Wednesday, March 6, 2013

残忍な世界でのパラダイスへの切符─ムンバイの狙撃実行犯アジマール・カッサーブ、事件の4周年を前に処刑される- Ticket to paradise in a brutal world- By Praveen Swami


残忍な世界でのパラダイスへの切符─By プラヴィーン・スワミ (2012/11/22, The Hindu)

 急増するジハーディストの兵卒たちの背後に横たわるのが絶望にみちた田舎の生活だ、というこ─それはKasab物語が、より一層重要であることを理解させてくれる。

 彼Kasabのことを、世界が「ザ・ブッチャー」(屠殺人)と呼ぶようになったわけは、彼がカラシニコフの攻撃型ライフルで、55人の女や男や子供たち、ヒンズー教徒モスリムを至近距離から撃ったからではなく、その事件彼が南パンジャブ地方の恵まれないカーストに属していたことの証(しるし)となったからだ

   2008年11月26日にチャットラパティ・シバのターミナル駅を、その男が歩いていく姿を捉えていたTVカメラのモニター映像は、何百万人ものインド人た ちにとって悪の相貌となった。しかしそのイメージ、そのストーリーについては語ってはいない─少なくともその重要なポイントに関してはつまり、彼の悪がいかに 平凡なものだったのかというストーリーについては。 
Kassabは犯人たちの中で唯一生き残った

 銃を抱えたその男は、世界を変えるべく殺人を行ったのでもなく、復讐のためでも、名誉金のためでも、まして何かの「動機」に似たもののために行ったのですらなかった。彼は流血というものを…5番目のランクの取るに足りないその人生を、力やその代理(エージェント)というものに到達させることのできる、唯一の手段として(…奇怪に聞こえるかもしれないが…何らかの尊厳ある人生へと到達するための手段だと捉えて、殺人を行っていた。 カッサーブの人生にピリオドが打たれることも、彼とまったく同じような何千人もの男が存在するという事実を、変えたりしない─そのことは、彼のストーリーがより一層、重要であることを理解させてくれる。

貧困にすり潰される The grind of poverty

   Ajimal Kasabは、1987年713日にパキスタンのオカラ地方の小村ファリドコットで、土地をもたぬ小作人の一家に生まれた。パンジャビ州の、Kasabのカーストに属する7大部族は、 ラジャスタン州に住む彼らのライバルのカースト同様に、バッティ(Bhatti) またはコハール(Khokhar)という偉大な部族の子孫だと自称していたしかし彼らは、そのような特質の誤った末端にいた。Kasabの父親、Muhammad Amir Imanは、最後にはその村でスナックを売る手押し車を押し、dahi purisを売り歩いていた。彼の母親のNoori Taiは主婦で、彼女には他に4人の子供があった─29歳のAfzalと、26歳のRukaiyya Husain18歳のSuraiyyaと、15歳のMunirだ。

  南アジアの他の多くの家族らと同様、Imanの一家は、彼らの乏しい収入を長男の教育のために消尽したが、それは報われなかった。Kasabの兄、)Afzal Imanは初等教育を終えるとラホールにわたり、そこでYadgar Minarの近隣の長屋に住んで、肉体労働者として働いた。しかしImanの家族は、第4学年を終えたばかりの無関心な次男を教育する金銭的余裕がなかった。Ajmal Kasab 2000年に13歳でFaridkotにある公立の初等学校をドロップアウトし、年上の兄の許に移り住んだ。彼は何らかの職に落ち着くことはなく、FaridkotLahoreの間を頻繁に行き来していた。

Ajmal Kassab
   そして、Kasab2005年に家に帰った折に父親とはげしい喧嘩をした。「エイドの祭日のために新しい服がほしい、と彼は私に頼んだが、私はそれを彼に 買ってあげることはできなかった」、とIman氏は、カラチの新聞に対して語った。「彼は、怒って出て行った」。彼はもはやAfzalの家では歓迎され ず、半端仕事が見つかるまでの間、Syed Ali Hajveriの聖人の祠で過ごしていた。彼は肉体労働者として働き始め、2007年までにその仕事は、彼に一日に200ルピーの稼ぎをもたらした。

  Kasabには兄とは違って、大きな夢があった。彼はやがて、ラホールで軽犯罪者たちと一緒にすごし始めた。それらの友達のうち、Attockから移住してきたMuzaffar Lal Khanとともに、Iman武装をして強盗を働こうと決意した。2007年のBakr Eidの日に(と彼はムンバイ警察に語った)2人の男らは武器を買おうと、ラワルピンディのRaja バザールに行った。

もう一つの学校へ To a different school

   しかしその市場で二人の男はパンフレットやポスターを配るJamaat-ud-Dawaの活動家たちに出会ったそのグループとは、Lashkar-e-Taiba (LeT) の親組織である。数分間の会話の後、両人は彼らのグループに加わることを決めた彼らのイスラム主義の確信のためなどではなく、そのジハードの訓練が、彼らの犯罪者としての人生を助長してくれることを期待して。

  そのストーリーは、パキスタンのジハーディストの新兵募集の世界が拡大し続けていることを、少なからず物語っている。2009年のエッセイで、パ キスタンの学者Ayesha Siddiqaは、ジハーディストの新兵のリクルート活動を下支えする田舎の絶望というものについて書いている。「数年前に私は、ジハードに参加しようとし ている、Bahawalpurの近くの私の村から来た、若い少年らに出会った。私が彼らに、目を閉じて彼らの未来をイメージするよう頼んだときに、彼 らは謙遜気味に微笑んで、「僕らはあなたに目などつぶらなくても、僕らには何も見えないのだと告げられる」と語った。

  ジ ハーディストの指導者Muhammad Masood Azhar Alviがコーランのジハードに関する4つの詩句を長々しく論じた教本、Fathul Jawwadによれば、田舎が彼らに与える機会というものを、ジハーディストたちは明白に理解していた。そのテキストは貧困な小作農民の聴衆に向けて 書かれていた。Azhar は書いている、「陽の光と水は作物のために重要で、それなくしては枯れてしまう。同じように、国々の生命は殉教者たちに負っている。国家の畑は、 最良の心と魂の血によってのみ潤される。」ジハーディスト運動は、パキスタンの腐敗したエリートたちが貧困層に約束することを拒む地上の楽園よりも、 もっとよい何かを約束し「我々が飛行機でこの世界を飛ぶとき、殉教者たちの魂は緑の鳥の体内に入り、再生のためのパラダイスへと入る」のだ、と約束す る。

 社会科学者のTahir Kamranはこう説明する「マルクス主義やリベラリズムのような代替的イデオロギーも持たず、または封建的な牙城に挑戦しうるような言語的象徴さえ持たないために…(彼らには)武装することが、それに対する数少ない対抗手段として残されている。」

Life in the Lashkar  ラシュカールでの生活
 
 ムンバイ警察の警察官たちはKasabを、彼が捉えられた数時間後に、はじめに病院のベッドの上で尋 問した。インタビューのビデオの中で、彼は何故ムンバイに来たのか、と尋ねられている。警察官は、彼の呟くような答えを聞き取れなかった。「シャバーブ (Shabaab)」。疑わしげに尋ねた彼は、その答えが、ムンバイの街角の会話で特殊な含意をもつ、ウルドゥ語の言葉だと誤解した。「君は女が欲しい ために来たのか?」「シャハダート(Shahadat)」ゆっくりと傷ついたテロリストは答えた。「殉教(martyrdom)。」しかし、さらに尋ね かけられたKassabは、それが何を意味するのかを説明できなかった。それは、パラダイス(天国)に関する何かだった。

   Kasab の世界観というものは、LeTの新たにリクルートされた者たちの「ラーニング・センター」であるMarkaz Taibaによって形成されていた。インドがカシミールで行ったとされる残虐行為に関するフィルムや、LashkarのチーフHafiz Mohammad Saeedらを含む説教者たちの荒々しい講義のフィルムが、彼にLashkarの運動を信じさせたその組織のプレゼンテーションによれば、イスラムの もっと偉大な栄光は彼にとって生命を捧げるに値するものだった。しかし、その捜査に参加した上級警察官がThe Hindu紙に語ったところでは、Kasabは、自分が影響を受けた思想的な冊子や、宗教的書物のタイトルをただの一つも思い出したり、その名を挙げたり もできなかった。彼はLeTの教義については何の理解もなかった。その代わりに警官は、ジハードの訓練キャンプの雰囲気が彼に、長らく人生において失って いた家族の感覚というものを与えた、と指摘した。

  パキスタンの支配下のカシミールでの、Lashkar の2度にわたる21日間の訓練に続く、Lashkarのベースキャンプでの思想教育のあと、Kasab2ヶ月間の休暇をとって家に帰った。彼は人生の殆どで彼が失っ ていた、彼のコミュニティや家族のなかでの尊敬を発見した。かつてはKasabのことが重荷と見なされていた場で、彼は自己充足的な存在とみなされそして 宗教的熱情の後光を宿していた。彼は、言葉を変えれば最後に、彼の家族が彼にそうなって欲しいと望んだ者になっていた。

  その年のその後の日々にKasabは、LashkarManshera近くのキャンプでの上級訓練のために選ばれたその組織がDaura Khaasと呼ぶコースのために。そして遂に彼は、そこでムンバイを標的とするfidayeenのユニットとしてマリン・コマンドーとナビゲーション訓練の特殊部隊となる11人の少数精鋭にすら選ばれた。

 Lakhviの最後の指示とはKasabはいったラッシュ時に列車の駅への銃撃を開始し、人質を取り、そして彼らを更なる指示を受けるテラスへと連れて行くことだった、と。それらの指示は一度も来なかった。Kasabと仲間の攻撃者、Muhammad Ismailは上層のフロアに上る階段を発見し損ねたそして警官たち(Hemant Karkareと、Vijay Salaskar およびAshok Kamte)によって行く手をさえぎられた。この3人の警官たちは殺されたが、Kasabは負傷して人質を取る計画は失敗した。


 LeTの司令官Zaki-ur-Rahman Lakhviはいまや、パキスタンにおいて、彼のこの攻撃への役割に関する裁判にかけられている…彼はKasabに、彼が犠牲になったなら、彼の家族に1.5 lakhルピーの報酬が与えられるだろう、と約束したThe Hindu が接触したパキスタンの信頼できるジャーナリストによれば、彼の家族はそれよりも多い額を受け取ったがしかしその運勢は大きくは変わらなかったという…The Hindu は、この情報を確認するための独自の方法を持ってはいない。

http://www.thehindu.com/opinion/op-ed/ticket-to-paradise-in-a-brutal-world/article4120451.ece?css=print

ムンバイの狙撃犯、事件の4周年を前に処刑される
http://www.bloomberg.com/news/2012-11-21/mumbai-gunman-kasab-hanged-on-four-year-anniversary-of-attack.html

Hang Ajmil Kassab! - 生き残ったKasabは、インドの一般大衆の憎悪の対象となった