Monday, September 6, 2010

モスクを脅すマウマウ団?/Mau-Mauing the Mosque- The dispute over the "Ground Zero mosque" is an object lesson in how not to resist intolerance.- By C.Hitchens


モスクを脅す、マウマウ団?
「グラウンド・ゼロ」のモスク論議…それは非寛容に対しては抵抗しない、という実例だ
By クリストファー・ヒッチンズ (8/9, Slate.com)


 

 ローワー・マンハッタンの「グラウンド・ゼロ」の地へのイスラム・センター建設に関する論議はいま、2001年9月のあの酷い日の記憶と、その犠牲者たちにとっては本当に恥さらしともいえるほどの、ばかばかしいレベルへと沈み込んでいる。そのモスク、あるいはマドラサとは、崩れたタワー群のあったその場所かあるいは、かつて一度は巨大な墓場であった場所の物質が粉砕されたその真上に提案されている、と誰もが気づくだろう。(実際、我々がこの十年来、その場所でできたことというのは、殆ど何の建築的な進展もない、巨大な、騒音に満ちた汚い穴を創ってきたというだけなのだ。たぶん、このコルドバ・ハウスの提案というものの相対的なスピードの素早さに対する反感は、このローカルかつ、全米的な不面目さに対する戸惑いというものが無意識にもたらしている副産物なのだろう)

  私には、コルドバ・イニシアチブやその運営者たちに、特に好感をもっている点などない。そこの噂のイマームであるFeisal Abdul Raufは、過去に、あの新奇な残虐事件について多くのいかがわしい、ぞっとする発言をしてきたそうなのだ。9月11日の少し後に、彼は"60Minutes" (CBSのinterview番組)に対して「私は、米国がこのような事件が起こることに相応しかったとは言わないが、しかし米国の政策はこのような犯罪のアクセサリーとなるものだった」、と語り、またこうも付け加えた、「もっとも直接的な意味で、オサマ・ビン・ラディンとはメイド・イン・USAなのだ」、などと。そしてもっと最近では、彼は人種差別主義と全体主義を奉ずるハマス党に対し、それよりも厳格ではないテロリストという罪名をきせることをも断った。我々には、そのような捻じ曲げや婉曲表現、言い抜けをする者たちというのはお馴染みだ…彼らの主張の多くが、生焼けの世俗的なキリスト教徒のスポークスマンによって繰り返されていることで。広く拡大している文化的な萎縮の感覚というものは、人々に、何が本当の事なのかへの挑戦を水で薄めるためには、Raufのような「穏健派」と付き合うのがよいだろうと、半信半疑で信ぜよと、駆り立てている…だが、平和と静けさを得たいのならば、コメディ・セントラルに自らの放送番組への検閲をさせるとか、米国中のプレス・メディアにデンマーク製のマンガを掲載しないように拒絶させたらどうなのだろうか? (*関連記事:サウスパークでも駄目? -
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2010_04_01_archive.html


 このようなことには、降伏をせず継続して戦い続けるべきなのだ。しかしここには、それに対してまさに、いかに抵抗しないか、という課題ばかりがある。例えば、広くメディアに流れた、名誉毀損防止同盟(Anti-Defamation League)の全米ディレクターAbraham Foxmanの見解をみるがいい。コルドバ・ハウスに反対するこうした9月11日の犠牲者の遺族たちを支持して、彼は「ファイナル・ソリューション(ナチのユダヤ人虐殺政策)」との愚かしい喩え話までして、こう言った、ホロコーストを生き延びた人々と同じように、「彼らの苦悩というものが彼ら自身に、他の人々からみたら非理性的だとか、頑迷だとかいうような立場に立つ資格も与えるのだ」と─ (*関連記事: http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2010/08/debate-heats-up-about-mosque-near.html
グラウンド・ゼロ・モスクへの議論がヒートアップ)
 この割れたしわがれ声は、Newt GingrichとSarah Palinによっても引き継がれて…彼らはこれに加えて911の遺族でもない何百万もの米国人の抱く感情を彼らが腹話術によって代弁している、と主張した。このことは、通常は感傷に陥らないWeekly Standard紙の社説にさえ影響を与え、同紙は米国人の大多数が3対1の割合でコルドバ・ハウスを”侮辱的”だ、と考えているということを根拠に、オバマ大統領がそれを非難するべきだ、と求めた。

 このような半分感傷的で、半分悪意ある扇動のためのアピールに関しては、どう言ったらよいのだろう。それはモスリムが文化的な脅迫行為をしている、という芝居の脚本のストレートな引用なのだ: あるものが「侮辱的」だと呼び、そしてそのような仮定自体が、自動的に論議になったかのように見せかける。あなたはFoxmanの唱えたように、(単純に)怒りを発する事は「非理性的で頑迷」な立場だ、とも認める。しかし─ほら、彼らがそんなことを感じるというときにどうして物を考えられる?その、911の遺族たちが抱いているという「感情」というものを理由に、すでに我々の全てからテロ攻撃の際にリアルタイムで撮られた映像を見られる機会も、奪い去られた─それは、純粋な怒りの記憶の維持には、どんな落ち着き(覚醒的な態度)が必要かに対して大衆的な感覚が鈍くなることへの巨大な譲歩だ。そして今や、インスタント式世論調査の示した多数派に、余計な特権が付与されねばならなくなりそうだ。それだけでなく、大統領までそのオフィスを宗教的建築の建設の可否を決めるのに使わされそうになっている。

 First Amendment(憲法の修正第1条項:信教の自由と言論の自由)の精神や文面、または「Wall of separation(W.ジェファーソンの言葉、政治と教会を分離する壁)」の原則から、これほどかけ離れたものはない。Foxmanはその一貫性のない声明のなかで、もしもコルドバ・ハウスが「一マイル先」に建設される予定ならば問題はなかったなどと指摘した。彼はその敷地の古いビルには、すでに近隣のMasjid al-Farahモスクから溢れた人たちが住み着いていることを知らなかったようだ。

 私は、コルドバという名前を選んだことすら、このもくろみに反対するキリスト教徒たちの幾人かを立腹させたと知った。イスラム教徒が南スペインを征服して以降、このアンダルシアの素晴らしい都市はいうまでもなく、失われたイスラム宗主国カリファテの首都として、今日のジハード主義者たちが再興をその血に誓っている地だ。そしてカトリック教徒によるのレコンキスタの後、そこでは宗教裁判の創始者たちよってアラブ人とユダヤ人による全ての影響は拭い去られてきた。しかしこうした二つの帝国主義の合い間に、その都市はまた、Averroes ibn-Rushd とMoses Maimonidesの名前を最も想いださせる驚くべき文化的な統合都市になった(そのテーマで書かれた最良の本は、María Rosa Menocal'の“The Ornament of the World”だ) ここでは哲学と医学、そして建築が開花し、何よりもアリストテレスの仕事を復興した。我々は、この高貴な名をローワー・マンハッタンのプロジェクトのために借用する者たちには良き信念があると自動的に仮定することはできない。そこには、資金の調達元やその教育プログラムの内容の透明性に関する保証が求められる。しかし、そうした申し入れに応えるには、批判的な眼による精密な検査と関与が必要で、安っぽい郷党心(地方根性parochialism)や被害者学(vincimology)、不合理さ(無秩序さ、unreason)などに訴えるべきではない。
http://www.slate.com/id/2263334/pagenum/all/

*Mau-mauは英語で「脅す」の意味に使う…1960年までに鎮圧されたケニアのMau-Mau団が語源?その昔日本の子供向けTVアニメにもよく登場していたのでは…?
“Mau Mau Uprisingは、英国の植民地だったケニア(英国領東アフリカ)で1952年から1960年に起こった民族主義的独立運動。ケニア最大民族であるキクユ族を中心とする人々がケニア土地自由軍(KLFA)を結成し、1952年から各地の白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃した。軍事的にはこの襲撃は失敗に終わったが、結果としてケニア独立を早めることとなった。「マウマウ団」はこの結社に対する英国側の呼称<Wikipedia>