比較的理解できるコメントを幾つか収集)*このblog記事は一時フランス人のアクセスが急増した
The Charlie Hebdo Massacre in Paris
事件に対する1/7のNYTのエディトリアル
フランスの風刺週刊誌、パリのCharlie Hebdoシャルリー・エブドに対する水曜日の暴力的なテロ攻撃は、フランスをひどく揺り動かした。しかし、フランス人たちは激烈な決意をかためて、彼らの自由を守るためにリアクションを起こした。12人の人々が殺害された2時間ほど後に、雑誌社のオフィスの外側でスピーチした大統領フランソワ・オランドの意志とは、きわめて明瞭だった─これは「表現の自由」への攻撃だ…それは共和国の精神“spirit of the republic”なのだ…と。
…中略…
…中略…
シャルリー・エブドのエディターやジャーナリスト、漫画家たちは論議を醸すことの喜びに耽って、神経を逆撫ですることを愛好していた…同誌のエディトリアル・ディレクターで(攻撃によって殺された)ステファーヌ・シャルボニエStéphane Charbonnierは同誌のトレードマークの風刺をトーンダウンさせよ、という指摘を受けてもすべてを鼻で笑って却下したのだ。彼にとって表現の自由とは、人の気分を害する(offend)権利を必要とするもの以外ではなかった。そしてシャルリー・エブドとは、平等な機会による攻撃者(equal-opportunity offender)でもあった─ムスリムや、ユダヤ人や、キリスト教徒─あらゆる流派の政治家たちは勿論─が道化じみた低俗なカリカチュアや、漫画の題材にされて、全てのホットなリンクボタンというものを歓喜とともにクリックさせた─
2006年にはシャルリー・エブドは、元々デンマークの新聞に掲載されて問題になっていた預言者モハメッドの漫画を掲載した。2011年に同誌のオフィスは重火器による攻撃を受けた─ゲスト編集者によるスペシャル・エディションを刊行した翌日に─。その特集では(預言者)モハメッドに、「シャルリー・エブド」という(誌名)を「シャリア・ロー(Shariah lawイスラム法)」という言葉のフランス語訳による言葉遊びのようにも呼ばせていた。同誌の水曜日(テロ事件当日)の号の表紙とはフランスの小説家、ミシェル・ウールベックMichel Houellebecqをからかったものだった─彼の最新の作品といえば、2022年にフランスがモスリム国家となるというイマジネーションを描いたものだ。
人々のなかには、シャルリー・エブドが、イスラム原理主義者たちの怒りをあまりに頻繁に煽っていた、という者もいる─まるで、冷血な殺人がその雑誌を刊行した代価であったかのように。虐殺は、憎悪を動機としていた。テロリストの攻撃を避けるための方法が、テロリストたちが民主主義の基準を専制支配することに繋がる…などと示唆することは馬鹿げている。
また…いまこの時というのは─外国人嫌悪(xenophobia)を売り歩いているような者たちに、テロリストの言うがままになって全てのムスリムたちの名を汚させるべき時ではない。反移民・反ムスリムの恐怖心を焚きつけて、政治的な利益を得てきた国民戦線のリーダーMarine Le Penが、直ちに「イスラム原理主義」についての「否定と、偽善性」などを語って政治的アドバンテージを得るなどということがあるならばそれは恥ずべき事だ。
(2001年)9月11日の攻撃の直後にLe Monde紙の社説は、こう宣言していた─「我々は皆、アメリカ人だ」、と。フランスでは「我々は皆、シャルリーだ」、「私はシャルリーだ」といった言葉が─シャルリー・エブドの犠牲者たちとの連帯を示す言葉としてネットを席巻しつつある。この攻撃は、すべての地における、言論の自由への攻撃なのだ。水曜日には、パリのアメリカ大使館がそのメッセージをSNSにも投稿した。
http://www.nytimes.com/2015/01/08/opinion/the-charlie-hebdo-massacre-in-paris.html
Why Charlie Hebdo attack is not about Islam
(過去にアルジェリア、ビアフラ等の国々でフランス等欧米諸国が行使した植民地政策に伴う何百万人もの虐殺─それが今日のボコ・ハラムのテロの淵源なのを欧米人は忘れている─欧米のイスラム世界への歴史的な罪をシリアスに論じて展開した挙句に筆者は論じる)
この両者とは急速に非・民主主義的な傾向へと傾いており─富や権力の集中を支持して、暴力や戦争を行使して操作可能なレベルのカオス(混沌)を維持している─それによって、彼らは石油価格を高値に保ち、素敵な武器や、さらに素敵な不動産などに石油マネーを循環させて、彼らの強みを発揮している。
そして─すなわちそれが、シャルリー・エブドの「愛は、憎悪よりも強し」という表紙が、同誌のしばしば誤解されるミッションやメッセージをよく捉えている、(まさにその)理由だった─そうなのだ、その二人の男たちの涎を垂らしたキスというのは、確かにどんな保守的なモスリムだろうと(たとえ、彼が同性愛者であっても)苛立たせる為のものだったろうが─それはまた過激主義とか非寛容な態度といったものよりも、ムスリムやイスラム自体が敵対者なのだ、といった考えに対する攻撃でもあった(とされた)。
シャルリー・エブドへのテロ攻撃とはなぜ、イスラム教の問題ではないのか By Mark LeVine(UCLAの中東史教授)
Al Jazeera英語版
(過去にアルジェリア、ビアフラ等の国々でフランス等欧米諸国が行使した植民地政策に伴う何百万人もの虐殺─それが今日のボコ・ハラムのテロの淵源なのを欧米人は忘れている─欧米のイスラム世界への歴史的な罪をシリアスに論じて展開した挙句に筆者は論じる)
前略)「ラディカル(急進的)なイスラム主義とは今日、ラディカルな資本主義のミラー・イメージとしての道を開きながら、暴力のみを用いて我々にショックを与える。何故なら我々自身がそれを解き放って…我々自身の名でモラル的にも政治的にも目に見えない形で長らく支持してきたからだ。
世界の主要な大国は長年、ローカルな独裁者たちに(彼らのイデオロギー的な傾向がどうあろうが─)おもねってきた。しかし石油や武器・金融・重工業の取引を通じて、何十兆ドルもの金を循環させながら、欧米諸国の政府とアラブの石油大国とが関係強化を図っている…現状というものは歴史上にも例のない状況だ。
ネオ・リベラル主義とジハード主義とは実際、ハッピーな添い寝をする関係にある─イスラム原理主義者と、世俗的なフランス人の男がキスをしている「シャルリー・エブド」の有名な表紙とは、流行を追うヒップな者たちというよりも銀行業者を描写していたのかもしれない。※http://www.vox.com/2015/1/7/7507729/the-satirical-cartoon-cover-that-defines-charlie-hebdo(*2011年)
この両者とは急速に非・民主主義的な傾向へと傾いており─富や権力の集中を支持して、暴力や戦争を行使して操作可能なレベルのカオス(混沌)を維持している─それによって、彼らは石油価格を高値に保ち、素敵な武器や、さらに素敵な不動産などに石油マネーを循環させて、彼らの強みを発揮している。
世界のトップ武器商であり、「スーパー・パワー」石油会社の本拠の一つ「Total」として、フランスはそのダイナミズムの中心であり続けてきた。フランスの長期的クライアントの一つが、シリアのアサド一族だったことも驚きに値しない─アサド一族が、その国民の合法的、かつ正当な民主制への望みを拒絶したことが、恐ろしい内戦を生じさせて、その暴力と無法状態がアル・カイダのバージョン2.0というものを成長させる完璧な培養皿となった。
従来からよく実証されつつ、今もなお継続する─フランス国内でのアラブ系モスリムやアフリカ系移民の広汎なコミュニティに対する、構造的なレイシズム─とは今もなお、「横行」している─それは、人々のおかれた貧困や、疎外が多くの犯罪や麻薬の問題、投獄や原理主義化を引き起こしている大都市郊外の貧困地域のみならず、パリの街角での大量虐殺をも引き起こしている。 左翼紙リベラリオンの最新号などの新聞が「ヨーロッパのリーダーたちは、この攻撃にショックを受けている…」などと書くときの彼らのナイーヴさには、許容しがたいものがある。
…ショッキング?
ムスリムのあいだに東ナイジェリアやパリの東部で殺人やレイプ、略奪などを勝手放題に冒すサイコパスたちが生じたということは、 「自由」や「平等」、「フラタニティ(友愛)」の故郷だった筈のフランスが何十億ドルもの武器を売り、そうした価値観とは正反対の国々に政治的・外交的サポートを与えていた事実以上にショッキングだとはいえない。(そうした国々といえば─例えば)米国は無人機で何千人もの市民を殺害して何万人もの人々を通常兵器で殺害しているが…それは彼らが敵だとの前提にするテロリストとも同様に非情なものだ…。イスラエルは1500人のパレスチナ人を米国・ヨーロッパの完全な黙認のもとに殺害した:あるいは、シャルリー・エブドを非難したイスラム諸国の政府のほとんど全てが(全て欧米の支持の下に)恒常的にアーティストや活動家たちを、同誌よりもはるかに穏健な表現のために投獄したり拷問している。
レバノンの漫画家Karl Sharro (Karl reMarks)は指摘する─シャルリー・エブドに対する暴力とは、イスラム自身に関するものではない─それは現今の世界のシステムに対するものだ。それはイスラム教や他の信仰のシステムのなかに存在するいかなる誠実な価値観も(…また同様にリベラルな資本主義の価値観も)轢き潰すことに特に長けたものだ。過激な資本主義と過激な宗教というものは抑圧された者たちとの間にネクロポリティックス(※)を形作づくってきた…それは彼らのローカルな政府と欧米諸国政府のあいだのネクロポリティックス─それらが強要してきた抑圧と暴力のミラー・イメージのごときものだ※国家の主権や権力が人々の生命や生死を支配する関係
水曜日にその親しい友人の大半を失ったシャルリー・エブドの元・エディター、Philippe Valは…「我々の国はもう二度と、これまでとは同じ国ではない」と嘆いて─フランスのムスリムのコミュニティに向かって虚無的なテロの災厄に対抗して「我々と共にあってほしい」と呼びかけた。しかし、ムスリムたちというのは…フランスというものの何に本当に属しているというのだろうか?そして少なくとも「パンと尊厳と社会的正義」(…今や、遠い過去となったアラブの春のキャッチフレーズを引用するなら)のほんの一かけらを与えてくれる近代性(モダニティ)にむかって…一体いかなる(どの)イスラムが彼らを力づけられる、というのだろうか?
シャルリー・エブドが、我々に想い出させるのは、現代世界の政治・経済・社会・テクノロジー的なカオスの度合いが増して、不快さが拡大するにつれ…何十年にもわたって我々の頭上に及んできたバックファイヤ(反動)だ
…ショッキング?
ムスリムのあいだに東ナイジェリアやパリの東部で殺人やレイプ、略奪などを勝手放題に冒すサイコパスたちが生じたということは、 「自由」や「平等」、「フラタニティ(友愛)」の故郷だった筈のフランスが何十億ドルもの武器を売り、そうした価値観とは正反対の国々に政治的・外交的サポートを与えていた事実以上にショッキングだとはいえない。(そうした国々といえば─例えば)米国は無人機で何千人もの市民を殺害して何万人もの人々を通常兵器で殺害しているが…それは彼らが敵だとの前提にするテロリストとも同様に非情なものだ…。イスラエルは1500人のパレスチナ人を米国・ヨーロッパの完全な黙認のもとに殺害した:あるいは、シャルリー・エブドを非難したイスラム諸国の政府のほとんど全てが(全て欧米の支持の下に)恒常的にアーティストや活動家たちを、同誌よりもはるかに穏健な表現のために投獄したり拷問している。
レバノンの漫画家Karl Sharro (Karl reMarks)は指摘する─シャルリー・エブドに対する暴力とは、イスラム自身に関するものではない─それは現今の世界のシステムに対するものだ。それはイスラム教や他の信仰のシステムのなかに存在するいかなる誠実な価値観も(…また同様にリベラルな資本主義の価値観も)轢き潰すことに特に長けたものだ。過激な資本主義と過激な宗教というものは抑圧された者たちとの間にネクロポリティックス(※)を形作づくってきた…それは彼らのローカルな政府と欧米諸国政府のあいだのネクロポリティックス─それらが強要してきた抑圧と暴力のミラー・イメージのごときものだ※国家の主権や権力が人々の生命や生死を支配する関係
水曜日にその親しい友人の大半を失ったシャルリー・エブドの元・エディター、Philippe Valは…「我々の国はもう二度と、これまでとは同じ国ではない」と嘆いて─フランスのムスリムのコミュニティに向かって虚無的なテロの災厄に対抗して「我々と共にあってほしい」と呼びかけた。しかし、ムスリムたちというのは…フランスというものの何に本当に属しているというのだろうか?そして少なくとも「パンと尊厳と社会的正義」(…今や、遠い過去となったアラブの春のキャッチフレーズを引用するなら)のほんの一かけらを与えてくれる近代性(モダニティ)にむかって…一体いかなる(どの)イスラムが彼らを力づけられる、というのだろうか?
シャルリー・エブドが、我々に想い出させるのは、現代世界の政治・経済・社会・テクノロジー的なカオスの度合いが増して、不快さが拡大するにつれ…何十年にもわたって我々の頭上に及んできたバックファイヤ(反動)だ
http://www.aljazeera.com/indepth/opinion/2015/01/charlie-hebdo-islam-cartoon-terr-20151106726681265.html
シャルリー・エブドの最も有名な表紙は、同誌がなぜ重要だったのかを表わす(By Max Fisher、VOX.com)
前略)そのなかのいくつかはイスラム原理主義をからかい─彼らはしばしば預言者モハメッドの肖像も掲載する─実際、そのこと自体が多くのムスリム(過激派だろうと、なかろうと)にとっての侮辱であり、深刻な宗教的違反行為とみなされている。
しかしそれでも…シャルリー・エブドとその代表的漫画作家(その多くが攻撃で殺害された)たちにとって、それを反・イスラムとか反・宗教的雑誌だと描写することや、それが「挑発のための挑発」を行っていた…と描写することは酷い仕打ち(disservice)だといえる。
シャルリー・エブドの漫画家たちは彼らの漫画によって、その(雑誌の)主張のポイントを表現している。それは完璧に要約することができる─その最も有名な表紙の一つ(2011年11月のもの)とは最初に目にしたときの印象よりも、ある種のより一層微妙な(subtle)要約が可能なものだ。そのタイトルとは「愛は憎悪よりも強し」だった。
その表紙ではシャルリー・エブド(その雑誌は、耳の後ろに鉛筆を挟んだ一般的な男性スタッフの姿で描かれている)が、一般的なムスリム男性にキスをしている…その背景とは、煙が燻り灰塵に帰したシャルリー・エブドのオフィスだ。
そのコンテクストとはこうだ─同誌は(当時において)、最近「"guest-edited by Mohammed"(預言者ハメッドをゲスト編集者に迎えて編集した)」と称して、表紙にモハメッドの肖像の漫画を描き、そこには「あなたが笑い死にしないなら、鞭で100叩き」…というコピーを添えて、内容ページにも、同様の記事を掲載していた。同誌にとってはそのような漫画の掲載とは初めてというには程遠かった。だがそれに対する返答として、正体不明の攻撃者がシャルリー・エブドのウェブサイトをハッキングし、オフィスを火器で攻撃した。
同誌を批判したのはイスラム原理主義者だけではなかった。フランスの熱心な世派の政治家さえ、こう問いかけた─同誌の記事はやり過ぎだったのではないか?と。フランスの外相Laurent Fabiusはその漫画について、「これは本当に…火に油を注がないための、センシブルな、あるいはインテリジェントなものなのか?」、と問いかけた。
それは、実際に、そうだった─シャルリー・エブドの主張のひとつは、こうしたタブーを遵守することが彼らの検閲の力を強化することになる、というものだった。さらに悪い事には、過激主義者たちが会話の限度を設定することを許すのは、彼らの前提に実効性をもたせて、奉ることにつながる…言論の自由と宗教は根源的に(元来)、対立するものだと(それは実際には、そうではない)といい…そして、そこにはイスラムと西欧の文明的な対立が存在すると(そこには、そんな対立はないが)…といった主張を行った。
しかし─そこにはまた、イスラム嫌いやレイシストたちの交わす論議もあった(特に、北部や西部のアフリカから来るムスリム移民たちへの憎悪が深刻化しているフランスにおいて)。
そして─すなわちそれが、シャルリー・エブドの「愛は、憎悪よりも強し」という表紙が、同誌のしばしば誤解されるミッションやメッセージをよく捉えている、(まさにその)理由だった─そうなのだ、その二人の男たちの涎を垂らしたキスというのは、確かにどんな保守的なモスリムだろうと(たとえ、彼が同性愛者であっても)苛立たせる為のものだったろうが─それはまた過激主義とか非寛容な態度といったものよりも、ムスリムやイスラム自体が敵対者なのだ、といった考えに対する攻撃でもあった(とされた)。
攻撃から生き残ったシャルリー・エブドのスタッフ、Laurent Légerは2012年に、CNNに対しこう語っていた─「目的とは、笑うことだ。我々は過激派たちを笑いたい─すべての過激派たちを。彼らがムスリムだろうと…ユダヤ教徒だろうと…カトリック教徒だろうと。誰でも宗教信者でありうるが、しかし、我々は、過激な考えと行動というものは受入れられない。」
What is Charlie Hebdo?
Charlie Hebdoは1970年創刊のフランスの風刺週刊誌(1981年から1992年までは長期の休刊期間があった)で、あらゆる種類の対象(特に宗教─なかでも、特にイスラム教)をからかうことで知られている。
誌名は"Charlie Weekly"の意だが、誌名の由来には2説ある。何十年も前に、Hara-Kiriという名の雑誌("a stupid and nasty magazine"というサブキャッチを付した)が、シャルル・ド・ゴール(元大統領)の死去を風刺して、そののち倒産した。同誌のスタッフのうち何人かがCharlie Weeklyをスタートし、彼らはCharlieという名がド・ゴールへのnodだとも語っていた(別のスタッフのなかにはそれを否定して、同誌が風刺漫画と共に掲載していたPeanutsの漫画のキャラクター、Charlie Brownの事だという者もいた)。
シャルリー・エブドの編集長、Stéphane Charbonnierは今回の攻撃で殺害されたが─2012年には、同紙の位置づけを「左翼、世俗主義で、無神論主義だ」と語っていた。
同誌はその挑発性と、汚らしい(raunchyな)漫画やイスラムに関連したカリカチュア(風刺画)で国際的にも有名になり…そこにはモハメッドの肖像画も含んでいた。多くのイスラム教徒はそうした肖像化を深刻な侮辱、宗教的な攻撃行為と捉えた─シャルリー・エブドはこれを、彼をしばしば風刺画にすることによって否定したが、そのなかでは、少なくとも1回は彼をヌードにし、かがませているものがあった。
しかし、その新聞はローマ教皇をもからかっていた(法王ベネディクト14世がコンドームを手にして「これは私の体だ!"This is my body!"」と叫んでいる漫画だ─そして他の漫画では、フランスの過激な極右政党、「国民前線」(党首のMarine Le Penを当時、反・ユダヤ的な暴言でニュースになっていたジョン・ガリアーノのファッション・モデルにし、バチカンの衛兵を抱擁させているというもの)、そして、最近ではフランス大統領のFrançois Hollandeをも風刺していた。
同誌の発行部数は、週におよそ5万部だ(同誌よりも知名度の高いライバルの風刺メディア、Le Canard Enchaînéは、それに比べて50万部だ)─そして、しばしば財政的な苦闘状態にあった。2014年11月には、存続のための寄付を募っていた。
Counter Punch誌(筆者はムスリムの有名評論家、タリク・アリ)
(抜粋)
…シャルリー・エブドのフラタニティーを─我々は、それを忘れるべきでない…攻撃のあった日にはウールベック(Houellebecq)の風刺画を表紙にしていた。その出版の自由に対する擁護(それが惹き起す結果を無視した)というものは一つのポイントだが、自由放埓なイスラム嫌悪症の犠牲者となっている人々を、レギュラーにからかいの対象にしている風刺新聞を神聖化する、ということは(彼らへのテロを正当化するのと同じほど)愚かしいことだ。その片方が、他方を益することになるからだ…
…シャルリー・エブドのフラタニティーを─我々は、それを忘れるべきでない…攻撃のあった日にはウールベック(Houellebecq)の風刺画を表紙にしていた。その出版の自由に対する擁護(それが惹き起す結果を無視した)というものは一つのポイントだが、自由放埓なイスラム嫌悪症の犠牲者となっている人々を、レギュラーにからかいの対象にしている風刺新聞を神聖化する、ということは(彼らへのテロを正当化するのと同じほど)愚かしいことだ。その片方が、他方を益することになるからだ…
(アラブ世界のネットを席圏していたというイメージ) |