Monday, March 5, 2012

The New Islamists: イスラム主義者の民主主義と信仰がチュニジアで試される時 The New Islamists -- Islamists’ Ideas on Democracy and Faith Face Test in Tunisia By Anthony Shadid


弾圧を逃れ英国などに亡命していたイスラム原理主義者らの多くが帰国しつつある昨今の舞台裏とは?
2月半ばに動乱のシリア国境で取材中に喘息発作で急死したNYタイムスのベイルート支局長・アンソニー・シャディド氏の伝えた最後の記事。

The New Islamists:イスラム主義者の民主主義と信仰 がチュニジアで試される時  By アンソニー・シャディド (2/19, NYtimes)

チュニスにて・ サイード・フェルジャーニの突然のひらめきは、彼がチュニジアの信心深い街でその貧乏な子供時代を過ごした後に…ひと世代ほど前の宗教的ルネッサンスが彼の知性を呼び覚まして、クー・デターを企んだ彼が拷問され背骨を痛めた後に…そして他のイスラム主義者たちと合流すべく友人のパスポートを借りた彼が、英国に亡命したその後に… 訪れた。
22年の後にフェルジャーニ氏は故郷に帰ると、民主主義を建設するという仕事がその手にあることを理解した─ イスラム主義者たちの主導で、アラブ世界のモデルになるようなそれを建設する、という仕事を。
「これは、我々にとってのテストだ」と彼は言った。


もしも、一年前に中東に吹き荒れた叛乱の嵐がアラブ世界のもうひとつの未来をイメージしよう、との決意を抱いた若者たちの時代の到来だったのなら─ その叛乱のもたらした余波のなかでエジプトとチュニジアで起きた議会選挙や、モロッコやリビア、そしておそらくシリアなどでもイスラム主義者たちによる決定的な影響力への展望がもたらされた瞬間とは…もう一つの古いジェネレーションによるものだったのだろう。


誰も、近代のアラブ世界の歴史が迎えた最も重要な一章のひとつが、どのように終わるのかを知らない…その地域の軸が、独裁政権への抵抗運動から、それよりもはるかに曖昧な何かを体現する運動へとその向きを変える中で。しかし、投獄や亡命・抑圧によって形づくられつつ長年培われた信念や同盟によって硬く結ばれた、Ferjani氏の体現する世代にとっては、何が出現しつつあるのかを断言するとしたら大いに言い分もあるだろう。
Anthony Shadid and People

彼らがアラブ世界の政治の前面に現れたということは、1928年にスエズ運河の畔の街でエジプト人教師の設立した復古主義運動のムスリム同胞団が、長らく固持してきた知的かつ組織的な武勇を描き出すものだ。しかし、かつてエジプトから放たれていた知的な潮流は、今や同じほどの頻繁さで、他の方向に向けて流れている…モロッコやチュニジアの学者や運動家らが、しばしば西欧の影響も受けつつ、アラブ世界の周縁の地に腰かけて、信仰と民主主義(…それは大方の過激なイスラム主義者や、ここ中東や西欧の多くの批評家らも和解不能のものとみなしているものだが)の統合というその思想を輸出しているなかで。 

多くの場合、彼らは─イランにおける1979年のイスラム革命や、1989年のスーダンでのイスラム主義者によるクーデターなどの経験を踏まえて─ 専制的なリーダーらによる権力や、あるいは世俗主義者による権力というのは人々に(何も)与えたがらないが故に、彼ら〔原理主義者による政権掌握…〕に信頼を寄せてほしい、と社会に求めている。

その信仰心にもひけをとらぬ…独学によって培われた溢れる知性を持つ57歳のFerjani氏は、そのような疑念があることを認める。数回のインタビューの一つでも彼は、歴史というものが…彼のよく用いる言葉だが…彼らの世代というものを、権力を掌握するか否かの能力において評価せず、40年にわたるその活動の後権力に対して彼らが何をしたのかによって評価するだろうと宣言した─
「私はあなたに、ひとつ語れることがある…つまり我々が今や黄金の機会(golden opportunity)を手にしているということだ」、と彼は微笑みながらいった。「そしてこの黄金の機会のなかでは、私はコントロールされたくはないのだ。私は、最もカリスマ的なシステムをもたらすことに興味がある─カリスマチックな民主主義システムを…それが私の夢だ。」
Saiid Ferjaniはチュニジアでクー・デターを企み、英国に亡命し、
他のイスラム主義者たちと合流した

好機との出会い A Chance Encounter

Ferjani氏にはその子供時代の何かが彼を真にこの野望への道に導いた、という事は何もなかった。名声あるカイルアンの街(その街をイスラムの第4の聖都、とも呼ぶムスリム達もいる…)に生まれながら、彼は特別、信心深い子供ではなかった。彼の父は商店主だったが、家族に充分な収入をもたらしたことは一度もなかった。彼はあるとき、3日間にわたってまったく食べ物のない日々があったこと、そして学校には安物のサンダルを履いて通ったことを思い出した。「貧乏、それを我々は味わった」、と彼は回顧した。


彼自身の述懐では、彼は16歳になるまで手に負えない程のやんちゃな子供だった。その年には、チュニジアに帰還する前はエジプトとシリアで学問を修めた(アラブ・ナショナリストからイスラム主義者へと転じた)Rachid al-Ghannouchiがその街、カイルアンでアラビア語を教える教職に就いた。Ghannouchiは─当時はエナーダ党(Ennahda Party)と呼ばれていたが、後にはイスラム傾向主義(Islamic Tendency Movement)と呼ばれた運動を起こすべく旅立つ前に…わずか1年そこに滞在しただけだったが、しかし彼は彼の生徒たちの間に遺産を残した。

「彼はいつも、世界と政治についての話をしていた」、とFerjani氏はいう。「なぜムスリムは遅れているのか?何が我々に遅れをもたらしたのか?それは我々の宿命なのだろうか?」、と。

Ghannouchi氏によって投げかけられたその問いは、後続のイスラム主義者の世代を形成したが…その"イスラム主義者"という名称は、彼らのもつ多様性を決して捉えてはいなかった。そうしたテーマは、ムスリム同胞団の創始者であるHassan al-Bannaの仕事のなかでも検討されていたが─al-Bannaの布教に対する考えが正しかったことは、その後50年以上にわたって証明された。それはまた、エジプトの思想家Sayyd Qutbの著作のなかにもみられた─彼の著作は、彼が1966年に絞首刑となったずっと後の日々にも反響をもたらしたが、それは中東に流血をもたらしたイスラム武装主義というものの台頭をもたらした。後に、1981年のAnwar Sadat(大統領)暗殺計画の構想の基礎をなした「隠された義務(The Hiden Duty)」という(Sayyd Qutbの)テキスト(一文)も、その件の解決を試みていた。多元的共存主義と民主主義を信奉したGhannouchiもまた、同じ問題を模索していた…イランで革命の怒りが沸騰していた時でさえも。
Racid al-Ghannouchi,
founder of an Islamist party in Tunisia
カイルアンの植民地時代のネグラ寺院(Negra Mosque)にFerjani氏をはじめ100名の若者たちが集まって、それら全てを学ぼうとした。「読んで、読んで、読んでそして…読んだ」と彼は回顧する。「歩いている間でさえも私は読んだ。」

Ferjani氏は最後に首都のチュニスに向かい、そこで彼は、彼に昔、アラビア語を教えた教師のグループに合流した。「最初から、そこには政治というものがあった」、彼はインタビューで述べた。

その当時のチュニジアはHabib Bourguibaの政権下だったが、彼はあるときムスリムの断食月ラマダンの最中にもオレンジジュースを飲むことをTVで主張したほど世俗的人間だった。1957年以来政権の座にあったBourguiba氏は、Ghannouchi氏の信奉者らを弾圧し…彼らの多くが処刑されるとの見込みがあったがために、Ferjani氏はクー・デターの陰謀を幇助したのだという。彼は議事堂の向かいの、白い漆喰壁に青いシャッターのある低い建物のなかで彼が経営していたビデオショップで、多くのオーガナイザーたちと出会ったという。

彼らがその計画を実行する17時間前に、Bourguibaの内務大臣だったZine el-Abidine Ben Aliが、自分自身のクー・デターを起こした。10日後の1987年11月17日に、Ferjani氏は逮捕された。彼は18ヶ月を刑務所で過ごす間に、彼が「ローストチキン」と呼ぶ姿勢で棒に括り付けられ、彼の脊椎骨を鉄の棒で破壊された。歩くことができなくなり、痛みは焼け付くようで、彼は動こうとするときは常に、囚人たちの背に担がれねばならなかった。

「彼らは、拷問が体中のどこでも感じられるようにする凄いエキスパートだった」、Ferjaniは回想する。「私は朝5時まで眠ることもなく、夜明けまで祈り続けた後に、私の中には何も残っていないと感じた後に漸く、眠りにつくことができた」。

彼は解放されて5ヵ月後、未だに車椅子を使っていたが、空港で警備員の眼に留まることなく彼自身で50ヤードは歩けるようにと、自らを訓練した。彼は髭を剃り、友人のパスポートを借りた。そして彼はロンドンへの航空機に搭乗して、英国への亡命を試みた。

Crucible of Exile 亡命による試練

Ferjani氏の世代のイスラム主義者たちは、刑務所で過ごした時期を名誉の勲章のごとく身に着けている。しかし、亡命という時期も、それに劣らず彼らを形造った…特に、チュニジア人にとっては。

Ferjani氏の旅した先であるロンドンは、1990年代に、イスラム主義者の政治的なハブ(中心点)となっていた。やがてGhannouchi氏がそこに到着して、Ferjani氏に合流した。サウジ・アラビアのサラフィ主義者たちも、しばしば彼らにとっての敵対者であるバーレーンのシーア派主義者と交り合っていた…故郷におけるよりも一層、彼らの共通の基盤を見いだして。

Gaza地区における学者でもありハマスのリーダーでもあるAhmed Yousefは、米国での似たような状況について回顧する─そこで彼はワシントンでの人との会合に生涯にわたるコンタクトを持っていたのだ。そうしたコネクションのなかには─モロッコの学者で、政治家であるSaadeddine Othmaniや、シリアのムスリム同胞団のリーダー・Ali Sadreddine Bayanouni、ヨルダン出身のイスラム主義者のリーダーAbdul Latif 、そしてモロッコの現在の首相でもあるAbdelilah Benkirane、などの人々がいた。

そうした環境は、1993年のニューヨークの世界貿易センタービルの爆破事件以降、より許容される度合いが低くなった─とYousef氏は言う…しかし、その時までは、「それはパラダイスのようだった」。

「亡命先において、人々は互いが必要だと感じる」と、ロンドンのパレスチナ人学者で、活動家でもあり、 Ghannouchi氏の伝記を書いたAzzam Tamimiはいう。「故郷では、国家の状況自体があなたに課せられる。それゆえ、プライオリティ(優先事項)も異なってくる」。

Ferjani氏は、彼のロンドン時代を、彼が1970年代にカイルアンで経験した知的な啓蒙の時代と比較する。彼は、妻と5人の子供をEalingの近郊に住まわせて、彼自身はやがてアル・カイダやビン・ラディンに関する論議に巻き込まれるようになったイスラム主義者の仲間の中に残ったが…しかし彼はその活動の地平を市民社会にも拡大した。彼は、ヨーロッパ史や民主主義、環境問題と社会の変貌に関するクラスを受講した。

彼はTamimi氏が、その多くが二度と故郷に戻ることを期待していなかったイスラム主義活動家たちにとっての「共通の根と、共通の立場(common roots and common ground)」と呼んだものを、理解したという。

「我々は、お互いを知っている」、と彼は言った。「しかし、知りあうことはひとつのことであり、その一方で、どんな意味においても、何かを一緒になすということは…多くの人がそう考えるかもしれないように…それは別のことだ。政治的なことにおいては、我々は完全に同意しあってはいなかった」。(*アル・カイダのようなテロ行為への参加に同意しなかったという意味と思われる)

Embracing Democracy 民主主義を信奉する

Ferjani氏にとって、その亡命時代を通じて抱いた政治的イスラムというものの支配的イメージとは、1990年代のエジプトでの流血の反体制運動や、アルジェリアの内戦、そしてビン・ラディン(…彼のマニ教徒的な世界観とは、ブッシュ政権が発する最も辛らつな声明の鏡像のようだったが)の台頭などの記憶だった。

しかし、ムスリム同胞団によって喚起された多くの潮流のなかで起こりつつある変化(シフト)というものも、それに劣らずドラマチックだった。亡命のなかで彼自身の思想を進化させたGhannouchi氏は、より一層、包括的で(異質なものへの)寛容度の高いイスラム主義への早くからの提唱者となり、一世代ほど前の時期から、選挙や多数派による支配等の概念というものが普遍的なもので、イスラムの考えとも盾しない、と論じていた。早くから彼は議会への女性の参加を増やすためのアファーマティブ・アクションの実践をも支持した…ムスリム同胞団が長い間たゆまず定義してきた、その布教活動における無慈悲な概念を打ち破るものとして。

「率直に言って、イスラム主義運動のなかに民主主義を持ち込んだ男とは、Gharouchi氏だ」、とFerjani氏は言う。Gharouchi氏自身が、昨年暮れにチュニジアからパレスチナ自治区までのイスラム主義活動家たちが参加して、イスタンブールで行われた会議におけるインタビューhttp://www.nytimes.com/2011/10/20/world/africa/rachid-al-ghannouchi-imagines-democratic-future-for-tunisia.html?pagewanted=allで述べた言葉の如く、「支配者たちは、彼らの反対者たちよりも以上に、暴力によって権益を得るもの」であるという。

アラブ世界の全域で交わされる論議では…それは欧米からはしばしば無視されているのだが…民主主義とイスラムが相容れるものかどうか、との問いは1990年代から沸騰していた。90年代の半ばには、ムスリム同胞団から離反してCenter Party(中央党)を作ったAboul-Ela Maadiという若きエジプト人イスラム主義運動家が、(民主的)選挙による権力の交代を支持し、そして異なる意見や、また非イスラム主義政党との連携が重要なものだと宣言した。

カタールのドーハを拠点に巨大な影響力を持つエジプト人宗教家のSheik Yusuf al-Qaradawiは、しばしば前衛主義者たちを支持している(2005年には、彼はアル・ジャジーラの衛星テレビを「イスラム法の前に自由あり」、と宣言して支持に回った。同胞団は未だにMaadi氏の離反に対しては怒りを抱いているが、しかし彼らは、1996年にはとても新奇なものにみえた彼の思想を、大幅に受け入れた。

こうした論議は、アラブ地域全体にこだましている。パレスチナ人であるYousef氏はエジプトでの学生時代に、Ghannouchi氏の月刊誌Al Maarifaを読んだ際の衝撃を回顧する。リビアでは、かつてMuammar el-Qaddafi大佐の牢獄において、ジハード主義者たちと政治を論じたこともあるAli Sallabiが、Ghannouchi氏とSheik Qaradawiは霊感の源である、と述べている。

批評家たちはこうしたシフトを戦術的なもの、レトリカルなものとさえ見ている。しかしその論議の本当の真髄は今日の、政治的イスラム主義の知的な潮流の支柱をなしているのだ。

古い同胞団の思想では「Al-sama’ wa’l-ta’a」、と言われた─翻訳すればつまり、「聞いたままに、それに従う(hearing and obeying)」 ということだ。

「それはもう終わった」、と、同胞団の創始者、Banna氏の孫であり、ロンドンを拠点とする著名なイスラム学者であるTariq Ramadanは言う。「新たなる世代は、もしもそのようなことが行われるなら、我々はその場を去るだろうといっている。あなたがたには新たな理解と、新たなエネルギーがあるのだ」。

彼は、エジプトが新たなイスラム主義の思潮の源泉であったFerjani氏の若い時代とは対照的に、今やヨーロッパに亡命した人々や、Ghannouchi氏や、Ahmed Raysouni氏のような北アフリカの学者たち、またチュニジアのEnnahda党や、モロッコのBenkirane氏による正義と発展党(Justice and Development Party)などの人々によってなされる発言に、より影響力があると指摘した。

「それはもはや、中東から発されるものではなくなった」、とRamadan氏は述べた。「それは、北アフリカ諸国や、西欧諸国から発されている。そこには新たなヴィジョンや、新たな理解がある。今や彼らはこうした思想を、中東へと戻している」。

そのロンドンでの仮住まいにおいてFerujani氏は、彼のカリスマ的国家体制というアイディアにおいて…それがイスラム主義者に主導されるべきか、他の者によって主導されるべきかに関する考えの形成に、Westminsterでの討論を取り入れた。彼はまた猛烈に左翼思想を拒絶した後、今ではカール・マルクスによる資本主義批判を支持している。

亡命は…と彼は言った、「自分を根本から、大きく変えた」。

Applying Theories セオリーを適用する

爽やかな冬の日に、Ferjani氏はチュニジアのEnnahda党のオフィスに座っていた─その党名が刻まれたプラスチック製の看板が、未完成 unfinished な印象を与える5階建ての建物のなかで。

彼が、赤い国旗を身に纏って空港を難なく歩行しつつ、チュニジアに帰還してから1年近くが経過した。彼は、彼自身のパスポートを持っている。彼の髭は灰色になったが、彼のカイルアンでの若い時代を思い出させる口髭を、未だに保っている。空港では200名前後の人々が彼を迎えていた。

「チュニジアには裏切り者のための場所はないが、(その国を)定義する者たちの場所だけがある」…国家を吟唱する群集と合流して、彼はそう歌った。「我々はチュニジアへの忠誠を尽くして生き、そして死ぬ。」

この日に、彼はより一層くすんだ気分でいた。世俗主義の活動家らは、彼らが10月の選挙におけるEnnahda党の勝利により確実にもたらされると確信していたカリファテ(カリフ=イスラム首長による統治体制)を公然と非難して、抵抗運動を繰り広げていた。同党に反対を唱える新聞各紙は、清教徒的なイスラム主義者らによる不正行為や、Ennahda党が過激な慣習を許容するだろうとの推測についての記事を満載していた。富裕層の集うカフェには、Ennahda党の成功について経験則的な用語で語るチュニジア人たちがいた…それはチュニジアにおけるコスモポリタニズムを絶滅させうる宗教(的勢力)によって、不可避の(宗教的)非寛容が是認されるということだ、といったような見方だった。文化的な論議は、誰もが認めているもの:つまり、病める経済というものが…より一層差し迫っているのだという論議に影を落としていた。

「率直にいって、我々はすべての物事のトップの位置にいると思う。」とFerjani氏は言った。

しかし、よりガードの少ない瞬間に彼は問いかけた─「あなたは、50年間にわたる問題を1ヶ月以内に、誕生して1ヶ月未満の政府と一緒に解決できるなどと、本当に思うのか?」

あるインタビューで、Ferjani氏はこう皮肉を飛ばした、「知っているだろう?権力というものは腐敗する」。彼はこの日、党の本部のオフィスで座りながら、権力に関するこうした問いと苦闘していた。彼の脇には、党の機関紙The Dawnの山があった。あるコラムは「反革命的メディア」に対して非難しており、他のコラムは陰謀に関する暗い推測を示唆していた。フロント・ページでは、「議会は座り込みデモには反対し、人々の要求を聞くことに賛成する」と宣言していた。

「我々は表現の自由を怖れない、しかし我々は、無秩序を容認することはできないのだ」、と彼は言った。「人々は責任を持つべきだし、彼らは、法と秩序があることを知らねばならないのだ」。

彼は、反対デモをする人々は警察の許可を得なければならない、と指摘する。彼は、報道メディアは無謀すぎる、と懸念していた。彼は、アンシャン・レジーム(旧体制)の勢力が未だに策謀をめぐらしていると仄めかす。散らかった部屋で、彼の元気旺盛さは厳格さ(いかめしさ)に変わり、彼の言葉はためらいがちだった。

「誰もが、独裁的本能に引きずられないよう注意する必要がある、いかなる事が起ころうとも」、と彼は言った。「我々は、我々の革命の魂を失うことはできない」、と。

これは─と、彼は言う─テストだったのだ。
http://www.nytimes.com/2012/02/18/world/africa/tunisia-islamists-test-ideas-decades-in-the-making.html?_r=1&hp=&pagewanted=allFebruary

*カメラマンTyler Hicks氏と国境線を移動中Anthony Shadid氏は、馬アレルギーの喘息発作で急死し、同僚Hicks氏は彼の遺体を担いで独りトルコまで辿り着いたとか(2人は2011年3月にもリビアでカダフィ勢力の人質となり拷問も受けたが生還したNYT記者4人に含まれていた)
*Photo gallery:Tunisian Islamists Test Theories of Democracy and Religion
http://www.nytimes.com/slideshow/2012/02/17/world/middleeast/20120218-ISLAMISTS-4.html
*At Work in Syria, Times Correspondent Dies
http://www.nytimes.com/2012/02/17/world/middleeast/anthony-shadid-a-new-york-times-reporter-dies-in-syria.html

2011年にカダフィ政府軍の人質として
捉われた経緯を話すShadid
*この記事は「アラブ世界を再形成するための苦闘…中東で起こりつつある政治的イスラムの台頭について探る」シリーズ記事の第1弾とされていた
*中東関係の報道でPuritzer賞も複数受賞、名文で知られたという氏がイスラム原理主義者復権の内情を伝えている(この続編を読めないのは残念)
R.I.P.Anthony Shadid 


欧米で有名なスイス生まれの学者Tariq
Ramadanはムスリム同胞団の創始者、
Hassan al-Bannaの孫だ
現在オックスフォード大の教授