Saturday, August 1, 2009

現代米国の「人種教育」(1)/Rethinking the Color Line: Understanding How Boundaries Shift -Charles A. Gallagher


法律上では人種差別を認めないはずの米国社会にはなぜ、いまだに人種差別が存在するのか?

─オバマ政権も発足した、今日の米国の”人種教育”─大学ではいかに教えているのか?
 
カレッジのソシオロジーのクラス(人種関係論)のテキストから、C.ギャラガーによるイントロダクションを引用─)

Rethinking the Color Line: Understanding How Boundaries Shift (Preface) - By Charles A. Gallagher
──カラーライン(色による人種的区分け)を再考する:境界線はどう変化してきたのか?
 「Rethinking the Color Line」、というこの本のタイトルが、暗に社会学的に約束するものとは…今日での、人種と民族(race and ethnicity)という言葉の意味の探究であり─その意味が社会的、政治的、経済的、そして、文化的な力によって…どのように形成されてきたのか、を探ろうとするものだ。そうした意味では、これはとてもストレートな試みにみえるかもしれないが…しかし、そうではない。人種と民族(race and ethnicity)というものは常に、その意味が流動的で、曖昧で…意味の捉えにくい概念だったのだ。

 たとえば米国の国境線のすがたというものを…人種または、民族…というものの定義のアナロジーとして、ちょっと想像して欲しい。
  米国の国境線の概観や、その見取り図というものは一見したところ、人種や民族race and ethnicityと同様に、手際よく描いたり地図化したりできそうにもみえる。そう…それは我々が合衆国の国境をイメージできるのと同様に…道理にかなった、確実さをもって…誰かがブラックや、ホワイト、アジアン、またはアメリカン・インディアンであると規定できるということでもある。

 我々は、こうした人種的カテゴリーに人々を当てはめる─なぜなら、我々は肌の色や、髪の特徴、眼の特徴などの組み合わせに焦点を当てるよう、訓練されているからだ。
 我々は、個人個人というものを人種的カテゴリーに当てはめたあとで、決まって文化的なマーカーによって、さらに彼らを分類しようとする…すなわち彼らの民族的な…あるいは…先祖のバックグラウンドといったもので。例えば、もしもひとりの白人が部屋に入って来たなら、我々はその個人の人種を見ることだろう。彼や彼女が話を始めて、アイルランドなまりや、ニューヨーク市のアクセント、または南部の方言を使うことに我々が気づいたら。何が起こるだろうか?スーパーマーケットで我々の前に並ぶ褐色の肌の女性が、レジ係に話しかけており、そして我々が、彼女がジャマイカ人または英国人だと気づいた場合はどうだろう? 我々はまず最初に、肌の色で種類分けして、そして次に文化的なバックグラウンドで識別しているのだ。

 200年以上前に合衆国が建国されて以来、この国を定義する国境線は幾度も書き換えられてきた。1776年以前には米国が存在しなかったのと同様に、人種(race)という、今日理解されているような概念も、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸や、アフリカ、そしてアジアの一部を植民地化する以前には、存在していなかった。現在アメリカとして心理的に理解されている国の地図も、たった40年ほど前にできたに過ぎないのだ。その地図とは、1959年にハワイが50番目の州として米国領となってから以降につくられたものだ。それ以前には1803年にルイジアナがユニオンに買収され、そしてその後再び、ミズーリの割譲が1820年に行われ、その他の領土の受け入れも行われてきた─そして、我々はさらに、もしもコモンウェルスのプエルト・リコが55番目の州としてユニオンに入ることを決議するなら、心理的な地図を再び描きなおさねばならないことを思い出す必要がある。

 米国での人種と民族(race and ethnicity)という言葉の定義の問題は、米国の領土の形成と同じく、その概念の輪郭が与える意味が時間的経過のなかで変遷してきたものだ、といえる。2007年に白人(white)とみなされている人間は、米国の過去の歴史上では、black とかIrish、またはItalian、と定義されていた可能性がある。例えば19世紀と20世紀の境目の時期に、米国に到着したばかりのアイルランド系やイタリア系移民というのは、白人(white)とはみなされなかった。その頃、こうしたグループのメンバーは、米国の既存のいかなる人種的ヒエラルキーにも容易には属さなかったのだ。彼らは人種的なLimboに属していた─白人でも、黒人でも、アジア人でもないという─彼らの民族的バックグラウンド、つまりアイリッシュとイタリア系の移民を、主流派のグループとは識別させるような…その言語、文化や、宗教的信条─が、さまざまな意味で、彼らを人種的グループだと特定していた。

 それから1、2世代を経る間に、これらのIrish、とかItalian、と呼ばれる移民は、今日、白人(white)と呼ばれるグループに吸収されていった。彼らが、「非白人」または「人種的に曖昧」といったカテゴリーから…「白人」として認知されるに至ったその同化の速度とは、比較的素早かった。それは、米国史上の異なる時期においては、現在の最高裁判所の判事Antonin Scaliaや、上院議員Ted Kennedyの両親、または祖父母が、非白人のイタリア系とか非白人のアイルランド系、として認知されていたという事実でもあり、それは我々の人種的感受性にとっては奇妙で、ショッキングでさえもある。

 もしも誰かの民族的アイデンティティが人種的なアイデンティティに取って代わられた場合に、我々が社会学者に対して発する問いとは「なぜ?」という問いだ。
 米国の国土の形が時とともに変遷してきたごとく、人種と民族、というものの定義も変わってきた。あなたはあなた自身の抱く人種・民族といったものへの概念が、あなたの両親や祖父母の抱いている概念とは違っているなどと思うだろうか?人種とか民族が、今この特定の時代を反映しており、30年~40年の間にはまったく違うものになっていると思われたなら、あなたはそれをどう理解するだろうか?本書「Rethinking the Color Line」はここで、人種や民族の定義がなぜ、時とともに変わるのか、いかなる社会学的な力がそのような変化を起こさせるのか、そして次の世紀にはそうした分類は、どのように見える可能性があるのか─に関する理論的なフレームワークを提供する。

 ここでこうした例が示唆して、「Rethinking the Color Line」が意識的に探求するものとは、人種とか民族というものはが、社会的に構築された(socially constructed)概念だという事だ。…それが社会的に構築された…というとき、そうした(人種を区分けする)特徴、とは社会的、文化的な価値観に根づいているという事だ。人種や民族という言葉は社会的な構築物である─なぜなら我々がそれに、勝手に社会的な重要性を見出しているからなのだ。人種や民族とは文化的な価値観に基づくものであって、科学的な事実に基づくものではないのだ。

 重力の法則が働く瞬間を、考えてみてほしい。もしもあなたが、この本をあなたの机から落としたら、それは床に落ちるとあなた思うだろうか?勿論、そう考えるだろう。もしもあなたが、ブラジルか、南アフリカ、またはプエルトリコに住んでいるなら、あなたは同じことがあなたの本に起こると考えるだろうか?勿論だろう、なぜならあなたは重力の法則が全世界で共通だと知っているからだ。しかし、誰かが米国でBlackと定義される場合、その誰かはブラジルではWhite、 プエルトリコではTrigueno(中間)、そして南アフリカではColouredと定義されるのだ。重力の法則はどこでも共通だが、人種の区分けは時と場所によって異なる、なぜなら人種や民族の定義とは、その社会にとって価値がある、ないと定義された生物学的特長にもとづくものだからだ。それぞれの社会の価値観とは、それぞれの社会の経験してきた異なる歴史的な経緯や、文化的な状況、そして政治的定義づけに基づいており、そして人種と民族の概念は国と国との間で少しずつ異なるだけでなく、その国内部の国民の間でも少しずつ異なるものなのだ。

 例えば、米国の南部では社会的にも法的にもBlackとされた人物が、北部に移住した後にWhiteとして"容認"されることは珍しいことではない。人種という概念を定義付けるものは非常に不安定で、それは政治的な操作(マニピュレーション)によっても、たやすく変わるものなのだ。

 人種とか、民族的同一性、というものは、我々がそうだと定義する限りにおいて、文化的にも意味がある。言い換えれば、人種というものは我々がそれが存在する、と言うから存在するのだ。そして人種とか民族とかいう場合、その特徴とは、社会的なプロセスを反映している─つまりそれはこうしたコンセプトは違う方法でも想定できるという事だ。例えば肌の色や、顔立ちの特徴、髪の毛の質などをみるかわりに、我々は足の大きさで人種を区分けすることだってできる。靴のサイズが4から7の人は小人種、8から11の人は大人種、12から15の人はモンスター・フットの人種、といったように。こうした、より小さい足の人や、より大きな足の人は「Other」というカテゴリーの人種になるかもしれない。我々は同様に、眼の色、身長や、手の大きさ、あるいは鼻の高さでも人種のカテゴリー分けができるだろう。なぜなら人種の区分けに用いられた身体的特徴とは、勝手に選ばれたものであり、遺伝学的・生物学的・人類学的・または社会学的な何の根拠もなく、靴のサイズを人種の区分けに用いることも、まったくこうした現在用いられるシステムに代わるものとして有効なのだ。同様に、言語や宗教、国籍などを人々の区分けに用いるのと同様、人々が食べる肉の量や、人々のヘアスタイルによっても人種的な区分けを再定義することができるだろう。

 何が、こうした人種や民族というものの正確な定義付けを複雑化しているのか、といえば、それが常に変わり続けていることが原因なのだ。300万人のLatinoというものは、米国の国勢調査において米国の1人種グループとして区分けされているから存在するのか、それとも、Latinoとは(本当に)一つの人種グループなのだろうか?もしも現行の国勢調査の人種カテゴリーにおけるWhite、Black、Asian、American Indianという区分けが、Latinoとしての(人種的)経験を反映していないか、あるいはLatinoたちが非Latinoたちによっていかに認知されているかを反映していないならば、そこに「Brown(茶色)」といった人種カテゴリーが追加されるべきだろうか?…その新設される「Brown(茶色)」人種とは、ニューヨークのプエルトリコ系市民や、マイアミのキューバ系市民、サンディエゴ市のメキシコ系市民が当てはめられるべきだろうか?それは、なぜそういえるのか、またはなぜ、そうはいえないのか?我々は、メキシコ系アフリカ人の父親と日系アイリッシュ・アメリカンの母親から生まれた子供の人種は、どう定義づけたらいいのか?そのような問題に、人種や民族というものはどのように関わっているのか?

 1903年に社会学者のW.E.B.Du Boisが言ったこととは、「20世紀の問題とは、カラーライン(Color-Line)の問題だ」ということだ。それは21世紀のキーとなる問題のようにもみえる。Du Boisが年代に沿って記録したものとは程度やコンテクストがやや異なるが、それはいまだにカラーラインの問題なのだ。そのトピックまたは問題は、当初は人種や民族と関わりがあるとはみえなかったが、しかしより詳細な社会学的検証によれば、人種や民族が大きな問題となる場合のパターンjは、頻繁に出現する。人種や民族というものと…<誰がより良い教育や、適切なヘルスケアを受けられるのか、誰が貧困なのか、有害廃棄物の処理場はどこに建設されるべきなのか、誰が雇用され、あるいは昇進させられるか、または─どの人種・民族グループがより一層、死刑の宣告を受け、処刑されることが多いのか?…>といった事柄とのつながりをあなたはどう見るのか?人種と民族は我々の人生のすべての側面、相互に絡み合っているのだ…(後略)
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 Preface(同書の前書き)

 米国における人種と民族間の関係(race and ethnic relations)というときに、我々はそこに2つの国をみる。我々がメディアのなかで、我々自身をそう描きたい、と想像する国、そして我々が実際に住んでいるコミュニティだ。ポピュラーカルチャーにおいて人種がどのように描かれているか、一瞬でも思い出してみるとよい。テレビを点ければ、あなたはすぐに、白人、黒人、ラティーノ、アジア系が一緒にショッピングをし、食事し、働き、そして相互に交流し合う、人種の違いなどもはや意味のないファンタジー空間をみる。典型的なものは、Checkerのファストフードの広告だ。ヒップホップのジングルがBGMに流れるなかで、ドライブスルー・ウィンドウで車にぎゅう詰めになったヤング・アダルトたちがスナックを買おうとする。そこではもう、車内のグループが多様な人種の俳優によって構成されていることなど、目立ちもしない。若者マーケットに商品を売る新しい方法は、人種の境を超え、民族の境を超えている、ということのシックさだ。ハリウッド仕立ての米国の人種関係における、あなたのベスト・フレンドは常に異なる人種出身の人間だ。GapやOld Navy、またはPepsi などの製品を売るためには、多人種によるCMキャストはほとんど必須条件なのだ。このような人種的な涅槃(ニルバーナ)では、多様な人種のハンサムなミドル・クラスの男たちが、アッパーミドルのリビングでくつろぎ、フットボール中継やCoor'sビール・Domino Pizzaを肴にして、人の背中を大袈裟にたたきつつ、結束感と親しみを表わしあう。車のCMや制酸剤、スナックフードや炭酸飲料、ファストフード・レストランなどの広告が、くりかえし、(人種的に)統合され、お互いに同化した、美しく、肌の色に無頓着な米国、をみせる。こうして注意深く制作された人種的なユートピアやTVCMは、異なる人種の俳優たちが人種的にニュートラルな環境、たとえば、Chili'sやApplebee'sレストランのような環境にいるようすが描かれる。米国の、メディアにおける人種的「セルフ・プレゼンテーション」は圧倒的に、統合され、多人種的で、その多くの部分がColorblind(色盲的)なものに描かれている。メディア、とりわけ広告メディアは米国を一種の国際連合の再結成パーティのように描き、そこでは誰もが平等な社会的立場と平等な機会を享受し、全ての者はミドル・クラスなのだ。

 こうしたColorblind(色盲的)な米国の再現とは、人種というものが依然として人生の機会を左右する人種的マイノリティたちに関してはとても誤った表現をしている。例えば、米国の企業社会の人種的な多様性を思い出すとよい。トップ経営者層の上位ランクに顕著な動きがあるならば、人種的な障壁バリアがなくなったといえようが…エグゼクティブ層への進出率などは、非常に小さい。米国労働省のThe Glass Ceiling Reportでは、「"産業界フォーチュン1000社”と”フォーチュン500社"のシニア経営者層の97%が白人で、95~97%が男性だ、としている…米国の人種的マイノリティは、人口の30%を占めるというのに…。(後略…)

*…著者はまた、米国の上・下院など政界の議員数がマイノリティの人口比率や女性の人口比率をまったく代表していない、ということを挙げる。また、国勢調査による2060年の米国の人種別人口構成の予測では、マイノリティの数が圧倒的多数となり、白人は少数派となるとされる──この単純明快な予測をマスコミは把握しているにも関わらず、現在の人種問題による人種間の葛藤、矛盾、文化的集中度の高さによって生じる矛盾、といった社会問題をまったく無視している、と論じている )

*Gallagher による本書の初版は1962年、当翻訳は第3版(2007年発行)──このpreface、イントロダクションはこの講座全体の基本ライン。──

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