKing Sarko、元・成金趣味の王でイタリアン・ファースト・レディのCarla Bruniの「お気に入り」…それは彼自身にとっての最悪の敵なのかも知れない。

リッツ風のライフスタイル A Ritzy lifestyle


  Bashir Saleh は元Gaddafiの参謀長で、リビアのソブリン債ファンドの社長だった。彼はその政権が2007年のSarkozyの選挙キャンペーンに資金を援助すると決めたとき、頼りにされた男だった。

  予測に違わずKing Sarkoはそうしたことについてはすべて否定し、すでに多くの人に周知のその件を暴露したフランスのウェブサイトMediapartを告訴すると言った。しかしこの木曜日にリビアの前首相Baghdadi Ali al-Mahmoudi はそのことをすべて再確認した。それは、Gaddafiの息子で元・London School of EconomicsのダーリンだったSaif al-Islam20113月に言ったことと、全く同じだった。「Sarkozyは、リビアから彼の選挙キャンペーンのために受け取った金を返すべきだ」、と。

 Salehは今やインターポールの監視下にあるが…彼は、さもなくば4月までは彼を追いかける役割にあったはずのNATOの反乱軍政権による滞在認可を得てフランスに残っている。彼は偶然にも、モンブランを眺望するこじんまりした心地よい400万ユーロ(5200万米ドル)の住居をスイス国境付近に維持している。

 彼はそうした生活状況はすべて「リビア〔暫定政府〕の大統領、Mustapha Abdel Jalilの同意の元に進行していることだ、と語ったKing Sarkoの警察によってまもられている。人生はすてきだ…今週Salehはパリのリッツ・ホテルにおいて目撃されている。

私の票はCarlaに投じる My vote is for Carla

 フランスの大統領選キャンペーンは今週、King Sarkoと社会党の挑戦者Francois Hollandeとの間のディベートにおいて、おなじみの(いわゆる)期待はずれの結果に達した。その画面には3兆バイトのアクセスが集中したが、それはそのディベートが本質的に「はりつめていた」ことを示した。ノックアウトシーンはなかった。SarkoはコカインをやるDuracell bunnyのように振る舞い、いっぽうHollandeは─乾燥したソーセージの如きカリスマで─実際のところ堅固であり、相対的な精確さをみせていた。

 嘘は止まるところを得ずに噴出した。Sarkoは自らの雇用創出の実績を弁護した。20074月に、彼は5年の大統領任期後には失業率をわずか5%に抑える、と公約していた。今日フランスの都市圏のアクティブな人口の失業率は、9.4%に達する。Sarko5年間の後、フランスの失業率は100万人増加した。


 カフェで出されるお好みのマカロンのように、中道派のFrancois Bayrou ─選挙戦の初盤で9.1%の票を獲得した─はSarkoのキャンペーンを極右派を誘導して撃退するとのマニフェストを発し、彼自身Hollandeに票を投じるとも宣言した。
そんななかで、フランスの有権者の33%以上は予備選の投票に参加せず、その代わりにトップモデルのCarla Bruniの容姿の地政学的な効果(悪影響)に注意を集中していた。

  予備選の本当の勝利者(それは有毒な政治的ヘルファイヤー・ミサイル以下のものではない…)とは、抜け目のないビジネスウーマンのMarine Le Pen…つまり、同党の創立者で証明書つきのファシストのJean-Marie Le Pen.の娘…を通じて「正常化」されたフランスの極右派National Front18%の票を獲得した)なのだった。

 1980年代以来、ヨーロッパの極右勢力において拡大するNational Frontの影響力はただただ驚くべき物だ。癌はそこらじゅうに広まり、フランスからイタリア、英国、ベルギー、オランダ、オーストリア、ハンガリー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、そしてギリシャにまで広がっている。

 外国人嫌悪とイスラム嫌悪は健在で、恐ろしい危機に絡め獲られたヨーロッパ全土に拡大している。オーストリアでは、カリスマ的なJorg Haiderの何年もの政権の後に、極右がいま全面的に正常化し合法化された。オランダでは超イスラム嫌いのGeert Wildersの元に、PVV(Partij voor de Vrijheid - Party for Freedom自由党)が2010年の選挙で24%の議席を獲得して保守連合政権の一部となったものの、それはまた最終的に崩壊した…再び、Wildersのせいで。 スカンジナビアでは極右が大手をふるっている。


たとえばスウェーデンでは、Swedish Democratsスウェーデン民主党(ジョージ・オーウェル風で素敵なタッチだ)が、史上初めて議会に進出した。 ヨーロッパでは、極右主義者ほど悪く振る舞えるものはない:それはグローバリゼーションや「茶色人」や「黒人」の移民たちを激しく罵り、腐敗したエリート層を非難し、イスラムを悪魔呼ばわりし、危機のなかでのナショナル・アイデンティティ維持を警告する…多文化主義(multiculturalism)の横行のせいで…そして本質的に「反システム(反体制)」を標榜する。それはまるで、ナチスドイツの亡霊がフランスの南からカルパチア山脈に飛来してきているようだ。

極右政党が国の有権者票の15%をとっても不思議ではない、保守政党は慌てて政策を修正しようとする。それはまさしくKing Sarkoがフランスでやろうとしたことだ─1次選挙を失って、彼は狡猾なMarine Le Penが「共和国にも比較される」といった。しかしそうはならなかった、なぜなら何百万もの有権者たちのなかに実際、別の怒りが醸成されていたからだ…彼らのEURO嫌いというものが。

Europhobes, unite EURO嫌いたちよ、団結せよ

EUROゾーン危機は、国々が財政破たんするノン・ストップの正統的「緊縮経済」、失業、格付け会社の鉄槌、予算担当のテクノクラートたち、拡大する経済的な恐怖、何百万のフランス人たちは他のヨーロッパ人たちと同様、ブリュッセル(EU本部)を非難の対象とした。そしてKing Sarkoはたまたま、憎悪の対象のエリートの一部だった…理論上ではヨーロッパを「救おう」とした、ドイツの首相Angela Merkelとの「Merkozy」カップルの50%(片割れ)として。

それゆえに金ぴかキングのもう一つの問題は、彼が政治的・文化的・社会的プロジェクト─彼のヨーロッパのビジョンを全く売れなかったことだ。あるいは最低でもいかにして危機後のヨーロッパ(post-crisis Europe…その危機はまもなく消えると仮定して)を再創造するかを、指し示せなかったことだ。 Hollandeは冷えたキュウリのようなものかもしれず、彼の処方箋は「時代遅れ(期限切れ)」かもしれない─King Sarkoとエコノミスト誌が批判したように。しかし少なくともこの社会主義者のフランス政権復帰はすべてのチェス盤を揺り動かすだろう。 EU連合は強制的に、仏独の枢軸をその「post-Merkozy(メルケル・サルコジ後の)」の段階に再検討せねばならないが、しかしその枢軸は実際にヨーロッパ全土を支配している。

パリとベルリンには「継続」について多くの論議がある。それは前にも(仏大統領の)Giscard d'Estaing仏大統領と(独首相の)Helmut Schmidtの間にも、Francois Mitterrandと Helmut Kohlの間にも起きたことだ。 しかし、真のチャレンジとはHollandeの政権がより社会的で平等主義的なヨーロッパのために何ができるかだ。エコノミスト誌(それはロンドンのシティの金融業の利益を代弁するが)は、King Sarko(フランスだけでなくヨーロッパも「救おうと」していたが、それはナンセンスなのだ)にとても遺憾の意を表していた。 さらば金ぴか男─いい厄介払いだ。  (後略)


ニコラス・サルコジよ、退場せよ(Exit Nicolas Sarkozy) (5/7、NYタイムス) 

フランス大統領  Nicolas Sarkozyがまもなく、エリゼー宮を明け渡すことの理由はいくつか存在する。彼のカラフルなライフスタイルは彼に、右派への投票率が増すという危険を冒させ、彼のおこなった移民反対論者(移民バッシャー)たちへの迎合は彼に、左派への投票率が増すという危険を冒させた。しかし日曜日(5/6)の選挙で彼のこうむった大幅なロスの圧倒的な原因とは、ヨーロッパの金融危機への処方薬としてドイツの首相Angela Merkel が拵えた痛みの多い非生産的な緊縮政策に、Sarkozyが温かい支持を与えたことに対する反感だ。

僅差で勝利を得た、外見的にぱっとしない社会党候補者François Hollandeは、その代わりに、政府の支出と徴税の能力を復興と経済成長へと向けるように要求した。

地域の問題の解決には何でも一つのサイズの政策で対応できるといった回答を万能だと信じて、政府支出の急激な削減を好む政治家たちを拒絶したのは、フランス人たちだけではなかった。ギリシャでの日曜日の議会選挙で有権者たちは、今年はじめにドイツが広く提唱した(財政危機の)レスキュー・パッケージ(1710億ユーロの緊急融資の代わりに、経済成長率をとめる歳出カットを行うとの要求を含んでいた)に賛意を表していた2つの主要政党の候補者らを敗退させた。

そして、そこには選挙の無視しえない暗い側面があった。外国人嫌い(Xenophobic)のメンバーがナチス式の敬礼を行う極右政党、Golden Dawnは史上初めて、議会進出を可能にする21議席を獲得した。

Merkel女史が、容赦のない緊縮政策には効果がない、と認めようと準備している兆候はいまだにみられない。月曜日に彼女はHollande氏の選挙結果を歓迎して、「成長」は「進歩」のために必要だと述べた、しかし彼女は、Sarkozy氏の助力により構想した緊縮政策協定には「交渉の余地はない」、と言い張っている。

  Hollande氏はすでに、フランスの経済政策をリストラクチャリング(再構築)するつもりだ、と表明している─政府プログラムの刺激策によって成長と雇用を促進しつつ、富裕層と大企業に増税して国の負債に挑戦すると。その勝利宣言のなかで彼は、新たな経済協定を検討し、ヨーロッパにとっての「新たな方向」を模索するとも誓った。彼は明らかに、ドイツの政治家らを視野から外しつつ、主要な真実を掴んでいるようだ─ギリシャと他の諸国が、労働市場をリフォームして国家予算のコントロールの回復と取り組まねばならぬなかで…彼らは経済成長を許されることなしに、負債を再び支払うことはできない。

米国の経済は、大方のヨーロッパ諸国よりもよい状況にある。しかし、緊縮政策に関する議論はここでも続いている。それなら、共和党議員Paul Ryanの緊縮予算案を支持した上院の共和党議員たちにとって、警告は存在するのだろうか?そして、彼らの政党の大統領指名候補となりそうなMitt Romneyにとっては?財政赤字をコントロールすることは重要だが、過度の緊縮財政を早急にやりすぎることは経済回復を停滞させ、悪ければ生命を破滅させる。ヨーロッパの鈍い成長の数字がそれを証明しているのだ。そしてヨーロッパの有権者たちは、それを見出しているのだ。
http://www.nytimes.com/2012/05/08/opinion/exit-nicolas-sarkozy.html

*「フランス大統領選挙の本当の勝者はヨーロッパの極右勢力だ」
 (Newsweek日本版・5.16号に日本語訳が掲載されている記事)
France’s Turn for the Worse - Europe's far right is the true winner of Frane's presidential election-
By Yascha Mounk
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/foreigners/2012/05/europe_s_far_right_is_the_true_winner_of_france_s_presidential_election_.html

Monday, April 30, 2012

「猫とネズミ」を演じる米国とパキスタン US playing cat and mouse with Pakistan - By Karamatullah K Ghori


Hafiz Mohammad Saeed
「猫とネズミ」を演じる米国とパキスタン  By カラマトゥラ K. ゴーリ(4/22、Asia Times)

 4月2日に悪魔がその時を得て…米国が、2008年の11月に武装グループがムンバイの街を襲撃し、7人の米国人を含む166人の命を奪った騒乱の影の黒幕としてインド政府が訴えている、Hafiz Mohammad Saeedの首に1千万ドルの懸賞金を懸けると宣言した。

Saeedの纏っている宗教的な外衣、Jamaat-ul-Dawa(伝教党Party for Propagation)はしばらくのあいだワシントンのテロ組織の指定リストにも載り、国連の作る同じカテゴリーのリストにも挙がっていた。Dawaは、Saeedがインドのカシミール支配に対抗する武装闘争のために設立し、2002年にはインド議会場への攻撃に関与したとして非合法化されたLashkar-e Taibaの後継の組織だ。

Saeedの逮捕や告訴につながる情報の提供に対して、ワシントンがこれほど高額の懸賞金を懸ける決断をしたとのニュースは、インドの首都New Delhiを公式に訪れていた米国務次官、Wendy Shermanによってリークされ、世界に報じられた─ それはSaeedをワシントンの「お尋ね者リスト」に掲載させ…アルカイダのリーダー・Ayman al-Zawahiri (2千5百万ドル)のみに次ぐ、世界で2番目に高額な懸賞金付きの者とした。

それは単なる偶然なのか…一種の臨床的なシンクロ現象の実例なのかは不明だ…4月8日にSaeedに対する懸賞金の件が新聞の見出しを飾ったちょうどそのとき、パキスタンのAsif Ali Zardari大統領 は丸一日かけて「個人的に」インドを訪問し、贖罪のために、Ajmar市のスーフィ派の聖人Khwaja Gharib Nawazの聖廟を巡礼に訪れていたとインド人らは外部世界に報じたのだ。
それは、陰謀の要素がこの事件にそっと忍び込み、外交問題の論客たちに疑問を抱かせた点だった…ワシントンが思いがけないイニシアチブで…ムンバイ・テロの主軸の役割を担った咎でインド政府が照準を定めてはいるが、米国の照準範囲にはなかった男の首を狙う、と宣言したことには…何らかの繋がりがあるのではないかと。

彼はまた、パキスタンの定める照準の中にもいなかった。2009年にSaeedが、ムンバイへの攻撃に関与したとの容疑で自宅軟禁された事への異議申し立てに勝訴し、パキスタンの最高裁は彼を解放するようにと命じていた。

米国の国務省が懸賞金に関する宣言を発した丁度一時間後、Saeedは、パキスタンのGeoTVに出演していた。彼は、彼が自由な人間として─パキスタンに住んでおり、米国政府の担当者との対話にはいつでも応じると宣言した。 「彼らは、私をテロリストと呼ぶ。だが、私は裁判所に行って、彼らに私に関する結論を出すように申し入れたのだ。インド政府は私に対して4通の事件調査書類を送ってきた。その案件の審理には、6ヶ月かかった。そして上級裁判所における判事全員が、私も私の組織も、ムンバイの攻撃や(あるいは、その他のいかなる)テロリスト活動にも何ら関わっていない、との結論を下したのだ」─Radio Free Europeと、Radio LibertyはSaeedに関して、そのように報じていた─

ザルダリ(大統領)は、多くのパキスタン人にワシントンの信奉者だとみられていて人気がない─彼の前任者のペルベス・ムシャラフ大佐が、最もそう目されていたときよりもずっと。彼は米国のカバン持ちとしてパキスタンの国益を犠牲にしながら、彼の米国の主人に卑屈な忠臣のごとく無条件に服従しているとみなされて、軽蔑感の槍玉にある。

「メモ・ゲート(*)スキャンダル事件」は、未だに上級司法機関の審議の最中だが、それはパキスタンの大衆に、彼らの大統領がワシントンの軍官である…とのより大きな疑いをもたせている。この論議は、米国の統合参謀本部議長、マイク・マレン(Mike Mullen)提督に宛てて書かれたメモをめぐり、渦巻いているものだ…そのメモでは昨年5月のパキスタンでの米軍のオサマ・ビン・ラディン殺害のあと、パキスタンで軍部が同国の文民政府を乗っ取ることを阻止すべく、バラク・オバマ政権にあからさまに助力を要請しており…また同時に、ワシントンの政府インサイダーが同国政府と軍部の機構を乗っ取るように促すようにも提案しているそのメモの草稿は、ザルダリの依頼で書かれたともされている。(* Memo-Gate パキスタンの「メモ疑惑」スキャンダル

メモ・ゲートの主要なキャラクター、Mansoor Ejazはこう主張し火に油を注いだ…ザルダリは、彼の米国の操作役(ハンドラー)たちからビン・ラディン暗殺の隠密作戦に関して内報を受けていたのだと。このことは当然ながら、論客たちに疑問を持たせた…Saeedへの懸賞金についての発表というのは、ザルダリのインドへの「巡礼」訪問を容易にするために行われたのか、あるいはそれに影を落とさせるべくなされたのか?と。

ザルダリの聖廟への計画的訪問は、多くの人の眼にイチジクの葉(隠蔽目的の物)より以上のものではない、とみなされた…そしてまた彼がAjmerに赴く前に行ったManmohan Singh(インド首相)とのDelhiにおける会合は、そのことによる成果にも大いに便乗していたのだろう、と。

ザルダリは、ムシャラフ(前大統領)が7年前に、観光客のメッカである健康に良い保養地アグラの有名なタージ・マハール寺院の陰で、彼らの元に残した小片を、拾い集めようと試みることだろう。多くの論客たちが、ザルダリの「巡礼」外交とは、ムシャラフが気難しい近隣諸国との連帯を修復しようとした「タージ」外交の遅ればせながらの延長だろう、とみなしている。
 
  2005年にムシャラフが当時のインド首相、Atal Bihari Vajpayee(アタル・ビハリ・バジパイ)と会合した折には、宿敵である両国リーダーらにとって、残る課題が細部への配慮となった最後の瞬間に交渉が決裂したが…それは大きな解決策のブレイクスルーを得る寸前だった。
  両国は平和の流れを拾い上げることに真剣で、新たに刷新された活力と目的意識を抱いているようにみえた。
 
パキスタンはインドとの和解と関係正常化の途で大きな一歩を踏んだ…宗教的な右派勢力からの大きな反動にも関わらず…インドに「最恵国待遇」のステイタスを与えることで、その疎外された隣国との間の貿易・経済関係における巨大な振興策を講じ得るという利益を見出して。

ザルダリが、Delhiから幾つかのポジティブな勇気付けのシグナルを送られ、パキスタン大統領としてインドへの初訪問に乗り出したのは理解できるが─彼は、闇の中で充分に跳躍することができなかったのだ…特に、パキスタンのビザンティン風な政治文化の頂点での彼の謎めいた役割が、多くの疑念に取り囲まれているなかで。
Asif Ali Zardari
論客たちは両国間の国民相互の旅行を飛躍的に容易にするビザ関連の新たな合意が、ザルダリとマンモハン首相との会議で合意されるだろう、との見方で一致している。それは、関係正常化のキーポイントと常に言われる通り、人々同士のコンタクトのほんの小さな促進材料となるだろう。
しかし予言者たちはインドの抱える他の二つの棘だらけの問題、つまりSiachen と Sir Creek両地方の領土紛争問題…において、折れるよう説得されるだろうとも言う。それは合意の補足的な例外条項の部分さえもが、何年も前から準備されていたものなのだが…1980年代末に、故・Rajiv Gandhi や故・Benazir Bhutto が政権の座にあった頃からすでに。

"great divide(大いなる断絶)"といわれるこの両国の軍司令部の…その仕事にスパナを投げ込んでいる司令官たちは、今や彼らの鼻先を超えた先を見たがっていると信じられているが─パキスタン主導の貿易自由化は、軍の司令部が留保を解いて政治的な事柄と足並みを揃えないことには、実現しない。

しかしながら、カサンドラ(凶事を予言する者)たちは…Saeedと他の同類の者たちをムンバイでの犯罪の責任者として充分に名指ししない限りワシントンのSaeedに対する懸賞金がザルダリのDelhi訪問のアジェンダに強いも悪影響を及ぼすかもしれず、インド政府がパキスタンに集中させる不平不満をも再燃させるかもしれない、と懸念している。

この懸念から得る儲けの種とは、Saeedへの懸賞金の動きを騒々しく歓迎するインドの官僚たちの、ほとばしる熱意なのだ。その懸賞金がパキスタンからの…冷たくはなくても中途半端に生ぬるい反応を招いたのは、驚くまでもない。同国の大衆感情はワシントンがあからさまにパキスタンの腕をひねり上げ、その領土内にNATOが設けている物資輸送の中継拠点のもつれた問題への非難を和らげるように画策していると感じている─その陸の回廊は、昨年11月に米国がアフガン国境近くの部族エリアで行った襲撃で24人のパキスタン兵を殺害した事件以来、凍結されているが。

パキスタンでは、議会がいまだにNATOの設備の再開の是非について、審議を続けている。しかし民衆の間には、ワシントンが近日中にパキスタン兵士の殺害に関する無条件な陳謝を行わない限りそれを再開すべきでないとの、完璧なコンセンサスがある。

飴とムチ政策では強硬なムチを行使する方針第一へと傾いたワシントンは、この二つの「同盟国」を、辛いコーナーから救い出そうと考えてくれるかもしれないパキスタンのエスタブリッシュメント(既成権力)に対して、その方針だけを貫いて留まるしかない。同時に米国人のそのようなドラマチックかつセンセーショナルな動きは、パキスタンの民衆の間での反米の御旗をより一層高めるだけだ。右翼的な宗教政党はすでに大衆の狂騒を焚きつけている─Saeedはポピュリストたちの反米運動の真只中にあり、彼の首に懸賞金をかけることは怒れる雄牛に赤い布を見せるのも同然なのだ。
http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/ND06Df02.html


米国の懸賞金は、パキスタンの武装派リーダーを捉えられるのか?
 …通常は、政府が懸賞金を告知した場合にそのお尋ね者は隠れているため、発見するには一般大衆の助けが必要となる。 しかし4月2日にワシントンが、Hafiz Mohammad Saeedの逮捕や訴追に繋がる情報に対して宣言した1千万ドルの懸賞金の場合は、その型を破っていた。 Saeedはワシントンとニューデリー双方からのお尋ね者となるだろう…インド政府は彼を、2008年の166人の犠牲者を出したムンバイのテロ攻撃の首謀者として欠席のまま訴追している。しかし彼は彼の住むパキスタンではお尋ね者にはされていない
 Saeedはパキスタンでお尋ね者でないだけでなく、定期的に公的な場にも出ている。4月3日、彼は首都から約1時間ほど北のAbbotabadで、彼の組織の集会を催した。
 パキスタン政府でさえも、ワシントンによる彼への懸賞金告知には不意を突かれたようだった。「われわれはオフィシャルなチャンネルから、何の知らせも受けていない。外交チャネルからも。それゆえ、私はオフィシャルなコミュニケーションを通じた連絡を待つべきだと思う」と、4月2日に内務大臣Rehman Malikは述べた。
ワシントンは国務省のRewards for Justice programのサイトで懸賞金を告知している
http://www.rferl.org/content/us_bounty_for_pakistani_militant_leader/24537868.html

パキスタンが米国の新たな懸賞金に咳払い

 …理論的には、米国の懸賞金はSaeed氏の所在というものを、アフガンのタリバンのリーダーMullah Muhammad Omar(パキスタンに住むとの噂の)の現住所と同じ位価値あるとものする筈だ…しかしタリバンのリーダーと異なり、Saeed氏は堂々とLahore市内に住み、先週にはパキスタンの首都Islamabadでの反政府運動にすらなんとか顔を出した…警察がそこに出させまいとした努力にも関わらず。
 
 そしてまた最高200万ドルまでの懸賞金がHafiz Abdul Rahman Makkiの拘束に対しても賭けられたが彼はSaeed氏の義理の兄弟だ。これは彼を米国の「武装派お尋ね者賞金リスト」の39番目に押し上げた。米国の告知後1時間足らずの内にSaeedはその考えをからかい、彼と彼の親戚が潜伏する家でAl Jazeeraの電話取材 http://www.aljazeera.com/news/asia/2012/04/20124314501346522.html に答えた、「我々は我々の発見にかけられた報奨金のために洞窟に隠れてはいない。我々はパキスタンの何百、何千もの人々に毎日語りかけているのだ…」
 もちろん、その61歳の元エンジニアリングの教授が最近、パキスタン全土での集会で演説した映像 http://youtu.be/JrDX6wKlWFM を探すのも容易だ。Saeed氏は米国の即時撤退を主張するデモを行う非合法化されたジハーディストのグループ、宗教政党や保守派政治家ら等の、新たな連合組織の主導的人物として台頭してきた。

Pakistanmp治安本部のあるRawalpindiでの1月の集会で、Saeed氏は軍の強力な諜報機関ISIの元・長官Gen. Hamid Gulを含む元軍人らに程近いステージの横で、Financial Timesの記者インタビューに答えているhttp://youtu.be/5Np_GD3MwEs Gen.Gulは1987年から89年に、パキスタンのスパイとCIAがソ連軍と戦うアフガン武装勢力を支援していた当時ISIの長官を務めた人物だった。2010年にWikiLeaksが入手した米国の秘密の軍事フィールド・レポートによれば…退官したGen.Gulは近年になって、対ソ連戦争時代のリーダーたちと協力していた疑いがもたれるが…それらのリーダーらの、何千もの武装勢力ネットワークは最近アフガンで米軍と戦っている…(後略)
http://thelede.blogs.nytimes.com/2012/04/03/pakistani-scoffs-at-new-u-s-bounty-on-him/


非合法のリーダーら市政府に困難の時を強いる
…6時間にわたり、非合法化されたAhl-i-Sunnat Wal Jamaat (ASWJ)のリーダー、Maulana Mohammad Ahmed Ludhianviと、Jamaatud DawaのチーフHafiz Saeedが火曜日にイスラマバードの警察と猫とネズミ・ゲームを演じた。彼らは現れては消え、止められては解放されて…スペクタクルを見ようと群衆が集まり、交通渋滞が続く中で、車に乗車中行く手を阻まれては、彼らの武装ガードたちに保護された。
Ludhianvi
弄ばれて真っ赤な顔をした警官たちが遂にようやく交渉の末Maulana Ludhianviを捕まえたが、Saeedは逃げた後だった。 彼は警官の苦情PPC section 188の規定で産業地帯の警察に移送されたものの、数分の内には市政府が彼に保釈金を与えた…
http://dawn.com/2012/03/28/banned-leaders-give-tough-time-to-administration-2/
 How childish are they?..

Saturday, April 28, 2012

Memo-Gate パキスタンの「メモ疑惑」スキャンダル



年11月にパキスタン軍のクーデターを懸念したメモの疑惑事件は、いまだ裁判所審理のもとにある

   メモ・ゲート事件とは…パキスタンの元駐米大使Husain Haqqaniの意向で書かれたとされ、オバマ政権の統合参謀長のマレン提督に密かに渡されていた大それたメモにまつわる疑惑の話。メモの存在が知られたのは2011年10月にパキスタン系米国人ビジネスマンこと、マンスール・イジャズがFinancial Timesに寄稿したからだという。Haqqani元大使は、メモの件への関与を否定し─彼は金持ちのビジネスマンのイジャズ自身がそれを書き、米軍上層部の提督に渡るようはかったのだろうと主張しつつも、大使の職を辞任せざるをえなかった…イジャズは、そのメモは友人づき合いしていたHaqqani大使の言葉を自分が書き取ったと証言。

Mansoor Ijaz
 …メモの内容とは、ビン・ラディンの殺害後パキスタンで高まった安全上の「危険事態」を懸念し、「パキスタン軍部にクーデターなどの瀬戸際政策をやめるようにと米政府から強い直接的メッセージを送るようにリクエストした」ものだった…


 またそのメモは、パキスタンの諜報部ISIの最も韜晦で怪しげな一部門を米国のコントロール下に置くようにとまで進言。
 マレン提督はそのメモは信憑性を疑い何もしなかったという… それは「パキスタンの文民政府が半世紀以上もその国を支配する軍との勢力争いにあって、米国を彼らのサイドに呼び寄せようと」したものだとか。
  ─イジャズがFifnancial Timesに寄稿した記事は、ISIの怪しい部門について次のごとく触れていた

パキスタンのジハード戦士のスパイを捕まえる時だ  (抜粋)By Mansoor Ijaz (2011, 10/10 Financial Times)

…2011年9月22日、上院の軍事委員会でMullen提督はこうのべた、「信頼できる諜報筋からの情報によれば、おそらく2011年9月11日に、77名の米軍及びNATO兵士を負傷させた爆破テロ事件と、9月13日のKabulの米国大使館への攻撃とは ISI(パキスタン諜報部)のサポートでなされたものと思われる」

彼はまず、それがパキスタンの諜報部門が米国に秘密裏に戦争をしかけていたのがその実態だ、と述べた。おそらく、ビン・ラディンの住居への襲撃作戦に対する報復に…そしておそらくタリバンをアフガニスタンで復権させて、再びインドに対する「戦略的縦深(strategic deapth)」を回復しようの同国が常に抱くパラノイア的安全政策による戦略的国家利益のために…。

このところ、ISIのパキスタンでの役割についての疑問が喧しく取りざたされてきている。そうでなければ説明のしようのない多くの攻撃が、ISIの陰の姿のいわゆる「S-Wing」と関連があるのではないか、と論じられている…その部門とは、彼らだけがパキスタンの領土的な統一を守れると信じている、狭い…怪しげなナショナリストたちの権益を推進する組織なのだ。

今や米国の国務省は、「外国政府系組織が手を染めている」などと名指しされているテロについて、それはS-Wingがスポンサーとなって行っている、と宣言すべきときだ。オバマ政権がHaqqaniネットワーク(*)をブラックリストに載せるという計画とは、牙を失った計画にすぎず、そうしたグループへの軍事的なサポートや諜報ロジスティクスに対しての何らインパクトもない。これを主に行っているのは、S-Wingなのだ。ISIはわざと盲目の振りをしているのか…或いは彼らと共謀しているのか、それともS-Wingの実行する攻撃に対して無力なのかはもうどうでもいい。S-wingの行為は、阻止されるべきなのだ(*Jalaluddin Haqquaniのもとにパキスタン・アフガン国境地域両側に勢力を張る反体制的部族ネットワーク)

ISIは、過激主義による惨劇がパキスタンの外交政策の要にある状況を体現している。米国にとってはいまやパキスタンでの、グローバルなアンチ・テロリズムへの努力を全て損なってきたパキスタンの政府系組織への政治的、財政的なサポートはやめるべきなのだ(後略)
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/5ea9b804-f351-11e0-b11b-00144feab49a.html#axzz1tphSbqm8

*かつて怪しいMusic videoにDJ役で出ていたイジャズはYoutubeの視聴者に発見された(右)イジャズの言及しているISIの「S-Wing」などは存在しないともいい真偽のほどは定かではないが、しかし根も葉もない噂と当初評する人もいたクーデターの動きの話に関して12月22日にパキスタンの首相Yousaf Raza Gilaniが警告を書いた 
 
パキスタンの首相が軍の陰謀について警告 Pakistani Premier Warns of Plotting by By SALMAN MASOOD (12/23, NYtimes)

  パキスタンのYousaf Raza Gilani首相は木曜日に、同国で強い力を持つ軍を激しく叱責し、文民政府に対して企まれた
陰謀について警告を放った。彼の非難は、米国による急襲にオサマ・ビン・ラディンを殺害されたことで恥辱をこうむったその後に軍がクーデターを企んだ可能性がある、との噂が渦巻いている件に、スポットライトを当てた。

 普段は物柔らかな政治家のGilaniは、木曜日に「選挙で選ばれた政府を終わらせようとの陰謀がある」と批判した。その後の議会演説で彼は、政府はこれまでビン・ラディンの件を含む幾度かの危機にも軍をサポートしてきたが、その同じ軍司令官たちが、文民政府に対して背を向けたのだといった。
 「彼らは国家の中の国家にはなりえない」、「彼らは議会に対して回答する義務がある」。


 一方パキスタン軍のチーフGeneral Ashfaq Parvez Kayaniと、ISIのチーフLt. Gen. Ahmad Shuja Pashaは、最高裁判所がメモについて調査すべきだと主張した。 





Husain Haqqani
先週には英国のThe Independent紙が、さらなるヒントに溢れたブログ記事を掲載して、さらに怒りが助長された。その投稿によれば、ビジネスマンのMansoor Ijazに米国の諜報筋がこう告げていたという…ビン・ラディンの殺害後に、General Pasha(ISI長官)がパキスタンでのクーデターへの支持を集める目的で、ペルシャ湾方面に旅行していたと。これに引き続いて起きたメディアと政界での嵐は、General Pashaの辞任を要求した。Mullen提督へのメモの背後にいた、とされる元・駐米大使Husain Haqqaniも、辞職を余儀なくされた。Haqqaniは関与を否定するとともに、彼が何百人もの米国のスパイにビザを発給した、という嫌疑も否定した。  


木曜日にGilaniはこうした告発についても遠回しに言及し、Bin Ladinがパキスタンに6年ものあいだ住み続けることが出来たのは彼に一体どんなビザを発行されたのかが知りたい、と述べた。
  「我々は、彼がどうやってパキスタンに入ったのか知りたい」…と、Gilaniは明らかにGeneral Pashaに向けたジャブを放った。「なぜセキュリティ要員が彼を拘束しなかったのか?を」
  今週最高裁判所にGeneral Pashaの解任への嘆願書が提出されたが、裁判所はそのメモに関する調査の開始も重視しているhttp://www.nytimes.com/2011/12/23/world/asia/pakistani-premier-yousaf-raza-gilani-lashes-out-at-his-military.html?_r=2


滅多に姿を現さないと言われたPakistan軍のチーフ
Ashfaq Parvez Kayani  と ISI のチーフ
Ahmed Shuja Pasha- は 
Osama Bin Ladinの殺害後に突然メディアに
姿を表わすようになった
その後、Gilani首相は4月26日にパキスタン最高裁によって「法廷侮辱罪」の容疑により訴追された
 その理由はZardari大統領の汚職に関するスイスでの(長期にわたる)審理の再開を促す手紙を書くことを拒絶した由で、6か月の禁固刑をうける寸前だったがかろうじて裁判所の脅しの空文的な判決がおりただけだった。

  Hussain Haqquaniは、5/11にNYTに寄稿、Gilani首相を告発した最高裁の裁判官らをテロリストの手先だなどと非難した。同紙は、Husainが疑惑の渦中の人物であることをまったく伏せて、元大使でありボストン大教授としている
http://www.nytimes.com/2012/05/11/opinion/how-pakistan-lets-terrorism-fester.html?_r=1&hp
How Pakistan Lets Terrorism Fester



Islamabadの最高裁判所前に現れ支持者の
振りかけた花弁を浴びるGilani首相(4/26)


  

Sunday, March 18, 2012

「アラブの春」は忘却の縁にある? The Arab Spring on the verge of oblivion- By Hussein Shobokshi


「アラブの春」は忘却の縁にある  By フセイン・ショボクシ (2/23、Asharq Al-Awsat)

 アラブの春、として知られるようになったその現象─次々と起こされる革命と、それにひき続く余波…アラブ世界でのそれらの出来事に関心を抱く、多くのオブザーバーたちの間では今や、評価のし直しや懸念が優勢になりつつある。アラブの春は本来の高貴な目的から逸れてしまい…かつてない方法でイマジネーションを喚起し、世界を幻惑した若い世代の手からハイジャックされたのだ…と考えている者たちもいる。

 我々は、こうした革命を宗教的強硬派の流れがハイジャックして、人々に対し時には警告的に、彼らの「異邦人」的な視点を強制して…また時には軽蔑的な感情も鼓舞しようと図るのをみた。また別の場所では、人々に対して、自分たちの個人的権益だけにしか関心を抱かないような部族やクラン(一族郎党)による視点が強制されて…そのため、洞察といものは全般的に限定されたものに限定され、扇動を誘発する危険性へと繋がって憤怒の地獄の未来にも至りかねなくなっている。いつものことだが、ほんの小さな火花すらも、大きな火の海を誘いかねないのだ。そしてそこでは、大きな損失感を抱いたアナキスト主義者らが復讐の念を抱きつつ、現今のカオスと混乱の機会を捉え…彼らが「勝った」と信じている者たち(すなわち、革命とその余波から政治的なアドバンテージを得る者たち)の間に、恐怖感を掻き立てている。

 一方でその他の者たちは、人々や国家や地域が経験するに至った巨大な叛乱の間に、自然に発生した状況とは何だったのか、を眺めている。こうした叛乱は人々の心理状態に影響を与え、彼らの自信を喪失させ、未知のものへの恐怖感を抱かせる。こうして、彼らの最初のリアクションとは暴力的で、混乱したものとなる。しかし、やがて彼らは再び安定状態を獲得し、彼らのそうした新たなる状況にも適応するようになる。市民たちは自然な方法で変化を受け入れ始めるとともに物の生産も再度向上し、以前のごとく共存する状態となる。しかしもちろん最大の問題とは、混乱や心配、怖れや疑念の信じ難いほどの肥大…また理性や洞察力、決断を下すことを阻む圧倒的な感情である。結果的に、我々は今現在おきているような多くの失敗や混乱状態を目にすることになる。
 
 いかなる新しい状況でも、それがどんな性質の物かに関わらず…その状況下での勝者と敗者を招くものだ。彼らは両者ともに、自らの享受する便益を最大にし、そして損失を最小にするために力を尽くしている。

  そして多くの勢力分子や、異なるやり方があり、それらがなお一層の紛争状態や、いざこざを喚起する。おそらく、そのなかでも二つの最も顕著で効果的、かつ最も危険な勢力といえば、一つはメディアであり、いま一つは経済だろう。今日、メディアとは力や悪意によって用いられ、特定の人物にハイライトを当てて、公衆にその影響力を及ぼし…時には真実を埋没さるために…そしてまたあるときには、政治的・経済的な理由で特定の勢力に都合のいいストーリーが世間で注意を集めるように仕向けさせる。経済的影響に関しては、金は未だに最もパワフルな要素として、「決定権」を有するポジションを掌握させ、公衆の良心を買収し、立場や基本方針、スローガンをも変えさせるものとなる。

  もしも私が、アラブの春のオリジナルな熱狂者たちが現今の状況に対して下す評価を描写するなら、最新の進展状況に対する遺憾の念と、古き良き日への懐古の念だといっても誇張ではなかろう─物事がどんな状況だったのか、そして今それがどうなったかを比較すれば明らかなように。しかしそれこそが、幾つかの勢力の望んだことなのだ。彼らはアラブの春の「完璧な」勝利を怖れ、中東の状況を悪化させた破壊的な原則の全体的、かつ包括的な改革を怖れている。このようにして、こうした勢力にとっては、アラブの春の完全な失敗を保障する形で、現今の出来事に対処することが至上命題となり、最初は美しい物にみえたその状況に対して、人々に憎悪や恐れを抱くように仕向ける。彼らはそれをとても野蛮で、醜悪で、誤った物へと転じようとしている。アラブの春の「完全な」成功を怖れる者たちは、革命家たちの意志や目的に疑問を投げかけ始め、徐々に彼らを敵や裏切り者や、逸脱者たち、外部の代理勢力などと協力する者たちだ、とみなし始める。これはある状況を完全に異なる状況へと変えさせる、メディアと金の力である。

  アラブの春は、自由を抑圧し、尊厳を損ない、希望を押しつぶそうと試みる偽装を纏った全体主義的勢力による脅威を受けている─なぜなら、彼らはこれまで専制政治と独裁的暴政、絶対的権力の原則の下で生きており、今も行き続けているからだ。彼らは多くの方法や異なる名前を受け入れたが、こうした勢力らは最終的にはすべて、同じ目的を抱いている。

  アラブの春はまだ失われてはいない、しかしそれは、隠された、悪意のある戦争に晒されつつある。かくして、それに対して身を守り、そうした企みに対抗することが重要となる。アラブ世界の人々は、他の世界の人々と同じように尊厳と自由に値する人々なのだ。
http://www.asharq-e.com/news.asp?section=2&id=28581
 
*筆者のHussein Shobokshi:
A Businessman and prominent columnist. Mr. Shobokshi hosts the weekly current affairs program Al Takreer on Al Arabiya, and in 1995, he was chosen as one of the "Global Leaders for Tomorrow" by the World Economic Forum. He received his B.A. in Political Science and Management from the University of Tulsa.

Monday, March 5, 2012

The New Islamists: イスラム主義者の民主主義と信仰がチュニジアで試される時 The New Islamists -- Islamists’ Ideas on Democracy and Faith Face Test in Tunisia By Anthony Shadid


弾圧を逃れ英国などに亡命していたイスラム原理主義者らの多くが帰国しつつある昨今の舞台裏とは?
2月半ばに動乱のシリア国境で取材中に喘息発作で急死したNYタイムスのベイルート支局長・アンソニー・シャディド氏の伝えた最後の記事。

The New Islamists:イスラム主義者の民主主義と信仰 がチュニジアで試される時  By アンソニー・シャディド (2/19, NYtimes)

チュニスにて・ サイード・フェルジャーニの突然のひらめきは、彼がチュニジアの信心深い街でその貧乏な子供時代を過ごした後に…ひと世代ほど前の宗教的ルネッサンスが彼の知性を呼び覚まして、クー・デターを企んだ彼が拷問され背骨を痛めた後に…そして他のイスラム主義者たちと合流すべく友人のパスポートを借りた彼が、英国に亡命したその後に… 訪れた。
22年の後にフェルジャーニ氏は故郷に帰ると、民主主義を建設するという仕事がその手にあることを理解した─ イスラム主義者たちの主導で、アラブ世界のモデルになるようなそれを建設する、という仕事を。
「これは、我々にとってのテストだ」と彼は言った。


もしも、一年前に中東に吹き荒れた叛乱の嵐がアラブ世界のもうひとつの未来をイメージしよう、との決意を抱いた若者たちの時代の到来だったのなら─ その叛乱のもたらした余波のなかでエジプトとチュニジアで起きた議会選挙や、モロッコやリビア、そしておそらくシリアなどでもイスラム主義者たちによる決定的な影響力への展望がもたらされた瞬間とは…もう一つの古いジェネレーションによるものだったのだろう。


誰も、近代のアラブ世界の歴史が迎えた最も重要な一章のひとつが、どのように終わるのかを知らない…その地域の軸が、独裁政権への抵抗運動から、それよりもはるかに曖昧な何かを体現する運動へとその向きを変える中で。しかし、投獄や亡命・抑圧によって形づくられつつ長年培われた信念や同盟によって硬く結ばれた、Ferjani氏の体現する世代にとっては、何が出現しつつあるのかを断言するとしたら大いに言い分もあるだろう。
Anthony Shadid and People

彼らがアラブ世界の政治の前面に現れたということは、1928年にスエズ運河の畔の街でエジプト人教師の設立した復古主義運動のムスリム同胞団が、長らく固持してきた知的かつ組織的な武勇を描き出すものだ。しかし、かつてエジプトから放たれていた知的な潮流は、今や同じほどの頻繁さで、他の方向に向けて流れている…モロッコやチュニジアの学者や運動家らが、しばしば西欧の影響も受けつつ、アラブ世界の周縁の地に腰かけて、信仰と民主主義(…それは大方の過激なイスラム主義者や、ここ中東や西欧の多くの批評家らも和解不能のものとみなしているものだが)の統合というその思想を輸出しているなかで。 

多くの場合、彼らは─イランにおける1979年のイスラム革命や、1989年のスーダンでのイスラム主義者によるクーデターなどの経験を踏まえて─ 専制的なリーダーらによる権力や、あるいは世俗主義者による権力というのは人々に(何も)与えたがらないが故に、彼ら〔原理主義者による政権掌握…〕に信頼を寄せてほしい、と社会に求めている。

その信仰心にもひけをとらぬ…独学によって培われた溢れる知性を持つ57歳のFerjani氏は、そのような疑念があることを認める。数回のインタビューの一つでも彼は、歴史というものが…彼のよく用いる言葉だが…彼らの世代というものを、権力を掌握するか否かの能力において評価せず、40年にわたるその活動の後権力に対して彼らが何をしたのかによって評価するだろうと宣言した─
「私はあなたに、ひとつ語れることがある…つまり我々が今や黄金の機会(golden opportunity)を手にしているということだ」、と彼は微笑みながらいった。「そしてこの黄金の機会のなかでは、私はコントロールされたくはないのだ。私は、最もカリスマ的なシステムをもたらすことに興味がある─カリスマチックな民主主義システムを…それが私の夢だ。」
Saiid Ferjaniはチュニジアでクー・デターを企み、英国に亡命し、
他のイスラム主義者たちと合流した

好機との出会い A Chance Encounter

Ferjani氏にはその子供時代の何かが彼を真にこの野望への道に導いた、という事は何もなかった。名声あるカイルアンの街(その街をイスラムの第4の聖都、とも呼ぶムスリム達もいる…)に生まれながら、彼は特別、信心深い子供ではなかった。彼の父は商店主だったが、家族に充分な収入をもたらしたことは一度もなかった。彼はあるとき、3日間にわたってまったく食べ物のない日々があったこと、そして学校には安物のサンダルを履いて通ったことを思い出した。「貧乏、それを我々は味わった」、と彼は回顧した。


彼自身の述懐では、彼は16歳になるまで手に負えない程のやんちゃな子供だった。その年には、チュニジアに帰還する前はエジプトとシリアで学問を修めた(アラブ・ナショナリストからイスラム主義者へと転じた)Rachid al-Ghannouchiがその街、カイルアンでアラビア語を教える教職に就いた。Ghannouchiは─当時はエナーダ党(Ennahda Party)と呼ばれていたが、後にはイスラム傾向主義(Islamic Tendency Movement)と呼ばれた運動を起こすべく旅立つ前に…わずか1年そこに滞在しただけだったが、しかし彼は彼の生徒たちの間に遺産を残した。

「彼はいつも、世界と政治についての話をしていた」、とFerjani氏はいう。「なぜムスリムは遅れているのか?何が我々に遅れをもたらしたのか?それは我々の宿命なのだろうか?」、と。

Ghannouchi氏によって投げかけられたその問いは、後続のイスラム主義者の世代を形成したが…その"イスラム主義者"という名称は、彼らのもつ多様性を決して捉えてはいなかった。そうしたテーマは、ムスリム同胞団の創始者であるHassan al-Bannaの仕事のなかでも検討されていたが─al-Bannaの布教に対する考えが正しかったことは、その後50年以上にわたって証明された。それはまた、エジプトの思想家Sayyd Qutbの著作のなかにもみられた─彼の著作は、彼が1966年に絞首刑となったずっと後の日々にも反響をもたらしたが、それは中東に流血をもたらしたイスラム武装主義というものの台頭をもたらした。後に、1981年のAnwar Sadat(大統領)暗殺計画の構想の基礎をなした「隠された義務(The Hiden Duty)」という(Sayyd Qutbの)テキスト(一文)も、その件の解決を試みていた。多元的共存主義と民主主義を信奉したGhannouchiもまた、同じ問題を模索していた…イランで革命の怒りが沸騰していた時でさえも。
Racid al-Ghannouchi,
founder of an Islamist party in Tunisia
カイルアンの植民地時代のネグラ寺院(Negra Mosque)にFerjani氏をはじめ100名の若者たちが集まって、それら全てを学ぼうとした。「読んで、読んで、読んでそして…読んだ」と彼は回顧する。「歩いている間でさえも私は読んだ。」

Ferjani氏は最後に首都のチュニスに向かい、そこで彼は、彼に昔、アラビア語を教えた教師のグループに合流した。「最初から、そこには政治というものがあった」、彼はインタビューで述べた。

その当時のチュニジアはHabib Bourguibaの政権下だったが、彼はあるときムスリムの断食月ラマダンの最中にもオレンジジュースを飲むことをTVで主張したほど世俗的人間だった。1957年以来政権の座にあったBourguiba氏は、Ghannouchi氏の信奉者らを弾圧し…彼らの多くが処刑されるとの見込みがあったがために、Ferjani氏はクー・デターの陰謀を幇助したのだという。彼は議事堂の向かいの、白い漆喰壁に青いシャッターのある低い建物のなかで彼が経営していたビデオショップで、多くのオーガナイザーたちと出会ったという。

彼らがその計画を実行する17時間前に、Bourguibaの内務大臣だったZine el-Abidine Ben Aliが、自分自身のクー・デターを起こした。10日後の1987年11月17日に、Ferjani氏は逮捕された。彼は18ヶ月を刑務所で過ごす間に、彼が「ローストチキン」と呼ぶ姿勢で棒に括り付けられ、彼の脊椎骨を鉄の棒で破壊された。歩くことができなくなり、痛みは焼け付くようで、彼は動こうとするときは常に、囚人たちの背に担がれねばならなかった。

「彼らは、拷問が体中のどこでも感じられるようにする凄いエキスパートだった」、Ferjaniは回想する。「私は朝5時まで眠ることもなく、夜明けまで祈り続けた後に、私の中には何も残っていないと感じた後に漸く、眠りにつくことができた」。

彼は解放されて5ヵ月後、未だに車椅子を使っていたが、空港で警備員の眼に留まることなく彼自身で50ヤードは歩けるようにと、自らを訓練した。彼は髭を剃り、友人のパスポートを借りた。そして彼はロンドンへの航空機に搭乗して、英国への亡命を試みた。

Crucible of Exile 亡命による試練

Ferjani氏の世代のイスラム主義者たちは、刑務所で過ごした時期を名誉の勲章のごとく身に着けている。しかし、亡命という時期も、それに劣らず彼らを形造った…特に、チュニジア人にとっては。

Ferjani氏の旅した先であるロンドンは、1990年代に、イスラム主義者の政治的なハブ(中心点)となっていた。やがてGhannouchi氏がそこに到着して、Ferjani氏に合流した。サウジ・アラビアのサラフィ主義者たちも、しばしば彼らにとっての敵対者であるバーレーンのシーア派主義者と交り合っていた…故郷におけるよりも一層、彼らの共通の基盤を見いだして。

Gaza地区における学者でもありハマスのリーダーでもあるAhmed Yousefは、米国での似たような状況について回顧する─そこで彼はワシントンでの人との会合に生涯にわたるコンタクトを持っていたのだ。そうしたコネクションのなかには─モロッコの学者で、政治家であるSaadeddine Othmaniや、シリアのムスリム同胞団のリーダー・Ali Sadreddine Bayanouni、ヨルダン出身のイスラム主義者のリーダーAbdul Latif 、そしてモロッコの現在の首相でもあるAbdelilah Benkirane、などの人々がいた。

そうした環境は、1993年のニューヨークの世界貿易センタービルの爆破事件以降、より許容される度合いが低くなった─とYousef氏は言う…しかし、その時までは、「それはパラダイスのようだった」。

「亡命先において、人々は互いが必要だと感じる」と、ロンドンのパレスチナ人学者で、活動家でもあり、 Ghannouchi氏の伝記を書いたAzzam Tamimiはいう。「故郷では、国家の状況自体があなたに課せられる。それゆえ、プライオリティ(優先事項)も異なってくる」。

Ferjani氏は、彼のロンドン時代を、彼が1970年代にカイルアンで経験した知的な啓蒙の時代と比較する。彼は、妻と5人の子供をEalingの近郊に住まわせて、彼自身はやがてアル・カイダやビン・ラディンに関する論議に巻き込まれるようになったイスラム主義者の仲間の中に残ったが…しかし彼はその活動の地平を市民社会にも拡大した。彼は、ヨーロッパ史や民主主義、環境問題と社会の変貌に関するクラスを受講した。

彼はTamimi氏が、その多くが二度と故郷に戻ることを期待していなかったイスラム主義活動家たちにとっての「共通の根と、共通の立場(common roots and common ground)」と呼んだものを、理解したという。

「我々は、お互いを知っている」、と彼は言った。「しかし、知りあうことはひとつのことであり、その一方で、どんな意味においても、何かを一緒になすということは…多くの人がそう考えるかもしれないように…それは別のことだ。政治的なことにおいては、我々は完全に同意しあってはいなかった」。(*アル・カイダのようなテロ行為への参加に同意しなかったという意味と思われる)

Embracing Democracy 民主主義を信奉する

Ferjani氏にとって、その亡命時代を通じて抱いた政治的イスラムというものの支配的イメージとは、1990年代のエジプトでの流血の反体制運動や、アルジェリアの内戦、そしてビン・ラディン(…彼のマニ教徒的な世界観とは、ブッシュ政権が発する最も辛らつな声明の鏡像のようだったが)の台頭などの記憶だった。

しかし、ムスリム同胞団によって喚起された多くの潮流のなかで起こりつつある変化(シフト)というものも、それに劣らずドラマチックだった。亡命のなかで彼自身の思想を進化させたGhannouchi氏は、より一層、包括的で(異質なものへの)寛容度の高いイスラム主義への早くからの提唱者となり、一世代ほど前の時期から、選挙や多数派による支配等の概念というものが普遍的なもので、イスラムの考えとも盾しない、と論じていた。早くから彼は議会への女性の参加を増やすためのアファーマティブ・アクションの実践をも支持した…ムスリム同胞団が長い間たゆまず定義してきた、その布教活動における無慈悲な概念を打ち破るものとして。

「率直に言って、イスラム主義運動のなかに民主主義を持ち込んだ男とは、Gharouchi氏だ」、とFerjani氏は言う。Gharouchi氏自身が、昨年暮れにチュニジアからパレスチナ自治区までのイスラム主義活動家たちが参加して、イスタンブールで行われた会議におけるインタビューhttp://www.nytimes.com/2011/10/20/world/africa/rachid-al-ghannouchi-imagines-democratic-future-for-tunisia.html?pagewanted=allで述べた言葉の如く、「支配者たちは、彼らの反対者たちよりも以上に、暴力によって権益を得るもの」であるという。

アラブ世界の全域で交わされる論議では…それは欧米からはしばしば無視されているのだが…民主主義とイスラムが相容れるものかどうか、との問いは1990年代から沸騰していた。90年代の半ばには、ムスリム同胞団から離反してCenter Party(中央党)を作ったAboul-Ela Maadiという若きエジプト人イスラム主義運動家が、(民主的)選挙による権力の交代を支持し、そして異なる意見や、また非イスラム主義政党との連携が重要なものだと宣言した。

カタールのドーハを拠点に巨大な影響力を持つエジプト人宗教家のSheik Yusuf al-Qaradawiは、しばしば前衛主義者たちを支持している(2005年には、彼はアル・ジャジーラの衛星テレビを「イスラム法の前に自由あり」、と宣言して支持に回った。同胞団は未だにMaadi氏の離反に対しては怒りを抱いているが、しかし彼らは、1996年にはとても新奇なものにみえた彼の思想を、大幅に受け入れた。

こうした論議は、アラブ地域全体にこだましている。パレスチナ人であるYousef氏はエジプトでの学生時代に、Ghannouchi氏の月刊誌Al Maarifaを読んだ際の衝撃を回顧する。リビアでは、かつてMuammar el-Qaddafi大佐の牢獄において、ジハード主義者たちと政治を論じたこともあるAli Sallabiが、Ghannouchi氏とSheik Qaradawiは霊感の源である、と述べている。

批評家たちはこうしたシフトを戦術的なもの、レトリカルなものとさえ見ている。しかしその論議の本当の真髄は今日の、政治的イスラム主義の知的な潮流の支柱をなしているのだ。

古い同胞団の思想では「Al-sama’ wa’l-ta’a」、と言われた─翻訳すればつまり、「聞いたままに、それに従う(hearing and obeying)」 ということだ。

「それはもう終わった」、と、同胞団の創始者、Banna氏の孫であり、ロンドンを拠点とする著名なイスラム学者であるTariq Ramadanは言う。「新たなる世代は、もしもそのようなことが行われるなら、我々はその場を去るだろうといっている。あなたがたには新たな理解と、新たなエネルギーがあるのだ」。

彼は、エジプトが新たなイスラム主義の思潮の源泉であったFerjani氏の若い時代とは対照的に、今やヨーロッパに亡命した人々や、Ghannouchi氏や、Ahmed Raysouni氏のような北アフリカの学者たち、またチュニジアのEnnahda党や、モロッコのBenkirane氏による正義と発展党(Justice and Development Party)などの人々によってなされる発言に、より影響力があると指摘した。

「それはもはや、中東から発されるものではなくなった」、とRamadan氏は述べた。「それは、北アフリカ諸国や、西欧諸国から発されている。そこには新たなヴィジョンや、新たな理解がある。今や彼らはこうした思想を、中東へと戻している」。

そのロンドンでの仮住まいにおいてFerujani氏は、彼のカリスマ的国家体制というアイディアにおいて…それがイスラム主義者に主導されるべきか、他の者によって主導されるべきかに関する考えの形成に、Westminsterでの討論を取り入れた。彼はまた猛烈に左翼思想を拒絶した後、今ではカール・マルクスによる資本主義批判を支持している。

亡命は…と彼は言った、「自分を根本から、大きく変えた」。

Applying Theories セオリーを適用する

爽やかな冬の日に、Ferjani氏はチュニジアのEnnahda党のオフィスに座っていた─その党名が刻まれたプラスチック製の看板が、未完成 unfinished な印象を与える5階建ての建物のなかで。

彼が、赤い国旗を身に纏って空港を難なく歩行しつつ、チュニジアに帰還してから1年近くが経過した。彼は、彼自身のパスポートを持っている。彼の髭は灰色になったが、彼のカイルアンでの若い時代を思い出させる口髭を、未だに保っている。空港では200名前後の人々が彼を迎えていた。

「チュニジアには裏切り者のための場所はないが、(その国を)定義する者たちの場所だけがある」…国家を吟唱する群集と合流して、彼はそう歌った。「我々はチュニジアへの忠誠を尽くして生き、そして死ぬ。」

この日に、彼はより一層くすんだ気分でいた。世俗主義の活動家らは、彼らが10月の選挙におけるEnnahda党の勝利により確実にもたらされると確信していたカリファテ(カリフ=イスラム首長による統治体制)を公然と非難して、抵抗運動を繰り広げていた。同党に反対を唱える新聞各紙は、清教徒的なイスラム主義者らによる不正行為や、Ennahda党が過激な慣習を許容するだろうとの推測についての記事を満載していた。富裕層の集うカフェには、Ennahda党の成功について経験則的な用語で語るチュニジア人たちがいた…それはチュニジアにおけるコスモポリタニズムを絶滅させうる宗教(的勢力)によって、不可避の(宗教的)非寛容が是認されるということだ、といったような見方だった。文化的な論議は、誰もが認めているもの:つまり、病める経済というものが…より一層差し迫っているのだという論議に影を落としていた。

「率直にいって、我々はすべての物事のトップの位置にいると思う。」とFerjani氏は言った。

しかし、よりガードの少ない瞬間に彼は問いかけた─「あなたは、50年間にわたる問題を1ヶ月以内に、誕生して1ヶ月未満の政府と一緒に解決できるなどと、本当に思うのか?」

あるインタビューで、Ferjani氏はこう皮肉を飛ばした、「知っているだろう?権力というものは腐敗する」。彼はこの日、党の本部のオフィスで座りながら、権力に関するこうした問いと苦闘していた。彼の脇には、党の機関紙The Dawnの山があった。あるコラムは「反革命的メディア」に対して非難しており、他のコラムは陰謀に関する暗い推測を示唆していた。フロント・ページでは、「議会は座り込みデモには反対し、人々の要求を聞くことに賛成する」と宣言していた。

「我々は表現の自由を怖れない、しかし我々は、無秩序を容認することはできないのだ」、と彼は言った。「人々は責任を持つべきだし、彼らは、法と秩序があることを知らねばならないのだ」。

彼は、反対デモをする人々は警察の許可を得なければならない、と指摘する。彼は、報道メディアは無謀すぎる、と懸念していた。彼は、アンシャン・レジーム(旧体制)の勢力が未だに策謀をめぐらしていると仄めかす。散らかった部屋で、彼の元気旺盛さは厳格さ(いかめしさ)に変わり、彼の言葉はためらいがちだった。

「誰もが、独裁的本能に引きずられないよう注意する必要がある、いかなる事が起ころうとも」、と彼は言った。「我々は、我々の革命の魂を失うことはできない」、と。

これは─と、彼は言う─テストだったのだ。
http://www.nytimes.com/2012/02/18/world/africa/tunisia-islamists-test-ideas-decades-in-the-making.html?_r=1&hp=&pagewanted=allFebruary

*カメラマンTyler Hicks氏と国境線を移動中Anthony Shadid氏は、馬アレルギーの喘息発作で急死し、同僚Hicks氏は彼の遺体を担いで独りトルコまで辿り着いたとか(2人は2011年3月にもリビアでカダフィ勢力の人質となり拷問も受けたが生還したNYT記者4人に含まれていた)
*Photo gallery:Tunisian Islamists Test Theories of Democracy and Religion
http://www.nytimes.com/slideshow/2012/02/17/world/middleeast/20120218-ISLAMISTS-4.html
*At Work in Syria, Times Correspondent Dies
http://www.nytimes.com/2012/02/17/world/middleeast/anthony-shadid-a-new-york-times-reporter-dies-in-syria.html

2011年にカダフィ政府軍の人質として
捉われた経緯を話すShadid
*この記事は「アラブ世界を再形成するための苦闘…中東で起こりつつある政治的イスラムの台頭について探る」シリーズ記事の第1弾とされていた
*中東関係の報道でPuritzer賞も複数受賞、名文で知られたという氏がイスラム原理主義者復権の内情を伝えている(この続編を読めないのは残念)
R.I.P.Anthony Shadid 


欧米で有名なスイス生まれの学者Tariq
Ramadanはムスリム同胞団の創始者、
Hassan al-Bannaの孫だ
現在オックスフォード大の教授

Tuesday, February 21, 2012

9-11からアラブの春まで From 9/11 to the Arab spring By Christopher Hitchens

Tunisian protesters with a picture
of Mohamed Bouazizi 

クリストファー・ヒッチンズが、死を前にして、
いくつかのメディアの紙上でアラブの春と革命運動を回顧していた

「この10年間世界の出来事に対して戦闘的な姿勢をとってきたHitchensが執筆活動を回顧した」 

クリストファー・ヒッチンズ/ 9・11からアラブの春まで Christopher Hitchens: from 9/11 to the Arab spring By クリストファー・ヒッチンズ  (9/9/2011, The Guardian)

   3人の男たち: Mohamed Bouazizi、Abu-Abdel Monaam Hamedeh、Ali Mehdi Zeu… チュニジアの街頭の物売り、エジプトの料理店主、…そしてリビア人の夫にして父親だった男性─その最初の男は、2011年の春にSidi Bouzidの街で、卑劣な官僚主義の手によるひとつの余計な屈辱に抗議して、彼自身に火をつけた。2番目の男はちょうど、エジプト人たちが集団でムバラクのエジプトの停滞と無意味さに反抗運動を始めたときに、自らの生命を絶った。3番目の男も、彼自身の生命を絶つと同時にそれを捧げたといえるのかも知れないのだ─ つまり、彼の質素な車にガソリンとホームメイドの爆薬を満載して、ベンガジのKatiba兵舎のゲート…リビアでの嫌悪の的、気の触れたカダフィ政権のシンボルのバスティーユ…を突破しながら。

人類の長い争いのなかで、「殉教」という概念は、そのヤヌス神のような2つの顔とともに自らを現すペリクリーズの葬送の祈り(*1)から、ゲティスバーグ(リンカーンの、奴隷解放と人民平等をうったえた演説まで、自らの存在よりも大きな何かに突き動かされて、喜んで死を選ぶ者たちには栄誉が与えられてきた。より懐疑的な目でみるならば、死ぬことに対して熱情を抱く者たちには、過剰な熱心さや自己への正当化、そして狂信性さえも疑われた。

私がその昔、支持していた英国労働党の党歌(anthem)は、深い真紅の色の旗について情熱的に語っていたのだが、それは、「死んだ我らの殉教者の遺体を覆っていた」とも歌っていた。私の母校オックスフォードのカレッジの窓辺の下に立っていたのは…そして、今も立っているのは…オックスフォードの殉教者(Oxford Martyrs)らの記念碑なのだ。CranmerとLatimer、Ridleyといった主教たちがプロテスタントの異教徒として、カトリックのQueen Maryの手で1555年に火炙りにされた。1世紀の末に、カルタゴで教会の父 Tertullianは「殉教者らの血は、教会の種子だ」と書いた。そして盲目的な信仰を抱く殉教者たちとの連帯というものは、何世紀もの時代を下っても一貫して保たれ、火刑に処された宗派はやがて彼ら自身が火刑を執行する側となる日を待ち望んだ。私は、労働党は彼らに課された罪からは免じられるだろうと思う。それは1969年の1月に、ソビエトによる祖国の占領に抗議してWenceslas広場で焼身自殺をした若いチェコ人学生のJan Palachにとっても可能だろう。私は、オックスフォードで行われた彼の名誉をたたえる記念集会の開催にも助力したが、私はその20年後の1989年のベルベット革命に貢献して、反体制の亡命者たちや出版の中心となったPalach Press社との繋がりをも持った。この繋がりというのは完璧に世俗的、文明的なイニシアティブで、一滴の人間の血をも流す原因とはならなかったものだ。

  とりわけ過去10年間のあいだに、「殉教者」という言葉は冷血で愛のないゾンビのような──自爆殺人犯のMohammed Atta、すなわち、彼が想像しうる限りの膨大な罪のない人々の命を死の道連れにした男の、狼のようなイメージで完全に傷つけられた。Attaのような男を見いだして訓練した組織は、それ以降、英国からイラクに至るまでの多くの国や社会で犯した言いようのない犯罪の数々に責任があり─そこで彼らは、冷血で愛のないゾンビがノーム(社会的規範)となって、文化は死に絶えるようなシステムを作ろうと試みた。彼らは、彼らが生よりも死を愛するゆえに彼らは勝つのだ、と主張し、また生を愛するような者たちとは、か弱くて腐った堕落者なのだと主張した。実際に2001年以降に私が書いたすべての言葉は、我々の間にはそれを説明してみせるだけで終わる人々もいるなかで、明白にあるいは隠然と、こうした憎悪に満ちたニヒリスティックな命題に対しての拒絶や、反論を試みたものなのだ。

チュニジアとエジプト、そしてリビアの殉教者らは、AttaよりもPalachのように考えて行動していた。彼らは生命を奪おうなどとは考えなかった。彼らはむしろその生命を、瀕死の寡頭政治の体制から不都合な存在として扱われる農奴たちよりも、ハイレベルな状態で生かしたいと望んだ。彼らは汚れた言葉で自慢げに、彼らの殺人行為が彼らに死後の肉体的生命への気味の悪いファンタジーを抱かせる余地について、主張したりしなかった。彼らは、耳障りに叫びつつヒステリー状態の中で棺を担ぎ上げるような暴徒たちを、鼓舞しようとは考えなかった。Jan Palachは彼の身近な同僚たちに、彼の振る舞いの深い理由とは(故郷の)占領ではなく、その「春」が凍れる冬にその道を空けるような酷い無気力が、プラハ全体に根を下ろしたからだと告げた。生きながら死んでいるような状態でいるよりも、人生肯定的な死を好み、アラブの春の先駆者たちもまた同様に、彼らの後継となる者たちを刺激し、彼らが市民となるための途を熱望するよう願った。潮は引いて波も引き、風景は再び茶色がかって埃に覆われるのだが、しかし、アラブの心からTahrir広場の模範やエスプリを追い出すことは何者にもできない。ここに再び、人々が彼らを繋ぐ鎖や牢獄の看守を愛することはないことや、そして文明的な生活への望み…つまりソール・ベローの描いたAugie Marchが、不滅のフレーズで言い表わしたような「誰もが普遍的に有する高貴さへの適格性」というものが、すべての人にとって適切で、共通であることが示された。

  2009年2月にベイルート・アメリカン大学でのレクチャーを行うよう招かれて(「中東の真の革命家たちとは誰か?」とのタイトルを与えられて)、私は当時、おぼろげに見え隠れしていた数少ない火花に関して私のベストを尽くして語りまくった。私はイランで芽生えはじめていた市民のレジスタンスについても、例に挙げた。私は、エジプトの偉大な反体制者で政治科学者で(政治犯として収監されていた)Saad-Eddin Ibrahim…いまやTahrir広場の抵抗運動の知的な父の一人である…の言葉も引用した。私はレバノンの「Cedar Revolution(杉の木革命)」の運動自身─それは希望の季節をもたらし、その継続がレバノンの(シリアによる)長年の占領を終わらせたのだ─についても、賞賛した。私はイラクでSaddam Husseinのカリギュラのような専制政治に「終り」の幕を下ろすことに協力したクルド人の勢力を支持したが…彼らは同時に、その地域で最も抑圧された最大の少数民族として自治もはじめていた。私は Salam Fayyadの著作を称賛したが…彼は「パレスチナ自治政府」のバロック的な腐敗に「透明性」をもたらそうと試みていた。こうした人々はてんでばらばらで共通点はないが、しかし私が期待し信じかけているのは…彼らは新たな布を織り出すだろう存在として繋がりのない糸ではないだろう、ということだ。

  読者たちのかなり多くは(残念ながら、殆どのアメリカ人たちを含めてと私はいいたいが)、私のことをある種の喜劇のからかわれ役者とみているのは確かだ。彼らにとっては革命の正当性は、ハマスやヒズボラのようなグループに属している…彼らはグローバルな巨人(colossus)への決然たる反対者で、シオニズムに対抗する疲れを知らぬ戦士たちだ。私にとってはしかし、このことは、長い間歴史的に継続している議論のもう一つのラウンドである。端的に言うなら、この進行中の論争は、反・帝国主義的な左翼(anti-imperialist left)と、反・全体主義的な左翼(anti-totalitarian left)との間で起きている。そこに、様々な形で私は巻き込まれてきた─両側のサイドに─私の全人生にわたって。そして、いかなる紛争のケースでも私はますます、反・全体主義の側につくことを決意しつつあった(これは大したことのように見えないかもしれないのだが、何かが、経験というものを通じて見出さねばならないのだ…単に原理原則 principleといったものから導き出されるだけではなく)。多元的共存主義(pluralizm)を善だとみなすような勢力は、そのために彼ら自身の意見が「穏健的」(moderate)に響きがちだろうが、彼らははるかに根本的に革命論者でもある(そして、より長期的にみても、彼らがよりよい反・帝国主義者をもつくるだろうことは、とても確かだ)

  こうした視点のどれもを進化させ、研ぎ澄ましていくためには、米国という思想(idea of America)に関するコンスタントな議論が必須とされてきた。現状ではそこには、私の帰化した国(米国)に関して、その信頼性や資源(resource)の面での衰退についての、もっとイージーな議論が存在する。私は、この中傷に参加することを選ばない。そのことが認識されようとも、されまいとも…権力が分散化された世俗主義的共和国というものは未だに…発展の途上か、あるいは今すぐ起こりそうな、いくつかの民主的革命というものの近似的モデルにすぎないのだ。アメリカ合衆国は、時には、このような模倣というものに相応しい尊敬に値することもあり、そうでない時もある。それが相応しくない時とは、すなわち…すウォーター・ボーディング(*waterboarding:CIAによるテロ容疑者への水責め) に対する疑念のケースなどにおいてだと、私は言わんと試みたい。私が信じるに、この国の草創の時期からの文学や手紙は、なんらかの革命と解放の思想(revolutionary and emancipating idea)への忠誠を、その通りに提示している。

アラン・フィンケルクラウトAlain Finkielkraut が「野蛮さ(Barbarism)」というものについて書いたのは、さほど遠い昔ではない…「それは、我々の先史時代からの継承物などではない。それは我々が踏む一歩一歩にまとわりつく、安っぽい犬(コンパニオン・ドッグ)のようなものだった」。私は自分の書く文章の中で、過去の全体主義からの数多い教訓の例を挙げながらも、そうした野蛮性の亡霊を消し去りすぎないように努力してきた。そして、いつの世も変わらぬ古い敵…レイシズムや、指導者崇拝や迷信が…それと関連する姿をとって、(しばしば、新たな擁護者のボディーガードに護られて)我々の間に現れるのを認識するのはなんと、容易いことなのだろう。何年ものあいだ、私はこの陰惨なたたかいの仕事を和らげようと試みてきた…文化や文明に貢献した作家や、芸術家についても書くことを通じて─単に、抽象的に弁護され得るような言葉や、コンセプトだけではなく。その試みには私は何十年も要してきたのだが、最後に私はウラジミール・ナボコフVladimir Nabokovについても書いた…

権力というものを一度もその手に掌握すべきでない人々とは、ユーモアのない人々だ。彼らはあり得ないほどに確実に、公正に、退屈さや画一性と手を結ぶ。米国という思想の本質的な要素とはその多様性なのであり、それゆえに私はいつも、それ自らだけのために面白い物事や、ばかばかしいけれども暴露的なことや、あるいは、単純にそのこと自体が興味を引く物事…を祝福しようと試みてきた。そうしたことのすべては、たとえば私の blowjobにおける人文科学art and science of the blowjobを論じた短いエッセイのテーマにもあてはまる─しかしそれらの記事は、ユーモア欠乏症がジェンダーの違いによる、ということを論じた私のエッセイのような、最も即座に誤った解釈をされがちな私の記事から私を救ってくれる事はなかったのだが。しかしそれでもなお私は、こうしたちっぽけなスケールの冒険もまた、制限や禁忌事項(すなわち、それが社会の最必須要件sine qua nonであると、みなされるようなもの…それは荘厳さや、信心深さを追い詰める仕方を知っている)に支配されないような会話のために、幾らかは貢献したものと信じていたいのだ。*sine qua non=an essential element of conditionある状態を生み出す際、最も重要な条件となるような要素

"Arguably"(Hitchens' last
 anthology book)
   私の最初のエッセイ・コレクション、1988年のPrepared for the Worstの序文のなかで私は、ナディーン・ゴーディマーNadine Gordimerの考えのことを書き添えた…シリアスな人間は、死後においてものを書くべきだ、という旨のことを。私はつまり彼女が、人間にとって日常感じている抑圧、つまりファッション(服装)についての抑圧や、商取引(商売commerce)上の抑圧、また自己検閲や世論、特に、知識人らの意見から受ける抑圧などが何も作用を及ぼしていないような状況で文を書くべきだという意味だ、と受け取った。その通りに生きることはおそらく不可能なことだろうが、こうした忠告と野望は、かなりの筋力を備えている…その試みがどのように朽ち果てる可能性もあるかの、警告を含むという点においても。すると1年ほど前に私は医師から、私が残りわずか1年ほどしか生きられない可能性がある、と告げられた。結果として、私の最近の記事の幾つかは常に、私の本当に最後の記事になるかもしれないとの充分な意識のもとに書かれた。一方で覚醒したり、また活気を生みだすような刺激を受けながらも、この実践とは、明らかに完璧化されたことはなかった。しかしそれは私に、なぜ人生は生きるに値するか、そしてそれを弁護するに値するかのについての、より一層ヴィヴィッドな考えというものを与えてくれた。
 http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/09/christopher-hitchens-911-arab-spring

*註1:シェークスピアの「ペリクリーズ」。古の詩人ガワーが語る、タイアの領主ペリクリーズの波乱万丈の物語 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

*ヒッチンズはフランス革命の心をアメリカの独立建国に伝えたThomas Paineが気に入っていたようで、彼の伝記風の本を書き、自分自身もヨーロッパから米国に渡った。彼はかつては左翼的と目されていた作家だったがイラク戦争中に米国に帰化し、サダムの全体主義に抗議してイラク戦争を擁護すると表明して、米国の読者を爆発的に獲得したのだとか… 
ヒッチンズの亡くなった昨年12月15日は米軍のイラク完全撤退の日だった…
*この記事はガーディアンに載ったバージョン。チュニジアとエジプトの"革命"に触発されたアラブの春に関してはロング・バージョンの記事をVanity Fairに、ショートバージョンをSlate.comに載せていた─
関連記事:クリストファー・ヒッチンズ評伝 Christopher Hitchens Died: Legendary Writer Dies At 62 - By Jade Walker [In Retrospect...]

Friday, February 17, 2012

シリアと、アル・カイダに関する嘘?Syria and the Al Qaeda lie - By Tariq Alhomayed

アル・カイダのアル・ザワヒリは、シリアの反体制派を支援すると声明…
…サウジ紙のAsharq Alawsatの編集長は、「シリアのアル・カイダ」の怪しい噂についてのコラムを執筆。
また、レバノンのアル・カイダ関係者と疑われるイスラム過激派、オマール・バクリが、シリアのアル・カイダについて弁明…


シリアと、アル・カイダに関する嘘  
By タリク・アルホマイヤド (2/14, アッシャルク・アル・アウサット)

 今日、シリアの人々が直面している状況とは、悲しむべき状況だ。人々はいまや、専制的で殺人的な体制と、人々の起こした革命を色々な言い訳のもとで損ねようとする勢力との間の板挟みの状況にある…彼らが過去11ヶ月間に払ってきた全ての犠牲にもかかわらず。シリアの人々と、その反体制勢力が悩まされている数多くの迫害の最新の例といえば…アイマン・アル・ザワヒリがシリアに関して発した声明を都合よく利用して─アル・カイダがシリアの革命勢力(反体制派)を支援している、と主張するような試みだ。

 アル・カイダのリーダー、Ayman al-Zawahiriがシリアのジハードと称するものを呼びかける声明を発して間もなく、人々のあいだにはこの国をアル・カイダが支持しているとか、この声明がアル・カイダの活動がシリアに存在している証拠だ、などと急いで論じたがる者たちがいた。 しかし、それは単純化のしすぎだ─もしもそれが、非武装のシリアの民衆に対して共謀しようという露骨な願望の一部ではないのならば。

Syrian oppsition has no central leadership
 人は問うだろう:それはどうしてだ?と。その答えはシンプルだ─シリアに関するアル・ザワヒリのすべての声明をみてみれば…この種の彼の声明は、これがはじめてではないのだ─彼はこれとよく似たような、シリアの革命運動を称賛する声明を何ヶ月も前に、革命運動がピークに達する以前にも発していた。アル・ザワヒリはまた、アラブの春をも称賛していた─もちろん、シリアの革命に関する声明は、エジプトの革命やチュニジアの革命、無論、リビアの革命への彼の称賛にくらべれば血の気がなく、色褪せている─そこでは彼は、NATOの野望と対立するリビアの民衆に警告を与えていたのだ。

 アル・ザワヒリは、アルジェリアの民衆にさえも、彼らの支配体制に対して叛起するよう呼びかけていた。それなのに、彼のこうした声明に関してはなぜ、誰も懸念を示さないのだろう…そしてその代わりに人々は、シリアの革命がアル・カイダに支援されているなどと、言おうとしているのだろう?

 アル・ザワヒリはアラブの春を称えるだけでなく、彼はそれが米国に対する「破壊的な一撃」になるとも語っていた。アル・ザワヒリはさらに、アラブの春は「アメリカからの直接の命令により収監されていた何千人ものイスラム運動メンバーの受刑者たちを自由へと解放した」とも、さきに述べていた。これらのすべてにも関わらず、我々は誰もが─国家であろうと個人であろうと─アラブの春がアル・カイダによって支持されていたなどと言っているのは聞かれなかった。これと対照的に、当時の誰もがアル・ザワヒリの声明には注意など払わなかった。もちろん欧米はムバラクに政権を去るよう急いで呼びかけ、湾岸諸国がイエメンに対しイニシアチブを発し、サレフ(大統領)の政権委譲を確実にするよう圧力をかけた─アル・カイダが常に、サレフの持ち札の一枚だったという事実や…現在それをバシャール・アル・アサドが同様に持ち札として用いている事実にも関わらず!

 それゆえに、シリアでのアル・カイダ(*現在反体制側を応援している)に対する脅迫とは、同国の政権に非武装の民衆を保護する義務を放棄させる、新たな試みに他ならない…ダマスカスの専制君主による犯罪を正当化する試みとも同じく。これはアル・カイダがそれ自身で提示している脅し、というよりも、シリアとその民衆の統一に対するより大きな脅迫となる何かを表している。アル・アサド政権はシリアのセクタリアニズム(宗派主義)を固定化して、少数派を脅かし、彼らを現体制の下に戻らせようとしている─ この同じ政権が、過去10年間…イランの支援のもとで(イラクであろうと、あるいはその他の地域であろうと)、アル・カイダによるアドバンテージを得ようとはかっていたのとも同じように。これは秘密でもなんでもないが、この地域と…そして西欧の諜報機関全てが察知していることに関係していることだ。

 それゆえに、我々が察するべきなのは、ダマスカスの専制君主の退場が遅れているということだ、そしてシリアでの流血や死、テロのシーンが延長しているということであり─そのことが暴力や殺戮、事態の緊迫への責任がある…それは今日、誰かが主張したがっているように、アル・カイダに関して語ることではないのだ!これは誰もが知るべきことだ─特にシリアの統一や、その非武装の人々の安全に関わる人たちが知るべきことなのだ。
http://www.asharq-e.com/news.asp?section=2&id=28477

レバノンに居るイスラム過激派・宗教家オマール・バクリの最新インタビュー(2/17, Al Jazeera)
  …冒頭でAl Jazeeraのビデオhttp://www.youtube.com/v/HeD0DL2PsAc が伝えるのは、レバノンとシリア国境を多くの武装ゲリラや武器が行き来する状況。そして宗教家のOmar Bakriのインタビューが挿入される。*Bakriはロンドン地下鉄テロ直後に英国からイスラム過激派として永久国外追放になり、レバノンに送られた危ない人物。ロンドンでは"Tottenhamのアヤトラ"と呼ばれていた。 
 …現在シリア政府は、彼を"レバノンのアル・カイダのリーダー"とみているという。だがBakriはこのインタビューのなかでシリアの状況への関与を否定。またアル・ザワヒリがシリアの反体制派にジハードを呼びかけた最近の声明ビデオを見て明らかになるのは、「シリア国内にアル・カイダのメンバーが一人もいないことだ」、などといっている。
  
 彼は、「自分にはエキスパートとしてそのことは判る…そうでなければ、シリア国内の反体制派にザワヒリが呼びかけて、誰か作戦を実行する人間をつのるわけがない…呼びかける前に自分たちがやるだろうからだ。彼らはシリア国内の反体制派の誰かに仕事をやらせて、その後に出てきて『自分たちがやった』などと声明を出すのが常套手段だ…」などといっている。

 …ビデオ後半では他の専門家がシリアには既にリビアやイラク、レバノンから多くのイスラム戦士(アルカイダを含む)が海路や陸路にて送られ、数千人がいるのは疑いないといっている。http://www.aljazeera.com/video/middleeast/2012/02/201221782012316678.html 
Omar Bakri

 Omar Bakriはシリア出身だがバシャール・アサドの父ハフェズ・アサドが政権をとった際に、イスラム原理主義者として反政府活動を行ったために弾圧され、1980年代に英国への亡命を許されて亡命した。英国に在住していた20年間に、自身のイスラム過激派組織al-Muhajiroun やAl-Ghurabaaなどを設立した。911テロ犯のグループを賛美したり、デンマーク大使館前でデモを行って逮捕されるなどの活動により、2005年に英国国籍が剥奪されレバノンに送致された(*レバノンでは一度終身刑になっていたというが今では解放されたのだろうか?)(7/21/2006)http://www.guardian.co.uk/world/2006/jul/21/syria.immigrationpolicy

 Omar Bakriが、この1月下旬にアル・カイダを賛美した言動が各紙に掲載された。1/25にはDaily Telegraphに対して、彼の組織Al-Ghurabaaとアル・カイダを含む「強硬派のサラフィスト・グループが、シリアでの反アサド政権の作戦を助ける準備がある」と述べた。
  Bakriはシリアで、彼らには「ムスリムの兄弟ら」が自爆テロのキャンペーンを行うことを助ける用意があるとし、「2つ3つの作戦でバース党政権は吹っ飛ぶだろう。アル・カイダはとても賢く、無から多くの武器を作ることができる。彼らは多くのキッチンに入ってピザ爆弾を作り、それがフレッシュなうちに配達ができる…」、などと述べていた(1/27/2012) 
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/syria/9039437/Muslim-cleric-banned-from-Britain-claims-Al-Qaeda-poised-to-launch-sucide-attacks-in-Syria.html

スンニ派過激派が、シリアでのアル・カイダの野望を支援している可能性がある (2/15, NYタイムス) By Eric Schmitt and Thom Shanker

  最近のダマスカスでの2件の自爆テロ(12/23、及び1/6)、及び2/10のAleppoでの自爆テロは実際、スンニ派過激グループ、または「イラクのアル・カイダ」のフランチャイズが行った仕業である可能性が高い、と米政府関係者らはみている…(中略)

 それらの爆破テロは、「アル・カイダと"ゆるい連携にあるが、直接テロリスト・グループの管理下にはない"スンニ派の武装戦士たちが、アサド政権を民主主義的運動によって覆したいという、共通の動機のもとに起こしたもの…」であると、米国のRAND研究所などの専門家は見ている。
(中略)
 イラク戦争中にはイラクに赴き、"イラクのアル・カイダ"などのグループに参加して過激派テロを行ていった者たちがいま、シリア周辺に帰国して、これらのテロを起こしている可能性が存在する。「今、そうしたテロのノウハウを知る者たちはこの地域には溢れるほどいる」、と中東政策ワシントン研究所のAndrew Tabler氏はいう。「アサド政権はかつて車爆弾の発明に協力し、彼らはこれまで、自らの外交政策の目的の為にそれを見事に使ってきた。そして、最近のそうしたテロを実行したのはアル・カイダである可能性もあるし、単にこの地域で似た様なバックグラウンドを持つ者である可能性もある」と彼は述べている。

 「イラクのアルカイダ」は近年そのメンバー数が顕著に減少をみせていたが、シリアでの混乱に乗じて暴力的テロを行うことによってアドバンテージを獲得し、民衆に人気のある反政府運動をハイジャックしようと考えている可能性もある…と幾人かの米政府高官は述べている。

 アル・カイダは「アラブの春」の、主にソーシャル・メディアを通じて起こされた非暴力による革命の成功で、その(暴力的な過激派としての)運動の隙を突かれ、またオサマ・ビン・ラディンの殺害によってもさらなる大きな打撃を蒙った。彼らはそれ以来、新たな足場となるものを探してきた。

 「イラクのアル・カイダに同盟する者たちがそのシリアにおけるネットワークを用いて、アサド政権の後追いをするとしても、驚くには値しない。それはシンプルな、ある種のご都合主義、日和見主義とでもいうべきもの」だとある匿名の政府高官は言う。またもちろん、アル・ザワヒリもシリアでの混乱に乗じたビデオ声明を発している。

 米政府内におけるシリアでのアル・カイダの役割についての論議は、水曜日に─ アサド政権のいかなる後継政権に対しても、アサド政権が現在保持する化学兵器や携帯用対空砲ロケット弾などの通常兵器の備蓄品を安全に確保することに対して、米政府が助力すると申し出た後になされた。

…しかし、現在の混乱した状況のなかでは、テロリストがシリア政府の所有するそれらの備蓄兵器を獲得する機会を得る可能性もある。リビアにおいても同様のことがあり、カダフィ政権が崩壊後に米国が残された同政府所有の多くの武器をリビアの近隣住民との協力のもとに破壊し、または安全に確保するために確認し、リスト化したりしてきた。しかしシリアでは現在、シリア政府に対して未だにロシアとイランが武器を継続的に供給している状況にある。
http://www.nytimes.com/2012/02/16/world/middleeast/al-qaeda-influence-suspected-in-bombings-in-syria.html?_r=1&hp=&pagewanted=all

 *米当局関係者は、このシリアのアル・カイダのことを「イラクのMosulのスンニ派ラディカルたちがシリアにやって来た…」という言い方をしているようだ。

 (参考記事) .."US and Iraqi intelligence says that foreign Sunni radicals (“al-Qaeda”) based in Mosul in Iraq have now departed in some numbers for Syria"... http://www.juancole.com/2012/02/save-homs-with-humanitarian-airdrops-by-drones.html

 *Al Qaeda in Iraq…Now in Syria! http://spectator.org/blog/2012/02/22/al-qaeda-in-iraqnow-in-syria/print
 
  …イラク戦争中、2004年に米軍の行った、悪名高いファルージャでの「大虐殺」の後に、イラクの反乱勢力はニネヴェ地方のMosulとTal Afarにその拠点を移して、AQI(Al Qaeda of Iraq)も同様にその拠点を移した… この「イラクのアル・カイダ」http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Qaeda_in_Iraqといえば勿論、かつて残虐なヨルダン人司令官 Abu Musab al-Zarqawihttp://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Musab_al-Zarqawiで知られていた…彼はシーア派巡礼者の大量虐殺などの、一般市民に対する恐ろしいテロを繰り返した。
  (ザルカウィは長らく米諜報部の最大のお尋ね者だったが、彼がイラクで行った一般市民への残虐テロの行き過ぎは、アラブ民衆のアル・カイダへの嫌悪をたかめ、「アル・ザワヒリからさえ、その残虐テロの行き過ぎを慎むように諌められていた」…)
 しかし、2006年米軍の無人機が500Pound爆弾を2発投下して首領ザルカウィを殺害した、そして、最近ではイラクのアル・カイダの力は徐々に弱まっていた筈なのだが?…

*シリアのアル・カイダとは、「ユルい連携の組織」であって、確たる管理系統もないのが実態ではないのだろうか?
 (アル・ホマイヤド氏が言うように、状況の混乱を狙う過激派には警戒すべきでは?)