Tuesday, January 3, 2012

中東イスラム主義テロリストの起源とは?*アラブのコンテクスト Middle Eastern Islamist Terrorism - By Jamal R. Nassar



カリフォルニア州立大のジャマル・ナッサール教授がイスラム過激派のルーツを解説-!!
アラブ・ムスリムの視点によるそのストーリーは、西欧人の解説とはニュアンスが異なっているようだ…
 
〔要約  ナッサール教授は著書『グローバリゼーションとテロリズム』の第5章、「イスラム:その教え・貢献・そして衰退」の冒頭において、7世紀アラビア半島の副産物だがユダヤ教・キリスト教のストーリーともよく似た"イスラム教"のメインストーリーを紹介している〕

 ─マリアに処女懐胎を告知した天使ガブリエルが洞窟で瞑想するムハマッドの許にも現れ、エデンの園を追われた人間の子孫たちを神の道に戻すようにと神のメッセージを伝えた─それがイスラムの始まりだった。イスラムの神Allahとは、キリスト教のGodをアラビア語訳したものにすぎない。コーランは神が遣わしたアブラハム、モーゼ、イエスの3人の重要な預言者についても詳しく描写している。キリスト教やユダヤ教とは異なり、イスラムは当初から「成功の物語」として預言者の存命中に急速に発展し、コーランのメッセージは100年のうちにアラビア半島から遠隔の地インドネシア、スペインにまで遍く伝えられて巨大なイスラム帝国を創り上げた─


  ユダヤ教とキリスト教の特徴を伝承しつつ、イスラムはそれに修正を加えた。その修正がイスラムにアラブ的な特徴を与えたのだとナッサールはいう。礼拝の中心地はエルサレムから、既にアラブの異教的な礼拝の中心地だったメッカへと変更され、安息日はムハマッドが最初の成功をおさめた金曜日とされた。


  イスラムのグローバル化はアラブの最も偉大な歴史的達成だったが、初期のムスリムがビザンチン帝国により征服されたのように、多くの場合にアラブは破壊されずに吸収された。イスラム学者らは、古い知識を9-10世紀の文明に転化して後の世界文明の発展に貢献した。代数学では現代文明に不可欠な小数点や数の表記をもたらし、薬学ではヨーロッパ人が病気治療に未だ魔術を用いていた頃に病院で外科手術を行い、科学では物理学と元素を教えた。哲学ではアリストテレス、ソクラテス、プラトンの知識を暗黒時代のヨーロッパ人に伝授した。ローマ帝国の最も偉大な時代と同様に、アラブ-イスラムの貢献なしにルネッサンスはなかった。その後帝国は何百年も継続し拡大したが、指導権は13世紀の末に、やがてオスマン帝国を率いる者の手へと渡り…19世紀末にはオスマン帝国は衰退しその領土を西欧帝国の拡大から守り得なくなったという。

 ─近代に入って西欧との文明的進歩の落差に気づいたアラブ世界に思想運動が勃興した。ナッサールはグローバリズムに翻弄される弱小国家には、「夢の転移 (Migration of Dream)」が蔓延しがちだと論じる(つまり、第三世界の人々が抱くグローバリズムや進歩への夢が、先進的な強国による抑圧、恐怖、国家テロ、戦争によって悪夢に転移していくという)

 アラブ人と今日の中東 The Arabs and the Contemporary Middle East  

 何世紀にもわたるイスラムの成功は、アラブ人たちに現代的な運命への準備をもたらさなかった。19世紀までにイスラム社会は、ヨーロッパ社会より、明らかにはるかな遅れをとっていた。ヨーロッパ帝国は軍事力で優位に立ち、中東とアラブ世界を植民地システムを通じ従属化した。敗北と迫害への抵抗が余儀なくされた初期の宗教と異なり、イスラムは大成功と勝利と共に始まり、その歴史的経験は勿論コーランが神の最終的な顕現だと保証しているようにみえた。この偉大なる歴史(への認識)は、西欧に対する従属的関係を受容れ難い近代のアラブ人たちにジレンマをもたらした。

 アラブの思想家たちの中には、19世紀に宗教の社会に対する関連性に疑問を唱え始めた者らがおり、こうした問いかけの中から3つの顕著な思想的な派閥が勃興した。これらの3つの派閥すべては、今日でもなお存続する。こうした思想の影響は宗教やそれを超えた出来事に彩りを与えている。そして、アル・カイダの源流は、この時代における知的な論議へと辿ることができる。その本質において1つ目の思想的派閥はイスラムを近代に適応させるよう主張していたが、もう一つの派閥は人々が「イスラムのオリジナルな教義と実践」とみなすものへの回帰を主張し、3つ目の派閥はイスラムを政治的な事柄からは一切引き離すことを求めていた。
 
 こうした派閥の初めの一派である革新主義(リフォーミスト)運動とは、Jamal al-Din al-Afghani(1897年没)とMuhammad Abdu(1905年没)の発案物だが、この両者は共にカイロのAl-Azhar Universityで教えるエジプトの知識人だった。Al-Azhar Universityは長い歴史のあるイスラム研究の主要な中心地で、その創立はイスラムの黄金時代の西暦910年に遡る。Al AfghaniとAbduは、イスラムの基盤は依然として健全さを維持しており近代のストレスの許においてもサバイバルしうる、と信じていた。彼らはイスラムの、知的エクササイズとしての解釈を主張した。言い換えれば、彼らはイスラムの教え方に、より近代的な解釈をとり入れることを提案した。al-AfghaniとAbduはエジプトで幾らかの影響力を持ったが、彼らの考え方は権力の座につかない知識人グループの内に留まった。しかし彼らの思想は20世紀の初めにal-Salafiyyaと呼ばれるエジプトのIslamistの一派に影響を与えた。未来のAl Qaedaのメンバーの幾人かは、彼らの思想的なルーツがこの初期の改革運動に遡るとしている。

 2つ目の思想の波は、2つの顕著な運動として現れた。そのうちの1つはアラビア半島で、もう1つはエジプトで始まった。2つの運動は大きく異なっていたが、共に多くの人々が「正しき(proper)」イスラムとみなすものに帰ることを唱え、信仰復興(リバイバリスト)運動とも呼べるものだった。イスラムの”清教徒”と言われるWahhabi学派は、イスラムとはシンプルなものであり、人々がその教えに則って行動すれば近代社会の発展の最中でも生き延び、発展できるものとみなしていた。その学派の父Muhammad Ibn Abdel Wahhab [1703 – 1792]は、預言者ムハマッドの時代のイスラム信仰の実践(practice)への回帰を主張した。そしてWahhab派の教えは、Abdel Aziz Ibun Saudという擁護者を見出した──彼は、アラビア半島をWahhabの旗印の許に彼のリーダーシップによって統一することを試みた。1920年代までにSaudは、大方の地域で彼の王国を設立し、そこでWahhab派の教えを強要した。Saudi Arabia王国は引き続き今日に至るまで、保守的なWahhabiの思想を(国民に)強要している。

 Hassan al-Bannaという名前の高校教師は、エジプトの信仰復興(リバイバリスト)運動を創立した。Al-Bannaは、商業活動や社会的福祉、教育、また身体的な健康の維持(フィジカル・フィットネス)においてもイスラムの教えの適用を唱える、純粋な宗教的一派を創立した。1928年の初めにal-Bannaはこうしたプログラムを実践するためムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)を設立した。同胞団はそれらの多くのプログラムを開始し、そのなかにはcooperatives(協同組合)、学校、スポーツクラブ、軍事教育プログラムさえも含まれた。
ムスリム同胞団の創始者 Hassan Al-Banna
同胞団は、無知とは反イスラム的なもので、よきムスリムは教育を受けねばならない、と強調した。1936年に、同胞団は英国・パレスチナ間の紛争での彼らの役割において──特に彼らが、英国の植民地主義者とシオニストの計画の脅威からパレスチナ人たちを助けるべく、パレスチナにボランティアを送った事で注目を浴びた。そうした動きは、同胞団のパレスチナでの支部の勃興に貢献した。この同胞団の支部が、1987年にパレスチナにおけるイスラム解放運動(Hamasとして知られる)の結成を宣言した。さらに、多くの他のアラブ諸国でも、同胞団のその他の支部が設立された。Al-Banna自身は、彼の仕事のこうした結実を目にする程、長くは生きなかった。彼はエジプトの秘密警察によって1949年に暗殺された。彼の運動の多くの継承者たちは、今日のエジプトでも勢力をなしている。1981年にAnwar Saddat大統領を暗殺したとされる者も、彼の追随者の一人だった。

 改革主義者と信仰復興主義者たちがイスラムの教義に基づく社会を主張する傍ら、そこには世俗的ナショナリズムを唱えるその他のアラブ人たちもいた。アラブ世界の政治をその独立時から支配するのはこうした世俗的ナショナリストらである。世俗的ナショナリストたちとはエジプトのGamal Abdul Nasser、シリアとイラクのバース党主義者、アラブ諸国が西欧植民地勢力から独立して以来権力の座にある多くの王族や大統領らに代表される。 

Hassan Al-Bannaと群衆
こうしたナショナリストらは、アラブのHomeland(故郷)の統合を主張した。彼らは、近代的なアラブ国家とは人工的なもので西欧諸国がアラブを分裂させておきたい欲求を反映したものだ、と論じた。バース党の創立者のMichel Aflaqのようなナショナリストは、アラブ人が一つの国家として結束しない限り、植民地主義とその影響からの自由は達成できないだろうと主張した。イスラエルがアジアのアラブ人たちとアフリカのアラブ人たちとを分離させている限りは、その統一は不可能なのだ。

 社会主義とは、ナショナリストのアジェンダのいま一つの構成要素である。それはしばしばNasserism(ナセル主義)とも呼ばれる。アラブの社会主義とは封建制度を終わらせるための土地改革、健康医療福祉や教育・交通輸送の社会的プログラム、すべての天然資源の国有化を課すものだ。ナショナリストのアジェンダはその初期には幾つかの成功を収めたが、多くの挑戦にもみまわれ、失敗したという認識に導かれた。ナショナリストの世俗的リーダーシップには、ヨーロッパとアメリカの政策立案者からの攻撃が常に絶えなかった。経済の自由主義的解放は一層のセットバックを生み、そして対イスラエルの戦争における失敗が、ナショナリスト勢力への本質的不信感をもたらした。

イスラム主義者よ、団結せよ Islamists Unite  

 ソ連が1979年にアフガニスタンに介入した際、アメリカはそこに幾つかの顕著なゴール達成の機会をみた。まず第一にアメリカは、ソ連がベトナムのごとく泥沼化する状況の創造を望んだ。二番目に彼らは、ソ連の共産主義に対するイスラムの統一的前線の創成を望んだ。その実行のため米国CIAはイスラム諸国の全土からアフガニスタンの戦線にボランティアを募るリクルートを始めた。結果的に、エジプトとその他アラブ諸国のムスリム同胞団に連なるボランティアたち、または少なくともWahhabi派の系統のボランティアたちからの思想的傾注が得られた。この二つのアラブ・イスラム主義の思想的派閥が、パキスタンと少なくともアフガニスタンの前線において一つの運動のために統合された。この時が即ち、ジハード(holy war)という概念が、武装した汎イスラム的なテロリストの国際的運動として生成された時だった。

 アフガニスタンでの闘いの中でエジプトの主導的イスラム主義者で医師のAyman Al-Zawahiriは、Saudiの裕福なイスラム主義者Osama Bin Ladenに出会った。彼らを結びつけたものはイスラムの人々と彼らの国土の外国による占領からの「解放」、という共通目的だった。CIAは30億ドルを投じ、ライフルやロケット・ランチャー、地雷やその他の武器を、40以上の国々の出身の10万人以上のムジャヒディーン、またはイスラム戦士に供与した。彼らがCIAから受けた武器や訓練とは顕著なもので、優勢なソビエト軍に対する彼らの勝利を可能にした。最後には何千ものアフガン人・ソビエト人の兵士らがこの紛争で死亡した。ムジャヒディーンたちが行った拷問の効果のみならず、アフガン人人口の半数は身体的な障害を負い、住む家を失い、あるいは死亡した。

 ゲリラ戦術とは、アフガニスタンにおけるムジャヒディーンらの戦術だった。多くのムジャヒディーン兵士が優勢なソ連軍の前にその命を失った。こうして、ゲリラ戦術はその性質において自殺的なものとなった。ゲリラ・ミッションは自爆ミッションへと形を変えた。しかしジハードにおいてはムスリムの解放のため死ぬことが英雄的行為として正当化された。そして未来の自爆テロリストたちが生まれた。彼らはアフガニスタンの英雄となり、世界の多くの国々で、ムスリムの若者たちに起きた夢の転移(migration of dream)となった。

 PDP(People's Democratic Party:ソビエトのアフガン侵攻時のアフガン政権)の奉じた進歩的なプラットフォーム(政治要綱)とは、女性の永久的な従属化を命じるイスラム主義者のイデオロギーに対しての、根本的な脅威だった。ソビエトによる占領期や、その以前にも、アフガンの女性の人権はその他のいかなる歴史的時期よりも保護されていた。過去のタリバン政権や今日の北部同盟による支配期とも異なり、PDP政権の時期にはアフガン女性らは多くの欧米の女性たちの享受しているのと同じ人権を謳歌していた。アフガン女性たちは、カブールや他の都市をブルカに隠れることなく歩き、車を運転し、デートに出かけ、高い識字率を達成し、大学に通い、農業やエンジニアリング、ビジネスなどの分野を学び、専門家として企業や政府で働いた。そうした権利はタリバンと北部同盟の戦争領主による深刻な挑戦を受けるものだ。

アル・カイダ Al Qaeda


 アル・カイダはアフガニスタンでの闘争のなかから生まれたが、そのルーツは何十年も前に遡った。古いリバイバリスト(信仰復興)主義の幾つかの思想が混合することで、新たな、より軍事的な形態のリバイバリスト思想が生みだされた。彼らのアフガニスタンでの成功と、その闘いの結末において裏切られた─という感覚が、新たな組織とその活動家たちの感情を鼓舞して、彼らに新たなる闘争への動機をもたらした。

 Abdalla Azzamという名のパレスチナのムスリム同胞団の活動家が、アフガンでの闘争にむけて、1979年にOsama bin Ladenをリクルートした。Bin Ladenは、同様にリクルートされた他の者たちと同じく、アフガニスタンでの共産主義との闘いへの熱意を抱いていた。しかし他の者たちとは異なり、彼には個人的な富とサウジアラビアのエスタブリッシュメントとのコネがあった。Al-Zawahiriはエジプトから、1980年にアフガニスタンに来た。彼はすぐにbin Ladenと出会って、友人となった。Bin Ladenは、医学博士の学位を持つ彼のことを"the Doctor"と呼んだ。アフガニスタンでの紛争の間にal-Zawahiriは、こうした傷ついたムジャヒディーンらの命を救う仕事に従事した。その頃、bin Ladenは彼の昔のリクルーターであるAzzamと袂を分かち、al-Zawahiriを含む新たなエジプトの友人らと親しくなった。こうした者たちとはIslamic Jihadの活動家やリーダーらだった。彼らのグループは1981年に、エジプト大統領Anwar Sadatを暗殺したグループでもあった。エジプトのIslamic Jihadはムスリム同胞団のメンバーから生まれ、その国の世俗的リーダーシップとの武装闘争を主張していた。

 Al Qaedaは1988年、ソビエトがアフガニスタンから撤退する前年に、オフィシャルに設立された。その計画にはパキスタン、アフガニスタン、エジプトなどのムスリムが国民の多数派を占める国々での世俗政権の転覆と、イスラム政権の樹立が含まれた。しかし彼らの目下の闘争とはアフガニスタンやカシミール、パレスチナなどの地における外国占領勢力からのムスリムの保護とならざるを得なかった。時にそうした闘争はソマリアやチェチュニア、ボスニアなどの他の地域に広がった。しかし米国がクウェート解放のためサウジアラビアに兵力を送った際には、サウジの米軍からの解放がもう一つの主要目的となった。米国と英国がイラクを占領した時には、イラクの解放がまた、もう一つの仕事の動機となった。
 
 Al Qaedaの反米イデオロギーは、中東での米国支配に挑戦するという意味では、オリジナルなものではない─それは、この地域の数多の者らに共有される。その組織の最も目だった特徴といえば、彼らが米国の領土内においてテロ攻撃を行うことへの決意─それは9・11以前には多くの米国人の誰にも想像できなかったことだった。それは別にしても、bin Ladenブランドのイスラムとはイスラムの一つの解釈にすぎず、そしてそれは、中東の多くの国々で広く受け容れられるものではない。Bin Ladenとal Qaedaの、サウジやイラクや他の中東諸国政府の転覆と「正しき」イスラム主義政府の設立への関心は、政治権力を握るための組織的な主要目標として強調されている。そうした野望は、"邪悪な帝国"と戦いアラーの秩序を地上に実現する、といった利他的意図からはほど遠いもので、bin Ladenとal Qaedaの他のメンバーらの関心とは、彼らの反動的な政治的・社会的アジェンダの実践のために絶対的権力を打ち立てることだ。その組織は、彼らの価値観と、彼らにとっての"正当な"世界秩序の概念の実現を強要するため、非武装の人々に対する弁護の余地のないテロ攻撃という方法をとる。
 
 アフガニスタンで、ボランンティアのムジャヒディーン(イスラム聖戦士)が米国の支援を受けていたのに対し、湾岸戦争後のサウジアラビアでの米国の基地建設や、パレスチナ紛争における米国のイスラエル支持、そしてチェチェン紛争での米国の沈黙は、bin Ladenとal Qaedaの彼のエジプトの友人らを憤らせた。そしてその闘争が、いまや米国へと拡大すべきものと看做された─それはエジプトの一団が長い間要求してきたことだった。BinLadenに、米国に対するこうしたキャンペーンを開始させた動機とは、湾岸戦争以降に、米国に裏切られたとの感覚だった。米国はムジャヒディーンへの支持を取りやめ、さらに悪いことに、パキスタン、サウジ、エジプトに彼ら(反体制勢力)とそのアヘン交易を弾圧するよう圧力をかけ始めた。アフガニスタン紛争を通じて、アヘンはムジャヒディーン戦士らの主要な支えだった。いまや米国はその支持を取り下げるのみならず、彼らの生命線を絶とうとした。さらに、bin Laden自身の国、サウジの政府は米国を招いて、その国土内に多くの米軍基地を建設させた。預言者ムハマッドの国がいまや超大国の軍に「占領された」こと、それは世界の多くの地域のムスリムたちを抑圧するようにみえた。

 Al Qaedaはソビエトとの闘争を米国とのものに置き換え、そこで他の方法で暴力を行使することに再度フォーカスした。ゲリラ戦術はいまやグローバルに到達するものとなり、そのターゲットは軍事的目標のみならず経済的、外交的なものを含み、1993年の世界貿易センタービルへの攻撃では、6人の犠牲者と1000人以上の負傷者を出した。米国はアフガニスタンのAl Qaedaの拠点と、スーダンにおいてbin Ladenに関連あると思われるターゲットをミサイル攻撃した。ここに戦争は開始された─ (後略)

  Dr. Jamal R. Nassar "Globalization & Terrorism: The Migation of Dreams and Nightmares," Ch.5 'Middle Eastern Islamist Terrorism' (Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 2005)   -  Courtesy of Dr. K.Marrar 

★イスラム過激派と冷戦時代のネオ・コン、CIAとの近しい関係を描くドキュメンタリー=BBC「ザ・パワー・オブ・ナイトメアーズ」
-BBC "The Power Of Nightmares Part 1of 6:Baby it's Cold Outside”
http://www.youtube.com/watch?v=eOlwbaPe2os


 "イスラミスト対CIA" の歴史を暴くこのドキュメンタリーは「国家権力による国家テロや帝国主義的勢力と対立する民族主義者等による過激なテロは、古今東西のグローバリゼーションの不可避な副産物だ」と説くジャマル・ナッサール教授のラディカルな見方とも呼応するかのようだ 「Part 1 」は1970年代に米国に留学したエジプト人サイード・クトゥブが、米国文化の堕落退廃に大きく失望して、ナセル大統領の親米政権にのっとられた故郷エジプトで反米的活動家となる経緯を追う。


ナセル政権下のムスリム同胞団への体制による弾圧と拷問のシーン(再現映画)も挿入される。ナセル大統領暗殺の容疑者として逮捕処刑されたクトゥブは医師アル・ザワヒリ等の後継者の思想的シンボルとなって今日のアル・カイダの誕生に影響を与えたとか。 (同胞団会員のザワヒリも当時容疑者として刑務所なかまだった)


  このドキュメンタリーではアル・カイダとは元々、組織として存在せず米国人のファンタジーだといっている。1993年の世界貿易センタービル爆破事件の際に米国の弁護士らが訴訟相手の組織としてでっち上げたのだとか。  
                                                       
Sayyd Qutb in Egyptian prison
 The Power Of Nightmares Part 2
http://www.youtube.com/watch?v=kKjzxxbkRH4&feature=related
Part 3~6は同page