Thursday, August 16, 2012
彼らは神を信ずる:保守主義者のアメリカ例外主義と、信仰心の問題 In God They Trust: How the conservative belief in American exceptionalism has become a matter of faith. - By C. Hitchens
彼らは神を信ずる:
保守主義者のアメリカ例外主義への信条は、いかに信仰心の問題となったのか
By クリストファー・ヒッチンズ (11/21/2011, Slate.com)
18世紀が終りを迎えた時期、いくつかの植民地(コロニー)からなる小さなグループが、苦難の末に巨大な帝国の足下からの離脱を果たした。その結果として生まれた国家というものは、おそらく、北西のチリとでも呼ばれる以上に大きなものではなかった─それは山々と海の間に挟まれた、単なるリボン状に連なる長い沿岸地域にすぎなかった…もしもそこに、急激に成長しつつある新・共和国(new republic)の影響力というものの余地を認める、植民地帝国同士の競合意識がなかったならば。そしてライバル帝国のうちの一つは、同国が深刻な財政危機に陥ったときに、新共和国に対してその領土を倍以上の規模へと拡大するに十分な領土を、叩き売りの底値で売却した(*)この新たな領土というものはあらゆる面で豊かな土地であり、航行の可能な河川による広大な内陸盆地へのアクセスをも許した。こうした探索というものを通じてこのシステムは、最終的に別の大洋に面した海岸線の土地や、金のような望ましい鉱物の広大な埋蔵資源を有する土地を発見させるにいたった。そして、この地域のいま一つの巨大な土地─ 今日、アラスカとして知られる地域─ は、新共和国の代理人らに対して殆ど気まぐれ同然に売却されたのだ…今日、「石油」として知られるその莫大な埋蔵資源とともに…(*1803年10月20日にルイジアナがフランスから15百万ドルで割譲された際、1エーカーあたりの売却価格は4セントだった。)
そして、そうだ…思うに米国というものの側には何らかの、良き「運(luck)」、あるいはフォース(力、force)、宿命(destiny)とでもいうものが備わっていた、と言えるのかも知れない。そしてそうした運というものが確かに…平凡なリアル・ポリティック(現実主義的政治)よりも以上の何かがそこにある、と感じていた最も世俗的な建国の父たちのなかにもあったのだろう。たとえば、トーマス・ペインは、新たなエデンの園と、フレッシュな再出発の考えに取り付かれて(新大陸へとわたった)─そして、後の日にロナルド・レーガンに引用させた言葉─つまり、ヒューマニティは世界を再び最初から始めなおす力を発見したのだと私は思った…と彼が語った際に引用した言葉とは、トーマス・ペインのものだったのだ。
もちろん、それがどんなエデンの園であっても、そこには蛇と原罪が存在したことだろう。少なくともアメリカの場合、トーマスペインはそれが何を意味するかのを、とても明瞭に理解していた。奴隷制という卑しき汚点(vile stain of slavery )はどこにでも存在していた、ちょうど綿花農場が生み出すとんでもなく高い利益率や、アフリカとの交易によっていとも簡単にもたらされる無給の労働力といったものが、新・共和国の理想をその端緒から堕落へと陥れたように。このような歴史的犯罪への報いは、不正な手段によって獲得された富の大半を、無駄に消尽させるような戦争へと導いた。一方では、その市民戦争は資本主義と、拡大主義的な国家の勝利を招いたのだが、やがて新・共和国というものはフィリピンやキューバ、ハイチ、プエルト・リコといった国々の名以外のもとにのみ残る帝国となった。
そうした道筋において、Albert Beveridgeのような政治家が、「マニフェスト・デスティニーmanifesto destiny」の思想や、アメリカ人が世界を支配するための生得権をもつ、という思想(the natural right of Americans to a dominant role )を唱えたことは、避けがたかった。こうした思想のなかに含まれる自負心や、あるいはそうしたものの喪失といったことが、現今の大統領選のキャンペーンのテーマ(主題)であるべきだ、という人々がいる。候補者が待ち伏せインタビューに遭遇して、アメリカという国はより不運な者たちを導くべく丘の上で「輝く」かがり火のごとき、特別な模範的国家であると信じるか…それとも否定するか…などと質問されるとも予想できる。これよりもやや低位のスケールにおいて世論調査に回答する人々は、最近、彼らがこうした言葉に同意するか、しないかと問われた─「我々という国民は完璧な国民ではない、しかし我々の文化というものは、他の文化よりも優越なのだ」…といった言葉に。この、後半のポイントに関する最近の世論調査の結果では、アメリカ国民の半分をやや下回る人々がこうした、気の抜けた提案への賛同を示していた…(アメリカ人が)完璧だとか、優越だという声明に、最も多くの人々が票を投じるのかどうかは明らかではないのだが…。
特にこれが忠誠の誓い(loyalty oath)のようにも見え始めたという意味では、私はこの根底に横たわる問いが、軽率だとか、愚かだとか…あるいはその両方だとして退けられるに違いないことだろうと思う。アメリカとは果たして、「神によって選ばれ、世界の模範(モデル)とされるべく、歴史によって信任された…」(chosen by God and commissioned by history to be a model to the world)ものなのだろうか?こうした問いに対して答えを持つように見える者は誰でも…たとえば、かつてGeorge W. Bushがそう見えた時があったように…ばか者のようにもみえる。そもそも第一、彼にとっての情報源とは何だったのだろう?そして、彼は歴史家としては、どの程度の人物だったのだろうか?長い目で見るなら、ローマ帝国を生き延びた者たち(サバイバーたち)のなかで、凍りついた、後進的な英国の島々がグローバル・システムを建設する次なる者の一員となるなどと予測したものは、ごく僅かしかいなかった…しかし、彼らはそれを証明した。そしてブリテン人、もしくはイングランド人たち…特にプロテスタントの原理主義的な者たちは、神が彼らの側にあるものと信じて疑わなかった。実際に、私はそれと同じ様な趣旨をもつ何らかの国家的神話をもたないヨーロッパの国々、というものを知らない。問題なのは…誰もが知っていることなのだが、こうした神話の数々がすべて正しいなどということが、同時的には成立しないとことなのだ。
長期的な視野による「宿命(デスティニー)」というものの思想は、アメリカの国力や威光の衰退、というものに対して抱かれる短期的な憂鬱感というものに、簡単には同化することはできない。これは不思議な事実だが、現今の政治的季節に、アメリカの力というものに対する疑念を最も抱いているのはアメリカの右翼なのだ。私は個人的に、これはおかしなことだと思う… それでもアメリカは再び、大いなる歴史的なシフトに対してそれ自身を正しい立場へと、どうやら据えなおしたのだ─つまり、アラブの春(the Arab Spring )に対して…しかし、その第一ラウンドにおいては、アメリカはそれを余りうまく、「読み解いて(解釈して)」はいない。そして未だに、共和党の(大統領選の)指名を求める候補者たちの大半の言動は気難しくて、不平に溢れたものがある。
私はBernard-Henri Levyが、彼が反対したイラク戦争の初期にこのようにいっていたのを思い出す─アメリカは本質的にファシズムと、ナチズムに対して反対を唱えるという点においては正しい、そしてまた、さまざまな形態の共産主義に対して反対することにおいても、本質的に正しい、と。…それ以外の全ての彼の言い方はご大層な解説かあるいは、牛の糞のようなものだった。このようなことは、現今の状況においても当てはまるようにみえる…最近の、ビルマやヴェトナムの情勢に関しても、またそれと同様に、リビアとシリアの状況に関しても…だ。群衆というものは、そこにアメリカのスーパー・パワーがあることを喜んでいる…ただ単に、それがモスクワと北京の勢力との均衡を保つ、という面だけにおいて。おそらく、もしもホワイトハウスに居るのがオバマ大統領でなかったならば、我々の右翼たちはこの点をもっと素早く見出して、そして賞賛するのに違いない。
古代の賢人は我々に、「驕り(hubris)」を怖れよと教え、そして聖書は自負心(pride)というものが生じさせる罪について教えた。私はいつも、アメリカの保守主義者たちが彼らの主張する歴史的な特殊性とするものについて、なぜもっと懐疑的にならないのかとの驚きを感じてきた。しかし、それを宣言することによって彼らは、とても悪い季節のように見えるものからの爆風に対して彼ら自身を再度、元気で奮い立たせようと試みているかのようにみえる。
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/fighting_words/2011/11/how_the_conservative_belief_in_american_exceptionalism_has_become_a_matter_of_faith_.html
*ヒッチンズが昨年暮に亡くなる直前の、Slate誌の最後から2本目の コラム
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