パレスチナの刑務所収監者たちによる
ハンストには長い抵抗の歴史がある
ハンガーストライカーがイスラエルの司法制度の土台をゆるがす
By オマール・H.ラーマン
Hunger strikers shake foundations of Israeli justice system (4/27, The National, UAE)
4月17日の深夜零時が近づいてきた時─ 政治犯で収監され66日間のハンガーストライキを続けた挙句に世界のメディアのヘッドラインを飾っていたパレスチナ人Khader Adnanは、彼の自宅に戻される途上でヒーローの歓迎をうけた。夜空を花火が彩り、車のクラクションが鳴らされ、歩いている人々も、車やトラクターに乗る人々も飛び降りてはAdnanを迎え入れようと村のゲートへと走り出していた。
「彼が刑務所から出たなんてこの目で見るまでは信じられない」と、夫の4ヶ月間の試練の間重荷を背負っていた見るからに心配気な彼の妻のRandaは言った。しかしAdnanは最近リーダーになった者らしい身振りで、未だに刑務所内に残ってハンガーストライキを続ける他の政治犯らの家族の家々を先に訪れてからでなければ家に戻らないと言った。
4ヶ月にわたって拘置されていたAdnanは、何ら犯罪行為の宣告も受けることがなく、いかなる悪事を働いた証拠もなかったのだ。しかも、最終的に彼の解放に繋がった合意の一部のなかでは、イスラエルが彼に対する新たな証拠を持ち込めば、彼を新たに裁判にかけることができるという条件が付されていた。彼のハンガーストライキの終わりから解放に至るまでの2ヶ月近くの間にそれに失敗したイスラエルは、そのようなことを始める証拠を入手していない、と暗黙に認めた。そしてまた、それはパレスチナ人が、何の容疑もなく家から連れ出された挙句に、何ヶ月も、あるいは最悪の場合何年も拘置されかねない状況に対して、いまひとつの安堵をもたらした。
彼のハンガーストライキは、イスラエルの複数の刑務所において似通った波状の抵抗運動を引き起こし… 彼が自由を獲得した暁には、およそ1,500人のパレスチナ人の収監者らがイスラエルが続ける大規模な収監のポリシーと、収監者たちへの取扱いに抵抗して無期限の集団的なハンガーストライキに身を投じていた。逮捕される以前には、単なるマイナーな公的人物に過ぎなかったAdnanだったが、彼の窮状とは殆どすべてのパレスチナ人にとって、親密なコネクションを分け合うことのできるものだった。
Islamic Jihadのメンバー、 Khader Adnanの刑務所からの解放を 人々が歓呼で迎えた |
収監者権利擁護の代表的な組織Addameerによれば、イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地域を1967年に奪って以降、総計75万人以上のパレスチナ人がイスラエルの拘置システムによって捕らえられてきた。そのすべての時期を通じて、平均3百万人程度だったパレスチナの小さな総人口からみれば、それはその地域の人口のおよそ25%を占めており、すべての男性の半分近くを占めている。
「パレスチナの社会においては刑務所の収監者について話す際には、我々はそれを伝聞としての立場で話すよりも、むしろそこにいた経験をもつ者として話すものなのだ。だから、こうした過酷な試練を逃れたことのある、パレスチナの家族を見つけることは殆ど困難なのだ」、とパレスチナの政治と社会を研究する西岸の53歳のBirzeit大学の教授、Dr. Saad Nimrは言う…彼は、人生において合計8年間を刑務所で過ごしている。
パレスチナ人の人生における、収監者の問題の中心的な重要性とは、実質的に世界の他の地域での何にも比較しがたいものがある。パレスチナ政府─それは1993年から準自治体としてパレスチナ地域を治める─ は収監者問題の担当省庁を有し、そして、そこには多くの社会的クラブや組織、この運動に捧げられた博物館までもが作られている。
何年もの間にわたり、刑務所は人口の中の膨大な年代にとっての大学の代替物ともなり、また草の根的な政治運動組織のベースをも供給してきた。この国のもっともポピュラーな政治的人物であるMarwan Barghoutiは、現在5つの終身刑で服役しているのだが、いまだに大統領候補になりそうな競争者の一人だ。抵抗活動というものは珍重され、またイスラエルへの協力は最大の罪とされる軍事占領下で45年近くにわたって生きてきたあとに、刑務所に収監されるスティグマは、信用の失墜というその原則から名誉の印へと変貌して、無論プライドの源泉ともなるのだ。
単純に言えば、パレスチナ人にとっての収監者問題とは単なる占領下の人生のミクロコスモス(小宇宙)であり、多くの者達が大きな監房をより小さな独房の代わり、とみている場所に過ぎない。彼ら全員が解放されるまでは、その刑務所の壁の中ではなんら劇的な変化など起こらない。
今日イスラエルの刑務所には、およそ4千7百人のパレスチナ人収監者たちがいる。300人以上のこうした収監者たちが、Adnanのように「行政拘束administrative detention」を受けているが、そこでは6ヶ月までの間、犯罪の容疑や裁判もなしに人を投獄できる。この最初の期間が過ぎると、そのプロセスに対するいかなる是正の手段も回避して、軍事裁判官は収監者をさらに無期限に拘束できるとされている。
イスラエルの主要な人権団体NGO、B'Tselemによると、「行政拘束の対象者というものは、彼らの拘束の理由を一切告げられることはなく、また彼らに対する何の証拠があるかのも知らされることはない。それに加えて、特定の服役期間を宣告されて服役する囚人たちとは異なり、そうした人々が開放された後になってさえも、行政拘束の対象者は彼らがいつ解放されるのかを知ることができず、そして彼らが拘束されることのできる期間の長さには、何ら制限がない」という。
パレスチナ地域の軍事司法制度での罪の容疑の領域では、有罪という判決を受ける確率が99.7%という際だった数字に達し、逮捕はほとんどいつでも実施されている。いかなる抵抗活動も刑務所への投獄に繋がるもので、それは政党のメンバーシップの取得も含まれる。パレスチナ自治政府の現職大統領、マフムード・アッバスの政党であるファタハでさえもイスラエルの軍事当局からは禁じられている。
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33歳のKhader Adnanは人生で8回にわたって逮捕されている。彼の最近の収監とは、2011年12月17日の早朝にイスラエル兵たちが西岸の都市Jeninniに近いArrabeh村の彼の家を襲撃した時に始まった。Adnanは彼の妊娠中の妻と二人の娘の前で逮捕され、目隠しをされて尋問センターに連れて行かれ、そして彼が言うには、そこで何度も殴られたという。22日間にわたって彼は拘束されて尋問されたが、彼は逮捕された日以来、始めたハンガーストライキをずっと続けたという。1月8日に彼は軍事裁判官の前に出頭したが、そこで裁判官は彼に秘密の証拠に基づいた4ヶ月間の行政拘束を命じた。
ハンガーストライキを始めた最初の1ヶ月間、Adnanはパレスチナの内部でも海外からもほとんど注目を浴びることはなかった。通常の場合と異なり… そうした方法というものが、しばしば集団によって、そして普通は政党を通して行われるなかで、彼の行ったのは単独の個人による抵抗行為だった。彼の状況が悪くなり始めた頃に、ようやく人々が彼の行為に対するレスポンスを返し始めたのだ。
「それはグループとしての行動ではなくて、それは、同時に起こったいくつかの努力の行為だった」と、Nablusの22歳の活動家Bisan Ramadanは言う。「彼がハンガーストライキを行っている間に、あらゆる種類の人々が行動し始めたのを私は目にした。それは美しい行為で、このことを力づけるものだった」。
パレスチナの収監者たちにとって、ハンガーストライキは古くて、祝福された抵抗の形態(フォーム)である。1970年には、Ashkelon刑務所において収監者たちが15日間にわたって食事を取らず、一人の男が死に至って、現代におけるそうしたストライキの最初の例となった。1976年には、収監者たちは45日間にわたってハンガーストライキを継続した。何十年もの間、パレスチナ人は集団によるハンガーストライキを、彼らの権利を求める多くの抵抗の機会に行ってきた。最後に起きた大きなストライキは2011年の9月で、そこでは収監中に大学の学位を取得する権利が得られないということに抵抗した400人の刑務所収監者たちが含まれていた。そのストライキはその後に続いた何ヶ月間かの間に、イスラエルとハマスの間での捕虜交換の取引が成立したときに終焉したが…その時には2005年にハマスに捉えられていたイスラエル兵士の捕虜、Gilad Shalitの開放との交換という条件で、1,027名のパレスチナ人の収監者たちが解放されたのだ。
Adnanのケースは、その最も特筆すべき点として、特にこの「行政拘束」の制度そのものに対して抵抗したという点で、こうした過去のケースに対し際立った違いをみせている。
「それは、この人物一人の問題ではなかった」、とRamaanはいう。「このハンガーストライキは、行政拘束に脅威を与えていた。我々はこれを推し続けるなら、我々はこのことすべてを覆すことができるだろうと感じた」
Adnanのハンガーストライキはゆっくりと、より一層大きなレスポンスを生み出し始めた。パレスチナ地域ではデモが起こり始め、中東以外のメインストリームの報道メディアが、このストーリーを取り上げ始めた。しかしその一方で、イスラエル社会は何が起こっているかに対して気づかないか、関心のなさを示し、行政拘束の問題はイスラエルのメディアのなかでは論議されることはなかった。
「大半のイスラエル人は、パレスチナに関係のあることには何も関心をもたないのだ」、と、イスラエルの日刊紙Haaretzのシニア・コラムニスト、Akiva Eldarはいう。「人々は、(Adnanが)刑務所で死ぬことのリスクだけについて懸念した…それが彼らに対する、何らかの暴力行為を引き起こす可能性がある故に。イスラエル人に関する限り、Adnanが彼らに何の問題をも引き起こさない限りは、彼は(刑務所で)死ぬかもしれなかった」。
Adnanがハンガーストライキを終わらせるまでに1週間も満たなくなった頃、彼のハンガーストライキに、西岸地域のBurquin村から来た別の行政拘束者であるHana Shalabiが参加した。Shalabiは2年以上にわたって行政拘束を受けていた後、昨年10月にShalitとの捕虜交換で開放された収監者のうちの一人だった。Shalitの解放から4ヶ月たたぬうちに、彼女は30歳の誕生日の1週間後である2月16日深夜に、イスラエル兵らが彼女の家族の小さな家を急襲した時に、再逮捕された。
ハンストをする娘、ハナ・シャラビの プラカードを掲げる母親 |
彼女の逮捕とそれに続く日々の彼女のハンガーストライキに対して、メディアの注目が加速的に拡大してゆき、人々からの支持がAdnanの周囲をも、奮い立たせた。このペアの実践しているハンストの行為にはその後、自分たち自身の行政拘束に抵抗するための他の10人の収監者たちが加わった。 「私は単に行政拘束と、我々(パレスチナ人)に対するすべての不当な逮捕に抵抗したかったがために、ハンガーストライキに加わった」、とShalabiは言った。「私は最初から、自分がこんなに長くやれるとは思っていなかった、だが、私の信念と意思、そして決意というものが私を継続させた」
Adnanによるハンガーストライキの66日目に、イスラエルの最高裁判所は行政拘束令について裁定を下し 彼の弁護士たちは彼の当初の刑期を、4ヶ月から尋問期間を差し引いた期間と定めるとの条件によって取引した。その時点が到来したなら彼が、新たに(提出される)代わりの証拠によって裁判を受けるか、あるいは解放される、という条件の下で。その取引はイスラエルとの(問題の)決着を容易にしてしまったものの、しかしおそらくそれはAdnanの生命を救った。イスラエルの重荷を除去することについてはいくらか批判もあったが、彼の弁護士たちは、これまで一度も法廷で真摯に問われたことのない、行政拘束の期間が設定(固定)されて、それが彼の素早い解放を保証することになるだろう、と感じた。
そのニュースは、彼女自身によってハンガーストライキの最初の1週間を継続していたShalabiの行動を終わらせた。次の数週間の間には彼女の行為がメディアの注目を喚起したが、目に見えた支持による真の成果は生じなかった。Shalabiにとって44日間の長い期間は、運動への機運やメディアの注目を惹き寄せるものだった。これらのすべての出来事を通じて、イスラエルはAdnanの取り扱いからも学びとり、拘束期間の間中にShalabiの家族が彼女を訪問することを禁止したり、弁護士や独立した医師とも接見することを制限していた、多くの戦術を変えるに至った。
「私はすべての肉体的・精神的なプレッシャーや、独房にも耐えねばならず、そして自分の周りで何が起こっているのかも自分でよくわからない中で、自分自身の運命を交渉(ネゴシエーション)した」、とShalabiは言った。
「最後には、彼女には余り自由な選択肢はなかった」、とAddameerのディレクターのSahar Francisは言う。「彼女は非常に悪い状態に陥っていた。彼女は44日間、ハンガーストライキをしていた。彼女にはプレッシャーがかかっていた。彼女は、彼女の拘束のケースが非常に深刻なもので、彼女が非常に長期間、行政拘束される可能性があるのでは、との恐怖を感じていた。こうしたすべての状況のなかで、どうして彼女にフリーチョイスがあるだろう?」
Shalabiのハンガーストライキは、彼女の弁護士、Jawad Bolousがイスラエル側と取引をして、即時の解放の代わりに彼女の3年間のガザ地域への追放を命じる、との条件を取り決めた後に、世間の論議の嵐が巻き起こったなかで、終えられる可能性があった。その後に続く日々に両者の属する側から告発が返されたのだが、そのなかにはShalabiの父親による、Bolousが彼の娘のことを勝手に操作している、との告発もあった。
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世間での論議にもかかわらず、AdnanとShalabiの解放は他のパレスチナの政治囚らが彼らに対する拘束に抵抗するための途を開く大きな勝利だとみなされている。2つのケースと、またそれ以外に今日もストライキを続けている人々のケースが、パレスチナの収監者たちのプロフィールを際立たせている。
「今日の、政党相互の間の関係はよくない」、と、1992年にパレスチナの史上最大の10,000人の収監者による協調行動のハンガーストライキを統率したPalestinian Prisoners Societyのリーダーの Qaddoura Faresは言う。「すべての党派が、どのようにハンガーストライキを行うかに彼らの独自のアイディアを持っており、彼ら相互の間にはもはや十分な信頼感というものがない。そこでは彼らが、それぞれの目的のために相手に利用されるのでは、との疑念がある」
マフムード・アッバス大統領によって出された声明では、彼は収監者による運動が党派ごとの分裂を生み、パレスチナ社会を苦しめないように、と焚き付けている。「収監者の抵抗運動においては統一を維持せよ、なぜなら、分裂や非合意が我々の故郷の地や、正しい運動に対してどう影響してきたかをあなた方は知っているはずだからだ」。
そしてさらに、大半のパレスチナ人たちは、彼ら自身を占領から解き放つ努力において、特に第2次インティファーダの時期における経験のために疲弊している。
彼自ら、「Release Marwan Barghouti(マルワン・バルグーティを解放せよ)」という運動のリーダーを務め、収監者問題担当省のチーフであり、収監者運動の組織化で長年の経験を持つSaad Nimrはこのように嘆く─、 「私はパレスチナ人たちに、孤立した事件で行政拘束に反対するデモ行動をとること以外は勧めることができない。我々は(その問題のポイントを)知っているし、我々はイスラエル人を知っている。我々は、デモがイスラエルの考えを変えさせられるとは信じられない」
しかし、おそらくすべての中で最も(彼らを)弱体化させている障害とは、構造的な…、イスラエルとの和平交渉の結果であるだろう。パレスチナ自治政府の本当の存在とは─ それはイスラエルとパレスチナの人々の間の緩衝物として機能して、占領者と占領される人々の間の緊張関係を緩和してしまい、そして後者に実質的に与えるはずの権利を何も与えないままでいる。パレスチナ自治政府はイスラエルによる占領の責任を吸収するばかりでなく、それは平均的なパレスチナ人からの抵抗への責任をも奪い取っている。パレスチナ自治政府の設立以前にはパレスチナ人たちは市民社会組織の広汎なネットワークを設立し、それが占領に対する集団的抵抗運動のバックボーンをなしていた。今日では、人々はパレスチナ自治政府が彼らの問題をイスラエルとの交渉を通じて解決するよう頼みにはしているものの、いかなる成果をも得てはいない。しかもパレスチナ自治政府は集団行動の喚起を嫌い、人々が彼らの権利のために路上で抵抗運動をすることには興味がない。
「ここには、ある種のスキゾフレニア的状況がある。あなたは占領に抵抗する人々を必要とするが、同時にあなたの指導者(リーダー)たちが彼ら(占領者)に会いに行くことも必要だ」とSaad Nimrは言う。「私は、パレスチナ自治政府が民衆の抵抗運動にとっての資産となり、それを支持するものへと、リフォームされて欲しいのだ。それは抵抗運動をリードする組織であった筈だ」。
現在のハンガーストライキの波が継続するにつれて、これらすべてが何に繋がるのかの判断は難しくなる。社会の他の側面と同様に、収監者の運動はパレスチナ自治政府、収監者問題担当省とその他の関連のシンジケートによって広汎に吸収されてきた。しかし、和平交渉の崩壊とともにパレスチナの政治は変化への絶壁に立たされて、そしてこれがいかに大衆的な抵抗運動の広がりに影響するかも、不明瞭だ。現在の事実上のパレスチナの首都のなかのRamallahで、Adnanは何かを打ち樹てようとした男であるかのように語る。彼は解放の夜に群衆に向かって演説をし、政治的党派のラインによる分裂の噂を払いのけて未来への展望を語り、集団行動の必要性について包括的に語った。
「今や、パレスチナの刑務所収監者たちの受けている苦悩をより一層、露わにすることが私の義務なのだ」、とその後AdnanはNational紙に語った。「この闘争は私の家から、私の村から、私の人々から始まった。それは草の根のレベルと、そしてオフィシャルなレベルで、西岸とガザで、(歴史的なパレスチナと)そして世界中のすべての自由な人々に向かって、収監者についての言葉として広めねばならない。この問題を、これ以上見過ごすことはできない」
その問題の固有の挑戦が巨大であるにも関わらず、Adnanが切り開いた端緒とは、意義ある変化を推進するのに必要なスペースをもたらすかもしれない。来りくる日々に、個人のハンガーストライカーたちの最近のラウンドが終着に達して、イスラエルが彼らを解放するか彼らを刑務所で死なせるかの選択をすれば、その結末はこの地域内と海外の双方にとっても大きなものとなるだろう。 「4か月にわたってパレスチナの収監者たちは、彼らの拘束への抵抗を行った」と彼は反逆精神で語った。「この占領を揺るがすには、何千人もの人間は必要でない、それには真の信念を抱いた10人が居れば充分なのだ」
Palestinians holding Khader Adnan's poster カドゥル・アドナンのポスター |
ハンストのパレスチナ政治囚とイスラエル刑務当局が待遇改善で合意(5/14, JSR)
イスラエル刑務当局は、パレスチナ政治囚がハンストの終了に同意したと述べた。
パレスチナ囚人クラブの幹部筋も、当局と囚人グループの間で協定が成立したこ
とを確認した。刑務当局との交渉団のメンバー、サーレフ・アルーリ氏(ハマース幹部)によると、同当局は、行政拘留による投獄者のリストを提出し、期限終了時に彼らを釈放する(延長措置を取らないこと)ことに同意した。また、「パレスチナ情報センター」(ハマース系)のサイトは、エジプトの仲介のもと、対象の囚人すべての独房拘禁を72時間以内に解除することをイスラエル側は認めた。
さらに、イスラエル側は、ガザ地区からの囚人家族の訪問を認め、また、「シャリート法」を撤回する。同法は、捕まっていたイスラエル兵、シャリート曹長の
釈放圧力として、パレスチナ囚人への家族の面会や学習の便宜(著書の差し入れ
など)を厳しく規制するもの。
行政拘留問題では、刑務当局と囚人代表団の間で意見の対立が続き、激論が交わされたが、エジプトの情報幹部の介入でぎりぎり妥協が成立したという。
77日の長期ハンストを続けている、ビラール・ディアーブ氏(27)とサエル・ハラフラ(Thaer Halahla)氏(33)の弁護士によると、2人は、行政拘留期間切れまで絶食を続けると語った。(その後、長期絶食の囚人は、弁護士の説得でハンスト中止に同意、民間の病院に収容された。5/15 Maan News)
イスラエルの監獄では、4月17日からパレスチナ人の集団ハンストが始まり、約2000人(Maan News、Haaretzによると1600人)が約1カ月間絶食、一部の囚人は、以前からのハンストを続け、40日以上、最長77日に渡っていた。アムネステ ィ・インタナショナル、人権のための医師団=イスラエルなど内外の人道団体、EU、国連などが憂慮を表明、早急の囚人待遇改善を求めていた。PLO執行委員のハナーン・アシュラーウィ教授は、合意成立は非暴力抵抗の力を証明したと述べ、「この勝利は、囚人だけでなく、その家族、占領下とディアスポラにある、すべてのパレスチナ人の勝利だ」と語った。
クネセト(イスラエル国会)は8日に、安保関係を含むすべての囚人の人道的待 遇を求める法案を、第2、第3読会で承認している。(5/14 Haaretz, Maan News)
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