Thursday, February 17, 2011

チュニジアは成長した・Tunisia Grows Up - By Christopher Hitchens


チュニジアは成長した
─初代大統領ハビブ・ブルギバの遺産のもとに、
ジャスミン革命が進歩するように望みたい─ By クリストファー・ヒッチンズ(1/17,Slate.com)

 私は、3年前にチュニジアを訪れたとき、そこにある主要な問題というものが簡単に見て取れるように思った。その国は公けには、近代化、世俗主義、そして発展、を標榜している─ それはずっと昔に、「西欧化」と呼ばれていたものだ─ しかしその国は、その国民たちを真の大人として信用してはいなかった。この国には1956年にフランスから独立し、1957年に共和国となって以来、たった2人の国家元首しか頂いておらず、そしてその2人目の元首は宮殿内のクーデターによって権力の座についた。私は、Zine el-Abidine Ben Ali大統領に会ったことはないが、彼の表面的な身体的特長を識別する試験ならばパスできる、なぜなら彼の顔は見回せばどこにでもみられたからだ。彼は、選挙においては90%以上の票を獲得した:こういうことは滅多に、よい兆候であることはありえない。警官たちの姿がインターネット・カフェにみられた…それもまた、意気消沈させられる兆候だ。これら全ての状況へのオフィシャルな弁明とは、イスラム過激派に対しては特別な対策がとられねばならない、というのだったが─しかし、そのような誘惑的な言葉をいう者たちは…ソール・ベローが「Augie March」の冒頭に書いた言葉を忘れている:「誰もが、抑圧には繊細さも精密さもないことを知っている:もしも、ひとつのものを抑えつけたら、その隣にあるものも抑えつけねばならない」 *写真はチュニジアの宮殿の大統領護衛隊

 それでもチュニジアは、すべての建物に彼の名前をつけるような途方もない専制君主がいたり、巨大だが無駄の多い軍隊がのさばっていた国のようには見えない。隣国のリビアやアルジェリアなどと比べれば… Muammar Qaddafiの個人的な、過剰な誇大妄想狂的な独裁主義や、全面的な内戦(アルジェリアの場合は最近の記憶でも15万人の命を奪った)等を防ぎながら、チュニジアは比較的良くやっていた。そして、その政治的な空気には、表立った恐怖政治のようなものよりも、活気を奪われた、体制順応的なものがあった。おそらくチュニジアの群衆があれほど素早く動員され ─軍のリーダーシップを、数日間で警察から分離し─すぐさま結果を出せたのは、単純に彼らにはそれができると判っていたのだろう。そこには…たとえばイランの聖職者たちと対立した抗議の群衆が遭遇していたような状態…全面的な抑圧と流血が起きる可能性などは乏しいようにみえた。かくして、そして悲しいことに、チュニジアの出来事はこの地域の他の国々での、草の根の動きの先駆けになるというのは尚早だろう。(それでも、カダフィ自身がこの反乱に取り乱したリアクション(回答)を発したこと…「ボルシェビキ、またはアメリカの革命」…に対する恐ろしい予見に怒り狂っているのは実に心強い。彼がつまり、うろたえていることがよく分かる。

 私は、エドワード・サイードが私に、チュニジアへの旅行を楽しむように、と言ってくれたことを思い出す:「クリストファー、あそこには行ってみるべきだ。あの国は、アフリカで最も穏やかな国だ。イスラム原理主義者たちでさえも、とても礼儀正しい(高度に文明化されている)のだ」そして確かに…そこにはただ、少しだけ人を惑わせるようなdouceur de vie(人生の楽しみ)がある─それは地中海沿いの街や村々のフランス風の道路や広場などに、何世紀にもわたるイスラム教の研修センター都市の風光明媚なKairouan(カイルアン)の街や、TunisとEl Djemのなかにある息を呑むようなカルタゴやローマの遺跡にあり、また南東の海岸沖にある歴史的なユダヤ人の島Djerba、といった場所にある。2002年の4月にEl Ghribaの古代のシナゴーグでアル・カイダがトラック爆弾を爆発させたときには、政府は迅速な団結を表明してその再建に着手したし、またチュニジアの議会にはこの地域では珍しくもユダヤ人の上院議員もいる。道路脇ではジーンズ姿の若いカップルが伸び伸びと手をつないでおり、そして私は、ベールやブルカはもちろん、ヘッドスカーフもめったに見ることがない。

 私は先週、若い女性の抗議デモの参加者が(メディアに)インタビューされていた際、彼女とその友人たちを「Bourguibaの子供たち」、と描写していたことに興味を覚えた。この国の最初の大統領であり、独立運動の頑強なリーダーだったHabib Bourguibaは、フランス啓蒙主義からの強い影響を受けていた。彼は世俗主義を自制心(克己)の要素として、多くの人々の心に定着させた。彼はラマダンの断食を公けに破り、こうした長い宗教的休日は近代的な経済への望みを弱体化させるものだ、といった。彼は顔を隠すベールに対しての軽蔑を表し、女性の権利を保護する数々の法の制定を支援した。1967年の戦争中には、彼はこの国のユダヤ人コミュニティに対する蜂起を防ぐべく確固たるその立場をまもり、他のアラブ諸国の首都においておきていた恥ずべき光景の発生を避けた。他の多くのアラブ諸国より以前から、チュニジアはイスラエルとの真摯な平和条約のなかに利益を認めた(同時に、チュニジアは1982年にPLOがベイルートから駆逐されたときにはそのホスト国となった)。

 Bourguibaのことは過度に理想化せずにおこう─彼は、時おり「変人」とも呼ばれたし、誤ったアドバイスに従ってリビアとの「連携(Union)」を提案したこともあった─しかし彼は、チュニジアの世俗主義と女性の開放を、彼自身の仕事として支援したたのだといえる─単に、西欧の資金援助者たちを喜ばせるだけのためにではなく。来る数週間のうちに…Ben Ali政権のペロン風のけばけばしさが実質的にそれ(Bourguiba)のことを否定した後の今日…このBourguibaの成し遂げた達成がどのように持ちこたえるか、には強く興味をそそられる。
 私はここに滞在中に、Mongia Souahiという名の女性の神学教授と話すために、"Zitouna"、または"オリーブの木の"モスク、と呼ばれるモスクに附設されたTunis大学を訪ねた。彼女はなぜ、ベールがコーランの中で何の権威も持たないのか、ということを説明している複数の学問的著作の著者だ。その彼女の著作に対する回答の一つは、Rachid al-Ghannouchiというチュニジア人のイスラム原理主義者によるもので…彼は彼女をkuffar、または不信心者と呼んでいた。これは誰もが気づくように、彼女の人生を背教者として犠牲にすると宣言する前触れでもある。私は、Ghannouchiと彼の組織Hizb al-Nahda(日曜日のNew York Timeでは「前衛的」と描写されていたが)に会うことをやや警戒した、そして彼が、ロンドンから故郷に帰ろうとしている途上であることを知った。今日までに起きた(チュニジアの)反乱には、神政主義による微妙な色合いは目だって見られないが、しかし私がエドワード・サイードと語ったときには「al-Qaida in the Islamic Maghreb(イスラム的なマグレブのアル・カイダ)」という名前はまだ知られていなかったし、そしてDjerbaにおけるテロ攻撃も、まだ先の日のことだった。我々は、チュニジアでの革命がその枠を超越して、Bourguibaのレガシーを…否定するのではなく…その許に、より良いものへと発展することを熱望するべきなのだ。
http://www.slate.com/id/2281450/

*この記事は1月17日掲載だが筆者の予測に反して、この直後にチュニジアの革命の余波がエジプトの革命運動を引き起こした…両国の反政府運動家たちにはもともとFacebookを通じた強い繋がりがあった
*写真: Hitchens

Tuesday, February 15, 2011

「ムスリム同胞団」のブギーマンを恐れるなかれ!Fear Not the Muslim Brotherhood Boogeyman - By Juan Cole


西欧で「過激派」とみられがちな、ムスリム同胞団の実態についての記事がふえている…


「ムスリム同胞団」のブギーマンを恐れるなかれ!By ホアン・コール(2/15, The Truthdig.com)

*ブギーマン:子供をさらうお化けのこと

*写真はタハリール広場の抗議運動に参加したムスリム同胞団リーダーたち 
 
 アメリカのメディアによるエジプトのムスリム同胞団についてのヒステリー状態は、無知なだけでなく、デマゴーグ的だし、偽善的だ。
 アメリカは、その目的にかなう場合は、他の国においてもムスリム同胞団の支部を積極的にプロモートしてきたし、そこにはアフガニスタンやイラクも含まれている。さらに、イスラム世界の中では、トルコとインドネシアの民主化への移行のケースなども、イスラム原理主義者の政党が自らを民主主義的な性格の団体に変貌させた例として、我々に何かを教えてくれている。

 2005年というつい最近まで、実利主義的なムスリム同胞団は議会の下院議席の約20%を占める88議席を持っており、それゆえ、ある意味でエジプト政府のジュニア・パートナーでもあった。彼らはそれだけエスタブリッシュ(既成権力)化していたために、2008年の4月6日のFacbookによる抵抗運動キャンペーン(エジプトの繊維工場労働者の賃上げと労働環境改善を求めた)に対する支持は、拒否した。そのキャンペーンから「4月6日委員会」が発生して、彼らが今年1月25日の街頭デモを呼びかけるにいたった。ムスリム同胞団は今年の抗議運動に対しても、その最後の瞬間というものにだけ参加し、そのリーディング・フォースにはならなかったことの理由だ。

 日曜日(2月12日)には、ムスリム同胞団は軍の新政権に対して、過去3週間に収監された若い抗議運動家たちを含む、すべての政治犯を釈放するよう要求した。そのリーダーはさらに、政府が市民の自由を奪うことを許してきた非常事態法の停止を求めた。彼らはまた、新しい閣僚が前政権の汚職を捜査すべく任命されるよう求めた。

 土曜日(2月11日)に同胞団は声明を出し、エジプト軍の最高指令が国の安定化と民主化への任務につくことを賞賛した。原理主義者グループは彼らがエジプトの支配権を追求することを否定し、また来たる大統領選に立候補者を出さないことも誓い、新たな議会を支配するための戦略は何も持っていないと断言した。

 ムスリム同胞団は度量の大きさをみせた─なぜなら、彼らが宗教政党として選挙戦を戦うことを禁じている憲法の条文が廃止されるか否かは不明で─そしてそれは過去にもあったように、他の政党がポピュラーな同胞団にも同じ選挙区内で出馬してほしいかどうかにかかっている。さらに、エジプトでの世論調査では、同胞団がたとえそれを目的としても、議会の多数派を制する可能性の兆候がないことを示している。(*2/5-8のカイロとアレクサンドリアでの世論調査では支持率は約15%だった:http://www.worldtribune.com/worldtribune/WTARC/2011/ss_egypt0137_02_11.asp彼らのリーダーたちの幾人かは、イスラエルとの和平合意の是非に関して国民投票をすべきだとも主張している。しかし依然として有力なエジプト軍が、そうしたステップを容認するとは恐らく考えられず、そしてもしそれが行われても、世論調査では和平合意が勝つであろうことを示している。どちらにしても、同胞団はアヤトラ・ホメイニが1979年のイラン革命において「民主主義」という言葉をイスラム的ではないと言って拒絶した際、好んで使ったような物の言い方をする事はない。

 「前・連邦判事」と呼ばれるAndy McCarthyなる人物がメディアのあちこちに出ては、ムスリム同胞団について、ひどく不正確なことを主張していたようだ。そして、教皇Innocent3世が1213年に破滅的な第5次十字軍を送り出した時以来の、エジプトについての深い無知をさらけ出した。McCarthyは、同胞団がエジプトのサダト大統領を1981年に暗殺したとし、またアル・カイダのAyman al-Zawahriはこのグループに所属しており、ガザの原理主義政党のハマスもエジプトの同胞団の支配下にあると主張していた。彼が何百万ものアメリカ人に主張したこれらのことは全て、お笑いを誘うような間違いなのだ。

 同胞団は1928年に、学校教師だったHassan al-Bannaが復興運動の一環として創始したが、それは英国の植民地主義による影響にも抵抗した。Paul Barmanや他のネオコンたちによる主張にも反して、al-Bannaはヒットラーとムッソリーニを忌まわしい人種差別主義者として完璧に非難し、そして彼の運動はヨーロッパのファシズムとは何のかかわりもなかった。第2次大戦中の英国によるエジプトの再占領に対抗して、その組織は1940年代と50年代の初めにはテロリストの分子を育てた。しかしその暴力に対する強い弾圧が組織を地下運動化し、周縁化した。

 1970年代には、サダト大統領が同胞団を再起させ、暴力の行使を回避させ、市民社会の一部となるように規定し、政府は投獄されていたそのメンバーを開放し、彼らを比較的自由にした。彼らが誠実に守ったこの取引が、今はアル・カイダNo.2であるal-Zawahriのような過激派をして彼らと決別させ、彼らに対して強く弾劾させるに至った。偉大なる中東専門家のSean Hannityに対して、偉大なる中東専門家のMcCarthyが言い張っていたことにも反して…サダトは同胞団によって暗殺されたのではない。サダト大統領は彼と、同胞団とを共に拒否した、過激主義者によって暗殺された。

 同胞団は、エジプトでさえも権力分散化されている組織だ。それは、国際的に組織されてはいない。たとえばヨルダンのムスリム同胞団は、本質的にはエジプトの組織とは別の組織だ。ハマスは、その遠い源流は1930年代の同胞団の変節者たちにあるが、今はカイロから何の指令も受けていない。その他にムスリム同胞団の系統を分かつ組織といえばイラクのイスラム党があり、それはジョージ・ブッシュによる侵攻とイラクの政権運営に協力した。ムスリム同胞団は原理主義組織だ。それは女性の権利に対して比較的敵対的で、またエジプトを市民による世俗的な法律から、保守的な文語調の中世のイスラムの伝統へと回帰させるとのヴィジョンを抱いている。彼らの文学は最悪の種類の反ユダヤ主義にいろどられている。しかし何十年もにわたる抑圧はその運動を破壊しなかったし、今より一層の弾圧がより効果的だと信じられる理由はどこにもない。

 その他に、この問題に対処するべきと実証された方法がある。イスラム世界において、過去10年間の間に民主化という意味で成功したサクセス・ストーリーは、トルコとインドネシア(*http://www.pbs.org/wnet/religionandethics/episodes/march-19-2010/islam-in-indonesia/5898/ )での例なのだ。この両国では原理主義的な傾向はリベラルなものに変わり、議会選挙のプロセスにおいて国内的なものに変化した。ムバラクの政権は機能しなかった。トルコとインドネシアでの民主主義は、機能した。今回だけは、勝利した者たちと共に行こうではないか。
http://www.truthdig.com/report/item/fear_not_the_muslim_brotherhood_boogeyman_20110215/

エジプトのブンブン同胞団… Egypt’s Bumbling Brotherhood-By スコット・アトラン (2/2, New York Times)
 エジプト人たちが、彼らの未来の政府をめぐって衝突していたとき、アメリカ人やヨーロッパ人たちは繰り返し、彼らのムスリム同胞団に対する恐怖を表明していた。「政府を打ち樹てても、すぐさま民主主義の運動は打ち樹てられはしない」と、英国前首相のトニー・ブレアは月曜日にいった。「君たちのなかには他の勢力がある、特にムスリム同胞団だ、彼らはこれを違う方向にもっていく」
 その前日、米議会の下院議長John Boehnerは、エジプトでの制度的改革を行う間に同胞団と他の過激派勢力が権力を握ることを避けるため、ホスニ・ムバラクがエジプト大統領として留まることを望むと表明した。

 しかしここに、少なくとも多くのエジプト人たちが実態と見るものがある。1928年に、西欧に触発されたナショナリズム運動がエジプトを外国勢力から開放することに失敗した際、これをライバルとみなしてイスラムの力を復興を求めたムスリム同胞団が設立された。しかし83年間にわたり、彼らは全ての機会を無駄にしてきた。今日エジプトでは、同胞団にはおそらく8千万人の人口中、10万人の熱心な信奉者がいる。そして彼らが、1月25日の最初のカイロでの蜂起の支援に失敗したことは、今やアラブ世界全体に広がる蜂起のスピリットに対して彼らを脇役に追いやった。

 この過ちは、元外交官でノーベル賞受賞者のエル・バラダイを支援しようと彼らが決めたことで、さらに悪化した。同胞団のスポークスマン、Dr. Essam el-Erianはアル・ジャジーラに対して語った、「政治グループらが、政権と交渉するためにエル・バラダイを支援している」。しかし、エル・バラダイがタハリール広場に歩み入ると、彼が西欧メディアで有する巨大なパブリシティにも関わらず、多くの人が彼を無視し、彼のもとに集まった人々の数は少なかった。火曜日にDr. Erianはいった、「エル・バラダイが暫定政権を率いるべきか否か、彼を支持すべきかどうかは分からない」… こうした日和見は多くのエジプト人たちを冷笑させる。

 水曜日、軍が抗議の群衆を追い出すために、ムバラクの支持者らと平服の警察官たちをバリケード内に入れた際に、同胞団はチャンスを得ていたかもしれない。彼らは、デモの群衆を抑圧しようとする試みへの抵抗で、組織的な粘り強さをみせることで、その失った梃子の力を取り戻せたかもしれない。
 しかしながら、同胞団は多くの人々の支持を得られそうなこの歴史的瞬間には到着しなかった。エジプト人たちの間での彼らへの支持は ─しばしば20%から30%の支持率といわれるが─ それは、世俗的な反体制グループに対する何十年もの弾圧という状況のなかで、たまたま起きた状況的偶然のなす支持率、という以上のものではない。

 英国の支援を受けた旧国王King FaroukやGamal Abdel Nasser大統領(在任1956-70)、 Anwar el-Sadat大統領(在任1971-80)らも、新聞編集者で人権運動家のHisham Kaseemがムバラクの元で最後まで経験したことと同じ問題に直面した。「もしも人々がカフェで会って、政権が嫌うような話をしたなら、ムバラクはすぐさまカフェを閉鎖して、我々を逮捕するだろう」、とKaseem氏はいう。「しかし、モスクは閉鎖できない、だから同胞団は生き延びたのだ」。もしも、エジプト人たちが政治的に息抜きできる場を与えられたなら ─とKaseem氏はいう─ 同胞団の重要性はたちまち失せるだろう…。「この蜂起では、同胞団の姿は殆ど不可視だ」、と彼はいう、「しかし、アメリカやヨーロッパなどの、彼らをブギーマンとして恐れる人々にとっては違う」。

 海外の多くの人々は、同胞団が貧しい人々のためのヘルス・クリニックや慈善事業を行うことにより、政治的な影響力を得ているもの、と信じている。しかしエジプトで真に貧しい人々は、政治的に余りアクティブではない。そして、同胞団のGuidance Councilの元メンバーのAbdel Moneim Aboul Fotouhによれば、同グループは人口1800万の都市カイロにわずか6つのクリニックしかもっていない。他の多くのクリニックは、単に多くのエジプト人がイスラム教徒だという意味のみにおいて、イスラム教系列である。そうしたクリニックに資金援助をするやや富裕なビジネスマンたちは、彼らのビジネスを政府の圧力から守るというだけの目的では、同胞団のことを避けがちである。

 同胞団は、その源流が民兵組織として作られたとはいえ、今日ではそれは政治闘争における暴力の行使を否定する。このことが、彼らをアルカイダによる敵意の対象にする。1月26日に、前のエジプトのイスラム主義ジハードのリーダーでアルカイダの代表的戦略家であるAyman al-Zawahriは、同胞団の議会選挙への参加を望み、核武装を否定する意志を強く非難した。彼は「お前たちは、イスラムに対して誤った同盟関係にある」と彼は同グループを非難した。「お前たちはシャリア法のルールを忘れ、お前たちの国での十字軍の基地を歓迎し、お前たちが禁じられている核兵器で十分に武装した、ユダヤ人の存在を認めている」 ~(後略)
http://www.nytimes.com/2011/02/03/opinion/03atran.html?sq=bumbling brotherhood&st=cse&scp=1&pagewanted=all 
 
エジプトの暫定政権を握った、軍部のリーダーたちとは誰なのか?

エジプトの火山の下で By ぺぺ・エスコバル(抄訳)(2/15、Asia Times)

(~前段省略)
我々のコミュニケは、君らのよりも大きい

 …軍の最高評議会の、このコミュニケ・ジャンキーたちは一体、何をするつもりなのか?街の群衆は彼らがみな、ムバラクの取り巻き連中だったことぐらい知っている。彼らは大方、皆70代だ…それは、クーデターのリーダーで国防大臣・陸軍元帥のMohammed Hussein Tantawi、75歳に始まる…彼はペンタゴンのロバート・ゲーツ長官とはとても親しい間柄だ(決定的なことは:Tantawiはムバラクの親衛隊である共和国防衛隊の司令官から、トップに上ったのだ)

 彼らは皆、米国がその毎年ごとに行った何十億ドルもの「資金援助」を通じて、軍が所有し、エジプト経済の全産業を支配する巨大なビジネス王朝の、ステークホルダーの地位に押し上げた者たちだ。このシステム全体を捨て去らない限り、新生エジプトが生まれる手立てはない─それゆえに、街の群衆は軍を迎え入れざるを得ない…行く手に待ち受ける巨大な花火以外は。今この時においては、将来対立しあう可能性のある相手とも、互いに学びあわねばならない。「秩序ある権力移譲」を抜け出て…Mohsen el-Fangari大佐によれば「平和的な権力委譲」へとはいることで、「選挙によって選ばれた市民の政府による支配と、自由民主的国家の設立」を可能にするべく。それはすべてがJimi Hendrixのパープル・ヘイズのようだ。軍が文民主導の暫定政府にスムーズに権力を受け渡すことなど、考えるのはやめたほうがいい。

民主主義を爆撃せよ、ベイブ

これは若者主導の革命だったというだけではなく、今や巨大な労働階級に率いられた運動だ。次のステージでは労働階級─そして小作農民たちが─加速的に決定権を握ることだろう。ブロガーのHossam El-Hamalawyがいうように、「我々はTahrir広場を今や、工場にしなければならない」。政権による最後の弾圧は、労働ストライキが野火の如く広がったときに起こった。そして地下運動からの直接民主制の概念化が進んで、国の永久的な革命を引き起こした。「西欧」は震えおののいた。

 同時に、1月25日のリーダーたちは、ワシントン、テル・アビブとリヤドを意識していた─そしてムバラク主義の買弁たちの階級が─エジプトの民主化を絶対的に阻止するだろうと。最終的には、Walhallaの賄賂から法律や選挙のプロセスにおける、陰なる操作までのすべてが起こりうる。例外はたった一人の軍幹部が大統領に出馬することだ─それはたしかにCIAの遺産の「拷問のシーク」スレイマンではありえない、しかしたぶん軍の参謀チーフのSami Anan、63歳だろうか─彼もまた米国で多くの時間を過ごし、ペンタゴンにはTantawi以上のコネを持っている。

~(後略)
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/MB15Ak01.html

Monday, February 14, 2011

チュニジアとエジプトのリンクが、アラブ諸国の歴史を揺り動かす A Tunisian-Egyptian Link That Shook Arab History-By D.KIRKPATRICK and D.SANGER


ネットのSNSがもたらした、 エジプト革命の裏側
には驚かされる


チュニジアとエジプトのリンクが、アラブ諸国の歴史を揺り動かす (前半)
By デビッド・カートパトリック&デビッド・サンガー(2/13, NYタイムス)
カイロにて─


 タハリール広場の抗議デモの民衆は大統領支持派の勢力と対決したとき、彼らの先輩たちがチュニジアで得ていた教訓を引き合いにだした:「エジプトの若者たちに、こうアドバイスせよ:催涙ガスが放たれたら、ビネガーか、タマネギをスカーフの下に入れておけ」

 Facebookでのやり取りは、アラブ世界の新しい力のなかに生み出された注目すべき2年ごしのコラボレーションの一部だった… 民主主義を欠いた地域に民主主義を広めるための、パン・アラブ(汎アラブ)的な若者たちの運動だ。エジプトとチュニジアの若い運動家たちは、政府の監視を逃れるためにテクノロジーを使う方法についてのブレーンストーミングを重ね…拷問された人々を哀れみ、ゴム弾の射撃にはどう対抗するか、いかにバリケードを組織するか等についての実際的な忠告を交換し合った。

 彼らは、そのソーシャル・ネットワークでの世俗的な専門技術を、宗教運動のなかで育んだ技術と融合し、そしてサッカー・ファンのエネルギーと外科医のような精緻な技能とを結合した。アラブ世界における、より古い世代の政治的反乱勢力からは自由になり、彼らはアメリカの学識者からセルビアの若者運動に至る先例からチャネリングした非暴力レジスタンスの戦術に基づいて行動し─そしてさらに、マーケティング戦略の手も借りた。

 その抗議運動が膨張しエジプトを揺り動かすなかで、彼らは全く異なるヴィジョンを持つリーダーとの、ヴァーチャルな戦争での覇権争いでにらみ合っていた─ガマル・ムバラク、彼は大統領ホスニ・ムバラクの息子で富裕な銀行投資家、そして支配政党のパワー・ブローカーだ。若者たちによる反乱が彼の世襲による権力継承の可能性を悉く排除するまでは、父親の明らかなる継承者と目されつつ─ 若い息子ムバラクは、父親に軍の幹部たちや首相らが権力の座を去ることを勧めた後ですら、父親に権力に踏みとどまるように働きかけていた─ と、ホスニ・ムバラクの最後の日々を追っていた米国政府の担当者たちは言う。

 木曜日の大統領のスピーチの開き直った(挑戦的な)トーンは、米政府担当者たちが言うには、主に彼の息子のなせる業だったという。
 ある米政府担当者は、「彼はおそらく、父親よりもさらに執拗な(どぎつい)人間だった」─ガマルの役割とは「ムバラクにとっての破滅的な状況を、うまく取り繕って彼に口当たりよく伝える役割」だった、という。しかしそのスピーチは逆効果の反発を招き、エジプト軍が大統領を強制的に辞任させ、彼らが市民による政府の樹立を約束しながら支配権を握る、という事態を導いた。

 今や若いリーダーたちは、エジプトよりも先の世界を思い描いている。「チュニスの出来事はエジプトを後押しする力となった、しかしエジプトの行ったことは、世界を後押しすることになる」、と1月25日の抗議デモを組織して民衆蜂起をうながした若者たちの「April 6(4月6日)運動」メンバーの一人、Walid Rachidは言う─彼は日曜日の夜に、リビアやアルジェリア、モロッコ、イランの同じような若者たちとその運動の経験を分かちあうディスカッションのミーティングの場で語った。

 「もしもすべてのアラブ諸国で人々の小さなグループが現れて、我々と同じように抵抗したなら、すべての政権を終らせられるだろう」、と彼はいい、次のアラブ・サミット会議はすべての若者の地下運動のリーダーたちの、「カミングアウト・パーティー」になるだろう、とジョークをいう。

ブロガーたちが道を先導した

 エジプトの反乱には、先立つ何年かの準備期間があった。30歳のシビル・エンジニア(土木技師)で「4月6日運動」のオーガナイザーであるAhmed Maherは、当初「Kefaya」として知られる政治運動に参加し、また2005年頃には「Enough」という運動にも参加していた。Maher氏と仲間たちは、自分たちの部隊Youth for Changeを組織した。しかし彼らは十分な参加者を集められず、当局による逮捕が彼らのリーダーたちを滅ぼして、そして彼らのうちの多くは、臆病な野党勢力とみなされている政党にはまりこんだ。「その運動を滅ぼしたものは、古い政党勢力だ」と、これまでに4回の逮捕歴のあるMaher氏はいう。

 2008年までに多くの若いオーガナイザーたちはパソコンのキーボードへと避難して、ブロガーに転じ、政府による民営化や悪性インフレに喚起されて、別々に起きていた労働者ストライキの波への支援を試みた。エジプトのMalhalla市での3月のストライキのあと、Maher氏と友人たちは4月6日の、全国的な一斉ストライキを呼びかけた。その運動の推進のために彼らはFacebookのグループを設立したが、それは、彼らがいかなる既存の政治グループからも独立を保とうとした運動のnexus(結び目)となった。悪天候によってストライキがほとんどの地域では行われなかったなかで、Malhalla市では労働者たちの家族によるデモが警察による暴力的な弾圧を招き、これが長年来、初めての大規模な労働者による政府との対立となった。

 ちょうど数ヶ月ほど後、チュニジアのHawd el-Mongamy市でストライキがあったあと、若いオンライン・オーガナイザーたちがエジプトでの運動のモデルにならい、「Progressive Youth of Tunisia」として知られることになる運動を起こした。二つの国の運動のオーガナイザーたちは、彼らの経験をFacebookを通じて交換しあった。チュニジア人たちは、エジプトに比べてブログを書くことや報道の自由がより制限されるという警察国家体制の蔓延に直面していたが、彼らの間の交流による結びつきはより強く、より独立的だった。「我々は我々の経験をストライキとブロギングで分かち合った」とMaher氏は回想する。

 Maher氏や彼の同僚たちの側は、非暴力による闘争について本を読み始めた。彼らは特に、セルビアの若者の「Optor」と呼ばれる運動に興味を引かれた─それは、アメリカの政治思想家Gene Sharpの理論によって運動を展開し、独裁者のスロボダン・ミロシェビッチの転覆に貢献した。Sharp氏の研究の品質は、ムバラクのエジプトにおいて、非常によく実証された …彼は非暴力だけが…安定化を口実とした抑圧を正当化すべく、暴力的なレジスタンスを喚起する警察国家を脅かすためには有効な手段である、と論じている。

 4月6日の若者運動はそのロゴの図柄を─ 漠然とソビエトの方向を意識したような、赤と白の握りこぶしの「Otpor」のロゴをモデルとして… これを模倣した。そして、そのメンバーの幾人かはセルビアに旅行し、Otporの運動家たちとも会った。

 「The Academy of Changeはどことなくカール・マルクスの運動のようなものだし、我々はレーニンのようなものだ」と、同じく4月6日運動にも時おり参加する「Egyptian Democratic Academy」のプロジェクト・ディレクター、Basem Fathyはいう─ Egyptian Democratic Academyは、アメリカからの資金援助を得て人権と選挙監視モニターの活動も行っている─

 タハリール広場を抗議の民衆が占拠するあいだに、彼は彼のコネクションを通じて、毛布とテントを購入する5,100ドルの資金をエジプト人ビジネスマンたちから集めたという。

「これは、あなたの国だ」

 そしてその後、1年ほど前には、この成長するエジプトの若者運動が戦略的な同盟者を得た… 31歳のGoogleのマーケティング・エグゼクティブ、Wael Ghonimは他の多くの者たちと同様に… 1年前に、瀕死の反体制運動を鼓舞しようとエジプトに戻った、ノーベル平和賞受賞者の外交官Mohamed ElBaradeiの周りに集まった若い運動オーガナイザーたちのインフォーマルなネットワークのなかに紹介された。

 彼はそのウェブサイトを、警察の暴力行為に関するビデオクリップや新聞記事で埋めつくした。彼は繰り返し、シンプルなメッセージを記した:「これはあなたの国だ;政府の役人たちはあなたの税金からサラリーを得ているあなたの使用人だ、そしてあなたにはあなたの権利がある」。彼はオフィシャルなメディアによる歪曲に焦点を当てた、なぜなら人々が「メディアを信用しないとき、あなたはそれらを失う心配はないからだ」、と彼は言う。

 彼は最終的に何百何千ものユーザーをひきつけ、彼らのオンライン上での民主的運動への参加を通じた忠誠関係を打ち樹てた。たとえば、オーガナイザーたちがカイロの街路で「沈黙の日」を計画した際には、彼はユーザーたちが皆で何色のシャツを着ていくのがよいかを投票で募った─黒か、白か。(反乱が爆発したとき、ムバラクの政府は彼の仕事を遅まきながら阻止すべく、彼を12日間にわたり目隠しをしたまま独房に拘留した)

 1月14日のチュニジアでの革命の後、4月6日運動はその「警察記念日(英国の抑圧に対抗して警察が蜂起したことを祝う1月25日の祝日)」の余り知られていない例年の抗議運動を、より一層大きなイベントにする機会であるとみた。Ghonim氏はFacebookのサイトを通じて、支持者の動員をはかった。ウェブサイト上において、その日にもし少なくとも5万人の人々が現れれば、抗議デモを開催する、と彼は告げた。すると、10万人以上がサインアップした。

 「私は、事前にアナウンスがなされた革命が行われたのは、見たことがない」とGhonim氏は語った。

 そのときまでに4月6日運動は、ElBaradei氏の支持者たちや、リベラル派や左派のグループとも合流し、そしてムスリム同胞団の若者の支部とも合流して、チュニジアの出来事にインスパイアされた警察記念日の抗議運動のモダニズム風ポスターをカイロ市街に貼りめぐらした。しかし彼らの年配の先輩たちは… ムバラクや西欧諸国によって長年、過激派と目されてきたムスリム同胞団のメンバーたちでさえも…その抗議デモに参加することを避けた。(*左写真=Wael Ghonim) 警察記念日が英国の植民地主義に対する戦いを顕彰する記念日であることを説明しながら、ムスリム同胞団のリーダーのEssem Erianはこういう、「その日は、我々はみな一緒に祝福しなければならないのだ」
「…こうした人々はすべてFacebook上にいるが、しかし、我々は彼らが誰なのかを知っているだろうか?」と彼は尋ねる。「我々は我々の党や、我々の組織の実体というものを、バーチャル・ワールドと連帯させることはできない」

 「これが、その答えだった」

 25日が訪れたとき、若い活動家たちの同盟(その殆どは裕福な者たちだったが)は、その国の専制体制に対して広汎に蔓延していたフラストレーションや、エジプトの生活を磨り潰している貧困に入り込み、これを活用したいと思った。彼らはその日の始め、多くの貧しい人々を集会に呼び集めて、彼らの口で家計の問題への不満を語ってもらうよう試みた。(人々は言った)、「…彼らは鳩や鶏肉を食べているが、我々は毎日、豆ばかりを食べている」。

 タハリール広場に向かって何万もの群衆が行進した日の終りまでに、彼らのシュプレヒコールの声はさらに圧倒的なものとなった。「我々民衆は、体制を終わらせたい」、と彼らは叫んだ…オーガナイザーたちの言うには、それは彼らがチュニジアのデモのサインボードやFacebookのページで目にしていたスローガンだった。4月6日若者運動(April 6 Youth Movement)のMaher氏がいうには、オーガナイザーらは議会や国営TVの建物への乱入も話し合っていた、という─クラシックな革命の行動だ。

 「私は自分の周囲を眺め渡して、こうした抗議行動へと出たすべての見知らぬ人々の顔を見たが、彼らは我々よりも、もっと勇敢だった─我々はこれが、その(体制への)答えだったのだと感じた」…とMaher氏は言った。
 それは彼らが、チュニジアやセルビア、そしてAcademy of Change(抗議運動のオーガナイザーらをトレーニングするため、一週間前にカイロにスタッフを送っていた)のアドバイスを訊き始めたときだった。火曜日に、警察が抗議の群衆を蹴散らすために催涙ガスを用いて以来、オーガナイザーたちは、次なる抗議デモを予定している2月28日、「怒りの日」のためのより入念な準備作業へと戻った。

 今回、彼らは催涙ガスの影響を軽減するためにその臭いを嗅ぐレモンや玉ねぎやビネガー、また、眼に流し込むための炭酸飲料やミルクをも持参した。機動警察の撃つ銃弾から身を守るために、衣類の下にボール紙や、ペットボトルで作った即席の鎧を身につける人々もいた。彼らは警察の車両のフロントガラスに吹き付けるためのスプレー・ペイントを持参し、また排気管に物を詰め込んだり、タイヤを妨害して車を使えなくする準備をしていた。午後の早い時刻に、4車線のKasr al-Nile橋の上で数千人の抗議の群衆が千人をゆうに超える重装備の機動隊警官らと睨み合ったのが、おそらくこの革命の転換点となった最も重要な闘いだったろう。

 「我々はこのゲームのトリックを、すべてとり出した…ペプシコーラと、玉ねぎと、ビネガーを…」と、Maher氏はいう─彼は、セーターの下にボール紙とペットボトルを身につけ、バイク・ヘルメットを被り、手には樽のふたで作った盾を持っていた。「その戦略とは、怪我をした人々は後ろに下がり、それ以外の人々が彼らの場所に取って代わる、というものだった」、と彼は言う。「我々は、ローテーションを続けた」。5時間以上が経過した後に、彼らは遂に勝利した…そして、タハリール広場へと至る道すがら、彼らは空になった支配政党の本部群を焼き討ちして陥落させた。

ムバラクに圧力を加える

 その日、ワシントンでは午後3時半に予測もなくオバマ大統領が現れた。危機管理室(Situation Room)における彼の重要人物たち(his 'principals'…国家安全対策チームのキー・メンバーたち)のミーティングで、彼はテーブルの上座に座るnational security adviser、Thomas E. Donilonを解任した。
 ホワイトハウスでは、若者が先導する蜂起がチュニジアのZine el-Abidine Ben Ali大統領の政権を覆して以降の、ドミノ効果の可能性に関して討議を重ねていた。米国やイスラエルの諜報部門がMubarak大統領の失脚するリスクは低い、と見積もっていたのに(その可能性は20%以下だ、という人々もいた)も拘わらず。

 オバマ氏による政策討議に参加していた上級官僚によると、大統領は異なる見解を抱いていた。上級官僚によると、彼は早い時期から、それがこの地域の他の専制国家の政府─イランを含めた─にも広がる可能性のある、「トレンド(流れ)だった」と指摘していた。18日間にわたる蜂起が終わるまでに、ホワイトハウスでは、エジプトに関しての大統領を伴う38回のミーティングが開かれたとしている。オバマ氏は、これは欧米の干渉に関する(従来の)「アル・カイダによる語り口"the Al Qaeda narrative"」にとって代わるような語り口を創り出すチャンスなのだ、と言った。

 米国の政府官僚たちは、明瞭な反米性とか、反欧米の感情というものの証拠を見出してはいなかった。「我々は、人々がタハリール広場に彼らの子供らを、歴史の作られる瞬間を見せたくて連れてきているのを見たときに、これは何かが違う、と気づいていた」と某官僚はいう。

 1月28日には、その討議の内容はMubarak氏に対して、個人的にも、公式にもいかに圧力をかけるのか…─そして、オバマ氏がTVに現れて政権交代を求めるべきなのか、否か、に関するものへと、急速に転じた。オバマ氏はMubarakに電話をすることを決意し、そして数人の側近がその電話を傍聴した。オバマ氏は82歳のリーダーに対し、辞任や権力移譲を示唆したりはしなかった。その時点での「その論議の内容とは、彼が改革を行う必要が本当にあるということ、そして早急にそれをせねばならないこと」だったと、上級官僚はいう。Mubarak氏は抵抗を示し、抗議運動とは外部からの干渉によるものだと述べた。

 同官僚によるとオバマ氏は彼に、「あなたの民衆の大半は満足していない、そして彼らは、あなたが具体的な政治的・社会的・経済的改革を行わない限り、満足することはない」と告げた。
 翌日、カイロにいる前大使のFrank G. Wisnerが、使節として派遣されることが決定された。オバマ氏はイスラエルのBenjamin Netanyahu首相、トルコのRecep Tayyip Erdogan首相やその他の、地域のリーダーたちに電話をし始めた。

 最も困難だった電話の相手とは─と、官僚らは言う─地域情勢の不安定化を恐れて、米国にMubarakとの連帯を守り続けるよう要求する、サウジ・アラビアのKing Abdullahと、Netanyahu氏とのものだった。米国政府の官僚によると、サウジ・アラビア政府の上級官僚らは、もしもMubarakが抗議の群衆に対し武力を用いても、米国はMubarakを支援すべきだと論議していたという。Mubarakが放送によるスピーチを行って、9月には大統領選を実施し、彼は再出馬をしないと誓った2月1日までに、オバマ氏はエジプト大統領は未だにメッセージを理解していないと結論していた…
(後略…)
http://www.nytimes.com/2011/02/14/world/middleeast/14egypt-tunisia-protests.html?_r=1&hp=&pagewanted=all


*記事上写真は1月14日、チュニジアで Zine el-Abidine Ben Ali大統領の辞任を要求し内務省ビルの壁によじ登る人々。抗議運動はFacebookによってはじまった


(*記事タイトルは当初Dual Uprisings Show Potent New Threats to Arab States →"A Tunisian-Egyptian Link That Shook Arab History”に差しかわっていた…)

関連記事

*Wael Ghonimの開放と仲間たち:Emotions of a Reluctant Hero Galvanize Protesters
http://www.nytimes.com/2011/02/09/world/middleeast/09ghonim.html?scp=6&sq=Ghonim&st=cse

Tuesday, February 8, 2011

過激派勢力、女性たち、そしてタハリール広場 Militants, Women and Tahrir Sq.By Nicholas D. Kristof

ムスリム同胞団についての、エジプト人たちの意見が面白い…


過激派勢力、女性たち、そしてタハリール広場 By ニコラス・クリストフ (2/5、NYタイムス)

カイロにて─

 西欧人たちは、エジプトの大統領ホスニ・ムバラクに対して蜂起した民衆の姿をテレビで眼にするとき、政府が群衆に対して暴行する光景をみてたじろぐ。しかし、イスラム原理主義勢力の発言権をより大きく拡大するかもしれない大衆的な民主主義、という考えに対してひるむ人たちもいる。

 1979年にイランで勃発した草の根的な民衆蜂起は、非民主主義的で、女性やマイノリティを抑圧し地域を不安定化する政権の支配をもたらした。しかし、1989年には東欧での民衆による反乱が、安定した民主主義的な国々を誕生させた。もしもエジプトの反体制運動の群衆が政府に打ち勝ったなら、これは1979年になるのか、それとも1989年になるのか?

 誰も確かな予測はできない。だが私に少し元気づけの一服を試させて欲しい。

 私は抗議の群衆たちと話をしながら、先週をこのタハリール広場で過ごした─ムバラク大統領の暴漢たちが我々の居た半径の周囲にまでも、煉瓦や、モロトフのカクテルや、山刀や、時折の銃撃で襲撃をしかけてきたのだが…私は、多くの人々が示した落ちつきと、忍耐とに感銘を受けていた。

 おそらく私の判断は、ムバラク支持派の暴漢たちがジャーナリスト狩りをし、我々のうちの何人かを刺したり、殴ったり、逮捕・拘束したこと─そして私も、ホテルの部屋を放棄させられ、心臓をどきどきさせながら、釘を打ち付けた棍棒を持った暴徒たちの周りを走った…ということのために─ 歪んでしまっていることだろう。私が見つけた最も安全な場所は、タハリール広場だった─「Free Egypt」という抗議の群衆の合言葉… 私はそこで、カメラとノートを出してどんな人にもいかなる質問をもしてみた。

 私は女性とコプト・キリスト教徒に対して、コンスタントに質問を投げかけた─民主的なエジプトは、より抑圧的な国に成り果てると思うか?と。彼らは一様に、ノーといった─彼らはそして私を譴責するような眼で見ては、民主主義というものへの疑いを語った…(私はしばしばこれに出会うと、当惑感に引きこもってしまうのだが)

 「もしも民主主義があるなら、我々は、我々の権利を奪わせたりはしない」、と大学教授のシェリーンは私にいった。彼女は他の多くの人と同様、アメリカ人は原理主義者のムスリム同胞団が選挙で権力を握る可能性という件に捉われすぎている、と語った─。

 「我々は、ムスリム同胞団について心配はしていない」、シェリーンはいった。「彼らは25%の票を得るかもしれない、でももしも彼らが上手く政界で活動しなかったなら、次回の選挙では票を失うことになる…」

 シェリーンはいいことを言っている。西欧人が彼らを懸念する一部の理由は、原理主義のムスリムたちがほとんどどんな物もうまく運営したことがないからでもある─そのために彼らは、代わりに腐敗を弾劾し、ムバラクのような親西欧の専制君主の無能さや残忍性を非難する。結論とはつまり、彼らは普通の市民からの尊敬を受けているが、私の勘では、彼らは実際に何か行政を運営しようとするがいなや支持を失うだろう、ということだ。

 たとえば1990年にイエメンで、Islahという名のイスラム政党が選挙で好成績をおさめた後に、連合政権の一翼を担った。結果として、Islahは教育省の担当となった。世俗的イエメン人とアウトサイダーたちは、原理主義者たちが子供たちを洗脳するのではないかと考え、愕然とした─しかしイスラム原理主義者は、ほとんど行政能力がないことを露呈し、そして次の選挙で彼らへの支持は急落してしまった。

 抗議運動の人々が共通して掲げるスローガンの一つは、ムバラクがアメリカというツッコミ役に対するボケ役だ、というもので、多くのエジプト人は彼らが、無気力な外交政策だとみなすものに対して、いらだっている。私はある風刺画で、ムバラク氏が額に「ダビデの星」をつけており、その傍にこのようなサインがあるのをみた「彼にヘブライ語で話しかけろ、そうすれば彼はメッセージを理解するかも!」
 しかし多くの人たちは現実的なことをいっている─イスラエルとの平和の維持を好みつつも、パレスチナへの支持…特に苦しんでいるガザ地域への支持についてはより一層、声を大にしたいのだという考えを述べる。

 私はカイロのある古い女性の友人…西洋的な雰囲気があり、ときにはウィスキーを楽しむ女性…に、ムスリム同胞団は平和のために良くないと思うか、と尋ねてみた。彼女は一瞬考えてこういった、「ええ、多分。でも私の見るところでは、アメリカでも共和党はやはり平和のために良くないと思うわよ」

 もしも、民主主義が中東で支持を得るならば、そこにはデマゴーグや、ナショナリストやジンゴイスト(感情的愛国主義者、強硬的主戦論者)が現れるだろう、ちょうどアメリカやイスラエルにもそれがあるように。そして彼らは外交を余計に、複雑化してしまうだろう。しかし思い出してほしい、アル・カイダのアイマン・アル・ザワヒリ …オサマ・ビン・ラディンの右腕… のような怒れる過激主義者は、ムバラク氏による抑圧と投獄と拷問が育んだのだ、ということを。もし我々の抱いている懸念が、世界最大の人口を擁するこのアラブの国家における自由と民主主義に対する我々の信念を妨げるというのなら、それは悲劇だ。

 私は、エジプト人たちが彼らの政権に対する闘争で示した不屈の勇気には、深く感じ入った─大きな個人的な危険を冒しつつ、アメリカの同盟者から送り込まれた暴漢たちから私を守るために助けの手を差し伸べてくれたことにも。こうして、民主的考え方のために命を危険にさらすエジプト人たちに、この民主主義への我々の信頼の念を示そう。

 私が、エジプトの民主主義は抑圧をもたらすか、あるいはイスラエルとの戦いを触発するか、または石油価格の高騰を招くと思うか?とHamdiというビジネスマンに尋ねたときに、彼は苦悩の表情を表していたと感じた。「中東は石油だけのためのものではない」、彼は私に思い出させた、「我々は人間だ、あなたがたと全く同じ様に」。

 「我々はアメリカ人を憎みはしない」、彼は付け加えた、「彼らはパイオニアだ。我々は彼らのようになりたい。それは罪だと思うかい?」
http://www.nytimes.com/2011/02/06/opinion/06kristof.html

「拷問のシーク」と、秩序ある権力の移譲? 'Sheik al-Torture' is now a democrat- By Pepe Escobar

「オマール・スレイマンの暫定政権とは、CIAが望むもの以外の物ではない…」


「拷問のシーク」(Sheik al-Torture)はいまや民主主義者だ
By ペペ・エスコバル (2/9、Asia Times)

 エジプトの革命は視覚的な幻影(目の錯覚)だったかのように、世界の目の前で解体しつつある。

 2週間にわたって道路を占拠していた反体制の群集たちは、いまだにムバラク大統領の退去を求めている。今や、米国大統領のバラク・オバマは、「余り、コトを急ぐな…」モードに執着しているが、うれしいかな、「エジプトは進歩している」。オバマは一度たりとも、「自由選挙制」という素晴らしい言葉を口にしていない。

 ワシントンの「秩序ある権力移譲」のロードマップは、イスラエルの政権とヨーロッパ諸国からの完璧な支持を得ており、それは政権の化粧直しにはなるだろう。
 ムバラクがステップダウンすることは、あと知恵のように行われるだろう: すでに任命された後継者、「Sheik al-Torture 拷問のシーク」 (*オマール・スレイマンをさす。ムバラク政権の諜報局や秘密警察ムハバラートの長官として反体制派の逮捕・拷問を行ってきた) は、まるでもう大統領であるかのように振舞っている─本当の現大統領が未だに、宮殿内に幽霊のように棲んでいるというのに …この残忍な軍事独裁主義のAからZにいたるまでが…その行政府から立法機関までが違法だと、反体制の群集に糾弾されている、その間にも。キーポイントとは、これは臨時(代理)大統領のスレイマンの政権だ、ということなのだ。もしもフランスの哲学者、ジャン・ボードリャールが生きていたら彼は、この革命はどこでも起きなかった─世界のテレビ・スクリーンの上以外では、と言っただろう。

 分裂して、細分化したいくつかの反体制勢力のなかには、憲法の認める立法府の長官を暫定的な大統領として指名し、彼が選挙民集会の行う選挙を統率するように、と求めている人たちがいる。また、その他の人々…若者の運動勢力を含めて…は、ワシントンの支持した「秩序ある権力移譲」を監督する、国民的な委員会を任命することを求めている。

 ロンドン大学の東洋アフリカ研究学院の国際関係論教授、Gilbert Achcarは直裁に…このように指摘する、「こうした全面的変革を実施するには、大衆的な運動勢力は体制のバックボーン(背骨)を破壊するか、ぐらつかせねばならない、それとはつまり、エジプト軍だ」

新たなボスに会え

 エジプトは筋金入りの、軍事独裁主義国なのだ。その軍隊は、実質的に米国の納税者による金によってまかなわれており、「誠実なブローカー」などではない。ムバラク政権の反対勢力への抑圧において、軍はそれ以上の凶悪さはみせなかった、なぜならこの、徴兵制による軍隊は自国民に銃を向けることを確かに拒んだからだ:かくしてプランBが講じられた…先週、この政権のならず者たちと、嫌われ者のbaltagia(国家が雇った私服の暴力団*秘密警察のこと)たちが放たれた。

 未だに、政権はその核心までは揺るがされてはいない─なぜなら、軍がその任務についているから。それを示すグラフィックな例はこれだ:国営新聞のal-Gomhuriaが、この月曜日にスレイマンがムバラクの写真の下で、反対勢力の人々と会っている写真の上に、モンスターのような「New Era(新時代)」という見出しを掲げていた。

 反体制勢力は、過去25年にわたって強化されていたこの国の非常事態を終わらせよ、と主張する。政権側はそれは「セキュリティ上の条件次第だ」と答える。彼らはこれを、過去何ヶ月間も、嫌になるほど繰り返してきた。政権側は、議会の解散を受けいれない。彼らは真の自由で公平な選挙というものが、現今のカンガルー政権である、親ムバラクの議会に取って代わることを拒否している。

 「分裂させて支配せよ」(devide and conquer)は、この政権の手口なのだ─そしてそれは、実際に稼動することのできる、不可思議なのだ。その戦術とは、予測可能なものだ:譲歩は最小限にとどめて、抗議勢力を「外国勢力」のツールとして非難し、そして、彼らをエジプトの「安定性」への脅威として糾弾する。

 決定的なのは:「外国勢力」という非難が、先週木曜日に国営テレビとの長いインタビューのなかでライオン(スレイマン)の口から発されたことだ─ それは、カイロ全域で外国のジャーナリスト狩りが行われて、殴られ、逮捕され、あるいは侮辱されたのとは丁度、同じ日だった。スレイマンは露骨にこう言った、「いくつかの友好的な国々で、テレビ・チャンネルを有している国々は、友好的でも何でもない国々だ。彼らは若者たちを国民や国に反対するよう焚きつけた」。…このような事をいう人間が、民主主義者として信頼に足るのだろうか?

 このことをすでに正しく見通している者たちもいる。左派のナセル主義者たち(彼らは2000年の選挙で3議席を獲得した)は、革命がすべてのエジプト人を代弁していると主張するが、ムバラクが退くまでは、スレイマンとは話をしないといっている。だがスレイマンは露骨にこう言った、ムバラク─幽霊…幻影、またはその両方…は、居座り続けるのだ、と。

 アル・アフラム紙のオンライン版のコラムニスト、Nabil Shawkatはムバラクについて、「彼の支配のスピリット、彼の政権の真髄、彼の時代の方法(メソッド)はまだまだ、終わるにはほど遠い」と書いた。彼はまた、「その最初のテレビ・インタビューで、彼(スレイマン)は国を治めているような印象を与えたが、しかし彼は…もしも彼がそう望むなら─ムバラクに彼の部屋にきて、そこに居て欲しい─とも言えるのだ」

 たとえ彼が、彼の部屋のクローゼットのなかのモンスターの幽霊と一緒に居ることになったとしても、彼の政権のターゲットは明確だ。インディペンデントの映画監督Samir Eshraと、ブロガーのAbdel-Karim Nabil Suleimanのような運動家たちは、未だに逮捕拘束されたままでいる。Human Rights WatchのDaniel Williamsは36時間以上、軍に拘束されている。よく油を差して、手入れの行き届いたな抑圧マシーンが、政治的なアフィリエートを何も持たない街頭の圧倒的多数派勢力を脅すのは、簡単なのだ。

 ここには、独立的な労働者ユニオンは何も存在しない。「April 6(4月6日)」の若者の運動や、「Kefaya (Enough!)」はキャンペーン活動家のグループではあるが、政党ではない。パリ大学とカイロ大学の教授でエジプトの伝説的なエコノミスト、Samir Aminは、労働者階級と農民たちが、現状の強いアクターたち(都会の、教育を受けた失業中の若者層、及びミドルクラス)と同じ様に政治運動を開始すれば事態は変わるだろう、と主張する。彼らがやらねばならぬことは、互いに協調しあって現政権の矛盾に穴を貫くことなのだ、という。

…古いボスと同じ

 ワシントンはエジプトを新たなパキスタンとして、共に生きなければならないかも知れない:不安定な買弁資本家エリートと、政治化したイスラム勢力(ムスリム同胞団の)と、軍の諜報部門、そしてもう一人の軍事独裁者を、せっかちに向こう見ずにミックスしたような国家なのだ。それは本当の「民主主義国家」などではない。

 しかし、すべての社会的階層(学生から弁護士にいたるまで…エジプトの人権グループは言うに及ばず…)からなる反体制の群集は、喜んで化粧直しをしたシーク・ザ・拷問を、討論に誘導された民主主義者として受けいれて─ 彼が…ワシントンがどんなにナショナリストや、大衆的な運動を本当は軽蔑しているのか…をルクソールの寺々で語るのを受けいれる。

 ファラオが先週、彼を副大統領として聖別する前まで、1936年7月2日南エジプトQena生まれのオマール・スレイマン、またの名を「シーク・ザ・トーチャー(拷問)」(エジプトでは誰もが彼が米国のCIAによるテロリスト容疑者の秘密収容所移送や、アル・カイダ容疑者の拷問を監督していたと知っているのだ)は、大臣職のない閣僚であり、Egyptian General Intelligence Directorate(エジプトの国家諜報局)の長官を1993年から2011年まで務めていた。

 1980年代には彼は、ノースカロライナのJohn F Kennedy Special Warfare School とCenter at Fort Bragで訓練を受けた。Foreign Policy誌は彼を、2009年に当時のイスラエルのモサド長官Meir Daganさえ制して、中東の最も有力な諜報長官だとしてランキングした。

 エジプトの民衆が彼を毛嫌いすることなどは、問題ではない:軍のトップ・エシュロンにとって、彼は新たなrais(車輪のスポーク)なのだ─。アル・ジャジーラは彼を、エジプトのイスラエルとの機密的関係における「ポイント・マン」だと描写する。イスラエルの首相ベンジャミン・ネタニヤフBenjamin Netanyahuは、彼を愛しているのだ。元・用心棒にしてイスラエルの首相代理アビグドル・リーバーマンAvigdor Liebermanは、スレイマンへの賞賛を彼の称号にしてこう綴った、:"his respect and appreciation for Egypt's leading role in the region and his personal respect for Egyptian President Hosni Mubarak and Minister Suleiman".(この地域におけるエジプトの指導的役割への敬意と尊重、そして彼のエジプト大統領ホスニ・ムバラクと、大臣のスレイマンに対する個人的な尊敬)

 ウィキリークスの公表した2006年の外交公電によれば、CIAも(いったい、それ以外の誰が?)また、彼を愛していると表明する─そこには、 「我々のOman Soliman(*原文のママ)との協働関係とは、おそらく(エジプトとの)最も成功裡の関係であろう」と書かれている。
 スレイマンは常にCIAトップの幹部たちと、直接に交渉してきた。

 このスペクトラムの他の領域においては、ヒューマン・ライツ・ウォッチHuman Rights Watchはこのように強調する、「エジプト人たちは…スレイマンをムバラクの2世とみる。特に彼が2月3日に国営テレビで長々しいインタビューを行い、そのなかでタヒール広場の抗議の群集を外国勢力のアジェンダの道具だと非難して以来。彼は抗議勢力への報復をおこなう、という脅迫さえも隠さなかった。」、Human Rights Watchは抗議運動が開始されて以来、少なくとも75人のエジプト人運動家とデモへの参加者、そして30人の外国人ジャーナリストが逮捕され、少なくとも297人の人間が殺された、と記している。

 街頭にいる人々は、幻想のもとにはない。彼らは─エジプトの政治的均衡における、最強のプレーヤーである軍部が、もしその存在を脅かされると感じたなら、大がかりな武力制圧に乗り出すかも知れない、とも知っている。その衝突を触発するものとは、「外国勢力」の想像上の脅威から、1956年以来初の市民への権力移譲などに対する備えを、彼らは決して持たない、との思いに至るまでの…どんなものでもあり得る。

 例えば、国防大臣で陸軍元帥のMarshal Mohammed Hussein Tantawiは、無感覚(鈍感)なことに「経済的で政治的な改革とは、中央政府の力を弱めるという見解を抱いている」と述べたのだと、ウィキリークスの公表した外交公電にはある。しかし、軍が力を掌握している状態とは、Sheik al-Tortureにとってショーを上演するには快適に過ぎる状態にちがいない。そしてワシントンの民主党員たちにとっても…。
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/MB09Ak01.html


From left, Hosni Mubarak, Omar Suleiman and Sami Enan at Egypt's military HQ

Friday, February 4, 2011

革命か、クーデターか…ネオコン学者の予測 Revolutions or coup d'etats? - By Daniel Pipes

ダニエル・パイプスは、ブッシュがイラク戦争の最中に政府要職にとり立てた中東専門家だ。嫌アラブ、親ユダヤ、ネオコンとしての悪名?を馳せつつ…メディアにもよく書いて論議の的だった─。今日でも彼はエルサレム・ポストにコラムを掲載しているが、その真実味はどうなのか?

革命か、クーデター(武力政変)か?By DANIEL PIPES (2/2, The Jerusalem Post)

─エジプトその他の中東地域における、軍による高圧的な支配はやや、弱められるものの、軍は最高位のパワー・ブローカーとして留まるだろう─

エジプトでとても心配された危機の瞬間が到来し大衆の反乱が中東諸国の政府を揺るがすなかで、イランの影響力がこれまでになくこの地域の中心へと躍り出ており…そのイスラム原理主義の支配者たちが優勢となった姿が地域の視界のなかにみえている。しかし、革命というものが、この地域でなし遂げられることは難しいだろう…そして私は、イスラム原理主義者たちには、中東全域でのブレーク・スルーは達成できないと予測する。テヘランはキー・パワーブローカーとして出現してはいない。

この結論が導かれる、幾つかの理由とはこうだ:

イラン革命の記憶がこだまする:1979年に権力を握ったアヤトラ・ホメイニは、イスラム原理主義の反乱を他の国々にも伝播させたいと考えていたものの、ほとんど何処においても失敗した。チュニジアの目立たない町で起こった物売りの焼身自殺により…ホメイニが熱望した、またイランの権力者たちが未だに模索しているこの大災害に光が当たるまでには、30年を要したようにみえる。

中東での冷戦:中東は長年にわたり、冷戦の影響力を蒙る2つの大きなブロックに分かたれていた。イランが主導するレジスタンスのブロック(Resistance Bloc)はトルコ、シリア、ガザ、そしてカタールを含んでいた。サウジが主導する現状維持のブロック(Status Quo Bloc)は、モロッコ、アルジェリア、エジプト、ヨルダン川西岸地域、イエメン、ペルシャ湾岸の首長国を含んでいた。レバノンは最近、Status QuoのブロックからResistanceのブロックに移りつつあるが、そのように不安定な状態はStatus Quoの場所だけで起きていることだ。

イスラエルの奇妙な状況:イスラエルの指導者たちは沈黙し続けているが、エジプトの今の状況とほとんど無関係に留まるその姿(*)は、イランの中心性(centrality)をより強く際立たせる。イスラエルがイランの獲得する物に怖れを抱く中で、最近の出来事というものはユダヤ人の国家が安定性をもつ孤島で、西欧にとっては唯一の信頼できる同盟国であることをより際立たせる。(*イスラエル政府はエジプトの抗議運動に何ら干渉できずに沈黙しがちの状態にある)

イデオロギーの欠如:停滞と専制、腐敗、圧政、拷問を終わらせるように要求していながらも─エジプトの政府施設の外に集まった群集は、中東地域すべてについての認識を総括するようなスローガンや陰謀説を叫ぶということを、ほとんど欠いている。

軍部 対 モスク:最近の出来事というものは、ある同じ2つのパワー<軍の武装勢力とイスラム原理主義勢力>というものが中東の20カ国前後の国々を支配していることを、確認させた。軍部とは生の(むき出しの)力を行使し、イスラム原理主義者とはヴィジョンを提供するものだ。その例外としては─トルコの活力に満ちた左翼勢力、レバノンとイラクの民族主義勢力、イスラエルの民主主義、イランの神権制支配なども存在してはいるものの─「軍部対モスク」のパターンは広汎に適用されるものだ。

イラク:中東地域において最も不安定な国、イラクではデモが起こっていないことが目立つ─なぜならその国民は何十年にもわたる専制独裁政治には(もうすでに)直面してはいないからだ。

軍部の反乱: イスラム原理主義者たちは、そのイランにおける成功を大衆的な動乱を利用して繰り返したい、と願っている。チュニジアの経験は、他のどこでも繰り返され得るようなパターンとは何かを詳細に検討するに足るものだ。チュニジアの軍のリーダーたちは明かに、権力者 Zine El Abidine Ben Aliが権力を維持するには我が儘になりすぎた─(特に、彼の妻の一族による権力維持のためのけばけばしい腐敗において)という結論を出し、彼を放逐し…彼らの意思の尺度としてBen Aliとその家族に対し国際的な逮捕状を発行した。

それは実行され、そして、明かにBen Aliに代わって同国のパワー・ブローカーの地位を引き継いだトップの軍人、Rachid Ammar参謀長のもとで…古い護衛隊組織がほぼ丸のまま権力の座に居残った。古い護衛隊は、より市民の権利・政治的権利を認めるようにシステムに少し修正を入れることによって、権力の座に留まり続けられるよう望んでいる。この先手策が成功すれば、1月半ばに起きた外観上の革命は、単なるクー・デター(武力政変)だった、ということになる。

このようなシナリオはどこでも繰り返され得る…特に1952年以来兵士たちが政府を支配し、彼らが1954年以来抑圧してきたムスリム同胞団に対する権力を維持したい、と考えているここエジプトでは。独裁者のホスニ・ムバラクがオマール・スレイマンを副大統領に指名したことは、ムバラク・ファミリーによる王朝の自惚れを終わらせ、軍部による直接支配を望んで彼が辞任する、という見込みをもたらす。

より大まかにいえば、私はチュニジアに出現した「変革よりもより一層の継続性」を志向するモデル、というものに賭けたい。高圧的な支配は、エジプトその他の地域においては何となく和らげられるが、しかし軍部は、最高位のパワー・ブローカーとして留まり続けるだろう。 

アメリカの外交政策:アメリカ政府は、中東諸国が独裁政治から参加型の政治へと(イスラム原理主義勢力によってそのプロセスがハイジャックされることなしに)移行することを助ける、重要な役割を持っている。ジョージ・W・ブッシュは2003年に民主主義を呼びかけるという正しいアイディアを持っていたが、即時的な結果を得ようと急ぎ過ぎたため、その努力を無にしてしまった。バラク・オバマは当初、独裁者にいい顔をするという失策に転じたが、今や彼は、ムバラクに対抗するイスラム原理主義者たちの側に立つという近視眼的状態にある。彼はブッシュに倣って、しかもそれをより上手くやるべきであり、民主化とは何十年もかかるプロセスであって、選挙や言論の自由、法の支配などに関しては(そうした国の人々の)経験にそぐわない考え方を説く必要性もあることを、理解すべきだ。(筆者はMiddle East Forumのdirectorで、Hoover Institutionの傑出したTaube客員研究員。エジプトに3年間居住経験がある)
http://www.jpost.com/Opinion/Columnists/Article.aspx?id=206287

*その名が何となくPipe Dream(白昼夢、妄想)という言葉を連想させたPipes?は反イスラム、反イスラミスト(原理主義者)で、元々エジプトのアラビア語の専門家。保守派シンクタンクMiddle East Forumの設立者兼ディレクターで、中東研究のためのスカラシップの貧弱さを批判する親ユダヤ組織Campus Watchの設立者だとも。

 2003年にブッシュ大統領が露骨なネオコンのPipesを米国国立平和研究所(U.S. Institute of Peace)の幹部に指名すると民主党リーダーたちやアラブ系アメリカ人団体、人権運動家たちが猛反対したが、ブッシュは批判をかわすため、彼を議会休会中の任免特権─recess appointment─を駆使して任命した(ブッシュがボルトンを国連大使に任じたときと同様だ)…「力が紛争の解決に最も効果的」と主張する典型的強硬派で、近年は「オバマ大統領は元イスラム教徒だ」などと主唱している一人だとか…。*写真:Daniel Pipes

Wednesday, February 2, 2011

イスラエルの怖れとは? Bad news for Israel 


 エジプトの騒乱に対するイスラエル国内の空気をレポートするNYTの先月末の記事では、「ムバラク氏のイスラエルへの支持的な関係にも関わらず、右派や左派の多くのイスラエル人たちは、エジプト人たちがムバラク氏による専制政治を排除し、民主主義を打ち立てたい、との願いに共感を持っている。しかし彼らは、事態が速く動きすぎることへの怖れを抱いている…」と書いている。

 (同じことは、水曜日にイスラエルのネタニヤフ首相もそのスピーチでいっていた)

 イスラエルの某トップ官僚も「我々はそれが自由と繁栄と、機会への願いに関わるものだと知っている、そして我々は専制政治の元で生きたくない人々を支持する、しかしそれが起きた後に誰がアドバンテージを得るのか?」、…と問いかけていたという。
http://www.nytimes.com/2011/01/31/world/middleeast/31israel.html?ref=benjaminnetanyahu

(リベラル紙ハーレツにはこのような記事も見られる「As an Israeli, I want the Egyptians to win(イスラエル人として、私はエジプト人たちに勝ってもらいたい)」http://www.haaretz.com/blogs/a-special-place-in-hell/as-an-israeli-i-want-the-egyptians-to-win-1.340886  )

─以下はイスラエル在住の人たちがイスラエルが陥っている危惧を伝えている記事だ─

ムスリム同胞団への懸念:
イスラエルはエジプトの政権交代を怖れるBy Gil Yaron in Jerusalem (1/28, Spiegel Online)
<冒頭省略>

…イスラエル政府は沈黙し続けている*註 これが掲載された1/28にはネタニヤフ首相はまだ懸念表明をしていなかった

「我々は事態をつぶさにモニターし続けているが、隣国の内政に対し干渉する気はない」と、イスラエル外相は本紙 シュピーゲルに対してコメントした。

そのため、コメントを求めるジャーナリストにとってイスラエルの前産業通商大臣ビンヤミン・ベンエリエゼル(Binyamin Ben-Eliezer)が先週閣僚を辞任して、今週はフリーで野党労働党員としての見解を述べられる立場にいるのは、幸運な偶然だ。「私はその可能性(エジプトに革命が起こる可能性)はないと思う」とベンエリエゼルはIsraeli Army Radioで語った。「私は事態がもうじき鎮まることと思う」とイスラエル・アラブ関係論の専門家でエジプト諜報機関のチーフ、オマール・スレイマンの友人でもあるイラク生まれの前大臣はいう。

ベンエリゼルの言葉は、イスラエルの諜報部および中東専門家らによる現状へのアセスメント…彼らはエジプトの軍の力が強大であることを指摘する…とも一致する。彼はArmy Radioでのコメントで、エジプトの抗議運動に対するイスラエルの立場を説明した。「イスラエルはそこで起きていることに対して何もできない」、「我々ができるのはムバラク大統領への支持を表明し、暴動が静かに過ぎ去るのを待つことだけだ」。彼はエジプトがこの地域で最大のイスラエルの同盟国であることを付け加えた。

不安定な平和 Uneasy Peace

エジプトは1979年に、最初にイスラエルとの平和条約を結んだアラブ国家だったが、その近隣諸国との関係はデリケートであり続けた。よい関係性というものは政府関係者同士のサークルに限られていた。カイロの政権は、両国の市民社会がより密接な関係性を設立しようとすることを阻もうとした。例えば、両国の医師たちやエンジニアたち、法律家たちの間でプロフェッショナルな交流が行われる場合は、政府が彼らに「イスラエルとの国交関係を正常化することには寄与しない」、との宣誓をするよう求めた。

和平合意の締結から30年たった今でさえ、(エジプトの)近隣諸国との年間貿易額は1億5千万ドル(1億1千万ポンド)に過ぎない(参考までに、イスラエルのEUとの2009年の年間貿易額は200億ポンドにのぼる)。

シナイ半島の副知事を巻き込んだ最近の事件は、エジプト人たちがイスラエルのことをどう思っているのかを暴露した。沖合いの海で鮫による攻撃が起きた後、同知事はそれについて、イスラエルの諜報部がエジプトの旅行産業に被害を与えるために仕組んだ殺人魚である可能性は排除できないと述べた。アレクサンドリアで1月1日に教会が攻撃され流血の惨事の起きた後、エジプトのムスリム同胞団のスポークスマンは、キリスト教徒とイスラム教徒の不和を醸成するためにイスラエルがこれを企んだ可能性がある、との憶測を述べた。

もちろんムスリム同胞団の存在は、イスラエルが公式にムバラク政権を強く支持する、主要な理由のひとつだ。同胞団はエジプトで最もポピュラーな運動と考えられるが、イスラエルとの和平合意に関するその立場は明らかだ:彼らはそれを直ちに撤回したいと考える。「民主主義とは、何か美しいものだ」、と2003年から 2005年にかけイスラエルの駐エジプト大使であったEli Shakedはシュピーゲル・オンラインとのインタビューに答えて言った。「しかしながら、ムバラクが権力を維持することが、イスラエル、米国、及びヨーロッパにとって大きな利益がある」

イスラエルにとってそれは、現今のエジプトとの間の「冷たい」平和("cold" peace)と呼ばれるものや、同国との数千万ドルの年間貿易額よりもずっと大きなものに影響を及ぼす。「イスラエルがスンニ派アラブの国々と、今日のように密接に、戦略的な利益を一致させたことはなかった」、とShakedは主にスンニ派イスラム教徒が人口の大半を占めるアラブの国々、すなわちエジプト、サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)等に言及して語る。最近のWikiLeaksによる外交公電の公表は、彼がこのようなことを意味していたことを示唆する: アラブ諸国の大半、そして特にムバラクも、イスラエルと同様に…シーア派イランとその同盟国(即ちガザ地区のハマス、レバノンのヒズボラ等)というものを、彼らに対する脅威(existential threat)である…と考えている ということを。

深刻な潜在的危険性 Potential Serious Danger

「もしもエジプトの政権に変革が起きたならムスリム同胞団が舵を取るかもしれず、それはこの地域にはかり知れない影響をもたらす」とShakedは言う。イスラエル政府は、30年間の平和の後にもエジプト軍が、未だにイスラエルとの戦争というものを想定して軍の装備を準備し、訓練を行っているという事実を、懸念とともに指摘する。

エジプトとの平和条約の破棄は、米国製のモダンな兵器を装備した世界で11番目に大きなエジプト軍との新たな対峙(New front)を開くことになるのだ。しかしイスラエルが─何となく余り、ありそうにない─エジプトとの武力衝突よりも怖れていることとは、カイロのイスラム原理主義政権とハマス(彼ら自身をムスリム同胞団の支流とみなす組織)が同盟関係を結ぶことなのだ。

今日エジプト軍は、シナイ半島からガザ地区への(ハマスの主要な供給ルートである)武器密輸を─しぶしぶながらも─阻止しようとしている。ガザとの間の武器供給の国境線を開くようなエジプトの政権があった場合、それはイスラエルに深刻な危険をもたらす。

Shakedは西側諸国がエジプトに、より一層の開放性と民主主義を要求することを、致命的なミスだと考えている。「ムバラク政権が、民主主義に取って代わられると信じるのは妄想だ」と彼は言う。「エジプトは未だに民主主義を受け容れられるレベルにはない」と彼は─文盲率が20%を超えることなどを一例に挙げつつ付け加える。ムスリム同胞団は唯一の真の代替的選択肢(オルタナティブ)だが、それは西欧に破滅的な影響を招きかねない、と彼は嘆く。「彼らはもしも政権をとった場合に彼らのいかなる反西欧的態度をも変えない可能性がある。それはこれまでどこでも起きたことがない:スーダンでも、イランでもアフガニスタンでも(その、イスラム原理主義勢力においては。)」

究極的には、親西欧の独裁政治か反西欧の独裁政治かという問題だ、とShaked はいう。「ムバラクの周囲の親しい人間(インナーサークル)の中の誰かが彼の遺産を引き継いでくれること(いかなるコストを支払っても)が我々の利益になる」。その過程においては、短期的に大きな流血の起こる可能性も否定できない、と彼は言う。「エジプトの暴動が残酷に制圧されることは、これが初めてではない」
http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,742186,00.html


イスラエルにとっての悪いニュース Yalla Peace: Bad news for Israel By RAY HANANIA (2/1, Jerusalem Post)

─民主主義はエジプトの人々に声を与え、彼らの声は和平合意の破棄を要求する可能性がある─

エジプトの全面的な民主的抗議運動は…中東の他の多くの国々よりも民主的な国だが、完全に民主的ではない国イスラエル…にとっての悪いニュースを意味する。
何千何万の反対者がエジプトの主要都市を埋め、終身大統領ホスニ・ムバラクの辞任を要求し─その余波はヨルダンやシリアの専制政治にも及んでいる。
ムバラクは中東で最悪のアラブの専制君主ではないものの、彼はアメリカの傀儡とみなされ─そしてアメリカは今、自身が奇妙なポジションにあることを発見している。アメリカはエジプトの民主主義を他の国々でも行ったようにバックアップするのだろうか、それともエジプトが独裁制からよりオープンな(開放的な)独裁制へと移行することを助けようとするのだろうか?

なぜアメリカ人は、エジプトの専制支配を終わらせることを阻止しようとまでするのか?何故ならエジプトは、アメリカとイスラエルの中東での外交戦略のコーナーストーン(礎石)だからだ。
エジプトの現状維持なしには、イスラエルは多くのものを失ってしまう。

平均的なエジプト人は、ムバラクの前任者アンワル・サダトが1978年9月17日にサインした(イスラエルとの)和平合意を支持してはいない。サダトは、エジプトとイスラエルの間の平和は、パレスチナ人、ヨルダン人、シリア人、レバノン人との間の平和を先導する、と論じようと試みた。…しかしヨルダンを除いては、それらの平和は未だに捉えどころのない状態にある。

サダトの暗殺の後、彼の軍事参謀の一人だったムバラクが大統領になった。外交的才能は未知数ではあったが、彼はイスラエルとの間の不人気な和平条約のケアテーカー(暫定的世話人)となった。
彼は独裁者だが、エジプト人は他のほとんどのアラブ諸国の民衆よりも多くの自由を享受してきた。

イスラエルがエジプトとの和平合意から得られる主なベネフィットとは、国交関係正常化だけでなく、それまでエジプトにより与えられていたエジプトとの戦争の脅威を取り除くことだった。 (*注:イスラエルの年間軍事費は和平合意後、締結前の約3分の1に激減した)

イスラエルにとって一旦、エジプトの合意にサインがなされるや否や地域戦争の脅威は消滅し、原理主義的なイスラムの前衛ハマスやヒズボラ(イランの代理人)や、専制的・独裁的国家との代理戦争にそれは取って代わられた。

表面的には、エジプトが民主主義に変わるのは結構なこと─それがアメリカやイスラエルをぎこちない立場に陥らせはしても、良いことであるように聞こえる:確かに彼らは民主主義を欲している…しかしイスラエルとの和平合意が損なわれなければ、の話だ。

現状におけるイスラエルとの平和とはムバラクのような独裁者によってのみ実現可能なものなのだ。民主主義は人々に声を与えるが、彼らの声とは明らかに和平合意の破棄を求めている。

もしもエジプトの政権が堕ちるならば、反イスラエル感情の唱和がアラブ世界全体に広がり、おそらく(各地で)新たな地域戦争を起こす可能性がある。ヨルダンではすでに反体制デモがおき、シリアの専制君主バシール・アル・アサドも同じような反対デモの阻止策を即時に講じた。

そうなれば、イスラエルはこの地域で自らが1960年代の状態に立ち戻ったことを発見し、アラブ世界の国々の間で孤立し、より一層の戦争の危険性に恒常的に脅かされることになろう。

アラブ世界は、西欧とイスラエルの友であり敵である独裁者の足下に置かれるかも知れないが、しかしアラブの民衆は、イスラエルに関しては長年にわたるニセの約束と悪い取引交渉を通じて、そのことを見通す賢さを持っているだろう。

もしも民主主義がエジプトを席巻し人々が実権を握ったなら、イスラエルは重要な転換の軸に直面する:平和を拒絶する従来の方向性をとるか、中東のコミュニティの真のメンバーとなるために、パレスチナ人たちとより真剣に交渉を行うか、の。

民主主義は良いものだ、しかしそれによって現状維持の都合の良さを破壊するという代価を購わねばならないのだ」。

最大のルーザーとは独裁者たちと、西欧の外交政策と、おそらく、イスラエルだ。

(*筆者のRAY HANANIA氏は、パレスチナの大統領に立候補しているというパレスチナの知識人http://www.yallapeace.com/
http://www.jpost.com/Opinion/Columnists/Article.aspx?id=206277

Tuesday, February 1, 2011

アメリカ人にとってのエジプト?* 我々のよく知る悪魔 The Devil We Know - By ROSS DOUTHAT

ダウザットのコラムは、エジプトの現状に対するアメリカ人の心情をよく表している様だ

我々のよく知る悪魔 By ロス・ダウザット (1/30, NYタイムス)

世界がホスニ・ムバラク後のエジプトの運命について思案をはじめた今、アメリカ人はこのことを考えるべきだ:もしも、ムバラクが独裁者として30年間エジプトを支配していなかったなら、世界貿易センタービルは今でも建っていただろう。このことはムバラクの政権がずっとアメリカの不動の同盟国であって、我々にとっての反テロ戦略におけるパートナーであり、イスラム過激派の仇であっても、なおさら真実だ。あるいはより適切にいうなら、彼の政権がこれらすべてのものであるから真実だ。 

ローレンス・ライトは、そのアル・カイダの歴史を描いた著書、″The Looming Tower” のなかで「アメリカの9月11日の悲劇は、エジプトの刑務所のなかで生まれた」と書いていた。ムバラクは、エジプトのムスリム同胞団の収監を訪ね、彼らに拷問や国外追放を課して、彼の国でイスラム革命が起きるいかなる可能性をも排除してきた。しかし彼は同時に、彼の国のイスラム原理主義者たちが過激化し国際化することをも助けてきた。オサマ・ビン・ラディンの第一の副官で、おそらくはアル・カイダの影の本当の頭脳、アイマン・アル・ザワヒリのような男たちをエジプトの政治の外に押し出し、グローバルなジハードのなかに追いやることで。 

同時に、ムバラクのワシントンとの関係は、ジハーディストの抱く世界観にも常に正当性を与えてきた。彼の支配下のエジプトは、イスラエル以外のいかなる国よりも多額のアメリカドルをアメリカから受け取って来た。多くの若いエジプト人たち…政治的・経済的停滞の最中でも気ぜわしい彼らにとっては、彼らの独裁者を憎むことから、その独裁者のアメリカのパトロンを憎むことに転換するのはほんのひと飛びの跳躍でしかない。こうした跳躍をした一人の男とは、建築科の学生でMohamed Attaという男、つまり世界貿易センタービルにアメリカン航空の11便が激突したときコックピットにいた男だ。

これらの事実はムバラクの身に起きそうな失墜を、そしてアメリカにとって、彼の何十年もにわたるくすんだ抑圧的政権とのもつれ合いを終わらせることを歓迎する、よい理由のようにも聞こえる。だが不運にも、中東の政治がそんなに簡単だったことは一度もない。アメリカはムバラクを長らく支持してきた、なぜなら二つの相互に関連した怖れがあったからだ:それは新たなホメイニの出現と、新たなナセルの出現だ。この二つの懸念は今日でも完全に正当化されるものだ。

最初の怖れについては誰もが理解する、なぜなら我々は… 現在カイロとアレキサンドリアを席捲している革命ともよく似た自発的に起きた革命の余波のなかで、アヤトラ・ホメイニが1979年にイランに打ち建てた宗教的独裁政権と、今もなお共に居るからだ。

二つ目の怖れはそこまで共鳴しやすいものではない─何故ならガマル・アブデル・ナセルは今や40年間その墓のなかにいるからだ。しかし、ファラオの国が腐敗した政権を最後に倒したのは1952年であり、ナセルはその便益の享受者だった─そしてワシントンは彼が権力の座についた日のことを後悔している。

ナセルは、イスラム原理主義者ではなかった:彼は世俗的な汎アラブ主義の社会主義者であり、そのことが彼を歴史の最前線に押し出したようにみえる。しかし彼の影響下において、エジプトは中東政治を不安定化させるアグレッシブな勢力になった。彼のアラブ世界統一の夢は、レバノンからイラクにいたる大動乱とクーデターをもたらした。彼はイスラエルと二度の戦争を戦い、そしてイエメンへの破滅的な介入をした。彼の軍隊はその紛争で毒ガスを使用したと訴えられたが、これはサダム・フセインの行った国内戦略の陰鬱な予兆だった。そして彼による大陸間弾道弾の開発は、今日のイランの核開発をめぐる瀬戸際政策の衣装リハーサルのようで、その兵器開発計画の弱体化のためイスラエルが密かなキャンペーンを行うことでその類比も完璧だ。

ナセルについての記憶は… もしもムバラク後のエジプトが宗教独裁政治に陥らなかったとしても、それが未だにいっそう反米的な方向へと急激に傾く可能性が高い…と想起させる。アメリカにとっては、ムバラク時代のような静止的均衡状態(それがテロリズムの誘発を助けていたような状態)よりもいっそう、ポピュリズムとナショナリズムに支配されるエジプトがもたらす長期的結果の方が好ましいかもしれない。しかし再び言うが、その結果はこれまでよりも悪くなるかもしれない。どのドアの背後にも悪魔が潜んでいる。

アメリカ人は、このことを認めたくない。我々は外交戦略のシステムのなかに避難壕(refuge)を設ける:リベラル主義的なインターナショナリズムや、リアルポリティーク、ネオコンサーバティズム、あるいは不干渉主義、などだ。我々にはセオリーがある、そして現実がそれらのセオリーの後ろに一列に並ぶことを期待する。民主主義を支持せよ、そうすれば、安定状態はそれ自体の安定化に対して心を配る。干渉するな、そうすれば誰もあなたに干渉しない。国際的な制度組織が平和を維持するだろう。いや、バランス・オブ・パワーの政治がそれを行うだろう。

しかし、歴史は我々すべてを笑い物にする。我々は専制君主たちと取引したが、それはテロリズムの旋風という収穫をもたらした。我々は民主主義を推進したが、その結果、イラクからパレスチナに至る地域でイスラム原理主義者たちが力を得るのを見た。我々は人道的な介入に飛び込んで、そしてソマリアで流血の事態に遭った。我々は手を引き、そしてルワンダをジェノサイドが包囲するのを見た。我々はアフガニスタンに介入し、そこを後にした、そしてタリバンが権力を奪うのを見た。我々はアフガニスタンに介入してそこに留まり、罠に捉われ終わりの見えない状態となった。

遅かれ早かれ、セオリーというものは常に失敗する。世界はそこでは余りにも複雑すぎ、そして悲劇的すぎる。歴史は上昇する弧を描くが、多くの危機は未知というものに対して未知を秤にかけるよう要求し、相い競いあう悪魔のどちらかを選ぶよう要求する。

エジプト人が彼らの国の未来のための闘争を見ながら、我々の抱ける唯一の心の癒しとは、その選択がアメリカ人の行う選択ではないということだ。
http://www.nytimes.com/2011/01/31/opinion/31douthat.html?_r=1&scp=1&sq=Davils%20we%20know&st=cse

*エジプトの英雄ナセルのことをここまで悪くいうのは少し驚かされるが、西欧人の意見としてはよく聞かされる