大衆の眼から見るなら、都市空間をめぐる長年の闘争が、トルコ人のアイデンティティに関するより広汎な戦いとして台頭しているのだ─そこには、宗教や社会的階級、政治的関心などの難しい問題も交差する… そして、トルコの全ての支配階級というものがイスタンブールに刻印を押そうとしたことを、多くの人が認識するなかで、イスラム主義にルーツをもつ正義発展党によって率いられたErdogan首相の政府ほど…抵抗運動の盛り上がりも省みずに…集中的にそれを行った政権はない…という認識も拡大している。

日曜日にはErdogan氏がテレビに出演し、独裁的な振る舞いをしたという訴えを拒絶しつつ、抵抗デモを行う民衆の正当性への不信をきっぱりと表明した。
「我々は…誤った情報に基づいて、この広場に来て、人々やこの国を扇動する少数の略奪者たちには譲歩しない」、とErdogan氏は言った─秩序の回復を求める彼の演説は、やや挑発的にも響いたが─それでも、デモの民衆はTaksim広場へと戻り…そして、首都Ankaraや、他の都市でも同様に、抵抗へと叛起した民衆が警察の催涙ガスの応酬を受けた。

イスタンブールのボガジシ大学の歴史家、Edhem Eldemは、政府が民衆からの推奨を受けないまま、複数の大規模な開発計画を進めていると批判する。「ある意味で、彼らは権力に酔っている」、と彼は言う。「彼らはその民主的な内省性を失い、そしてトルコの政治において本質的だった…専制独裁制へと回帰している」。


急激な変貌を遂げつつあるイスタンブールの物質的な風景とは、近代のトルコを底面から支えた競合的なテーマを象徴する─つまり、イスラム(対)世俗主義、田舎(対)都会だ─こうしたものは、経済的好況や、支配的エリート層である宗教的保守派の表明する自負心というものをも際立たせるが…それは、トルコの最も著名なノーベル賞作家オルハン・パムークの小説に染み渡っているようなポスト帝国時代の陰鬱さとは相反するものだ。


Erdogan氏の10年にわたる支配は、軍のシビリアン・コントロール(文民支配)を通じて、トルコの文化を劇的に再形成させてきた。それは古い世俗的秩序を解体し、今や、公の場における宗教的な表現をも大幅に許容している…たとえば、スカーフを被った女性がとても増えていることなどだ(それは首相の支持派の保守派の大衆が行っている行為である)。彼の支配はまた、信心深い資本家階級をも育み、彼らのメンバーはアナトリアの田舎の地域からイスタンブールのような都会に大々的に移住することで、階級間の分裂を深めている。

古い世俗派のエリートらは<彼ら自身を近代トルコの世俗的創設者、ムスタファ・ケマル・アタチュルクMustafa Kemal Ataturkの遺産の継承者だとみなしているが>─こうした変貌のもとで苛立ちを覚えている。それはリベラル主義者たちにとっても同じだ…彼らは、彼ら自身をケマル主義者とみなすことは出来ず、公的な場での宗教的な装いにも許容的だ。しかし彼らはErgodan氏の、彼らが独裁的と呼ぶリーダーシップのスタイルには反抗し、多くの開発計画も不快感をもって遠ざける─彼らの視点には、社会的エリート主義social elitismが浸透しているのだ。

多くの人々…この都市の長年の住民や都市のインテリ層、また─高級層のハウジング・コンプレックスやショッピング・モール建設のため家から退去させられた多くの下層階級の人々にとっては、それは、憤りと喪失感を生んでいる。

そして…そのドローイング・ボードには、より一層の野心や論議を醸し出す計画が描かれている─世界最大の空港や、この国最大のモスク、そしてイスタンブールのヨーロッパ側地区を分断する運河の計画などが─それは、そのプロジェクトの最も声高な支持者であるErdogan氏でさえ…「クレージーな」、と呼んでいるほどのものだ。ボスポラス海峡の第三の橋の建設に関しては、着工式は既に済んでおり、その橋にはトルコの広汎なマイノリティであるAlevi派イスラム教徒を大量虐殺したとして論議を醸すオスマン朝スルタンの名前が付されている。


「私はこの街に生まれてここに育った…今や、ここには私の若い頃とこの都市を結びつけるものは何も残っていない」…Sabanci 大学の国際関係論の教授、Ersin Kalayciogluはそういう。「イスタンブールは、あなたが金を稼いで、裕福になるところだと思われている。まるで、それはゴールド・ラッシュのようだ」
イスタンブールの、世俗的なトルコ人たちに広く共有されたエリート主義的な感覚を反映して、彼はこの町が「教養のない」、「アナトリア人の小作人たち」によって侵略された、…と苦言を言う。


トルコの最も有名な写真家で、84歳のAra Gulerは、イスタンブールの都市風景のモノクロ写真集も、幾つかプロデュースしている─彼は彼の名を冠した喫茶店に座っている。彼は、未だに彼が写真を撮ることが好きな街Eyup(その水際の地域には、有名なモスクがあり、多くの保守的なムスリムの家族が住んでいる)には、それが、彼の街であったことを想起させるような近所の住民は、唯一人しかいないという。
「我々の育った街、イスタンブールはもう失われた」と彼は言う。「私のイスタンブールはどこへ行ったのだ?これは皆、金のためなのだ」

歴史的に公衆の集会場所とされてきたTaksim広場を変貌させようとの政府の計画…即ち、そこにオスマン朝時代の軍のバラック(兵舎)のレプリカと、ショッピング・モールを建設しようとの計画(歴史家のEldem氏がそれを、「オスマン朝の壮麗さのラス・ベガス」と呼ぶ…)それが、人々をデモに駆り立てたのだ。しかしそこにはまた、さらに多くの、人々の怒りを喚起する他の論議を呼ぶプロジェクトが存在する。

この都市の最古の映画館も昨今、別のショッピング・モールのために取り壊され、大きな反対運動を誘発した…その反対運動には、トルコ大統領Abdullah Gul.の夫人でファースト・レディのHayrunnisa Gulも加わっていた。19世紀のロシア正統派キリスト教会も、港のオーバーホールの一環として取り壊されるかもしれない。そして、都市全域のゲットーの貧困層は、補償金の支払いを受けて家を出るよう要請されている─官僚と繋がる建設請負業者たちが、ゲイテッド・コミュニティ〈柵で取り囲んだ外部者の入れない富裕層の排他的居住地域)を作る目的のために。

空港の近隣のブルガリア移民の歴史的地域Avcilar地区でも、住民は立ち退きを強いられている。そのプロセスが明らかになるにつれて、時に、所有者が誰だか判らないことの多い不透明な不動産登記の記録によって、立ち退きの手続きは錯綜している。

「我々はある日、通知を受けて…そして、バン!と…我々が適切な抵抗運動もしない間に、3~400名の警官が来て、我々を面接の場からブルドーザーと共に帰らせ、そしてそこではブルドーザーがレストランを壊したのだ」…と、魚料理のレストランのオーナーであったCoskun Turanは言う。「彼らは、我々には不動産の譲渡書類がないという、しかし我々には、ある。我々は、それを彼らに見せた。彼らは我々が、その不動産の一部の譲渡証書しか持っていないといい、そして、その残りの部分を破壊した。」


87歳のDogan Kubanはおそらく、イスタンブールで最も有名な歴史家だ。彼は沢山の本を書き、国連ではトルコの保全事業に関して働いた。彼は、現在の政府からは何の相談も受けたことがない、と苦情を言う。「私はイスタンブールの歴史家だ」、と彼は言う。「彼らは、誰とも相談を行ったことがない」。

彼は、政府はこの国のプレ・イスラム時代の歴史を無視し、考古学的な遺物や建築物を保存していないと批判し、それに関して彼は、トルコがErdogan氏の政権の下で、西欧の文化に背を向けていることに光を当てる。
「保存された唯一の遺物はモスクだけだ」、と彼は言う。「文化遺産の保存は文化のもっとも洗練されたパートの一つだ。それは、非常に西欧的な文明の一部だ。」
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反対運動の結末とは未だに不明だ。Erdogan氏は未だに、その大きな支持層の宗教的保守派の支持を頼りにすることができ、その権力の基盤が揺らいでいると考えるものは少ない。しかしそこには潜在的な政治的ダメージの兆候もあり、そして土曜日に警察勢力を退却させて、何千人ものデモの民衆を土曜から日曜にかけてTaksim広場に集結させたことは弱体化の何らかのサインであるとみる人もいる。

「これは最近の記憶では、Erdoganが敗れた最初の戦いだ」、と学者で当紙コラムニストのSoli Ozelは言う。「彼はやりすぎた─彼の思い上がり、傲慢と専制的な衝動が壁を打ったのだ」。
しかし日曜日には、Erdogan氏は反抗的な調子で語り、そしてTaksim広場にショッピング・モールは建てないと語りながらも、そこには別のモスクを建てると語ったのだ。
http://www.nytimes.com/2013/06/03/world/europe/development-spurs-larger-fight-over-turkish-identity.html?pagewanted=2&pagewanted=all

The Plan to change Taksim Square(タクシム広場再開発プラン)
http://www.nytimes.com/interactive/2013/06/07/world/europe/The-Plan-to-Change-Taksim-Square.html