Thursday, February 17, 2011

チュニジアは成長した・Tunisia Grows Up - By Christopher Hitchens


チュニジアは成長した
─初代大統領ハビブ・ブルギバの遺産のもとに、
ジャスミン革命が進歩するように望みたい─ By クリストファー・ヒッチンズ(1/17,Slate.com)

 私は、3年前にチュニジアを訪れたとき、そこにある主要な問題というものが簡単に見て取れるように思った。その国は公けには、近代化、世俗主義、そして発展、を標榜している─ それはずっと昔に、「西欧化」と呼ばれていたものだ─ しかしその国は、その国民たちを真の大人として信用してはいなかった。この国には1956年にフランスから独立し、1957年に共和国となって以来、たった2人の国家元首しか頂いておらず、そしてその2人目の元首は宮殿内のクーデターによって権力の座についた。私は、Zine el-Abidine Ben Ali大統領に会ったことはないが、彼の表面的な身体的特長を識別する試験ならばパスできる、なぜなら彼の顔は見回せばどこにでもみられたからだ。彼は、選挙においては90%以上の票を獲得した:こういうことは滅多に、よい兆候であることはありえない。警官たちの姿がインターネット・カフェにみられた…それもまた、意気消沈させられる兆候だ。これら全ての状況へのオフィシャルな弁明とは、イスラム過激派に対しては特別な対策がとられねばならない、というのだったが─しかし、そのような誘惑的な言葉をいう者たちは…ソール・ベローが「Augie March」の冒頭に書いた言葉を忘れている:「誰もが、抑圧には繊細さも精密さもないことを知っている:もしも、ひとつのものを抑えつけたら、その隣にあるものも抑えつけねばならない」 *写真はチュニジアの宮殿の大統領護衛隊

 それでもチュニジアは、すべての建物に彼の名前をつけるような途方もない専制君主がいたり、巨大だが無駄の多い軍隊がのさばっていた国のようには見えない。隣国のリビアやアルジェリアなどと比べれば… Muammar Qaddafiの個人的な、過剰な誇大妄想狂的な独裁主義や、全面的な内戦(アルジェリアの場合は最近の記憶でも15万人の命を奪った)等を防ぎながら、チュニジアは比較的良くやっていた。そして、その政治的な空気には、表立った恐怖政治のようなものよりも、活気を奪われた、体制順応的なものがあった。おそらくチュニジアの群衆があれほど素早く動員され ─軍のリーダーシップを、数日間で警察から分離し─すぐさま結果を出せたのは、単純に彼らにはそれができると判っていたのだろう。そこには…たとえばイランの聖職者たちと対立した抗議の群衆が遭遇していたような状態…全面的な抑圧と流血が起きる可能性などは乏しいようにみえた。かくして、そして悲しいことに、チュニジアの出来事はこの地域の他の国々での、草の根の動きの先駆けになるというのは尚早だろう。(それでも、カダフィ自身がこの反乱に取り乱したリアクション(回答)を発したこと…「ボルシェビキ、またはアメリカの革命」…に対する恐ろしい予見に怒り狂っているのは実に心強い。彼がつまり、うろたえていることがよく分かる。

 私は、エドワード・サイードが私に、チュニジアへの旅行を楽しむように、と言ってくれたことを思い出す:「クリストファー、あそこには行ってみるべきだ。あの国は、アフリカで最も穏やかな国だ。イスラム原理主義者たちでさえも、とても礼儀正しい(高度に文明化されている)のだ」そして確かに…そこにはただ、少しだけ人を惑わせるようなdouceur de vie(人生の楽しみ)がある─それは地中海沿いの街や村々のフランス風の道路や広場などに、何世紀にもわたるイスラム教の研修センター都市の風光明媚なKairouan(カイルアン)の街や、TunisとEl Djemのなかにある息を呑むようなカルタゴやローマの遺跡にあり、また南東の海岸沖にある歴史的なユダヤ人の島Djerba、といった場所にある。2002年の4月にEl Ghribaの古代のシナゴーグでアル・カイダがトラック爆弾を爆発させたときには、政府は迅速な団結を表明してその再建に着手したし、またチュニジアの議会にはこの地域では珍しくもユダヤ人の上院議員もいる。道路脇ではジーンズ姿の若いカップルが伸び伸びと手をつないでおり、そして私は、ベールやブルカはもちろん、ヘッドスカーフもめったに見ることがない。

 私は先週、若い女性の抗議デモの参加者が(メディアに)インタビューされていた際、彼女とその友人たちを「Bourguibaの子供たち」、と描写していたことに興味を覚えた。この国の最初の大統領であり、独立運動の頑強なリーダーだったHabib Bourguibaは、フランス啓蒙主義からの強い影響を受けていた。彼は世俗主義を自制心(克己)の要素として、多くの人々の心に定着させた。彼はラマダンの断食を公けに破り、こうした長い宗教的休日は近代的な経済への望みを弱体化させるものだ、といった。彼は顔を隠すベールに対しての軽蔑を表し、女性の権利を保護する数々の法の制定を支援した。1967年の戦争中には、彼はこの国のユダヤ人コミュニティに対する蜂起を防ぐべく確固たるその立場をまもり、他のアラブ諸国の首都においておきていた恥ずべき光景の発生を避けた。他の多くのアラブ諸国より以前から、チュニジアはイスラエルとの真摯な平和条約のなかに利益を認めた(同時に、チュニジアは1982年にPLOがベイルートから駆逐されたときにはそのホスト国となった)。

 Bourguibaのことは過度に理想化せずにおこう─彼は、時おり「変人」とも呼ばれたし、誤ったアドバイスに従ってリビアとの「連携(Union)」を提案したこともあった─しかし彼は、チュニジアの世俗主義と女性の開放を、彼自身の仕事として支援したたのだといえる─単に、西欧の資金援助者たちを喜ばせるだけのためにではなく。来る数週間のうちに…Ben Ali政権のペロン風のけばけばしさが実質的にそれ(Bourguiba)のことを否定した後の今日…このBourguibaの成し遂げた達成がどのように持ちこたえるか、には強く興味をそそられる。
 私はここに滞在中に、Mongia Souahiという名の女性の神学教授と話すために、"Zitouna"、または"オリーブの木の"モスク、と呼ばれるモスクに附設されたTunis大学を訪ねた。彼女はなぜ、ベールがコーランの中で何の権威も持たないのか、ということを説明している複数の学問的著作の著者だ。その彼女の著作に対する回答の一つは、Rachid al-Ghannouchiというチュニジア人のイスラム原理主義者によるもので…彼は彼女をkuffar、または不信心者と呼んでいた。これは誰もが気づくように、彼女の人生を背教者として犠牲にすると宣言する前触れでもある。私は、Ghannouchiと彼の組織Hizb al-Nahda(日曜日のNew York Timeでは「前衛的」と描写されていたが)に会うことをやや警戒した、そして彼が、ロンドンから故郷に帰ろうとしている途上であることを知った。今日までに起きた(チュニジアの)反乱には、神政主義による微妙な色合いは目だって見られないが、しかし私がエドワード・サイードと語ったときには「al-Qaida in the Islamic Maghreb(イスラム的なマグレブのアル・カイダ)」という名前はまだ知られていなかったし、そしてDjerbaにおけるテロ攻撃も、まだ先の日のことだった。我々は、チュニジアでの革命がその枠を超越して、Bourguibaのレガシーを…否定するのではなく…その許に、より良いものへと発展することを熱望するべきなのだ。
http://www.slate.com/id/2281450/

*この記事は1月17日掲載だが筆者の予測に反して、この直後にチュニジアの革命の余波がエジプトの革命運動を引き起こした…両国の反政府運動家たちにはもともとFacebookを通じた強い繋がりがあった
*写真: Hitchens