Tuesday, February 15, 2011

「ムスリム同胞団」のブギーマンを恐れるなかれ!Fear Not the Muslim Brotherhood Boogeyman - By Juan Cole


西欧で「過激派」とみられがちな、ムスリム同胞団の実態についての記事がふえている…


「ムスリム同胞団」のブギーマンを恐れるなかれ!By ホアン・コール(2/15, The Truthdig.com)

*ブギーマン:子供をさらうお化けのこと

*写真はタハリール広場の抗議運動に参加したムスリム同胞団リーダーたち 
 
 アメリカのメディアによるエジプトのムスリム同胞団についてのヒステリー状態は、無知なだけでなく、デマゴーグ的だし、偽善的だ。
 アメリカは、その目的にかなう場合は、他の国においてもムスリム同胞団の支部を積極的にプロモートしてきたし、そこにはアフガニスタンやイラクも含まれている。さらに、イスラム世界の中では、トルコとインドネシアの民主化への移行のケースなども、イスラム原理主義者の政党が自らを民主主義的な性格の団体に変貌させた例として、我々に何かを教えてくれている。

 2005年というつい最近まで、実利主義的なムスリム同胞団は議会の下院議席の約20%を占める88議席を持っており、それゆえ、ある意味でエジプト政府のジュニア・パートナーでもあった。彼らはそれだけエスタブリッシュ(既成権力)化していたために、2008年の4月6日のFacbookによる抵抗運動キャンペーン(エジプトの繊維工場労働者の賃上げと労働環境改善を求めた)に対する支持は、拒否した。そのキャンペーンから「4月6日委員会」が発生して、彼らが今年1月25日の街頭デモを呼びかけるにいたった。ムスリム同胞団は今年の抗議運動に対しても、その最後の瞬間というものにだけ参加し、そのリーディング・フォースにはならなかったことの理由だ。

 日曜日(2月12日)には、ムスリム同胞団は軍の新政権に対して、過去3週間に収監された若い抗議運動家たちを含む、すべての政治犯を釈放するよう要求した。そのリーダーはさらに、政府が市民の自由を奪うことを許してきた非常事態法の停止を求めた。彼らはまた、新しい閣僚が前政権の汚職を捜査すべく任命されるよう求めた。

 土曜日(2月11日)に同胞団は声明を出し、エジプト軍の最高指令が国の安定化と民主化への任務につくことを賞賛した。原理主義者グループは彼らがエジプトの支配権を追求することを否定し、また来たる大統領選に立候補者を出さないことも誓い、新たな議会を支配するための戦略は何も持っていないと断言した。

 ムスリム同胞団は度量の大きさをみせた─なぜなら、彼らが宗教政党として選挙戦を戦うことを禁じている憲法の条文が廃止されるか否かは不明で─そしてそれは過去にもあったように、他の政党がポピュラーな同胞団にも同じ選挙区内で出馬してほしいかどうかにかかっている。さらに、エジプトでの世論調査では、同胞団がたとえそれを目的としても、議会の多数派を制する可能性の兆候がないことを示している。(*2/5-8のカイロとアレクサンドリアでの世論調査では支持率は約15%だった:http://www.worldtribune.com/worldtribune/WTARC/2011/ss_egypt0137_02_11.asp彼らのリーダーたちの幾人かは、イスラエルとの和平合意の是非に関して国民投票をすべきだとも主張している。しかし依然として有力なエジプト軍が、そうしたステップを容認するとは恐らく考えられず、そしてもしそれが行われても、世論調査では和平合意が勝つであろうことを示している。どちらにしても、同胞団はアヤトラ・ホメイニが1979年のイラン革命において「民主主義」という言葉をイスラム的ではないと言って拒絶した際、好んで使ったような物の言い方をする事はない。

 「前・連邦判事」と呼ばれるAndy McCarthyなる人物がメディアのあちこちに出ては、ムスリム同胞団について、ひどく不正確なことを主張していたようだ。そして、教皇Innocent3世が1213年に破滅的な第5次十字軍を送り出した時以来の、エジプトについての深い無知をさらけ出した。McCarthyは、同胞団がエジプトのサダト大統領を1981年に暗殺したとし、またアル・カイダのAyman al-Zawahriはこのグループに所属しており、ガザの原理主義政党のハマスもエジプトの同胞団の支配下にあると主張していた。彼が何百万ものアメリカ人に主張したこれらのことは全て、お笑いを誘うような間違いなのだ。

 同胞団は1928年に、学校教師だったHassan al-Bannaが復興運動の一環として創始したが、それは英国の植民地主義による影響にも抵抗した。Paul Barmanや他のネオコンたちによる主張にも反して、al-Bannaはヒットラーとムッソリーニを忌まわしい人種差別主義者として完璧に非難し、そして彼の運動はヨーロッパのファシズムとは何のかかわりもなかった。第2次大戦中の英国によるエジプトの再占領に対抗して、その組織は1940年代と50年代の初めにはテロリストの分子を育てた。しかしその暴力に対する強い弾圧が組織を地下運動化し、周縁化した。

 1970年代には、サダト大統領が同胞団を再起させ、暴力の行使を回避させ、市民社会の一部となるように規定し、政府は投獄されていたそのメンバーを開放し、彼らを比較的自由にした。彼らが誠実に守ったこの取引が、今はアル・カイダNo.2であるal-Zawahriのような過激派をして彼らと決別させ、彼らに対して強く弾劾させるに至った。偉大なる中東専門家のSean Hannityに対して、偉大なる中東専門家のMcCarthyが言い張っていたことにも反して…サダトは同胞団によって暗殺されたのではない。サダト大統領は彼と、同胞団とを共に拒否した、過激主義者によって暗殺された。

 同胞団は、エジプトでさえも権力分散化されている組織だ。それは、国際的に組織されてはいない。たとえばヨルダンのムスリム同胞団は、本質的にはエジプトの組織とは別の組織だ。ハマスは、その遠い源流は1930年代の同胞団の変節者たちにあるが、今はカイロから何の指令も受けていない。その他にムスリム同胞団の系統を分かつ組織といえばイラクのイスラム党があり、それはジョージ・ブッシュによる侵攻とイラクの政権運営に協力した。ムスリム同胞団は原理主義組織だ。それは女性の権利に対して比較的敵対的で、またエジプトを市民による世俗的な法律から、保守的な文語調の中世のイスラムの伝統へと回帰させるとのヴィジョンを抱いている。彼らの文学は最悪の種類の反ユダヤ主義にいろどられている。しかし何十年もにわたる抑圧はその運動を破壊しなかったし、今より一層の弾圧がより効果的だと信じられる理由はどこにもない。

 その他に、この問題に対処するべきと実証された方法がある。イスラム世界において、過去10年間の間に民主化という意味で成功したサクセス・ストーリーは、トルコとインドネシア(*http://www.pbs.org/wnet/religionandethics/episodes/march-19-2010/islam-in-indonesia/5898/ )での例なのだ。この両国では原理主義的な傾向はリベラルなものに変わり、議会選挙のプロセスにおいて国内的なものに変化した。ムバラクの政権は機能しなかった。トルコとインドネシアでの民主主義は、機能した。今回だけは、勝利した者たちと共に行こうではないか。
http://www.truthdig.com/report/item/fear_not_the_muslim_brotherhood_boogeyman_20110215/

エジプトのブンブン同胞団… Egypt’s Bumbling Brotherhood-By スコット・アトラン (2/2, New York Times)
 エジプト人たちが、彼らの未来の政府をめぐって衝突していたとき、アメリカ人やヨーロッパ人たちは繰り返し、彼らのムスリム同胞団に対する恐怖を表明していた。「政府を打ち樹てても、すぐさま民主主義の運動は打ち樹てられはしない」と、英国前首相のトニー・ブレアは月曜日にいった。「君たちのなかには他の勢力がある、特にムスリム同胞団だ、彼らはこれを違う方向にもっていく」
 その前日、米議会の下院議長John Boehnerは、エジプトでの制度的改革を行う間に同胞団と他の過激派勢力が権力を握ることを避けるため、ホスニ・ムバラクがエジプト大統領として留まることを望むと表明した。

 しかしここに、少なくとも多くのエジプト人たちが実態と見るものがある。1928年に、西欧に触発されたナショナリズム運動がエジプトを外国勢力から開放することに失敗した際、これをライバルとみなしてイスラムの力を復興を求めたムスリム同胞団が設立された。しかし83年間にわたり、彼らは全ての機会を無駄にしてきた。今日エジプトでは、同胞団にはおそらく8千万人の人口中、10万人の熱心な信奉者がいる。そして彼らが、1月25日の最初のカイロでの蜂起の支援に失敗したことは、今やアラブ世界全体に広がる蜂起のスピリットに対して彼らを脇役に追いやった。

 この過ちは、元外交官でノーベル賞受賞者のエル・バラダイを支援しようと彼らが決めたことで、さらに悪化した。同胞団のスポークスマン、Dr. Essam el-Erianはアル・ジャジーラに対して語った、「政治グループらが、政権と交渉するためにエル・バラダイを支援している」。しかし、エル・バラダイがタハリール広場に歩み入ると、彼が西欧メディアで有する巨大なパブリシティにも関わらず、多くの人が彼を無視し、彼のもとに集まった人々の数は少なかった。火曜日にDr. Erianはいった、「エル・バラダイが暫定政権を率いるべきか否か、彼を支持すべきかどうかは分からない」… こうした日和見は多くのエジプト人たちを冷笑させる。

 水曜日、軍が抗議の群衆を追い出すために、ムバラクの支持者らと平服の警察官たちをバリケード内に入れた際に、同胞団はチャンスを得ていたかもしれない。彼らは、デモの群衆を抑圧しようとする試みへの抵抗で、組織的な粘り強さをみせることで、その失った梃子の力を取り戻せたかもしれない。
 しかしながら、同胞団は多くの人々の支持を得られそうなこの歴史的瞬間には到着しなかった。エジプト人たちの間での彼らへの支持は ─しばしば20%から30%の支持率といわれるが─ それは、世俗的な反体制グループに対する何十年もの弾圧という状況のなかで、たまたま起きた状況的偶然のなす支持率、という以上のものではない。

 英国の支援を受けた旧国王King FaroukやGamal Abdel Nasser大統領(在任1956-70)、 Anwar el-Sadat大統領(在任1971-80)らも、新聞編集者で人権運動家のHisham Kaseemがムバラクの元で最後まで経験したことと同じ問題に直面した。「もしも人々がカフェで会って、政権が嫌うような話をしたなら、ムバラクはすぐさまカフェを閉鎖して、我々を逮捕するだろう」、とKaseem氏はいう。「しかし、モスクは閉鎖できない、だから同胞団は生き延びたのだ」。もしも、エジプト人たちが政治的に息抜きできる場を与えられたなら ─とKaseem氏はいう─ 同胞団の重要性はたちまち失せるだろう…。「この蜂起では、同胞団の姿は殆ど不可視だ」、と彼はいう、「しかし、アメリカやヨーロッパなどの、彼らをブギーマンとして恐れる人々にとっては違う」。

 海外の多くの人々は、同胞団が貧しい人々のためのヘルス・クリニックや慈善事業を行うことにより、政治的な影響力を得ているもの、と信じている。しかしエジプトで真に貧しい人々は、政治的に余りアクティブではない。そして、同胞団のGuidance Councilの元メンバーのAbdel Moneim Aboul Fotouhによれば、同グループは人口1800万の都市カイロにわずか6つのクリニックしかもっていない。他の多くのクリニックは、単に多くのエジプト人がイスラム教徒だという意味のみにおいて、イスラム教系列である。そうしたクリニックに資金援助をするやや富裕なビジネスマンたちは、彼らのビジネスを政府の圧力から守るというだけの目的では、同胞団のことを避けがちである。

 同胞団は、その源流が民兵組織として作られたとはいえ、今日ではそれは政治闘争における暴力の行使を否定する。このことが、彼らをアルカイダによる敵意の対象にする。1月26日に、前のエジプトのイスラム主義ジハードのリーダーでアルカイダの代表的戦略家であるAyman al-Zawahriは、同胞団の議会選挙への参加を望み、核武装を否定する意志を強く非難した。彼は「お前たちは、イスラムに対して誤った同盟関係にある」と彼は同グループを非難した。「お前たちはシャリア法のルールを忘れ、お前たちの国での十字軍の基地を歓迎し、お前たちが禁じられている核兵器で十分に武装した、ユダヤ人の存在を認めている」 ~(後略)
http://www.nytimes.com/2011/02/03/opinion/03atran.html?sq=bumbling brotherhood&st=cse&scp=1&pagewanted=all 
 
エジプトの暫定政権を握った、軍部のリーダーたちとは誰なのか?

エジプトの火山の下で By ぺぺ・エスコバル(抄訳)(2/15、Asia Times)

(~前段省略)
我々のコミュニケは、君らのよりも大きい

 …軍の最高評議会の、このコミュニケ・ジャンキーたちは一体、何をするつもりなのか?街の群衆は彼らがみな、ムバラクの取り巻き連中だったことぐらい知っている。彼らは大方、皆70代だ…それは、クーデターのリーダーで国防大臣・陸軍元帥のMohammed Hussein Tantawi、75歳に始まる…彼はペンタゴンのロバート・ゲーツ長官とはとても親しい間柄だ(決定的なことは:Tantawiはムバラクの親衛隊である共和国防衛隊の司令官から、トップに上ったのだ)

 彼らは皆、米国がその毎年ごとに行った何十億ドルもの「資金援助」を通じて、軍が所有し、エジプト経済の全産業を支配する巨大なビジネス王朝の、ステークホルダーの地位に押し上げた者たちだ。このシステム全体を捨て去らない限り、新生エジプトが生まれる手立てはない─それゆえに、街の群衆は軍を迎え入れざるを得ない…行く手に待ち受ける巨大な花火以外は。今この時においては、将来対立しあう可能性のある相手とも、互いに学びあわねばならない。「秩序ある権力移譲」を抜け出て…Mohsen el-Fangari大佐によれば「平和的な権力委譲」へとはいることで、「選挙によって選ばれた市民の政府による支配と、自由民主的国家の設立」を可能にするべく。それはすべてがJimi Hendrixのパープル・ヘイズのようだ。軍が文民主導の暫定政府にスムーズに権力を受け渡すことなど、考えるのはやめたほうがいい。

民主主義を爆撃せよ、ベイブ

これは若者主導の革命だったというだけではなく、今や巨大な労働階級に率いられた運動だ。次のステージでは労働階級─そして小作農民たちが─加速的に決定権を握ることだろう。ブロガーのHossam El-Hamalawyがいうように、「我々はTahrir広場を今や、工場にしなければならない」。政権による最後の弾圧は、労働ストライキが野火の如く広がったときに起こった。そして地下運動からの直接民主制の概念化が進んで、国の永久的な革命を引き起こした。「西欧」は震えおののいた。

 同時に、1月25日のリーダーたちは、ワシントン、テル・アビブとリヤドを意識していた─そしてムバラク主義の買弁たちの階級が─エジプトの民主化を絶対的に阻止するだろうと。最終的には、Walhallaの賄賂から法律や選挙のプロセスにおける、陰なる操作までのすべてが起こりうる。例外はたった一人の軍幹部が大統領に出馬することだ─それはたしかにCIAの遺産の「拷問のシーク」スレイマンではありえない、しかしたぶん軍の参謀チーフのSami Anan、63歳だろうか─彼もまた米国で多くの時間を過ごし、ペンタゴンにはTantawi以上のコネを持っている。

~(後略)
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/MB15Ak01.html