ネットのSNSがもたらした、 エジプト革命の裏側 には驚かされる
チュニジアとエジプトのリンクが、アラブ諸国の歴史を揺り動かす (前半)
By デビッド・カートパトリック&デビッド・サンガー(2/13, NYタイムス)
カイロにて─
タハリール広場の抗議デモの民衆は大統領支持派の勢力と対決したとき、彼らの先輩たちがチュニジアで得ていた教訓を引き合いにだした:「エジプトの若者たちに、こうアドバイスせよ:催涙ガスが放たれたら、ビネガーか、タマネギをスカーフの下に入れておけ」
Facebookでのやり取りは、アラブ世界の新しい力のなかに生み出された注目すべき2年ごしのコラボレーションの一部だった… 民主主義を欠いた地域に民主主義を広めるための、パン・アラブ(汎アラブ)的な若者たちの運動だ。エジプトとチュニジアの若い運動家たちは、政府の監視を逃れるためにテクノロジーを使う方法についてのブレーンストーミングを重ね…拷問された人々を哀れみ、ゴム弾の射撃にはどう対抗するか、いかにバリケードを組織するか等についての実際的な忠告を交換し合った。
彼らは、そのソーシャル・ネットワークでの世俗的な専門技術を、宗教運動のなかで育んだ技術と融合し、そしてサッカー・ファンのエネルギーと外科医のような精緻な技能とを結合した。アラブ世界における、より古い世代の政治的反乱勢力からは自由になり、彼らはアメリカの学識者からセルビアの若者運動に至る先例からチャネリングした非暴力レジスタンスの戦術に基づいて行動し─そしてさらに、マーケティング戦略の手も借りた。
その抗議運動が膨張しエジプトを揺り動かすなかで、彼らは全く異なるヴィジョンを持つリーダーとの、ヴァーチャルな戦争での覇権争いでにらみ合っていた─ガマル・ムバラク、彼は大統領ホスニ・ムバラクの息子で富裕な銀行投資家、そして支配政党のパワー・ブローカーだ。若者たちによる反乱が彼の世襲による権力継承の可能性を悉く排除するまでは、父親の明らかなる継承者と目されつつ─ 若い息子ムバラクは、父親に軍の幹部たちや首相らが権力の座を去ることを勧めた後ですら、父親に権力に踏みとどまるように働きかけていた─ と、ホスニ・ムバラクの最後の日々を追っていた米国政府の担当者たちは言う。
木曜日の大統領のスピーチの開き直った(挑戦的な)トーンは、米政府担当者たちが言うには、主に彼の息子のなせる業だったという。
ある米政府担当者は、「彼はおそらく、父親よりもさらに執拗な(どぎつい)人間だった」─ガマルの役割とは「ムバラクにとっての破滅的な状況を、うまく取り繕って彼に口当たりよく伝える役割」だった、という。しかしそのスピーチは逆効果の反発を招き、エジプト軍が大統領を強制的に辞任させ、彼らが市民による政府の樹立を約束しながら支配権を握る、という事態を導いた。
今や若いリーダーたちは、エジプトよりも先の世界を思い描いている。「チュニスの出来事はエジプトを後押しする力となった、しかしエジプトの行ったことは、世界を後押しすることになる」、と1月25日の抗議デモを組織して民衆蜂起をうながした若者たちの「April 6(4月6日)運動」メンバーの一人、Walid Rachidは言う─彼は日曜日の夜に、リビアやアルジェリア、モロッコ、イランの同じような若者たちとその運動の経験を分かちあうディスカッションのミーティングの場で語った。
「もしもすべてのアラブ諸国で人々の小さなグループが現れて、我々と同じように抵抗したなら、すべての政権を終らせられるだろう」、と彼はいい、次のアラブ・サミット会議はすべての若者の地下運動のリーダーたちの、「カミングアウト・パーティー」になるだろう、とジョークをいう。
ブロガーたちが道を先導した
エジプトの反乱には、先立つ何年かの準備期間があった。30歳のシビル・エンジニア(土木技師)で「4月6日運動」のオーガナイザーであるAhmed Maherは、当初「Kefaya」として知られる政治運動に参加し、また2005年頃には「Enough」という運動にも参加していた。Maher氏と仲間たちは、自分たちの部隊Youth for Changeを組織した。しかし彼らは十分な参加者を集められず、当局による逮捕が彼らのリーダーたちを滅ぼして、そして彼らのうちの多くは、臆病な野党勢力とみなされている政党にはまりこんだ。「その運動を滅ぼしたものは、古い政党勢力だ」と、これまでに4回の逮捕歴のあるMaher氏はいう。
2008年までに多くの若いオーガナイザーたちはパソコンのキーボードへと避難して、ブロガーに転じ、政府による民営化や悪性インフレに喚起されて、別々に起きていた労働者ストライキの波への支援を試みた。エジプトのMalhalla市での3月のストライキのあと、Maher氏と友人たちは4月6日の、全国的な一斉ストライキを呼びかけた。その運動の推進のために彼らはFacebookのグループを設立したが、それは、彼らがいかなる既存の政治グループからも独立を保とうとした運動のnexus(結び目)となった。悪天候によってストライキがほとんどの地域では行われなかったなかで、Malhalla市では労働者たちの家族によるデモが警察による暴力的な弾圧を招き、これが長年来、初めての大規模な労働者による政府との対立となった。
ちょうど数ヶ月ほど後、チュニジアのHawd el-Mongamy市でストライキがあったあと、若いオンライン・オーガナイザーたちがエジプトでの運動のモデルにならい、「Progressive Youth of Tunisia」として知られることになる運動を起こした。二つの国の運動のオーガナイザーたちは、彼らの経験をFacebookを通じて交換しあった。チュニジア人たちは、エジプトに比べてブログを書くことや報道の自由がより制限されるという警察国家体制の蔓延に直面していたが、彼らの間の交流による結びつきはより強く、より独立的だった。「我々は我々の経験をストライキとブロギングで分かち合った」とMaher氏は回想する。
Maher氏や彼の同僚たちの側は、非暴力による闘争について本を読み始めた。彼らは特に、セルビアの若者の「Optor」と呼ばれる運動に興味を引かれた─それは、アメリカの政治思想家Gene Sharpの理論によって運動を展開し、独裁者のスロボダン・ミロシェビッチの転覆に貢献した。Sharp氏の研究の品質は、ムバラクのエジプトにおいて、非常によく実証された …彼は非暴力だけが…安定化を口実とした抑圧を正当化すべく、暴力的なレジスタンスを喚起する警察国家を脅かすためには有効な手段である、と論じている。
4月6日の若者運動はそのロゴの図柄を─ 漠然とソビエトの方向を意識したような、赤と白の握りこぶしの「Otpor」のロゴをモデルとして… これを模倣した。そして、そのメンバーの幾人かはセルビアに旅行し、Otporの運動家たちとも会った。
「The Academy of Changeはどことなくカール・マルクスの運動のようなものだし、我々はレーニンのようなものだ」と、同じく4月6日運動にも時おり参加する「Egyptian Democratic Academy」のプロジェクト・ディレクター、Basem Fathyはいう─ Egyptian Democratic Academyは、アメリカからの資金援助を得て人権と選挙監視モニターの活動も行っている─
タハリール広場を抗議の民衆が占拠するあいだに、彼は彼のコネクションを通じて、毛布とテントを購入する5,100ドルの資金をエジプト人ビジネスマンたちから集めたという。
「これは、あなたの国だ」
そしてその後、1年ほど前には、この成長するエジプトの若者運動が戦略的な同盟者を得た… 31歳のGoogleのマーケティング・エグゼクティブ、Wael Ghonimは他の多くの者たちと同様に… 1年前に、瀕死の反体制運動を鼓舞しようとエジプトに戻った、ノーベル平和賞受賞者の外交官Mohamed ElBaradeiの周りに集まった若い運動オーガナイザーたちのインフォーマルなネットワークのなかに紹介された。
彼はそのウェブサイトを、警察の暴力行為に関するビデオクリップや新聞記事で埋めつくした。彼は繰り返し、シンプルなメッセージを記した:「これはあなたの国だ;政府の役人たちはあなたの税金からサラリーを得ているあなたの使用人だ、そしてあなたにはあなたの権利がある」。彼はオフィシャルなメディアによる歪曲に焦点を当てた、なぜなら人々が「メディアを信用しないとき、あなたはそれらを失う心配はないからだ」、と彼は言う。
彼は最終的に何百何千ものユーザーをひきつけ、彼らのオンライン上での民主的運動への参加を通じた忠誠関係を打ち樹てた。たとえば、オーガナイザーたちがカイロの街路で「沈黙の日」を計画した際には、彼はユーザーたちが皆で何色のシャツを着ていくのがよいかを投票で募った─黒か、白か。(反乱が爆発したとき、ムバラクの政府は彼の仕事を遅まきながら阻止すべく、彼を12日間にわたり目隠しをしたまま独房に拘留した)
1月14日のチュニジアでの革命の後、4月6日運動はその「警察記念日(英国の抑圧に対抗して警察が蜂起したことを祝う1月25日の祝日)」の余り知られていない例年の抗議運動を、より一層大きなイベントにする機会であるとみた。Ghonim氏はFacebookのサイトを通じて、支持者の動員をはかった。ウェブサイト上において、その日にもし少なくとも5万人の人々が現れれば、抗議デモを開催する、と彼は告げた。すると、10万人以上がサインアップした。
「私は、事前にアナウンスがなされた革命が行われたのは、見たことがない」とGhonim氏は語った。
By デビッド・カートパトリック&デビッド・サンガー(2/13, NYタイムス)
カイロにて─
タハリール広場の抗議デモの民衆は大統領支持派の勢力と対決したとき、彼らの先輩たちがチュニジアで得ていた教訓を引き合いにだした:「エジプトの若者たちに、こうアドバイスせよ:催涙ガスが放たれたら、ビネガーか、タマネギをスカーフの下に入れておけ」
Facebookでのやり取りは、アラブ世界の新しい力のなかに生み出された注目すべき2年ごしのコラボレーションの一部だった… 民主主義を欠いた地域に民主主義を広めるための、パン・アラブ(汎アラブ)的な若者たちの運動だ。エジプトとチュニジアの若い運動家たちは、政府の監視を逃れるためにテクノロジーを使う方法についてのブレーンストーミングを重ね…拷問された人々を哀れみ、ゴム弾の射撃にはどう対抗するか、いかにバリケードを組織するか等についての実際的な忠告を交換し合った。
彼らは、そのソーシャル・ネットワークでの世俗的な専門技術を、宗教運動のなかで育んだ技術と融合し、そしてサッカー・ファンのエネルギーと外科医のような精緻な技能とを結合した。アラブ世界における、より古い世代の政治的反乱勢力からは自由になり、彼らはアメリカの学識者からセルビアの若者運動に至る先例からチャネリングした非暴力レジスタンスの戦術に基づいて行動し─そしてさらに、マーケティング戦略の手も借りた。
その抗議運動が膨張しエジプトを揺り動かすなかで、彼らは全く異なるヴィジョンを持つリーダーとの、ヴァーチャルな戦争での覇権争いでにらみ合っていた─ガマル・ムバラク、彼は大統領ホスニ・ムバラクの息子で富裕な銀行投資家、そして支配政党のパワー・ブローカーだ。若者たちによる反乱が彼の世襲による権力継承の可能性を悉く排除するまでは、父親の明らかなる継承者と目されつつ─ 若い息子ムバラクは、父親に軍の幹部たちや首相らが権力の座を去ることを勧めた後ですら、父親に権力に踏みとどまるように働きかけていた─ と、ホスニ・ムバラクの最後の日々を追っていた米国政府の担当者たちは言う。
木曜日の大統領のスピーチの開き直った(挑戦的な)トーンは、米政府担当者たちが言うには、主に彼の息子のなせる業だったという。
ある米政府担当者は、「彼はおそらく、父親よりもさらに執拗な(どぎつい)人間だった」─ガマルの役割とは「ムバラクにとっての破滅的な状況を、うまく取り繕って彼に口当たりよく伝える役割」だった、という。しかしそのスピーチは逆効果の反発を招き、エジプト軍が大統領を強制的に辞任させ、彼らが市民による政府の樹立を約束しながら支配権を握る、という事態を導いた。
今や若いリーダーたちは、エジプトよりも先の世界を思い描いている。「チュニスの出来事はエジプトを後押しする力となった、しかしエジプトの行ったことは、世界を後押しすることになる」、と1月25日の抗議デモを組織して民衆蜂起をうながした若者たちの「April 6(4月6日)運動」メンバーの一人、Walid Rachidは言う─彼は日曜日の夜に、リビアやアルジェリア、モロッコ、イランの同じような若者たちとその運動の経験を分かちあうディスカッションのミーティングの場で語った。
「もしもすべてのアラブ諸国で人々の小さなグループが現れて、我々と同じように抵抗したなら、すべての政権を終らせられるだろう」、と彼はいい、次のアラブ・サミット会議はすべての若者の地下運動のリーダーたちの、「カミングアウト・パーティー」になるだろう、とジョークをいう。
ブロガーたちが道を先導した
エジプトの反乱には、先立つ何年かの準備期間があった。30歳のシビル・エンジニア(土木技師)で「4月6日運動」のオーガナイザーであるAhmed Maherは、当初「Kefaya」として知られる政治運動に参加し、また2005年頃には「Enough」という運動にも参加していた。Maher氏と仲間たちは、自分たちの部隊Youth for Changeを組織した。しかし彼らは十分な参加者を集められず、当局による逮捕が彼らのリーダーたちを滅ぼして、そして彼らのうちの多くは、臆病な野党勢力とみなされている政党にはまりこんだ。「その運動を滅ぼしたものは、古い政党勢力だ」と、これまでに4回の逮捕歴のあるMaher氏はいう。
2008年までに多くの若いオーガナイザーたちはパソコンのキーボードへと避難して、ブロガーに転じ、政府による民営化や悪性インフレに喚起されて、別々に起きていた労働者ストライキの波への支援を試みた。エジプトのMalhalla市での3月のストライキのあと、Maher氏と友人たちは4月6日の、全国的な一斉ストライキを呼びかけた。その運動の推進のために彼らはFacebookのグループを設立したが、それは、彼らがいかなる既存の政治グループからも独立を保とうとした運動のnexus(結び目)となった。悪天候によってストライキがほとんどの地域では行われなかったなかで、Malhalla市では労働者たちの家族によるデモが警察による暴力的な弾圧を招き、これが長年来、初めての大規模な労働者による政府との対立となった。
ちょうど数ヶ月ほど後、チュニジアのHawd el-Mongamy市でストライキがあったあと、若いオンライン・オーガナイザーたちがエジプトでの運動のモデルにならい、「Progressive Youth of Tunisia」として知られることになる運動を起こした。二つの国の運動のオーガナイザーたちは、彼らの経験をFacebookを通じて交換しあった。チュニジア人たちは、エジプトに比べてブログを書くことや報道の自由がより制限されるという警察国家体制の蔓延に直面していたが、彼らの間の交流による結びつきはより強く、より独立的だった。「我々は我々の経験をストライキとブロギングで分かち合った」とMaher氏は回想する。
Maher氏や彼の同僚たちの側は、非暴力による闘争について本を読み始めた。彼らは特に、セルビアの若者の「Optor」と呼ばれる運動に興味を引かれた─それは、アメリカの政治思想家Gene Sharpの理論によって運動を展開し、独裁者のスロボダン・ミロシェビッチの転覆に貢献した。Sharp氏の研究の品質は、ムバラクのエジプトにおいて、非常によく実証された …彼は非暴力だけが…安定化を口実とした抑圧を正当化すべく、暴力的なレジスタンスを喚起する警察国家を脅かすためには有効な手段である、と論じている。
4月6日の若者運動はそのロゴの図柄を─ 漠然とソビエトの方向を意識したような、赤と白の握りこぶしの「Otpor」のロゴをモデルとして… これを模倣した。そして、そのメンバーの幾人かはセルビアに旅行し、Otporの運動家たちとも会った。
「The Academy of Changeはどことなくカール・マルクスの運動のようなものだし、我々はレーニンのようなものだ」と、同じく4月6日運動にも時おり参加する「Egyptian Democratic Academy」のプロジェクト・ディレクター、Basem Fathyはいう─ Egyptian Democratic Academyは、アメリカからの資金援助を得て人権と選挙監視モニターの活動も行っている─
タハリール広場を抗議の民衆が占拠するあいだに、彼は彼のコネクションを通じて、毛布とテントを購入する5,100ドルの資金をエジプト人ビジネスマンたちから集めたという。
「これは、あなたの国だ」
そしてその後、1年ほど前には、この成長するエジプトの若者運動が戦略的な同盟者を得た… 31歳のGoogleのマーケティング・エグゼクティブ、Wael Ghonimは他の多くの者たちと同様に… 1年前に、瀕死の反体制運動を鼓舞しようとエジプトに戻った、ノーベル平和賞受賞者の外交官Mohamed ElBaradeiの周りに集まった若い運動オーガナイザーたちのインフォーマルなネットワークのなかに紹介された。
彼はそのウェブサイトを、警察の暴力行為に関するビデオクリップや新聞記事で埋めつくした。彼は繰り返し、シンプルなメッセージを記した:「これはあなたの国だ;政府の役人たちはあなたの税金からサラリーを得ているあなたの使用人だ、そしてあなたにはあなたの権利がある」。彼はオフィシャルなメディアによる歪曲に焦点を当てた、なぜなら人々が「メディアを信用しないとき、あなたはそれらを失う心配はないからだ」、と彼は言う。
彼は最終的に何百何千ものユーザーをひきつけ、彼らのオンライン上での民主的運動への参加を通じた忠誠関係を打ち樹てた。たとえば、オーガナイザーたちがカイロの街路で「沈黙の日」を計画した際には、彼はユーザーたちが皆で何色のシャツを着ていくのがよいかを投票で募った─黒か、白か。(反乱が爆発したとき、ムバラクの政府は彼の仕事を遅まきながら阻止すべく、彼を12日間にわたり目隠しをしたまま独房に拘留した)
1月14日のチュニジアでの革命の後、4月6日運動はその「警察記念日(英国の抑圧に対抗して警察が蜂起したことを祝う1月25日の祝日)」の余り知られていない例年の抗議運動を、より一層大きなイベントにする機会であるとみた。Ghonim氏はFacebookのサイトを通じて、支持者の動員をはかった。ウェブサイト上において、その日にもし少なくとも5万人の人々が現れれば、抗議デモを開催する、と彼は告げた。すると、10万人以上がサインアップした。
「私は、事前にアナウンスがなされた革命が行われたのは、見たことがない」とGhonim氏は語った。
そのときまでに4月6日運動は、ElBaradei氏の支持者たちや、リベラル派や左派のグループとも合流し、そしてムスリム同胞団の若者の支部とも合流して、チュニジアの出来事にインスパイアされた警察記念日の抗議運動のモダニズム風ポスターをカイロ市街に貼りめぐらした。しかし彼らの年配の先輩たちは… ムバラクや西欧諸国によって長年、過激派と目されてきたムスリム同胞団のメンバーたちでさえも…その抗議デモに参加することを避けた。(*左写真=Wael Ghonim) 警察記念日が英国の植民地主義に対する戦いを顕彰する記念日であることを説明しながら、ムスリム同胞団のリーダーのEssem Erianはこういう、「その日は、我々はみな一緒に祝福しなければならないのだ」
「…こうした人々はすべてFacebook上にいるが、しかし、我々は彼らが誰なのかを知っているだろうか?」と彼は尋ねる。「我々は我々の党や、我々の組織の実体というものを、バーチャル・ワールドと連帯させることはできない」
「これが、その答えだった」
25日が訪れたとき、若い活動家たちの同盟(その殆どは裕福な者たちだったが)は、その国の専制体制に対して広汎に蔓延していたフラストレーションや、エジプトの生活を磨り潰している貧困に入り込み、これを活用したいと思った。彼らはその日の始め、多くの貧しい人々を集会に呼び集めて、彼らの口で家計の問題への不満を語ってもらうよう試みた。(人々は言った)、「…彼らは鳩や鶏肉を食べているが、我々は毎日、豆ばかりを食べている」。
タハリール広場に向かって何万もの群衆が行進した日の終りまでに、彼らのシュプレヒコールの声はさらに圧倒的なものとなった。「我々民衆は、体制を終わらせたい」、と彼らは叫んだ…オーガナイザーたちの言うには、それは彼らがチュニジアのデモのサインボードやFacebookのページで目にしていたスローガンだった。4月6日若者運動(April 6 Youth Movement)のMaher氏がいうには、オーガナイザーらは議会や国営TVの建物への乱入も話し合っていた、という─クラシックな革命の行動だ。
「私は自分の周囲を眺め渡して、こうした抗議行動へと出たすべての見知らぬ人々の顔を見たが、彼らは我々よりも、もっと勇敢だった─我々はこれが、その(体制への)答えだったのだと感じた」…とMaher氏は言った。
それは彼らが、チュニジアやセルビア、そしてAcademy of Change(抗議運動のオーガナイザーらをトレーニングするため、一週間前にカイロにスタッフを送っていた)のアドバイスを訊き始めたときだった。火曜日に、警察が抗議の群衆を蹴散らすために催涙ガスを用いて以来、オーガナイザーたちは、次なる抗議デモを予定している2月28日、「怒りの日」のためのより入念な準備作業へと戻った。
今回、彼らは催涙ガスの影響を軽減するためにその臭いを嗅ぐレモンや玉ねぎやビネガー、また、眼に流し込むための炭酸飲料やミルクをも持参した。機動警察の撃つ銃弾から身を守るために、衣類の下にボール紙や、ペットボトルで作った即席の鎧を身につける人々もいた。彼らは警察の車両のフロントガラスに吹き付けるためのスプレー・ペイントを持参し、また排気管に物を詰め込んだり、タイヤを妨害して車を使えなくする準備をしていた。午後の早い時刻に、4車線のKasr al-Nile橋の上で数千人の抗議の群衆が千人をゆうに超える重装備の機動隊警官らと睨み合ったのが、おそらくこの革命の転換点となった最も重要な闘いだったろう。
「我々はこのゲームのトリックを、すべてとり出した…ペプシコーラと、玉ねぎと、ビネガーを…」と、Maher氏はいう─彼は、セーターの下にボール紙とペットボトルを身につけ、バイク・ヘルメットを被り、手には樽のふたで作った盾を持っていた。「その戦略とは、怪我をした人々は後ろに下がり、それ以外の人々が彼らの場所に取って代わる、というものだった」、と彼は言う。「我々は、ローテーションを続けた」。5時間以上が経過した後に、彼らは遂に勝利した…そして、タハリール広場へと至る道すがら、彼らは空になった支配政党の本部群を焼き討ちして陥落させた。
ムバラクに圧力を加える
その日、ワシントンでは午後3時半に予測もなくオバマ大統領が現れた。危機管理室(Situation Room)における彼の重要人物たち(his 'principals'…国家安全対策チームのキー・メンバーたち)のミーティングで、彼はテーブルの上座に座るnational security adviser、Thomas E. Donilonを解任した。
ホワイトハウスでは、若者が先導する蜂起がチュニジアのZine el-Abidine Ben Ali大統領の政権を覆して以降の、ドミノ効果の可能性に関して討議を重ねていた。米国やイスラエルの諜報部門がMubarak大統領の失脚するリスクは低い、と見積もっていたのに(その可能性は20%以下だ、という人々もいた)も拘わらず。
オバマ氏による政策討議に参加していた上級官僚によると、大統領は異なる見解を抱いていた。上級官僚によると、彼は早い時期から、それがこの地域の他の専制国家の政府─イランを含めた─にも広がる可能性のある、「トレンド(流れ)だった」と指摘していた。18日間にわたる蜂起が終わるまでに、ホワイトハウスでは、エジプトに関しての大統領を伴う38回のミーティングが開かれたとしている。オバマ氏は、これは欧米の干渉に関する(従来の)「アル・カイダによる語り口"the Al Qaeda narrative"」にとって代わるような語り口を創り出すチャンスなのだ、と言った。
米国の政府官僚たちは、明瞭な反米性とか、反欧米の感情というものの証拠を見出してはいなかった。「我々は、人々がタハリール広場に彼らの子供らを、歴史の作られる瞬間を見せたくて連れてきているのを見たときに、これは何かが違う、と気づいていた」と某官僚はいう。
1月28日には、その討議の内容はMubarak氏に対して、個人的にも、公式にもいかに圧力をかけるのか…─そして、オバマ氏がTVに現れて政権交代を求めるべきなのか、否か、に関するものへと、急速に転じた。オバマ氏はMubarakに電話をすることを決意し、そして数人の側近がその電話を傍聴した。オバマ氏は82歳のリーダーに対し、辞任や権力移譲を示唆したりはしなかった。その時点での「その論議の内容とは、彼が改革を行う必要が本当にあるということ、そして早急にそれをせねばならないこと」だったと、上級官僚はいう。Mubarak氏は抵抗を示し、抗議運動とは外部からの干渉によるものだと述べた。
同官僚によるとオバマ氏は彼に、「あなたの民衆の大半は満足していない、そして彼らは、あなたが具体的な政治的・社会的・経済的改革を行わない限り、満足することはない」と告げた。
翌日、カイロにいる前大使のFrank G. Wisnerが、使節として派遣されることが決定された。オバマ氏はイスラエルのBenjamin Netanyahu首相、トルコのRecep Tayyip Erdogan首相やその他の、地域のリーダーたちに電話をし始めた。
最も困難だった電話の相手とは─と、官僚らは言う─地域情勢の不安定化を恐れて、米国にMubarakとの連帯を守り続けるよう要求する、サウジ・アラビアのKing Abdullahと、Netanyahu氏とのものだった。米国政府の官僚によると、サウジ・アラビア政府の上級官僚らは、もしもMubarakが抗議の群衆に対し武力を用いても、米国はMubarakを支援すべきだと論議していたという。Mubarakが放送によるスピーチを行って、9月には大統領選を実施し、彼は再出馬をしないと誓った2月1日までに、オバマ氏はエジプト大統領は未だにメッセージを理解していないと結論していた…
(後略…)
http://www.nytimes.com/2011/02/14/world/middleeast/14egypt-tunisia-protests.html?_r=1&hp=&pagewanted=all
*記事上写真は1月14日、チュニジアで Zine el-Abidine Ben Ali大統領の辞任を要求し内務省ビルの壁によじ登る人々。抗議運動はFacebookによってはじまった
(*記事タイトルは当初Dual Uprisings Show Potent New Threats to Arab States →"A Tunisian-Egyptian Link That Shook Arab History”に差しかわっていた…)
関連記事
*Wael Ghonimの開放と仲間たち:Emotions of a Reluctant Hero Galvanize Protesters
http://www.nytimes.com/2011/02/09/world/middleeast/09ghonim.html?scp=6&sq=Ghonim&st=cse
*CairoのFacebook部屋http://www.nytimes.com/interactive/2011/02/08/world/middleeast/20110209_DREAM_GOBIG.html?ref=middleeast