Saturday, June 14, 2014

モスルの陥落・あるいは、偽の約束だらけの現代史 The Fall of Mosul and the False Promises of Modern History By Juan Cole 


モスルの陥落・あるいは、偽の約束だらけの現代史 By ホアン・コール(6/12. Informed Comment)

 過激派の「シリアのイスラム国(ISIS)」がモスルを陥落させたこの一件には、歴史的にも非難すべき幾つかの原因がある。モスルはイラク第2の都市で、大半の住民の避難のはじまる前の時点での人口は約2百万人(ヒューストンを想像せよ)だった。この冬、アルカイダとの同盟を意図していたグループが、ファルージャとラマディの一部を掌握したときには、それらの都市はより小規模で、重要さでも劣っており…ファルージャでは部族の長老たちが首相に対して、国軍を派遣して制圧したりはしないように…と説得していた。

 しかし(このモスルの占領に関してはそもそも─) G.W.ブッシュ政権にも、責任があるのだ─彼らはバグダッドがアルカイダに関与している、という偽証を行ってイラクに侵攻した─そんな関与など存在しなかったのだが。皮肉にも…イラクを侵攻して、占領し、弱体化し、略奪したことで…ブッシュとチェイニーは、アルカイダをその国に招じ入れてしまった。そして我々の生きている間に、アルカイダにその領土を奪取させた。

 ブッシュとチェイニーは、彼らが引き摺り倒したその国のシステムの再建には何ら、努力をしなかった。彼らは社会主義経済を破壊して、私企業や、商取引なども継承しなかった…そして、宗教や民族による分裂を強調するような選挙システムをそこに据えた。彼らは、2006年から2007年にかけての内戦勃発を煽り、2007年―2008年にはその沈静化が3万名の米軍増派によるものである、とも称した(それは余り、現実味のない主張だったが)。実際のところ、シーア派の民兵が地上戦で内戦に勝利して、バグダッドをシーア派優勢の都市に変え、多くのスンニ派(の住民)をモスルのような地へと追放したのだ…そこには、怒りが生じた。


 米国は、イラクに米軍を残留させるべきだったのだ…などという人々は、それがどのように起きたのかを知らない。イラクの議会は、それ(米軍の残留)には反対の議決を行った。2011年当時の議会では、そこにはそれ以外の展望はありえなかったのだ。なぜなら、イラク人にとって米国によるイラク占領とは震撼すべきことで、彼らは憤っていたからだ。…オバマ政権はイラクに再侵攻し、ボナパルト将軍がフランス人を扱ったようにイラク議会を扱うべきだった、というのか?

 モスルを堅持するためにバグダッドが直面する困難については、サダム政権(1979-2003)にもその責任がある─彼らは、世俗支配による戦略をつくり出して、スンニ派が優勢な中央/北部地域のバース党勢力に自らの基盤を置き、シーア派が優勢な南部というものを概して排除するか、または無視した…だが、今やシーア派はその戦略を逆転させて、バグダッド、ナジャフ、バスラを勢力の拠点にしているのだ。
 
 モスルでの状況の変化とは、クウェートや、サウジなどの湾岸産油国のスンニ派原理主義者らが彼らの富裕な資産を、無責任なやり方によって役立てた結果なのだ、ともいえる。過去数年のあいだ、続いた石油の高値(通常、1バレル100ドルを超える)とは何兆ドルもの金を湾岸に注ぎ込んだ。そうした金の一部とは、今でもオサマ・ビン・ラディンを崇敬し、彼の完璧なクローンのような者たちに、アレッポやモスルを支配させたい…と援助するような人々の手に渡った。米国の財務省が、ワシントンの好まない人々への金の流れを阻止できる…という誇張された能力は、ここでは機能しなかった…それは、つまりワシントンが事実上、シリアや、クウェート・シティのサラフィ主義の億万長者らと同盟関係を結んでおり─それらの両者が、バシャール・アル・アサドの政府が覆されてイランが弱体化することを望んでいた─ということなのかもしれないが(…それは、いまいち判然とし難い)。米国が深刻な負債に沈没して…湾岸諸国の台頭と、ソブリン・ファンド(国債)による資金というものが、リヤドと、クウェート・シティとアブ・ダビの地政学に大きなシフトをもたらして…彼らは、ワシントンの手からエジプトの内政や、外交政策をも買いとるようになった。彼らはさらに、シリアのサラフィ主義国家や、北部・西部イラクのサラフィ主義地域をも、買いとりそうな気配だ。

 それはまた、第1次大戦の戦中と、戦後の時期に獰猛な肉食性の植民地政策が潰えてから…両大戦の狭間の時期に恥知らずなヨーロッパの帝国主義者らが中東に群がって、国際連盟に対して約束した筈の同地域の諸国の独立を認める代わりに、石油などの資源と戦略的な利益を漁った─という行為にも、責任がある。



 第一大戦中に英国は、異なる相手に対して様々な異なる約束を行い…英国外務省がシリアを仏領化する、といいつつも、カイロの英国アラブ局は同時にシリアをメッカのシャリフであるフセインに与える、とも約束していた。アラブ局はイラクをも彼に与えたいと考え…ニューデリーの英領インド植民地の政府もそう考えた(彼らは、イラクの支配権というものを、パキスタンの一地域の支配権とも同レベルに考えていたのだ)。



 戦況が変わって、オスマン・トルコの瓦解が確実になると、フランス人は石油の富を有するモスルをシリアの一部である、とみなしたがった。ニューデリーとカイロの英国人らは、それがイラクの一部となるべきだ、とも論駁した。



 英国の首相、ロイド・ジョージがフランス首相クレマンソーとベルサイユで会談したとき、彼はモスルの領有を主張するフランス人らの主張を退けたかった。英国人とそのアラブの同盟者らとはまた、オスマン・トルコからダマスカスを奪っていたが、同時に1916年のサイクス・ピコ条約を無効にするよう主張する者たちもいた。その場には、ウッドロウ・ウィルソン米国大統領も加わっていたが─彼は、旧植民地諸国の民族自決というものを望み、帝国諸国によるそれら諸国の奪取を望みはしなかった。クレマンソーは、キリストとナポレオンの間に挟まれているように感じる、と述べたという。


 ロイド・ジョージがクレマンソーに会ったとき、クレマンソーは、ロイド・ジョージに対し、「何が欲しいか?」と尋ねた。そしてロイド・ジョージは、「モスル」と答えた。クレマンソーは同意し、「そのほかには、何が?」と尋ね、そして、ロイド・ジョージは、「エルサレム」、と答えた。「貴方は、それを手にできるだろう…」。─その言質と引き換えに、フランス人はシリアを確保した…しかしそれは、ロイド・ジョージが、当時(モスルの石油資源獲得をもくろんで)ダマスカスに居たシャリフ・フセインと、その息子、ファイサル・フセインを裏切ることを意味した。後の日に、ロイド・ジョージは、クレマンソーから、これほど容易にこうした恩恵を獲たのだから、もっと多くを要求すればよかった、とも感じていた、という。  
 英領イラクはモスルをも統合して、ファイサル・フセインをその領主に据えた(フランス人は彼を…輸入した君主を据えるように、ダマスカスから唐突に赴任させていた)。その状況とは、英国人が、オスマン・トルコの旧体制のスンニ派のエリートたち(トルコにおいて訓練を受けていた)の助力をも得ることを許した…そして。この戦略は、イラクにおいて、貧農の人口が多く小規模な町の多いシーア派の南部を、疎外する結果をもたらした。これらの都市が、何らかのトラブルを起こせば、RAF〈英国空軍〉が即座に空爆したが、そのことは、英国の国民には伏せられており…それが大衆に知られると、RAFは困惑した。

 手に負えないシリアの支配のために、フランス人は、アラウィ派やキリスト教徒などの宗教的少数派の支持を得て、「引き裂いて〔分割して〕統治せよ(divide and rule)」の実践というものを模索した。アラウィ派の小農民らは、植民地宗主国の軍隊に喜んで参加した(誇り高いスンニ派のダマスカス人たちは、 しなかったことだが)。そして、軍事的な専制主義が植民地後の中東を乗っ取っていた時期に、アラウィ派はシリアを奪取しやすい位置に居り…彼らはそれを1970年代に実行したのだ(*軍人ハフェス・アサドがクーデターでシリアの権力を握った)。


 ヌーリ・アル・マリキ首相は、北部のナショナリストのスンニ派とも手を組むことでのみ、イラクを取り返すことができるだおろう。さもなくば彼にとっては、シーア派の軍隊や兵器、空爆によって暴力的にその街を占領するしかないのだ…それは彼を、隣人のバシャール・アル・アサドのようにもみせることになる。

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