Thursday, April 29, 2010

サウスパークでも駄目?Not Even in South Park? - By ROSS DOUTHAT

サウスパークでも駄目? - By ロス・ドウザット (4/25, The New York Times)

 9月11日のテロの2ヶ月前、コメディ・セントラルはアニメ「サウスパーク」のなかで、“Super Best Friends” と題したエピソードを放送した─そのマンガの中では、口利きの悪いわんぱく小僧たちが、この世ならぬスーパーヒーローたちから構成されるチームに助力を求めていた。そのスーパーフレンドたちとは、すべて宗教的人物…:イエス・キリスト、クリシュナ、仏陀、モルモン教のジョセフ・スミス、タオイズムの老子…そして預言者モハメッドもまたターバンを被った「5時の影」として描かれており…「炎の力を持つイスラムの預言者(the Muslim prophet with the powers of flame)」と紹介されていた。

 そのころは、未だに寛大で受容的な時期だった。2006年になって、サウスパークのクリエーターTrey Parkerと Matt Stoneが、デンマークの新聞の掲載した(モハメッドを媚びへつらいなく描いた)漫画が世界中に暴動をひき起こした件をパロディーにし、さらにアニメ化しようと試みた際に、モハメッドの姿は米国のTVではもはや放映できないと気づいた。そのエピソードは放送されたものの、“スターの登場する見せ場”自体はブラックアウトされ、「コメディ・セントラルは預言者の姿を見せることを拒否します」、という告知のメッセージに置き換えられていた。

 ParkerとStoneにとって次のステップとは明らかに、我々がモハメッドの肖像を放送できない、ということ自体を茶化すことだった。2週間前、“サウスパーク”では“super best friends”のキャラクターたちを再度登場させた…だが今回は、モハメッドは決して顔を出さなかった。彼はU-Haulトレーラーの中に“現われて”、そして次には、マスコットのコスチューム(クマの着ぐるみ)の中に現われた。こうしたギミックに対し、ニューヨークを本拠にするウェブサイト、revolutionmuslim.comは「Parker とStoneは、2004年にイスラム教を痛烈に非難した故に殺されたオランダの映画監督、テオ・ヴァン・ゴッホと同じ運命を辿るだろう」、と予測した。これを書いたのは、アメリカ生まれでイスラム教に改宗したAbu Talhah Al-Amrikeeだが、彼は彼自身が彼らをテクニカルに殺害するという脅迫は述べなかった。彼の投書とそこに付されたテオ・ヴァン・ゴッホの遺体の写真は「…起こりそうな事の警告」だけだったという。 *U-Haul:トレーラー、トラックのリース業者 

 この受動攻撃的(passive-aggressive)な死の脅迫は、コメディ・セントラルからすばやい反応を引き起こした。先週、放映された続編エピソードでは、預言者の「出現しないことによる出現(non-appearance appearances、見えない出現)」は検閲され、モハメッドに関する全ての言及がビープ音でかき消された。過去の放映についての記録もまた、迅速に洗い落とされた─オリジナルの“Super Best Friends”エピソードはもはや、インターネット上でも見ることはできなくなった。

 ある意味で、「サウスパーク」を黙らせたことは、西欧の社会的機関がイスラム過激派の暴力の前に萎縮している、ということの、これ以上ない不穏な証拠だ。それはドイツのオペラハウスが、モーツアルトのオペラ“Idomeneo”の上演を、モハメッドの斬り落とされた首が出てくる、という理由で、一時的に休演させたことにも劣らず、不味い事態だ。またはランダム・ハウスが預言者の第3夫人を描いた小説の出版をキャンセルしたこととも同様だ。…またはイェール大学出版が、論議の的となったデンマークの新聞漫画を、それらデンマークの漫画の危機に関する本のなかに掲載することを拒否したこととも同じだ。…あるいはそれは、多様な西欧のジャーナリストたちや知識人、政治家たち─イタリアのOriana Fallaci やフランスのMichel Houellebecq、カナダの Mark Steyn、オランダのGeert Wildersも含めて─を法廷の前に…この、多分リベラルな社会だと思われる社会の「人権に関する裁判」の場に、引きずり出させるのと同じだ─イスラムに対する攻撃をあえて行ったとの咎で。

 それでも「サウスパーク」のケースにはなお、特に啓蒙的なものがある。それは単に、ライターや娯楽の演出家たちが突然、新たな超えられない一線を定められた、といったことではない。しかしそれは、イスラムとは我々が線を引ける唯一の場所だということを再度、想起させるのだ。14年にわたる放送のなかで「サウスパーク」が踏みつけにしなかった偶像は存在しなかったし、(セクシュアルな、ス*トロな、冒涜的な)ショックコメディーのノリで描かなかった物もなかった。さほど疲れ果ててはいなかった時期に、そのクリエーターたちはOscar WildeやLenny Bruceの正当な後継者のごとく、しばしば危険を冒しながら文化的な聖なる牛を切り身にさばいていた。

 それでもパーカーとストーンの最も激しい怒りはこのシーンの影にぼやけていってしまう。最新のヒット映画“Kick-Ass”で、11歳の少女が卑猥な言葉を吐きながら、ペドファイル(小児性愛者)の気を引くオトリのいでたちで、悪い男たちをばらしているこの国では、本当に宗教的に一線を越えるような逸脱(違反、transgression)など考えられない。我々の文化には、殆ど侵害できないタブーなどなく、我々の社会秩序ははじめに規範を設定することなど、広範に放棄している─イスラムが関わるところ以外では。そこでは、暴力の脅迫のもとで規範(standard)が設定され、自己保存本能と自己嫌悪がない交ぜになるなかで、受け容れられている。それは、デカダンス(堕落、退廃)というものの現れた姿だ:狂気じみた粗野さ(下品さ)が、「勇猛果敢にも」それ自体の価値や伝統を踏みにじり…それらを素早く、全体主義と暴力のもとにはじき飛ばすのだ。

 幸運にも今日、全体主義を志向する者たちはたぶん、全てのアドバンテージを得るには余りに周縁の存在だ。今はワイマール帝国時代のドイツではないし…イスラムの過激な周縁的(フリンジ)勢力は、実体的な敵というよりも、未だにフリンジに過ぎない。そのことからも、我々は感謝すべきだ。なぜならもしも暴力的な周縁勢力がそれほど多くの萎縮や自己検閲を喚起できるならば、それは我々自身の制度のなかに充分な堕落があって、より強い敵がそれを破滅させられるかもしれない─ということを示しているのだろうから。
http://www.nytimes.com/2010/04/26/opinion/26douthat.html
CNNのビデオ
http://cnn.com/video/?/video/showbiz/2010/04/21/ac.griffin.south.park.threat.cnn

  





*Harlem Line(NYの郊外電車)からみたU-HaulのParking lot