Saturday, September 19, 2009

パンナム機爆破事件(2)/Lockerbie: More evidence of cynical machinations behind Megrahi’s release By Julie Hyland


21年前のパンナム機爆破犯メグラヒの、突然の釈放─
彼のリビアへの帰還が、大西洋をまたいで大騒ぎになったその背景は?

*温情により釈放されたメグラヒが、故郷で英雄並みの歓迎を受けたシーンに、米英の国民が激怒した。しかし米英が彼を犯人に仕立てたという説も未だに根強い。真実への証拠は早い段階で消され、隠蔽がなされたともいう…彼を訴えた当時の証人はCIAから金銭をもらったと暴露していた…(右写真:LybiaへのMeghrahiの帰国を歓迎したQaddafiの息子Saiif Al-Islam)
                                       ロッカービー事件:メグラヒの釈放に隠された、さらなるシニカルな策謀の証拠 (9/2、By ジュリー・ハイランド、World Socialist Web Site)

 この週末をはさんで、1988年のパンナム航空機103便爆破の犯人として「唯一」告訴されていた人物、Abdul Baset Ali al-Megrahiの釈放に際して英国およびリビアの政府が行った取引について、ま新しい非難が集中している。(末期ガンを病みつつ終身刑にあった)Megrahiがスコットランドの刑務所から8月20日に釈放されたのは、表向きは「人道的」な処置とされるが…航空機爆破による犠牲者やその遺族たちへの配慮はまったくない、と非難されている。そればかりか、英国の資本主義者が地政学的、経済的な利益を確保しようとする努力の汚れたエピソードには、シニカルな批判が強まっている。

Sunday Timesは、政府が2007年にリビアと締結した、受刑者たち全般の引渡し条約への合意(PTA)の対象から、Megrahiは除外されていたとの証拠も得たという。(*それにも関わらず今回、急にMeghrahiは釈放された)同紙は、法相Jack Strawがスコットランドの司法長官Kenny MacAskillに宛てた手紙で、Megrahiをその引渡しの対象から除外することについて、リビアを黙らせるよう説得はできなかったと書き送ったが、「英国の圧倒的な国家利益の見地にたった場合」にリビアとのより広範な取引が困難となる局面へと至り、同国へのその要求を取りやめた、と報じている。

 その6週間後、さらにTheTimesは、英国のBP(旧BritishPetroleum)社が石油とガスの掘削に関して、15百万ポンドに上るリビアとの契約締結を確実なものとしたと報じた。Strawは、PTAに関する討議では、Megrahiが受刑者引渡し合意の名目では本国に送還できなくても、末期ガンを病むという彼への「温情」のベースでは釈放送還できるという、「学術的な」ディベートに終始したのだと語った─ これはMacAskillが「一人で」おこなった決断の根拠だといい、スコットランドの人道に関する法律にもかなっているのだという。

 たとえロンドンとエジンバラの政府の両者がこのMegrahiの運命をめぐる売り言葉に買い言葉な論戦を続けたとしたとしても、彼らはなおも上記のような言いわけを維持するだろう。この彼らの言い分はほとんど信用に値しない。 もともと、Megrahiの罪状については大きな疑念が存在するが、英国とスコットランド政府が、彼を有罪だと主張し、また彼が8年間服役した時点で釈放しようとしていることが、いっそうの疑念を呼ぶ。

 Timesは、リビア政府のアドバイザーを務める国際弁護士で、収監中のMegrahiを訪問したSaad Djebbarのコメントを引用している:「もしも、Megrahiがスコットランドで刑死した場合、それは何年にもわたる大きな影響を巻き起こし、英国の産業に不利をもたらすものとなるだろう」

 MacAskillとスコットランド国民党は、スコットランドと英国の政府が、異なる権益と倫理観に導かれた二つの顕著に独立した存在で──そのために(両国のリビアとの)貿易に関するベーシックな配慮などがMegrahiをめぐる考察のなかに持ち込まれることはありえない、としている。

 そして、Megrahiが、彼の近々の釈放が報道でリークされた当日に、それまで続けていた無実の異議申立てを取り下げたことには「何か、胡散くさいもの」があった、とMilesはTimesに語っている。「自分は、何があったのかはっきりとは判らないが、しかし英国とスコットランドの政府はその異議申立ての取り下げを望んでおり、そのためにそれが取り下げられたことは、確かだろうと思う」と。 

 これとは別に、TheDaily Mail紙は、「スコットランド法務省の不正告発者(whistleblower)」と名乗る人物からの「リークのeメール」を掲載したが、そこではMegrahiが申立てを取り下げることが、故郷リビアへの帰還を打ち固める必須の条件だったと訴えている。 「このアピールの成功は、米国、英国そしてスコットランド政府にとっての屈辱だ──つまり、誰もが英国史上最悪のテロリストの非道行為に、責任の所在を見出せなかった、ということだ」と同紙は訴える。

 どのような特殊な推測がなされようと、そこにはMegrahiの故郷への帰還をサポートすることで権益の一致があったように見える。さらに、その決定はLockerbieでの爆破事件の周囲の、それに先立つ20年間にわたる超大国の二枚舌、そして特にそのリビアとの関係という状況と、隔絶した(無関係の)ものとして考慮するのは不可能である。

 そして特に、パンナム航空103便がNYシティに向かう途中のスコットランド上空で爆破されたとき、真実と、生命を奪われた人々の正義への探求は、常に大国の政治的、商業的な利益に従属するものとして扱われてきたのだ。

 爆破を行った責任は当初、その6ヶ月前に米軍によって旅客機を撃墜され、290人の乗客の命が奪われたイランに対して課せられた。しかし当時ワシントンは、第1次湾岸戦争の開戦を計画しており、イラク攻撃に対するイランの黙認を得る必要があった。そのイラク攻撃に反対していたリビアは、米国によって特に選び出され、米国はリビアがパンナム機爆破の責任を認めて(その容疑者であった)二人の男、MegrahiとLamin Khalifah Fhimahの引き渡しにも同意することを要求して──米国は1992年、リビアに経済制裁を加えた。

 それに続く時期、このいかにも不可能な要求が可能になる幾つかの事件が起こった。ソビエト連邦の崩壊は、Muammar Gaddafi大佐に彼の反帝国主義的な物言いを放棄させ、西欧との妥協を促した。そしてヨーロッパの石油企業──特にフランスとイタリアは──彼ら自身の、世界6位の石油埋蔵量を有するリビアでの権益確保に熱心だった。

 1997年に英国の労働党が政権を握り、行き詰まりが打開された。懸念を高める英国の石油業界はヨーロッパの競合会社との戦いに負けるわけにはいかず、ブレア政権は2人のリビア人容疑者引渡しの交渉を仲介し、そして1000年に米国、英国そしてリビアがネーデルランドでの彼らの裁判実施に合意した。

 その法廷ヒヤリングは、米英のリビアの資源へのアクセス確保のための努力の背景(バックドロップ)となった。数々の未解決の質問にもかかわらず、多くの人はリビア人や、Fhimahの無罪放免については懐疑的と考え、Megrahiは2000年に無陪審の法廷において有罪の判決を受けた。リビアはそのエージェントに対する「責任を認め」、そして経済制裁の解除と引き換えに(パンナム機爆破事件の)賠償金支払いに合意した。

 それに引き続いて、リビアは中東での戦争をしたがっている米国と英国に、911のテロ攻撃の余波の中で諜報的な情報を提供した。2003年、国際的に大きな反対の高まる中での米国のイラクへの先制攻撃にひき続き、リビアはその初期的な核開発プログラムの放棄を宣言し──ワシントンとロンドンが彼らの「テロとの戦い」が成果を挙げている、とする主張を支持する裏づけを与えた。

 リビアへの国際社会の制裁は解除され、イラク侵攻開始のわずか1年後の2004年3月に、トリポリにハイレベルな外交上の訪問を行ったブレア首相は、競合他社のなかでAnglo-Dutch Shell 石油会社との5億5千万ポンド相当のガス掘削権の契約を得たリビアのカダフィ大佐からの、温かい歓迎をうけた。

 先週までのMegrahiの釈放に対する米国の政治家たちの弾劾にもかかわらず、ブッシュ前政権はこうした策略に深くかかわっていたのだ。 ブレア首相に続いて、トリポリを米国の国務長官補で中東特使のWilliam Burnsが訪問したが、彼は1969年のクーデター以来、はじめてリビアを訪問した米国高官だった。彼がブッシュから手渡した手紙には、「二国間の相互関係 bilateral relations」という言葉が含まれたが、米国企業からの石油資源と、天然ガスなどのその他の戦略資源へのアクセスへの要求を暗に示唆した暗号的な言葉だったのは確かだった。 2007年のブレアによる訪問は数多くのエネルギーと防衛上の合意を達成したが、そこにはBPとの2百万ドルの天然ガス掘削計画の合意も含まれていた。2008年には米国政府は国務省でリビアの外相、Abdelrahman Shalgamを招聘した。その年の9月、Condoleezza Riceは55年間でリビアを訪問した最初の国務長官となった。11月には英国とリビアがPTAを締結した。

 レポートによれば、2009年の最初の5ヶ月間、英国のリビアへの輸出は前年比48%増の165.4百万ポンドに達し、そしてリビアからの輸入─特に石油─は同48.5%増の966百万ポンドに達したという。
英国だけではなかった。リビアで確認済みの埋蔵石油資源は世界の埋蔵量の3%と見積られるが、その多くが手をつけられていない。これは大国間での─少なくとも、ロシアへのエネルギー依存からの脱却を図りたいヨーロッパ諸国の間だけでも、熾烈な競合の対象となっている。
 過去数年間にイタリアはトリポリへの50億ドルの賠償支払いに合意した。おそらくその長年の植民地支配への賠償だろうが、それは「インフラ整備プロジェクト」にターゲットをすえており、イタリア企業に顕著な権益をもたらすものとなっている。2007年12月にはフランス大統領ニコラス・サルコジがカダフィに会い、1470億ドルの武器輸出と原子炉開発の契約に合意したという。

 ロシアは過激にアクティブである。昨年、ウラジミール・プーチン大統領がリビアへの460億ドルの借款について、Gazprom社のガス掘削事業などを含む大きな二国間取引と引き換えに、債務免除するとした。先月、トリポリとモスクワは原子力の平和利用の条約を締結、ロシアの石油会社Tatneft は「リビアのトリポリの南345キロメートルのGhadames盆地の石油資源ブロックを成功裏に掘削した」、と発表した。
 Guardian紙の9月2日の記事で、前リビア大使のMilesは、「英国政府が、英国の交易への支持をやめるべきだと(…イワン雷帝に大使を送ったヘンリー8世以来初めての交易であるかの如く)考えているような誰かにだけ意味をなすような、英国とリビア間のこれ以上の情報公開への要求というものを非難したい。そしてイタリア人や、フランス人、米国人、ロシア人などにもその場を譲りたい」、としている。「誰がいったい、それをよいアイディアだと思うだろうか?」と。
http://www.wsws.org/articles/2009/sep2009/lock-s02.shtml


*米国人Jim Swire氏(右)は娘 Floraを Lockerbieでの航空機爆破で亡くしたが、Al-Megrahiは無実であると主張、疑惑の追及を訴えていた…これら米国の遺族たちの反発も英国政府によって無視されたのか?

*スコットランド司法長官のMacAskillは、当初、Megrahiの人道的釈放を独断で行ったとされ非難の嵐に遭った。 しかし英国のブラウン首相は9月5日、リビアとBP社の間の9億ドルの石油取引契約が、受刑者引渡し合意とMegrahi釈放に大きなウェイトを占めていたことを認めた。MacAskillは「米国からの非難を避けるために」、Megrahiを受刑者引渡しとしてではなく、温情に基づく釈放としたという。

オバマ大統領はこの釈放を強く非難、米議会も調査を求めた。カダフィ大佐の息子はこれらの批判を痛烈に一蹴したとか。英国は開き直ってもう動きそうにない。時を経た疑惑を曖昧に葬り去ろうとしているのか?
→註:この後暫くしてQaddafiはMeghrahiを通じたリビアのこの事件への関与を公式に認めて、CIAの陰謀説の方は否定された。つまりBP社との石油取引と引き換えにMeghrahiを露骨に釈放したことは公認の事実となった。
→Meghrahiの末期癌を疑う報道もあったが、2011年8月末Meghrahiがリビアで「本当に」死に瀕していると報じられた。
Lockerbie bomber found dying in Libya
http://www.guardian.co.uk/world/2011/aug/29/lockerbie-bomber-found-dying-libya

パンナム機爆破事件(1)/Colonel Gaddafi: with friends like these...  By Damien McElroy


世界の退け者から、新たな存在感を回復したリビア?
カダフィ大佐は、クーデター40周年の祝賀行事を派手に打ち上げた

カダフィ大佐…こんな奴らが友達?
西欧とのデタント新時代のリビア、その40年来の専制的リーダーは変わらない  (8/31、The Telegraph, UK)


 1969年9月1日の明け方、Muammar Gaddafi大佐はリビアの君主政に対し、クーデターを起こした。そのカーリー・ヘアと男性的風貌で、27歳のGaddafiは自分自身をアフリカのチェ・ゲバラになぞらえていたが、ゲバラと異なり、彼は自分が失敗する可能性にも備えていた。彼はラジオでその最初の声明を読み上げたとき、彼のターコイズ・ブルーの…ナンバープレート23398 LBのフォルクスワーゲン・ビートル…を素早く逃走できるよう、傍に準備していた。

 しかし、予測されたクーデターへの反撃はなかった。ボスポラスで遅い夏を楽しんでいたIdris王はイスタンブールに留まり、彼の王室のCyrenaicanの護衛たちは、兵舎の内部にひき籠り続けた。ボリビア軍により拘束されて処刑されたアルゼンチン・ゲリラたちと同じ運命を辿るかわりに、Gaddafiは国際的にも有名になった─あるいは、より正確にいえば、ロナルド・レーガンを挑発した砂漠の狂犬 "Mad Dog" として悪名高い存在となった。
 
 その若き革命家は、過去40年の間も数多くの象徴的な化身を演じてきたが、彼はその熱意や、華麗なけばけばしさを少しも失っていない。彼が今日もその典型的な過剰なスタイルでイスラム社会主義共和国の建国を記念するとき、Gaddafi はまるで、その多額の財産のお陰でエキセントリックな奇行が容赦されている叔父さんのようでもあるし、または批評家たちが言うように、北アフリカの最富裕国でその国民を未だに絶望的な貧困にさらし続けている、気のふれた専制君主のようでもある。
 
 Gaddafiの同僚であるアフリカ諸国のリーダーたちとは異なり、世界の、他の国々のリーダーたちは首都トリポリでの気前のよい祝賀行事に出席しなかった。先週、エリゼー宮を訪れていたクレムリンのスポークスマンも、彼らの主人らは行事に出席する予定を立ててはいないと丁重に断っていた。しかし、リビア人たちが、世界が彼らのリーダーの虜だ、と信じているのを阻むことは難しそうだ。建国記念行事の直前になされた、Lockerbie事件の爆破犯Abdelbaset Ali Mohmed al Megrahiの、スコットランドの刑務所からの釈放というのは、Gaddafi大佐の重要性と彼のマニピュレーターとしての衰えなき能力の証明を、この上なく吹聴した。彼らが国際社会の圧力のもとで彼の裁判権を譲渡したとき、人々の"brother leader"であるGaddafiは人々に対して、Megrahi とその仲間の容疑者al Amin Khalifa Fhimah(*有罪宣告された人物) が国へ帰ることを保証した。いまや、その悔いなき大量殺人者は死を迎えるために故郷に帰り、リビアの政権は勝利に沸いている。

 しかし病気で衰弱した男の釈放は、世界的なリーダーとして認知されることを望む専制君主にとって奇妙な栄冠ともいえる。彼の最初の冒険(賭け)とは、毛主席をまねて、彼のグリーン・ブック(「毛沢東語録」風の小さな手帳)を発行し、議会への国民の参政権なしに打ちたてた民主主義(人々が組織する議会内の委員会が国政を管理する)という、複雑な政治理念の概要を記載したことだった。サダム・フセイン同様 Gaddafi もまたフィクションに手を染め、15編の小説を書いた──そのうちのいくつかは、ピエール・サリンジャー(元ケネディ大統領のスピーチライター)も巻き込んだ。しかし、彼とイラクの専制君主との主な類似点とは、Gaddafi が常に、彼の国が備蓄する石油が生み出す富を投入して虚栄心にあふれた政治的手腕を揮い、無感覚で残虐な行動によって自身の策謀に資金を提供したことだ。そのために提供された現金は1兆ポンドを超えると推定され─未着手の資金もあるが─パレスチナからフィリピンのならず者分子の革命運動に対する資金を提供してきた。そして、トロール漁船にアーマライト式ライフルとセムテックス爆弾をのせてIRAにも送り届けた。リビアの高官たちは国内でも海外でも、凶悪な(殺人者の)免責権をもちいて行動した:1984年のリビア大使館員によるロンドンの女性巡査 Yvonne Fletcher に対する狙撃事件で、だけでなく。

 テロ国家としてのその名がもっとも高まっていたとき、リビアはシリアやイランとともに"Axis of Evil" (悪の枢軸)の原型の一部でもあった。西欧の諜報機関によれば、「イランがその攻撃を考案し、シリアがそれを計画し、そしてリビアが実行に移した」、ということだった。そうしたミッションのうちのひとつは1986年の、米兵たちがよく通っていたベルリンのナイトクラブの爆破事件だ。レーガン大統領はそれに対し、英国にいる米国の工作員たちにトリポリをターゲットに爆破を行うようにと指令を発した。Gaddafi大佐の基地に対する攻撃で、彼の養子縁組による養女だったHannaがなくなった。専制君主はこれに激怒し、1988年の12月のじめじめした寒い朝にLockerbie上空を飛行していたパンナム航空の103便を破壊し──これにより270人の人々が死んだ──これは彼の復讐的行為だという人々がいた。また、ベルリンでの事件と同じくこれはイランとシリアが行った可能性がより強い、という人々もいた…なぜなら米国がその数ヶ月前に湾岸地域でイランの旅客機を撃墜していたからだ。

 Lockerbie事件は、大佐の指紋のついた最後の恐ろしい事件ではなかったが、彼はサダム・フセインが権力の座から放逐されたのをみて酔いを覚ました。この2人の男のあいだに絶対的な相似性はないものの、Gaddafiにとっては米国の十字砲火がじきに彼の北アフリカの本拠に向けられる事を心配するには十分だった。2003年にあるM16の幹部は、リビアのデタント(軍備削減)への興味が増していること、そしてWhitehallがリビアとの間の冷え切った関係を打破する交渉仲介のため、秘密の訪問を続けていることを報告している。Gaddafiは、英軍の最高幹部がトリポリを訪れることを命じ、そして彼は12月までにリビアの核兵器開発の秘密プログラムの詳細を手渡した。

 それはすべての人々に、何かを与える取引だった。リビアはCondoleezza Rice が、米国がリビアの政権交代を画策するなかでの6つの前哨点だとして唱えていたリストにはなかったことを実践した。トニー・ブレアが2007年に2度目にリビアを訪問した際の、"Deal in the Desert"(砂漠で取引をしろ)といった言葉は、英国に金の儲かる契約をもたらし、そしてリビアのリハビリテーションを確実にした。

 しかし、彼のテロリズムへのサポートが減退して政府の改革が議題にあがったとき、Gaddafiは彼のドンキホーテ的な炎を失ってはいなかった。今年はじめのローマへの訪問の折、彼は護衛たちにコミック・オペラの扮装をさせ、アマゾニアン(美女ボディガード)たちで脇を固めさせた。ローマのコメンテーターたちはその取り合わせを、ムッソリーニとマイケル・ジャクソンの完璧なミックスだと嘲笑した。

 そしてリビアが西欧世界とのちがいの問題を解決し、外国の投資家を惹きつけるマグネットとなったことで、その国がそれ以上一人の誇大妄想狂の掌中に留まり続ける、と信じた人々は少なかった。しかし今日の建国記念の祝賀行事への準備はリビアが普通の国になりつつあるというような指摘を拒む。何百何千万もの人々が騒ぎ、長らく忘れられていたトリポリの景色を再びかたちづくった。何千本もの椰子の木が海岸沿いに植えられ、道路は再舗装され、乾いた砂の路縁は芝生で埋めなおされ、目障りな建物は隠された。トリポリの古代の壁の脇の貴重な湖は世界中から来たパフォーマーがステージとするために水を抜かれた。

 巨大なバナーが物惜しみないリーダーの放埓を賞賛した。「あなたがいなければ不可能なことは起こらない」というのはやや理解しがたいメッセージだ。しかしその政権の従者たちも、事がどのように進むかについてはかなり不安を抱いているようだ。「私はそこに姿を現す必要があるが、そこはカオス(混乱した場)だろう」とある政権の支持者はいった。「役人たちは物事を組織的に管理できない。そうだ、そこにはヨットや車があるだろうが、すべての代表団たちに無礼講のように提供されるだろう。

 10年前、クーデター30周年記念の際は、トリポリにはカラフルな照明やバナー、大佐の肖像写真が並べられ、人々は彼の「意味深長な放射光(pregnant radiation)」だと評した。しかしほんの数時間の告知をしたのみで、その祝賀は9月9日の新しい日付に移行し、Gaddafi大佐による郷里の街Sirteでの一方的な「United States of Africa(アフリカ合州国)」の建国宣言の周年行事にすり変わっていた。それ以来、Gaddafi一族のAfriqiyah航空は9.9.99というロゴを、その機体に表示している。

 そしてGaddafiは健康状態はよいと推測されてはいるが、齢をとるにつれて慎重な権力争いが起こるだろう。政権に忠実な者たちは、彼の四男でリビアの諜報機関の長を務めるMoatessem-Billahの周囲に集まっている。古参の護衛たちは彼が、異議を唱える者たちに対し強硬手段をとることを快しとしているという。

 彼の2番目の息子で、国際的な「うるさい虻gadfly」から交渉者へと化したSaif al-Islamは、ワイルドカードだ。GaddafiにLockerbieの容疑者引渡しの途をひらき、Megrahiの帰国に関して英国政府を説得したのは彼である。「家族のメンバーは互いを、離れたところから尊敬しあっている」と彼らの協力者はいう。「もしも彼らが共にロンドンにいた場合、彼らは互いに訪問しあったりはしない、(彼らの兄弟がアルコールを飲んだり女の子と楽しんだりしているところを互いに見たくないからだ)」、という。

 Saif──彼の名前は「イスラムの剣Sword of Islam」を意味する──は、リビアが民主主義へと移行するmと宣言した。昨年、彼の改革主義的な声明に父親が憤激した後、彼は公的生活から退いた。しかしMegrahi を故郷に連れ帰りながら、彼はカムバックしたというシグナルを送った。それはSaifのおこなった何ヶ月もの仕事の報酬であり、彼がLord Mandelsonに近づき、何百万ドルもの金をロシアのタイクーンでBusiness Secretaryの友人でもあるOleg Deripaskaに投資する計画が噂されていることへの報酬でもある。」
 彼の友人たちは、もしもSaif が彼の弟との権力争いに勝ったなら民主主義を奉じるだろう、と思っている。「彼がそれを意図していることは確実だ」、とその一人はいう。「Saif は英国を尊敬し、Westminster式の議会政治を好んでいる。私は彼が…十年くらい後に彼が資金をすっかり確保した暁に…自分の国を民主主義に移行するだろうことは確実に思われる

 しかしどちらの息子が勝とうと、「王の中の王、イマームの中のイマーム(King of Kings, Imam of Imams)」と自称していた彼の父親の経歴に互するのは難しいだろう──あるいは、よりGaddafiを適切にあらわす言葉、「サバイバーのなかのサバイバー(Survivor of Survivors)」である父親に対しては。
(右写真:Saif Gaddafi)http://www.telegraph.co.uk/comment/6118691/Colonel-Gaddafi-with-friends-like-these....html

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