Saturday, September 19, 2009

パンナム機爆破事件(1)/Colonel Gaddafi: with friends like these...  By Damien McElroy


世界の退け者から、新たな存在感を回復したリビア?
カダフィ大佐は、クーデター40周年の祝賀行事を派手に打ち上げた

カダフィ大佐…こんな奴らが友達?
西欧とのデタント新時代のリビア、その40年来の専制的リーダーは変わらない  (8/31、The Telegraph, UK)


 1969年9月1日の明け方、Muammar Gaddafi大佐はリビアの君主政に対し、クーデターを起こした。そのカーリー・ヘアと男性的風貌で、27歳のGaddafiは自分自身をアフリカのチェ・ゲバラになぞらえていたが、ゲバラと異なり、彼は自分が失敗する可能性にも備えていた。彼はラジオでその最初の声明を読み上げたとき、彼のターコイズ・ブルーの…ナンバープレート23398 LBのフォルクスワーゲン・ビートル…を素早く逃走できるよう、傍に準備していた。

 しかし、予測されたクーデターへの反撃はなかった。ボスポラスで遅い夏を楽しんでいたIdris王はイスタンブールに留まり、彼の王室のCyrenaicanの護衛たちは、兵舎の内部にひき籠り続けた。ボリビア軍により拘束されて処刑されたアルゼンチン・ゲリラたちと同じ運命を辿るかわりに、Gaddafiは国際的にも有名になった─あるいは、より正確にいえば、ロナルド・レーガンを挑発した砂漠の狂犬 "Mad Dog" として悪名高い存在となった。
 
 その若き革命家は、過去40年の間も数多くの象徴的な化身を演じてきたが、彼はその熱意や、華麗なけばけばしさを少しも失っていない。彼が今日もその典型的な過剰なスタイルでイスラム社会主義共和国の建国を記念するとき、Gaddafi はまるで、その多額の財産のお陰でエキセントリックな奇行が容赦されている叔父さんのようでもあるし、または批評家たちが言うように、北アフリカの最富裕国でその国民を未だに絶望的な貧困にさらし続けている、気のふれた専制君主のようでもある。
 
 Gaddafiの同僚であるアフリカ諸国のリーダーたちとは異なり、世界の、他の国々のリーダーたちは首都トリポリでの気前のよい祝賀行事に出席しなかった。先週、エリゼー宮を訪れていたクレムリンのスポークスマンも、彼らの主人らは行事に出席する予定を立ててはいないと丁重に断っていた。しかし、リビア人たちが、世界が彼らのリーダーの虜だ、と信じているのを阻むことは難しそうだ。建国記念行事の直前になされた、Lockerbie事件の爆破犯Abdelbaset Ali Mohmed al Megrahiの、スコットランドの刑務所からの釈放というのは、Gaddafi大佐の重要性と彼のマニピュレーターとしての衰えなき能力の証明を、この上なく吹聴した。彼らが国際社会の圧力のもとで彼の裁判権を譲渡したとき、人々の"brother leader"であるGaddafiは人々に対して、Megrahi とその仲間の容疑者al Amin Khalifa Fhimah(*有罪宣告された人物) が国へ帰ることを保証した。いまや、その悔いなき大量殺人者は死を迎えるために故郷に帰り、リビアの政権は勝利に沸いている。

 しかし病気で衰弱した男の釈放は、世界的なリーダーとして認知されることを望む専制君主にとって奇妙な栄冠ともいえる。彼の最初の冒険(賭け)とは、毛主席をまねて、彼のグリーン・ブック(「毛沢東語録」風の小さな手帳)を発行し、議会への国民の参政権なしに打ちたてた民主主義(人々が組織する議会内の委員会が国政を管理する)という、複雑な政治理念の概要を記載したことだった。サダム・フセイン同様 Gaddafi もまたフィクションに手を染め、15編の小説を書いた──そのうちのいくつかは、ピエール・サリンジャー(元ケネディ大統領のスピーチライター)も巻き込んだ。しかし、彼とイラクの専制君主との主な類似点とは、Gaddafi が常に、彼の国が備蓄する石油が生み出す富を投入して虚栄心にあふれた政治的手腕を揮い、無感覚で残虐な行動によって自身の策謀に資金を提供したことだ。そのために提供された現金は1兆ポンドを超えると推定され─未着手の資金もあるが─パレスチナからフィリピンのならず者分子の革命運動に対する資金を提供してきた。そして、トロール漁船にアーマライト式ライフルとセムテックス爆弾をのせてIRAにも送り届けた。リビアの高官たちは国内でも海外でも、凶悪な(殺人者の)免責権をもちいて行動した:1984年のリビア大使館員によるロンドンの女性巡査 Yvonne Fletcher に対する狙撃事件で、だけでなく。

 テロ国家としてのその名がもっとも高まっていたとき、リビアはシリアやイランとともに"Axis of Evil" (悪の枢軸)の原型の一部でもあった。西欧の諜報機関によれば、「イランがその攻撃を考案し、シリアがそれを計画し、そしてリビアが実行に移した」、ということだった。そうしたミッションのうちのひとつは1986年の、米兵たちがよく通っていたベルリンのナイトクラブの爆破事件だ。レーガン大統領はそれに対し、英国にいる米国の工作員たちにトリポリをターゲットに爆破を行うようにと指令を発した。Gaddafi大佐の基地に対する攻撃で、彼の養子縁組による養女だったHannaがなくなった。専制君主はこれに激怒し、1988年の12月のじめじめした寒い朝にLockerbie上空を飛行していたパンナム航空の103便を破壊し──これにより270人の人々が死んだ──これは彼の復讐的行為だという人々がいた。また、ベルリンでの事件と同じくこれはイランとシリアが行った可能性がより強い、という人々もいた…なぜなら米国がその数ヶ月前に湾岸地域でイランの旅客機を撃墜していたからだ。

 Lockerbie事件は、大佐の指紋のついた最後の恐ろしい事件ではなかったが、彼はサダム・フセインが権力の座から放逐されたのをみて酔いを覚ました。この2人の男のあいだに絶対的な相似性はないものの、Gaddafiにとっては米国の十字砲火がじきに彼の北アフリカの本拠に向けられる事を心配するには十分だった。2003年にあるM16の幹部は、リビアのデタント(軍備削減)への興味が増していること、そしてWhitehallがリビアとの間の冷え切った関係を打破する交渉仲介のため、秘密の訪問を続けていることを報告している。Gaddafiは、英軍の最高幹部がトリポリを訪れることを命じ、そして彼は12月までにリビアの核兵器開発の秘密プログラムの詳細を手渡した。

 それはすべての人々に、何かを与える取引だった。リビアはCondoleezza Rice が、米国がリビアの政権交代を画策するなかでの6つの前哨点だとして唱えていたリストにはなかったことを実践した。トニー・ブレアが2007年に2度目にリビアを訪問した際の、"Deal in the Desert"(砂漠で取引をしろ)といった言葉は、英国に金の儲かる契約をもたらし、そしてリビアのリハビリテーションを確実にした。

 しかし、彼のテロリズムへのサポートが減退して政府の改革が議題にあがったとき、Gaddafiは彼のドンキホーテ的な炎を失ってはいなかった。今年はじめのローマへの訪問の折、彼は護衛たちにコミック・オペラの扮装をさせ、アマゾニアン(美女ボディガード)たちで脇を固めさせた。ローマのコメンテーターたちはその取り合わせを、ムッソリーニとマイケル・ジャクソンの完璧なミックスだと嘲笑した。

 そしてリビアが西欧世界とのちがいの問題を解決し、外国の投資家を惹きつけるマグネットとなったことで、その国がそれ以上一人の誇大妄想狂の掌中に留まり続ける、と信じた人々は少なかった。しかし今日の建国記念の祝賀行事への準備はリビアが普通の国になりつつあるというような指摘を拒む。何百何千万もの人々が騒ぎ、長らく忘れられていたトリポリの景色を再びかたちづくった。何千本もの椰子の木が海岸沿いに植えられ、道路は再舗装され、乾いた砂の路縁は芝生で埋めなおされ、目障りな建物は隠された。トリポリの古代の壁の脇の貴重な湖は世界中から来たパフォーマーがステージとするために水を抜かれた。

 巨大なバナーが物惜しみないリーダーの放埓を賞賛した。「あなたがいなければ不可能なことは起こらない」というのはやや理解しがたいメッセージだ。しかしその政権の従者たちも、事がどのように進むかについてはかなり不安を抱いているようだ。「私はそこに姿を現す必要があるが、そこはカオス(混乱した場)だろう」とある政権の支持者はいった。「役人たちは物事を組織的に管理できない。そうだ、そこにはヨットや車があるだろうが、すべての代表団たちに無礼講のように提供されるだろう。

 10年前、クーデター30周年記念の際は、トリポリにはカラフルな照明やバナー、大佐の肖像写真が並べられ、人々は彼の「意味深長な放射光(pregnant radiation)」だと評した。しかしほんの数時間の告知をしたのみで、その祝賀は9月9日の新しい日付に移行し、Gaddafi大佐による郷里の街Sirteでの一方的な「United States of Africa(アフリカ合州国)」の建国宣言の周年行事にすり変わっていた。それ以来、Gaddafi一族のAfriqiyah航空は9.9.99というロゴを、その機体に表示している。

 そしてGaddafiは健康状態はよいと推測されてはいるが、齢をとるにつれて慎重な権力争いが起こるだろう。政権に忠実な者たちは、彼の四男でリビアの諜報機関の長を務めるMoatessem-Billahの周囲に集まっている。古参の護衛たちは彼が、異議を唱える者たちに対し強硬手段をとることを快しとしているという。

 彼の2番目の息子で、国際的な「うるさい虻gadfly」から交渉者へと化したSaif al-Islamは、ワイルドカードだ。GaddafiにLockerbieの容疑者引渡しの途をひらき、Megrahiの帰国に関して英国政府を説得したのは彼である。「家族のメンバーは互いを、離れたところから尊敬しあっている」と彼らの協力者はいう。「もしも彼らが共にロンドンにいた場合、彼らは互いに訪問しあったりはしない、(彼らの兄弟がアルコールを飲んだり女の子と楽しんだりしているところを互いに見たくないからだ)」、という。

 Saif──彼の名前は「イスラムの剣Sword of Islam」を意味する──は、リビアが民主主義へと移行するmと宣言した。昨年、彼の改革主義的な声明に父親が憤激した後、彼は公的生活から退いた。しかしMegrahi を故郷に連れ帰りながら、彼はカムバックしたというシグナルを送った。それはSaifのおこなった何ヶ月もの仕事の報酬であり、彼がLord Mandelsonに近づき、何百万ドルもの金をロシアのタイクーンでBusiness Secretaryの友人でもあるOleg Deripaskaに投資する計画が噂されていることへの報酬でもある。」
 彼の友人たちは、もしもSaif が彼の弟との権力争いに勝ったなら民主主義を奉じるだろう、と思っている。「彼がそれを意図していることは確実だ」、とその一人はいう。「Saif は英国を尊敬し、Westminster式の議会政治を好んでいる。私は彼が…十年くらい後に彼が資金をすっかり確保した暁に…自分の国を民主主義に移行するだろうことは確実に思われる

 しかしどちらの息子が勝とうと、「王の中の王、イマームの中のイマーム(King of Kings, Imam of Imams)」と自称していた彼の父親の経歴に互するのは難しいだろう──あるいは、よりGaddafiを適切にあらわす言葉、「サバイバーのなかのサバイバー(Survivor of Survivors)」である父親に対しては。
(右写真:Saif Gaddafi)http://www.telegraph.co.uk/comment/6118691/Colonel-Gaddafi-with-friends-like-these....html

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「地中海クラブ」の戦い/The Club Med War
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/03/club-med-war-by-pepe-escobar.html

影の取引が、カダフィの富と体制の維持を助けた Shady Dealings Helped Qaddafi Build Fortune and Regime
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2012/01/shady-dealings-helped-qaddafi-build.html

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