Saturday, March 16, 2013

平原生まれの少年ウーゴ・チャベス、格好ばかりの左翼のリーダーとなる…Hugo Chávez: poor boy from the plains who became leftwing figurehead


平原生まれの貧しい少年チャベス、格好ばかりの左翼のリーダーとなる…
Hugo Chávez: poor boy from the plains who became leftwing figurehead
By Rory Carrol (3/5, The Guardian)  

 誰もが、こんな最期は想像さえしていなかった─病院のベッドで、静寂に包まれた、視えない、やつれきった遺体。ウーゴ・チャベスの燃えさかるドラマのような人生も、司令官を演じる彼の姿も…その友人たちや、敵たちもみな…彼についてはオペラのようなフィナーレを思い描いていたというのに
 
 彼は…何十年も政権を支配し続けて、ベネズエラとラテンアメリカを変貌させ…仕事を終えた年老いた男として王宮のバルコニーから支持者たちに別れを告げるはずだった。あるいは…もう一つのパラレルな幻想の光景は─彼が権力から転げ落ち、革命の燃えによって倒され恥辱を与えられその熱狂の日々を社会からののけ者として終える、というものだった。

  しかしその代わりに、58歳の指導者の死火曜日に副大統領のニコラス・マドゥーロNicolás Maduroによって…彼カラカスの病院でガンに斃れたのだと報じられたのだ…オフィシャルな秘密のの陰に、世界を置き去りにして…。バリナスBarinasの平原から来た、絵を描くことや歌うことが好きな少年は成長して軍人になり、クーデターの計画者となり、世界的な大統領となり…勝利と、破壊と、不確実さの曖昧な遺産を遺していった。

 それはシュール…スローモーションのような死だった。彼は、2011年6月にガンを公表して、国民を驚愕させた。コマンダンテ(司令官)が病気?彼は、破壊しがたい者─所有者(possessor)なのだ、と─ガブリエル・ガルシア・マルケスGabriel Garcìa Márquezはいつぞや、彼の鉄筋コンクリートの肉体についてそう書いた。チャベス は一日に30杯以上のブラック・コーヒーを飲み、午前3時まで働き、彼のウィークリーTVショーで8時間ぶっ続けに、台本なしで(あるいは休憩なしで)喋り続けた。

 「我々は、この病を打倒する 」と彼はベネズエラに向かって宣言した…その国を彼自身のサルのための戦いに参戦させて。そして…昨年、彼がキューバでの治療のために公的な場から姿を消して官僚たちが憂慮をし始めるまで、政府は1年半の間、彼がどんなにむくんで見えたり、やつれて見えたりしても、彼は治癒しつつあるのだ…といい続けていた。
  2012年にはチャベスは暫くの隠遁状態を破ってTVに登場し、その日の新聞に書き立てられていた…人質が生存していることを証明するビデオのように。多くのベネズエラ人は、ガンは邪悪な対抗者たちへの計略として装っていたのだろうと思っていた。

 ─しかし、彼は死につつあった。ガンの種類や、そのオフィシャルな診察記録は、フィデル・カストロFidel Castroの医療記録と同じく秘密の場所に匿われた。 死はチャベスをスポットライトの許へと立ち戻らせた。彼の葬儀は、号泣する人々や、外国の指導者の車上パレードが織り成す壮大で騒々しい事件となるだろう。

 1998年に彼が最初に選挙で選ばれて以来、チャベスのことをチャンピオンだと思っていた何百万人もの…その殆どが貧しいベネズエラ人たちは彼を失うのだ。「Uh, ah, Chávez no se va(ううああ、チャベスは行かない)」という呼び声がこだました。ああ、チャベス は行かない。それは、彼の追放しをもくろみながらも失敗した対抗者らに対して、叫ばれたことのある…陽気で大胆な返答のシュプレヒコールだった。いまや…彼は逝ってしまった─しかし彼の、カリスマ性と豊富な石油収入とに裏付けられた「21世紀の社会主義革命」というユニークな実験は、いったいどうなるのだろうか?

 憲法は、30日以内の選挙の実施を要求している。そのスピーディーなタイムテーブルは、チャベスが聖別した後継者のマドゥーロを、組織化に苦戦している野党連合に対抗させることだろう。その野党の候補者とは、若い州知事のエンリケ・カプリレスHenrique Caprilesになるとみられるが、彼は昨年10月の大統領選でチャベスに、精力的ながらも不運な挑戦をしていた。政府は、何週間も前から非公式な選挙キャンペーンを開始してカプリレスに反対するレトリックや中傷宣伝を増大させていた。
 
 ここには沢山の質問がある。もしも カプリレスが勝てば、チャベス支持の市民の私兵勢力や軍の勢力は彼らを受け入れるのだろうか?…肥大した公共セクターや政治化した官僚たちは彼らの政権を妨害するだろうか、あるいは彼らの赤いTシャツ(チャベス支持派を表す)をゴミ箱に捨てて、由緒あるsaltando la tanquera(塀の上でジャンプする風習)を行い、新しい治世を支持するのだろうか?もしもマドゥーロが勝てば、そして彼がもっとも好ましい者だと見られたなら、彼は分裂気味のチャベス支持者の草の根活動家の連合や、思想家(イデオローグ)である市民たちや、軍のプラグマティストたちや、キューバ人のメンターたちをコントロールできるのだろうか?チャベス主義の残党たちはアルゼンチンのペロン主義がホアン・ペロン自身よりも長く生き延びたように、生き延びられるだろうか?
 
 もう一つの質問とは、歴史家や政治的パルチザン(同志)たちも何十年も論議していたことだが、チャベスの遺産とは何なのか、ということだ。彼は地元でも海外でも憧憬と同時に強い嫌悪を掻き立てて、その両極化は両者の側をしばしば盲目にさせた。そこには、テロリストからの資金援助をうけて敵対者を投獄し、人々を飢えのなかに置き去りにする独裁者チャベスがあった。そこにはまた貧困層を力づけ、民主主義を深耕し、反米に立ち上がるヒーロー、チャベスがあった。

 そのリアリティとは、より複雑で魅惑的な存在だった。チャベスはハイブリッドな…民主主義者であり独裁者であり、プログレッシブで、かつ虐待者(苛めっ子)だった。彼の「ボリバル主義革命Bolìvarian revolution)」は…19世紀の革命家シモン・ボリバルに因んだものだったが…こうした矛盾を体現していた。彼はそのパーソナリティでカルトをつくり、再選への制限を撤廃し、私営メディアを制限し、軍と立法府、司法府と政府系石油会社PDVSAを彼の個人的支配下においた。彼はコロンビア国境近くのFarcのゲリラキャンプに盲目的な視線を投げかけ、ムガベMugabeや カダフィ Gaddafi、アサドAssad のような人間たちを賞賛した。(…後略) 
http://www.guardian.co.uk/world/2013/mar/05/hugo-chavez-poor-leftwing-figurehead

良くも悪くも、チャベスはベネズエラ人たちの自画像を変えた By ウィリアム・ニューマン(3/6, Nytimes) 
 
  グラシエラ・ピネーダは、大統領ウーゴ・チャベスの最初の任期中の1999年に、ベネズエラの海沿いで起きた破壊的な土砂崩れで何千人もの人々が犠牲となり…彼女の家が流されて以来…チャベスが再建への約束を果たしてくれることを待ち続けていた。 

 「待って、待って…13年が過ぎたのに、私たちは何も得ていない」、と50歳の女性ピネーダGraciela Pinedaはいう─彼女は瓦礫が散乱し、多くの空家が残る荒地に放置された建物を無断占拠し8人の家族とともに詰め込まれるように住んでいる…そこはかつてはロス・コラーレスLos Coralesと呼ばれる洒落た地域だった。
       

  Ms.ピネーダはいまだにチャベス氏を支持し、10月に彼が更なる6年間の任期を獲得した選挙の際にも彼に投票していた。「彼は、ベネズエラを前進させた」─彼女は昨年暮れに、チャベス氏がガンの治療でキューバの病院に滞在していた折にそう述べた。「彼は最も貧困な者たちの側に立っている。そして我々は、みな彼を支持している。」
  
 経済の数値には問題があり続け、多くの約束は反故にされるか…半分しか実現されなものばかりだった14年間にもかかわらず─火曜日に死去したチャベス氏が遺した根源的な遺産とは、コンクリートや鉄骨の建造物でも、ハイウェイでも、家でもなく…もっと、手では触れにくいものだった─彼はベネズエラ人たちが抱く、彼ら自身や国についての考え方を変えたのだ。

 「彼は、かつては自分たちは民主主義国家の一部だとは思っていなかったような人々に、自分たちがシステムの一部なのだ、と思わせた」と、市民団体 Washington Office on Latin Americaのディレクター、ジョイ・オルソンJoy Olsonは言う。「そういうことは、余り多くの国々で起こってはいない。たとえば米国をみても、貧しい人々は…自分たちがシステムの一部だとは余り感じていない」
それは首都カラカスの街角や、この国のいかなる地域でも目に見える力学(ダイナミクス)なのだ─商店では、憲法の条文コピーや、チャベスの政府が決めた、ランドマーク的な法律を掲載したブックレットを売っている。昨年夏新たに成立した労働法は最新のホットな売れ筋なのだ─あるカラカスのバーテンダーは、暇な時間にカウンターの陰に座ってそのコピーを読み…労働者やオフィスワーカーたち、仕事帰りの道すがら地下鉄に乗ってそれを読んでいる姿も目につく。

   もちろん、政府はそれを物質的な意味でも刻印した。ロス・コラーレスにおける政府の怠慢のカウンター・ポイントとして、マクートMacutoと呼ばれる地域の優良経営の小さな病院は、1999年の洪水の後の復興のシンボルになった。土砂崩れ以前には産婦人科病院だったその病院は、今では拡張されて毎月200人の赤ん坊が生まれ、ドクターたちは眼科や乳がんの外科手術を含む生命に関わる沢山の手術を行っている。そうしたサービスは、すべて無料なのだ。

  しかし、352,000人の人口をもつこの国にたった3つだけある病院の1つは、チャベス氏の革命の矛盾の一例でもある─それは災厄の後に全面的に営業を再開するまでに10年以上を要した。 「それはとても、遅々としていた」と、2010年にその施設を開業した同病院のディレクターのDr.ルス・ステラ・アントリネスDr.Luz Stella Antolinezは言う。「そこには、その仕事を完遂しようとの意志が欠けていたのだ」 

  しかしそれでも、Dr.アントリネスは、チャベス氏を南米の独立革命の英雄シモン・ボリバルSimón Bolívarや、ジャンヌ・ダルクのような人物ににさえなぞらえ、歴史的な人物と呼ぶ。  

「彼は、我々の意識を変えた」、とDr.アントリネスは言った。「ベネズエラはかつての姿に戻ることはない。この何百万人もの国民の全てが、14年間にわたって大統領が彼らと対話したことが、何らかの価値があるものだったのだと知っている」  

 イデオロギーの面ではチャベス氏は一種のカメレオンのような人物で、彼自身の好みに合わせ、政策やプログラムを好き勝手に切り刻んだ。  

 彼は自称社会主義者として、私企業とその資産を接収したが、一方では政府の契約から得る利潤で自らを潤す、日和見主義者にもみえた。 彼は経済的な自立に関して説教をし、国の補助金でグローサリーストアのチェーンを設立したが、農業を無視し、食料供給を輸入に大きく依存した。 彼は資本主義者たちを激しく非難し、国への奉仕をレクチャーしたものの、拡大する腐敗に関しては容認するか、無視していた。   

 彼は民族の自決について語ったが、彼自身はリビアやシリア、そしてイランの独裁者たちと手を結んだ。チャベス氏はベネズエラの貧しい大衆層と、ミドルクラスやアッパークラスとのにある溝を一層深めさせ、深刻に分裂した国の上で首長を務めた。彼は彼に同意しない者たちを容赦なく愚弄し…憤らせ、彼らのことをファシストとか役立たず、裏切り者、オリガルキー、反動主義者、米国の操り人形などと呼んだ。 そして彼は、彼の政府のもとで利益を得た貧困層からそれを奪おうとしていると彼が言う、内外の敵に対して絶え間なく警告した。

 貧困層の生活の条件は過去15年間には確かに改善され、そして貧困層の規模は縮小した。政府のプログラムは、貧困な人々に低コストな食べ物や無料の医療サービスへのアクセスを与えて、高等教育へのバリヤを崩したのだが、しかしそれら多くのプログラムは非効率性と、サービスを受けるまでの長い待機期間によって悩まされた。 

 ベネズエラは世界でも最大の原油埋蔵量を有し、その経済状況は、石油産業によって大きく上下させられる。チャベス氏がはじめに大統領になったとき、石油は1バレル10ドル以下で売られていた。今年、それは100ドル以上で売られている。

 こうした石油による富裕層は彼の運動を後押ししたが、批判者たちは彼の私企業の没収や価格コントロールを含む政策が国の経済を阻害し、生活に必要なベーシックな商品を欠乏させ、持続不可能なシステムを創ったのだと述べる。石油の生産は停滞し、政府の石油公社はその拡大のための巨大な投資に失敗した。8月に石油精製施設で起きた大きな爆発は何十人もの犠牲者を出し、メンテナンスや安全性に関して多くの疑問を生じさせた。  

 電力ネットワークなどの経済に必要な他の重要分野の機能は不完全で、国の多くの地域で恒常的な停電が起きる。道路や橋の状況は悪く、港では交通障害が多発し、石油価格の継続的上昇にも関わらず、国の累積経済成長率は99年以来、南米の7カ国中で最低であると、国連のデータは示している。


 チャベスは彼の運動を彼の英雄のシモン・ボリバルにちなんで名づけて、21世紀の社会主義と呼んだ。しかし、それが本当は何だったのかを、名づけることは困難だ。「Chavismo(チャベス主義)には、イデオロギー的な一貫性が余りない」と、ワシントンのポリシー・グループ、Inter-American DialogueのMichael Shifterはいう。「それは気分的で、感覚的なもので、トラディショナルな政治秩序や、より大きな社会正義への懸念や、排除されてきた人々のより大きな政治参加というものを、真に拒絶するものだ。



 チャベス氏は彼自身が幾度もの選挙で再選されたことを誇りに思い、彼の政府は一般に不正工作が自由にできるとされるデジタルな投票システムを導入した。彼の反対者たちは、チャベスの選挙キャンペーンに巨額の政府の資金が使われたことから、ベネズエラの選挙は自由だが公正ではない、と呼ぶ。



 チャベス氏は権力の民主的な勢力分立を排除した。柔軟な立法府は彼に、彼自身が法を制定する独裁的な権力を与えた。そして彼は彼に忠実な判事が彼の気に入る判決を下すような司法機関をも支配した。彼は国営のテレビ局とラジオ局を権力のプロパガンダマシンの一部に用い、その国でもっとも良く視聴されていた野党のアジェンダを推進する放送業者、RCTVによる放送を強制的に禁じた
  

 チャベス氏の国内での貧困層へのアグレッシブな擁護は必然的に、彼の…最も富裕な国家米国に対する攻撃へと帰結した。反抗的な、反帝国主義的主張によって、彼はラテンアメリカの左翼に力を注入し、米国の影響を低減しようとする左翼的な政府を持つキューバやニカラグア、エクアドル、ボリビアのような国々からなるグループをリードした。そして彼は、ラテンアメリカのアイデンティティを強調し、その均衡を米国の影響からより一層、離脱させようとするより広い地域的グループ─南米諸国の組織Unasurのような組織の形成を補助し、強化した。

  そんななかで海岸沿いの都市は、その長い道路を1999年の土砂崩れから復旧させることに苦闘した。ウォーターフロントの2つの大きなホテルは、かつては人々に大量な雇用を与え、旅行産業で何百万ドルもの利益を上げていたが、二度と再開されてはいない。この12月に予定されていたSouth American Beach Gamesに合わせて、それらを補修しようとした最新の救済策は昨今、放棄されたとローカルニュースは伝えた。

 
 多くの人にとってそれらのホテルの永久的な空室もまた、破られた約束のシンボルのひとつだ。しかし他の者たちにとってそれらは、チャベス氏の貧困層に対する権限委譲(擁護)と、富裕層に支配される国際的秩序への彼の拒絶というものの、ありそうにないサイン(いまいち…信じがたい兆候)でもあるのだ。


 かつてシェラトンホテルの宿泊客のための場所だった砂浜の小さな一帯に近いビーチで、小さなレストランを営む50歳のベンハミン・ホセ・アストゥジョBenjamin José Astudilloはチャベス氏がビーチを、「グリンゴ(米国人)たち」のためではなく、ベネズエラ人たちのために生かすことを望んでいた、という。そして彼はいう、「グリンゴたちはもうここにはこない。」

http://www.nytimes.com/2013/03/07/world/americas/for-good-or-ill-chavez-altered-how-venezuela-views-itself.html?pagewanted=all 

チャベスの後のベネズエラと中東 By ホアン・コール (3/6, Informed Comment)
 
  ベネズエラの亡き指導者ウーゴ・チャベスは、社会主義と反帝国主義は同じものだとイメージして…そして彼は、自分が一種の新たな社会主義インターナショナルを率いることができると考えていた。(彼は反米思想と反帝国主義を区別してはいなかったようでもある。)そのような思考が、彼の中東政策を矛盾を孕んだ、偽善的なものにした。民衆の側に立つと考えられていた男、チャベスは、イランの2009年のグリーン革命の運動に反対し、ムアマール・カダフィを失墜させるためのリビアの革命に反対し、シリアの革命にも反対した。

 イランとは、米国に対する根深い批判者だが、社会主義国家ではない。その国の社会的な不平等の度合を表すジニ指数は、いまや、おそらく1979年に追放された前国王モハマド・レザ・パーレビの時代よりも悪化している。他の全ての産油国と同様に、同国には大きな公共セクターがあるが、同時に、同国は大きな私企業セクターももっており、それはアヤトラたちや、革命防衛隊のような組織を含む、富裕なオリガルキ-たちによって支配されている。イランは右翼的な神権国家だといえるが、左翼的な社会主義国家ではない。もしもチャベスが、単に反米だからというだけで、富裕なオリガルキーの利益のための抑圧的な神権政治を支持するというなら、彼に許されることのないような、どんなロジカルな曲芸があるだろう?


 同じように、リビアのカダフィに対するチャベスの支持は、リビアの政治的、経済的、社会的システムに対する極度に表面的な解釈に基づいたものだった。カダフィ・ファミリーはその国から富を奪い、それをアフリカの破滅的な冒険のために浪費し、あるいは…それを西欧の銀行や不動産に貯めこんでいた。リビアは社会主義国ではないが、ポスト・ソ連タイプの、ロシア・スタイルのオリガルキーだった。一般のリビア人たち、特に東部の住民たちは…その国の石油の大当たり(bonanza)の分け前から…ますます阻害されつつあった。私は昨年その国を訪れた際、ベンガジが余り発展しておらず、いかにみすぼらしい街なのかにショックを覚えた。カダフィは明らかに、その国で第二の都市に多くの金を使うことを拒否して、懲罰を与えたのだ。


  カダフィは…2010年には特に反帝国主義者
とはいいがたかった。彼はヨーロッパ諸国が彼の国の石油・ガス産業に投資することを歓迎し、ブッシュ政権との関係もかなり改善させていた。反米とはかけ離れた状態で、カダフィはコンディ・ライスに特別な好意を持ち、バラク・オバマのことを。アフリカの息子と呼んだ。チャベス自身の協力者であったイランは、あるアヤトラが「この戦争ノイローゼにかかった(頭が混乱した)個人ら」と呼んだ…闘争するリビアの民衆たちのことを広く支持していた…勿論、イランはNATOの空爆による干渉に対して非難したのだが。

 シリアもまた、もはや社会主義
国家ではない。支配者のアサド一族の親族や取り巻きたちは、彼ら自身を億万長者となし、政府との繋がりを利用して実入りのいい契約を結び、モノポリーをうちたてた。過去10年、シリアの勤労者たちは実質賃金の低下と高い若者の高い失業率とに遭遇した。貧困は拡大していた。シリアもまた特に、反帝国主義ではなかった。1970年代、80年代のレバノンや、シリアのバース党員たちは喜んでパレスチナの解放組織を潰すことに協力した─そのドゥルーズとムスリムの連帯者たちを、親米の右翼的ファランジスト党(キリスト教徒の支持を受けた)の名の下に潰していたのだ─。

 9月11日に以降シリアの政府は、ブッシュ政権のためにアル・カイダの容疑者らに拷問を行った。2003年にシリア(との連帯)を断ったのは、他でもなく米国議会だった。そしてオバマが2009年に米国大使館を再開して関係改善を模索したとき、アサドは完全にそれをハッピーに受け入れた。

 彼はまた、こうした国々が反米的
存在だとイメージし(イランだけが真にそうだったのだが、)そしてそうしたスタンスが、そうした国のエリート層がおかした数多くの罪を清算する(カバーアップする)と信じていたように見受けられる─そうした国の(富を)略奪し、彼ら同士でその巣(恣意的な逮捕や拷問を行う専制的独裁制と警察国家の巣)に集まって羽根を休めていたエリート層の罪を。リビアやシリアの例では、その政権は何千もの国民を、市民の居住地域に対する空爆や、重火器や戦車からの砲撃によってすすんで虐殺した。米国の帝国主義は中米での多くの罪や、ラテンアメリカ全般の右翼独裁政権への支持において有罪だ。それはチャベスにどんなに悪い印象を与えたかを理解できるだろう。しかし米国は1960年に、アルジェリアなど、君主制を撤廃した多くの国々を支持し、そして「帝国主義」とは、すべての包括的(網羅的)な分析ためのツールであると同時に、薄っぺらい笛の吹き口(リード)でもあった。そこには資本主義のロシアが、中東の一部で超大国としての優越性を獲得すべく模索している、という感覚がある。チャベスはそうした状況の進展に、喜んで連帯した。

  チャベス政権下のベネズエラの中東での姿勢は、いかなる実際的意味でも重要ではない。その冗漫な言葉数の多さにも関わらず、そのイランとの経済協力は両国にとってマイナーなものだった、そしてチャベスはリビアとシリアに関しては、怒れるスピーチを行っただけだった。イランとベネズエラの良い関係は、米国におけるヒステリーを大いに誘発したが、しかしそれは、経済や国の安全の範疇においては、重大ではない。米国の強硬派による暗い予測にも関わらず、ベネズエラが現在の外交政策を維持するか否かは余り重要ではない。


 しかしチャベスは確かに彼の進歩的(プログレッシブ)なレガシーを、彼の「反帝国主義」に対する表面的な理解がもたらすものと…中東のネオ・リベラル主義的警察国家がいかなる存在となったのか、を見抜けない彼の無能力で汚してしまった。

http://www.juancole.com/2013/03/venezuela-middle-chavez.html