Tuesday, February 21, 2012

9-11からアラブの春まで From 9/11 to the Arab spring By Christopher Hitchens

Tunisian protesters with a picture
of Mohamed Bouazizi 

クリストファー・ヒッチンズが、死を前にして、
いくつかのメディアの紙上でアラブの春と革命運動を回顧していた

「この10年間世界の出来事に対して戦闘的な姿勢をとってきたHitchensが執筆活動を回顧した」 

クリストファー・ヒッチンズ/ 9・11からアラブの春まで Christopher Hitchens: from 9/11 to the Arab spring By クリストファー・ヒッチンズ  (9/9/2011, The Guardian)

   3人の男たち: Mohamed Bouazizi、Abu-Abdel Monaam Hamedeh、Ali Mehdi Zeu… チュニジアの街頭の物売り、エジプトの料理店主、…そしてリビア人の夫にして父親だった男性─その最初の男は、2011年の春にSidi Bouzidの街で、卑劣な官僚主義の手によるひとつの余計な屈辱に抗議して、彼自身に火をつけた。2番目の男はちょうど、エジプト人たちが集団でムバラクのエジプトの停滞と無意味さに反抗運動を始めたときに、自らの生命を絶った。3番目の男も、彼自身の生命を絶つと同時にそれを捧げたといえるのかも知れないのだ─ つまり、彼の質素な車にガソリンとホームメイドの爆薬を満載して、ベンガジのKatiba兵舎のゲート…リビアでの嫌悪の的、気の触れたカダフィ政権のシンボルのバスティーユ…を突破しながら。

人類の長い争いのなかで、「殉教」という概念は、そのヤヌス神のような2つの顔とともに自らを現すペリクリーズの葬送の祈り(*1)から、ゲティスバーグ(リンカーンの、奴隷解放と人民平等をうったえた演説まで、自らの存在よりも大きな何かに突き動かされて、喜んで死を選ぶ者たちには栄誉が与えられてきた。より懐疑的な目でみるならば、死ぬことに対して熱情を抱く者たちには、過剰な熱心さや自己への正当化、そして狂信性さえも疑われた。

私がその昔、支持していた英国労働党の党歌(anthem)は、深い真紅の色の旗について情熱的に語っていたのだが、それは、「死んだ我らの殉教者の遺体を覆っていた」とも歌っていた。私の母校オックスフォードのカレッジの窓辺の下に立っていたのは…そして、今も立っているのは…オックスフォードの殉教者(Oxford Martyrs)らの記念碑なのだ。CranmerとLatimer、Ridleyといった主教たちがプロテスタントの異教徒として、カトリックのQueen Maryの手で1555年に火炙りにされた。1世紀の末に、カルタゴで教会の父 Tertullianは「殉教者らの血は、教会の種子だ」と書いた。そして盲目的な信仰を抱く殉教者たちとの連帯というものは、何世紀もの時代を下っても一貫して保たれ、火刑に処された宗派はやがて彼ら自身が火刑を執行する側となる日を待ち望んだ。私は、労働党は彼らに課された罪からは免じられるだろうと思う。それは1969年の1月に、ソビエトによる祖国の占領に抗議してWenceslas広場で焼身自殺をした若いチェコ人学生のJan Palachにとっても可能だろう。私は、オックスフォードで行われた彼の名誉をたたえる記念集会の開催にも助力したが、私はその20年後の1989年のベルベット革命に貢献して、反体制の亡命者たちや出版の中心となったPalach Press社との繋がりをも持った。この繋がりというのは完璧に世俗的、文明的なイニシアティブで、一滴の人間の血をも流す原因とはならなかったものだ。

  とりわけ過去10年間のあいだに、「殉教者」という言葉は冷血で愛のないゾンビのような──自爆殺人犯のMohammed Atta、すなわち、彼が想像しうる限りの膨大な罪のない人々の命を死の道連れにした男の、狼のようなイメージで完全に傷つけられた。Attaのような男を見いだして訓練した組織は、それ以降、英国からイラクに至るまでの多くの国や社会で犯した言いようのない犯罪の数々に責任があり─そこで彼らは、冷血で愛のないゾンビがノーム(社会的規範)となって、文化は死に絶えるようなシステムを作ろうと試みた。彼らは、彼らが生よりも死を愛するゆえに彼らは勝つのだ、と主張し、また生を愛するような者たちとは、か弱くて腐った堕落者なのだと主張した。実際に2001年以降に私が書いたすべての言葉は、我々の間にはそれを説明してみせるだけで終わる人々もいるなかで、明白にあるいは隠然と、こうした憎悪に満ちたニヒリスティックな命題に対しての拒絶や、反論を試みたものなのだ。

チュニジアとエジプト、そしてリビアの殉教者らは、AttaよりもPalachのように考えて行動していた。彼らは生命を奪おうなどとは考えなかった。彼らはむしろその生命を、瀕死の寡頭政治の体制から不都合な存在として扱われる農奴たちよりも、ハイレベルな状態で生かしたいと望んだ。彼らは汚れた言葉で自慢げに、彼らの殺人行為が彼らに死後の肉体的生命への気味の悪いファンタジーを抱かせる余地について、主張したりしなかった。彼らは、耳障りに叫びつつヒステリー状態の中で棺を担ぎ上げるような暴徒たちを、鼓舞しようとは考えなかった。Jan Palachは彼の身近な同僚たちに、彼の振る舞いの深い理由とは(故郷の)占領ではなく、その「春」が凍れる冬にその道を空けるような酷い無気力が、プラハ全体に根を下ろしたからだと告げた。生きながら死んでいるような状態でいるよりも、人生肯定的な死を好み、アラブの春の先駆者たちもまた同様に、彼らの後継となる者たちを刺激し、彼らが市民となるための途を熱望するよう願った。潮は引いて波も引き、風景は再び茶色がかって埃に覆われるのだが、しかし、アラブの心からTahrir広場の模範やエスプリを追い出すことは何者にもできない。ここに再び、人々が彼らを繋ぐ鎖や牢獄の看守を愛することはないことや、そして文明的な生活への望み…つまりソール・ベローの描いたAugie Marchが、不滅のフレーズで言い表わしたような「誰もが普遍的に有する高貴さへの適格性」というものが、すべての人にとって適切で、共通であることが示された。

  2009年2月にベイルート・アメリカン大学でのレクチャーを行うよう招かれて(「中東の真の革命家たちとは誰か?」とのタイトルを与えられて)、私は当時、おぼろげに見え隠れしていた数少ない火花に関して私のベストを尽くして語りまくった。私はイランで芽生えはじめていた市民のレジスタンスについても、例に挙げた。私は、エジプトの偉大な反体制者で政治科学者で(政治犯として収監されていた)Saad-Eddin Ibrahim…いまやTahrir広場の抵抗運動の知的な父の一人である…の言葉も引用した。私はレバノンの「Cedar Revolution(杉の木革命)」の運動自身─それは希望の季節をもたらし、その継続がレバノンの(シリアによる)長年の占領を終わらせたのだ─についても、賞賛した。私はイラクでSaddam Husseinのカリギュラのような専制政治に「終り」の幕を下ろすことに協力したクルド人の勢力を支持したが…彼らは同時に、その地域で最も抑圧された最大の少数民族として自治もはじめていた。私は Salam Fayyadの著作を称賛したが…彼は「パレスチナ自治政府」のバロック的な腐敗に「透明性」をもたらそうと試みていた。こうした人々はてんでばらばらで共通点はないが、しかし私が期待し信じかけているのは…彼らは新たな布を織り出すだろう存在として繋がりのない糸ではないだろう、ということだ。

  読者たちのかなり多くは(残念ながら、殆どのアメリカ人たちを含めてと私はいいたいが)、私のことをある種の喜劇のからかわれ役者とみているのは確かだ。彼らにとっては革命の正当性は、ハマスやヒズボラのようなグループに属している…彼らはグローバルな巨人(colossus)への決然たる反対者で、シオニズムに対抗する疲れを知らぬ戦士たちだ。私にとってはしかし、このことは、長い間歴史的に継続している議論のもう一つのラウンドである。端的に言うなら、この進行中の論争は、反・帝国主義的な左翼(anti-imperialist left)と、反・全体主義的な左翼(anti-totalitarian left)との間で起きている。そこに、様々な形で私は巻き込まれてきた─両側のサイドに─私の全人生にわたって。そして、いかなる紛争のケースでも私はますます、反・全体主義の側につくことを決意しつつあった(これは大したことのように見えないかもしれないのだが、何かが、経験というものを通じて見出さねばならないのだ…単に原理原則 principleといったものから導き出されるだけではなく)。多元的共存主義(pluralizm)を善だとみなすような勢力は、そのために彼ら自身の意見が「穏健的」(moderate)に響きがちだろうが、彼らははるかに根本的に革命論者でもある(そして、より長期的にみても、彼らがよりよい反・帝国主義者をもつくるだろうことは、とても確かだ)

  こうした視点のどれもを進化させ、研ぎ澄ましていくためには、米国という思想(idea of America)に関するコンスタントな議論が必須とされてきた。現状ではそこには、私の帰化した国(米国)に関して、その信頼性や資源(resource)の面での衰退についての、もっとイージーな議論が存在する。私は、この中傷に参加することを選ばない。そのことが認識されようとも、されまいとも…権力が分散化された世俗主義的共和国というものは未だに…発展の途上か、あるいは今すぐ起こりそうな、いくつかの民主的革命というものの近似的モデルにすぎないのだ。アメリカ合衆国は、時には、このような模倣というものに相応しい尊敬に値することもあり、そうでない時もある。それが相応しくない時とは、すなわち…すウォーター・ボーディング(*waterboarding:CIAによるテロ容疑者への水責め) に対する疑念のケースなどにおいてだと、私は言わんと試みたい。私が信じるに、この国の草創の時期からの文学や手紙は、なんらかの革命と解放の思想(revolutionary and emancipating idea)への忠誠を、その通りに提示している。

アラン・フィンケルクラウトAlain Finkielkraut が「野蛮さ(Barbarism)」というものについて書いたのは、さほど遠い昔ではない…「それは、我々の先史時代からの継承物などではない。それは我々が踏む一歩一歩にまとわりつく、安っぽい犬(コンパニオン・ドッグ)のようなものだった」。私は自分の書く文章の中で、過去の全体主義からの数多い教訓の例を挙げながらも、そうした野蛮性の亡霊を消し去りすぎないように努力してきた。そして、いつの世も変わらぬ古い敵…レイシズムや、指導者崇拝や迷信が…それと関連する姿をとって、(しばしば、新たな擁護者のボディーガードに護られて)我々の間に現れるのを認識するのはなんと、容易いことなのだろう。何年ものあいだ、私はこの陰惨なたたかいの仕事を和らげようと試みてきた…文化や文明に貢献した作家や、芸術家についても書くことを通じて─単に、抽象的に弁護され得るような言葉や、コンセプトだけではなく。その試みには私は何十年も要してきたのだが、最後に私はウラジミール・ナボコフVladimir Nabokovについても書いた…

権力というものを一度もその手に掌握すべきでない人々とは、ユーモアのない人々だ。彼らはあり得ないほどに確実に、公正に、退屈さや画一性と手を結ぶ。米国という思想の本質的な要素とはその多様性なのであり、それゆえに私はいつも、それ自らだけのために面白い物事や、ばかばかしいけれども暴露的なことや、あるいは、単純にそのこと自体が興味を引く物事…を祝福しようと試みてきた。そうしたことのすべては、たとえば私の blowjobにおける人文科学art and science of the blowjobを論じた短いエッセイのテーマにもあてはまる─しかしそれらの記事は、ユーモア欠乏症がジェンダーの違いによる、ということを論じた私のエッセイのような、最も即座に誤った解釈をされがちな私の記事から私を救ってくれる事はなかったのだが。しかしそれでもなお私は、こうしたちっぽけなスケールの冒険もまた、制限や禁忌事項(すなわち、それが社会の最必須要件sine qua nonであると、みなされるようなもの…それは荘厳さや、信心深さを追い詰める仕方を知っている)に支配されないような会話のために、幾らかは貢献したものと信じていたいのだ。*sine qua non=an essential element of conditionある状態を生み出す際、最も重要な条件となるような要素

"Arguably"(Hitchens' last
 anthology book)
   私の最初のエッセイ・コレクション、1988年のPrepared for the Worstの序文のなかで私は、ナディーン・ゴーディマーNadine Gordimerの考えのことを書き添えた…シリアスな人間は、死後においてものを書くべきだ、という旨のことを。私はつまり彼女が、人間にとって日常感じている抑圧、つまりファッション(服装)についての抑圧や、商取引(商売commerce)上の抑圧、また自己検閲や世論、特に、知識人らの意見から受ける抑圧などが何も作用を及ぼしていないような状況で文を書くべきだという意味だ、と受け取った。その通りに生きることはおそらく不可能なことだろうが、こうした忠告と野望は、かなりの筋力を備えている…その試みがどのように朽ち果てる可能性もあるかの、警告を含むという点においても。すると1年ほど前に私は医師から、私が残りわずか1年ほどしか生きられない可能性がある、と告げられた。結果として、私の最近の記事の幾つかは常に、私の本当に最後の記事になるかもしれないとの充分な意識のもとに書かれた。一方で覚醒したり、また活気を生みだすような刺激を受けながらも、この実践とは、明らかに完璧化されたことはなかった。しかしそれは私に、なぜ人生は生きるに値するか、そしてそれを弁護するに値するかのについての、より一層ヴィヴィッドな考えというものを与えてくれた。
 http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/09/christopher-hitchens-911-arab-spring

*註1:シェークスピアの「ペリクリーズ」。古の詩人ガワーが語る、タイアの領主ペリクリーズの波乱万丈の物語 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

*ヒッチンズはフランス革命の心をアメリカの独立建国に伝えたThomas Paineが気に入っていたようで、彼の伝記風の本を書き、自分自身もヨーロッパから米国に渡った。彼はかつては左翼的と目されていた作家だったがイラク戦争中に米国に帰化し、サダムの全体主義に抗議してイラク戦争を擁護すると表明して、米国の読者を爆発的に獲得したのだとか… 
ヒッチンズの亡くなった昨年12月15日は米軍のイラク完全撤退の日だった…
*この記事はガーディアンに載ったバージョン。チュニジアとエジプトの"革命"に触発されたアラブの春に関してはロング・バージョンの記事をVanity Fairに、ショートバージョンをSlate.comに載せていた─
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