次に、叛乱はどこで起こるのか?By ポール・メイソン
(2013/12/27, the Guardian)それはまるで、CDがトラックの曲をスキップしたか、ビデオの映像が突然、次のシーンへと飛んだかのようだった。私がイスタンブールのバリケードで映像を撮影しながら─その視界が、警察の撃ち放つCSガスのキャニスターの射程レンジに入らぬよう、注意深く構図をリセットしていた瞬間に…キャニスターのひとつが私の額に当たったのだ。私のヘルメットに空いたくぼみの画像とは,、いまや、ジャーナリストの訓練コースで、警戒に関するパワーポイント・プレゼンテーションの一部分になっている。
A boy wears a Guy Fawkes mask in Gezi Park, Istanbul |
ゲジ公園における占拠の最中には、完璧なる秩序で統制のとれたミドル・クラスの人々がバリケードを築き、トルコ警察を4日間にわたり追い詰めていた。公園の中で彼らは、彼らの暮らしたいと考えるような、急ごしらえのバージョンの社会を形成した。彼らは宗教保守派の政府に反抗して…無料の食べ物を山と積みあげ、歌を歌い、ビールを飲んでいたのだ。
日中にはそこで、学生たちが宿題もしていた。 夜には広場へと至るアプローチの道路に、マスクをかぶった若い男たちが溢れていた…彼らは、イスタンブールのサッカー・クラブ同士の百年にわたる憎悪の休戦のシグナルとして、互いのスカーフを交換し合うサッカーファンたちだった。彼らの職業を尋ねると…彼らは私に、こう囁き返した─「建築家、海運会社の事務員、ソフトウェア・エンジニア…」。
ゲジ公園での出来事は、我々が共に生きる、グローバルな動乱のターニング・ポイントでもあった。公式にはBRICSの諸国には含まれないが…トルコとは、その一国ともみなされる属性の大半を備えていた─高度の経済成長、若年人口の多さ、汚職や腐敗、勝手放題な振る舞いを特徴とする抑圧的国家。それゆえゲジ公園(における騒乱)の後に、ブラジルでの抗議運動が何百万もの人々を街頭へと引き出したことにも、驚きは覚えなかった。あるいは、エジプトで1700万人の人々がモハメッド・ムルシの政権を転覆させたデモに加わったということにも、ウクライナの抵抗運動が未だ継続している、という事実にも驚かされることはなかった。
これらの社会とは…おそらく、グローバリゼーションと市場化の恩恵を享受してきた国々なのだ。しかし、間近で見るなら、そこで台頭しつつあるミドル・クラスの人々は、締め出されているように感じている。だから、今や─「フィットネス・ジムのメンバー・シップをもち─マスクを被った─腐敗を憎む男たち…("masked guy with gym membership who hates
corruption")」といった種類の者たちが─我々が、そうした彼らを通して動乱を理解しようと試みていたような「未来を喪った卒業生たち」の社会的原型(ソーシャル・アーキタイプ)のリストに、加わっているのだ。
もしも、あなたがエコノミスト・インテリジェンス・ユニット〔エコノミスト誌の調査部門〕が実施した─<次に叛乱(kick off)の起こる場所は何処なのか>という、最新の推測の試みを読むならば─従来的な考え方によってそれを推測することがいかに困難なのか、が明らかとなるだろう。同ユニットにとって、うした場所とは─不平等性が著しく、重度の腐敗や、経済危機、信頼の崩壊─が生じているような場所なのだ。それゆえに、ナイジェリア(アフリカ最大の経済国)や、エジプトや、アルゼンチンなどはすべて─政治的秩序を脅かす紛争が発生する「とてもハイ・リスクな(very high-risk)」場所の、赤いリストの上位にある…。そして、ブラジルと南アフリカ、中国とは単に、「リスクが高い(high-risk)」場所とされている。それは、これらの叛乱が─単に2008年の経済危機に起因するとみなす直線的思考の延長でもあるのだが─私は未だに、それが何かを看過ごしているように思う。次に、それが何処で起こるか…と人々に尋ねられたときには…私は言う、「人々の頭の中でだ」、と。
いまや、抑圧の規模(スケール)とは、安定した民主主義国家のなかでさえも、非常に高度なものなのだ。それゆえに、苦悩する人々というものは…行動に移すまでには、(逮捕される危険性を冒しながらも)より長い期間、というものを過ごしている。彼らのなかの武装した勢力とは、ますます、戦争をめぐる法律(国際法)に関する懸念によっても包まれているのだが─暴動鎮圧部隊と、抵抗者らのあいだの現代的(モダン)な紛争には、ジュネーブ条約の取り決めは存在しない。それゆえに…黙諾されている…と見えるものも、黙諾ではないのだ。(*現状において、多くの国々で、当局の治安部隊が市民に対する暴力的な武力鎮圧を躊躇なく実行している─)
社会的秩序であるようにも見えるものとは単に─深い、無秩序の表皮でしかないのだ。中国ウォッチャーたちにとっては、こうしたコンセプトとはお馴染みのものだ。中国のインターネットには不満が沸騰している─たとえ公衆のなかの誰もが、公けの方針(オフィシャル・ライン)への屈服を表明していようと…。しかし、より一般的なレベルでは、それは先進国世界を通じても、本当のことなのだ。過去には運動とは思想(アイディア、考え)がすべてであり、行動(アクション)というものの占める位置は少なかったがゆえに…それに対する(当局側の)恐れというのも小さかった。しかし我々は今や、情報経済(information economy)のなかに生きている。決定的な思想(アイディア・考え)
というものは、(SNSなどで即座に行動に移され、当局にとって)実体性をもち始めて─(それに対する)抑圧が行われるなら、(いまや、)批判が煽られるようにみえる。
チェルシー・マニングと、エドワード・スノーデンは─欧米メディアのなかでは、フォーク・ヒーロー(民衆的英雄)とされているにはほど遠い。しかし、非公式(インフォーマル)な世界というもの─(つまり、)オンライン上でなされる会話の世界では─彼らは「何が起きているのか」の暗喩(メタファー)でもある。国家による違法な監視に挑戦して、イラクでの軍による残虐行為の秘密をうっかり洩らした者たちは、グァンタナモ収容所スタイルの拷問と、心理ゲームの犠牲になる。そうした状況下においては─(ある社会の)貧困や、不平等性、あるいは信頼度といったものを測定する「測定基準」などは、動乱の予測を立てることにおいてはほとんど意味をなさないものだ。
それにも関わらず、アナリストのグループであるガートナーは、今年(*2013年)─先日、こうも予測しているのだ─「ウォール・ストリート占拠運動」が一層、その規模を拡大したバージョンの運動が、2014年の末頃からはじまることだろう…と。ガートナーのアナリストたちは、その理由にも接近している。情報テクノロジーというものは「先例のないレベルで」、商品とサービスに関与する労働の量を削減している、といわれる。我々はグローバル・サウス(後進国世界)の都市化を通じ、(世界に存在する)資本に対する労働量の比率を倍増させ…そして旧共産圏の国々をも、市場経済へと組み入れてきた。しかしそこには、世界の人口の大部分にとっての…高い報酬や、繁栄したライフスタイルを獲得できるような明瞭なルートなどは見当たらない。その結果として、ガートナーは予測する─2020年までにそれは、「成熟した数か国ほどの社会(だけ)においての、新たな経済モデルの探求」に繋がるのだろう、と。
ネットワークされたモダンな社会…というものの呈する特徴が、特定の国に限定した動乱の予測というものを、無意味なものにする。そのリアリティにおいては、一つの政治的存在が問題となるのだ。たった今そこには、かつてない一層の不平等性があり…そしてその中核となる経済モデルというものも破壊されている─市民、という立場で政府に統治されることへの合意が、浸食されてしまったのだ…─それが、この世界だ。
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