Tuesday, January 3, 2012

中東イスラム主義テロリストの起源とは?*アラブのコンテクスト Middle Eastern Islamist Terrorism - By Jamal R. Nassar



カリフォルニア州立大のジャマル・ナッサール教授がイスラム過激派のルーツを解説-!!
アラブ・ムスリムの視点によるそのストーリーは、西欧人の解説とはニュアンスが異なっているようだ…
 
〔要約  ナッサール教授は著書『グローバリゼーションとテロリズム』の第5章、「イスラム:その教え・貢献・そして衰退」の冒頭において、7世紀アラビア半島の副産物だがユダヤ教・キリスト教のストーリーともよく似た"イスラム教"のメインストーリーを紹介している〕

 ─マリアに処女懐胎を告知した天使ガブリエルが洞窟で瞑想するムハマッドの許にも現れ、エデンの園を追われた人間の子孫たちを神の道に戻すようにと神のメッセージを伝えた─それがイスラムの始まりだった。イスラムの神Allahとは、キリスト教のGodをアラビア語訳したものにすぎない。コーランは神が遣わしたアブラハム、モーゼ、イエスの3人の重要な預言者についても詳しく描写している。キリスト教やユダヤ教とは異なり、イスラムは当初から「成功の物語」として預言者の存命中に急速に発展し、コーランのメッセージは100年のうちにアラビア半島から遠隔の地インドネシア、スペインにまで遍く伝えられて巨大なイスラム帝国を創り上げた─


  ユダヤ教とキリスト教の特徴を伝承しつつ、イスラムはそれに修正を加えた。その修正がイスラムにアラブ的な特徴を与えたのだとナッサールはいう。礼拝の中心地はエルサレムから、既にアラブの異教的な礼拝の中心地だったメッカへと変更され、安息日はムハマッドが最初の成功をおさめた金曜日とされた。


  イスラムのグローバル化はアラブの最も偉大な歴史的達成だったが、初期のムスリムがビザンチン帝国により征服されたのように、多くの場合にアラブは破壊されずに吸収された。イスラム学者らは、古い知識を9-10世紀の文明に転化して後の世界文明の発展に貢献した。代数学では現代文明に不可欠な小数点や数の表記をもたらし、薬学ではヨーロッパ人が病気治療に未だ魔術を用いていた頃に病院で外科手術を行い、科学では物理学と元素を教えた。哲学ではアリストテレス、ソクラテス、プラトンの知識を暗黒時代のヨーロッパ人に伝授した。ローマ帝国の最も偉大な時代と同様に、アラブ-イスラムの貢献なしにルネッサンスはなかった。その後帝国は何百年も継続し拡大したが、指導権は13世紀の末に、やがてオスマン帝国を率いる者の手へと渡り…19世紀末にはオスマン帝国は衰退しその領土を西欧帝国の拡大から守り得なくなったという。

 ─近代に入って西欧との文明的進歩の落差に気づいたアラブ世界に思想運動が勃興した。ナッサールはグローバリズムに翻弄される弱小国家には、「夢の転移 (Migration of Dream)」が蔓延しがちだと論じる(つまり、第三世界の人々が抱くグローバリズムや進歩への夢が、先進的な強国による抑圧、恐怖、国家テロ、戦争によって悪夢に転移していくという)

 アラブ人と今日の中東 The Arabs and the Contemporary Middle East  

 何世紀にもわたるイスラムの成功は、アラブ人たちに現代的な運命への準備をもたらさなかった。19世紀までにイスラム社会は、ヨーロッパ社会より、明らかにはるかな遅れをとっていた。ヨーロッパ帝国は軍事力で優位に立ち、中東とアラブ世界を植民地システムを通じ従属化した。敗北と迫害への抵抗が余儀なくされた初期の宗教と異なり、イスラムは大成功と勝利と共に始まり、その歴史的経験は勿論コーランが神の最終的な顕現だと保証しているようにみえた。この偉大なる歴史(への認識)は、西欧に対する従属的関係を受容れ難い近代のアラブ人たちにジレンマをもたらした。

 アラブの思想家たちの中には、19世紀に宗教の社会に対する関連性に疑問を唱え始めた者らがおり、こうした問いかけの中から3つの顕著な思想的な派閥が勃興した。これらの3つの派閥すべては、今日でもなお存続する。こうした思想の影響は宗教やそれを超えた出来事に彩りを与えている。そして、アル・カイダの源流は、この時代における知的な論議へと辿ることができる。その本質において1つ目の思想的派閥はイスラムを近代に適応させるよう主張していたが、もう一つの派閥は人々が「イスラムのオリジナルな教義と実践」とみなすものへの回帰を主張し、3つ目の派閥はイスラムを政治的な事柄からは一切引き離すことを求めていた。
 
 こうした派閥の初めの一派である革新主義(リフォーミスト)運動とは、Jamal al-Din al-Afghani(1897年没)とMuhammad Abdu(1905年没)の発案物だが、この両者は共にカイロのAl-Azhar Universityで教えるエジプトの知識人だった。Al-Azhar Universityは長い歴史のあるイスラム研究の主要な中心地で、その創立はイスラムの黄金時代の西暦910年に遡る。Al AfghaniとAbduは、イスラムの基盤は依然として健全さを維持しており近代のストレスの許においてもサバイバルしうる、と信じていた。彼らはイスラムの、知的エクササイズとしての解釈を主張した。言い換えれば、彼らはイスラムの教え方に、より近代的な解釈をとり入れることを提案した。al-AfghaniとAbduはエジプトで幾らかの影響力を持ったが、彼らの考え方は権力の座につかない知識人グループの内に留まった。しかし彼らの思想は20世紀の初めにal-Salafiyyaと呼ばれるエジプトのIslamistの一派に影響を与えた。未来のAl Qaedaのメンバーの幾人かは、彼らの思想的なルーツがこの初期の改革運動に遡るとしている。

 2つ目の思想の波は、2つの顕著な運動として現れた。そのうちの1つはアラビア半島で、もう1つはエジプトで始まった。2つの運動は大きく異なっていたが、共に多くの人々が「正しき(proper)」イスラムとみなすものに帰ることを唱え、信仰復興(リバイバリスト)運動とも呼べるものだった。イスラムの”清教徒”と言われるWahhabi学派は、イスラムとはシンプルなものであり、人々がその教えに則って行動すれば近代社会の発展の最中でも生き延び、発展できるものとみなしていた。その学派の父Muhammad Ibn Abdel Wahhab [1703 – 1792]は、預言者ムハマッドの時代のイスラム信仰の実践(practice)への回帰を主張した。そしてWahhab派の教えは、Abdel Aziz Ibun Saudという擁護者を見出した──彼は、アラビア半島をWahhabの旗印の許に彼のリーダーシップによって統一することを試みた。1920年代までにSaudは、大方の地域で彼の王国を設立し、そこでWahhab派の教えを強要した。Saudi Arabia王国は引き続き今日に至るまで、保守的なWahhabiの思想を(国民に)強要している。

 Hassan al-Bannaという名前の高校教師は、エジプトの信仰復興(リバイバリスト)運動を創立した。Al-Bannaは、商業活動や社会的福祉、教育、また身体的な健康の維持(フィジカル・フィットネス)においてもイスラムの教えの適用を唱える、純粋な宗教的一派を創立した。1928年の初めにal-Bannaはこうしたプログラムを実践するためムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)を設立した。同胞団はそれらの多くのプログラムを開始し、そのなかにはcooperatives(協同組合)、学校、スポーツクラブ、軍事教育プログラムさえも含まれた。
ムスリム同胞団の創始者 Hassan Al-Banna
同胞団は、無知とは反イスラム的なもので、よきムスリムは教育を受けねばならない、と強調した。1936年に、同胞団は英国・パレスチナ間の紛争での彼らの役割において──特に彼らが、英国の植民地主義者とシオニストの計画の脅威からパレスチナ人たちを助けるべく、パレスチナにボランティアを送った事で注目を浴びた。そうした動きは、同胞団のパレスチナでの支部の勃興に貢献した。この同胞団の支部が、1987年にパレスチナにおけるイスラム解放運動(Hamasとして知られる)の結成を宣言した。さらに、多くの他のアラブ諸国でも、同胞団のその他の支部が設立された。Al-Banna自身は、彼の仕事のこうした結実を目にする程、長くは生きなかった。彼はエジプトの秘密警察によって1949年に暗殺された。彼の運動の多くの継承者たちは、今日のエジプトでも勢力をなしている。1981年にAnwar Saddat大統領を暗殺したとされる者も、彼の追随者の一人だった。

 改革主義者と信仰復興主義者たちがイスラムの教義に基づく社会を主張する傍ら、そこには世俗的ナショナリズムを唱えるその他のアラブ人たちもいた。アラブ世界の政治をその独立時から支配するのはこうした世俗的ナショナリストらである。世俗的ナショナリストたちとはエジプトのGamal Abdul Nasser、シリアとイラクのバース党主義者、アラブ諸国が西欧植民地勢力から独立して以来権力の座にある多くの王族や大統領らに代表される。 

Hassan Al-Bannaと群衆
こうしたナショナリストらは、アラブのHomeland(故郷)の統合を主張した。彼らは、近代的なアラブ国家とは人工的なもので西欧諸国がアラブを分裂させておきたい欲求を反映したものだ、と論じた。バース党の創立者のMichel Aflaqのようなナショナリストは、アラブ人が一つの国家として結束しない限り、植民地主義とその影響からの自由は達成できないだろうと主張した。イスラエルがアジアのアラブ人たちとアフリカのアラブ人たちとを分離させている限りは、その統一は不可能なのだ。

 社会主義とは、ナショナリストのアジェンダのいま一つの構成要素である。それはしばしばNasserism(ナセル主義)とも呼ばれる。アラブの社会主義とは封建制度を終わらせるための土地改革、健康医療福祉や教育・交通輸送の社会的プログラム、すべての天然資源の国有化を課すものだ。ナショナリストのアジェンダはその初期には幾つかの成功を収めたが、多くの挑戦にもみまわれ、失敗したという認識に導かれた。ナショナリストの世俗的リーダーシップには、ヨーロッパとアメリカの政策立案者からの攻撃が常に絶えなかった。経済の自由主義的解放は一層のセットバックを生み、そして対イスラエルの戦争における失敗が、ナショナリスト勢力への本質的不信感をもたらした。

イスラム主義者よ、団結せよ Islamists Unite  

 ソ連が1979年にアフガニスタンに介入した際、アメリカはそこに幾つかの顕著なゴール達成の機会をみた。まず第一にアメリカは、ソ連がベトナムのごとく泥沼化する状況の創造を望んだ。二番目に彼らは、ソ連の共産主義に対するイスラムの統一的前線の創成を望んだ。その実行のため米国CIAはイスラム諸国の全土からアフガニスタンの戦線にボランティアを募るリクルートを始めた。結果的に、エジプトとその他アラブ諸国のムスリム同胞団に連なるボランティアたち、または少なくともWahhabi派の系統のボランティアたちからの思想的傾注が得られた。この二つのアラブ・イスラム主義の思想的派閥が、パキスタンと少なくともアフガニスタンの前線において一つの運動のために統合された。この時が即ち、ジハード(holy war)という概念が、武装した汎イスラム的なテロリストの国際的運動として生成された時だった。

 アフガニスタンでの闘いの中でエジプトの主導的イスラム主義者で医師のAyman Al-Zawahiriは、Saudiの裕福なイスラム主義者Osama Bin Ladenに出会った。彼らを結びつけたものはイスラムの人々と彼らの国土の外国による占領からの「解放」、という共通目的だった。CIAは30億ドルを投じ、ライフルやロケット・ランチャー、地雷やその他の武器を、40以上の国々の出身の10万人以上のムジャヒディーン、またはイスラム戦士に供与した。彼らがCIAから受けた武器や訓練とは顕著なもので、優勢なソビエト軍に対する彼らの勝利を可能にした。最後には何千ものアフガン人・ソビエト人の兵士らがこの紛争で死亡した。ムジャヒディーンたちが行った拷問の効果のみならず、アフガン人人口の半数は身体的な障害を負い、住む家を失い、あるいは死亡した。

 ゲリラ戦術とは、アフガニスタンにおけるムジャヒディーンらの戦術だった。多くのムジャヒディーン兵士が優勢なソ連軍の前にその命を失った。こうして、ゲリラ戦術はその性質において自殺的なものとなった。ゲリラ・ミッションは自爆ミッションへと形を変えた。しかしジハードにおいてはムスリムの解放のため死ぬことが英雄的行為として正当化された。そして未来の自爆テロリストたちが生まれた。彼らはアフガニスタンの英雄となり、世界の多くの国々で、ムスリムの若者たちに起きた夢の転移(migration of dream)となった。

 PDP(People's Democratic Party:ソビエトのアフガン侵攻時のアフガン政権)の奉じた進歩的なプラットフォーム(政治要綱)とは、女性の永久的な従属化を命じるイスラム主義者のイデオロギーに対しての、根本的な脅威だった。ソビエトによる占領期や、その以前にも、アフガンの女性の人権はその他のいかなる歴史的時期よりも保護されていた。過去のタリバン政権や今日の北部同盟による支配期とも異なり、PDP政権の時期にはアフガン女性らは多くの欧米の女性たちの享受しているのと同じ人権を謳歌していた。アフガン女性たちは、カブールや他の都市をブルカに隠れることなく歩き、車を運転し、デートに出かけ、高い識字率を達成し、大学に通い、農業やエンジニアリング、ビジネスなどの分野を学び、専門家として企業や政府で働いた。そうした権利はタリバンと北部同盟の戦争領主による深刻な挑戦を受けるものだ。

アル・カイダ Al Qaeda


 アル・カイダはアフガニスタンでの闘争のなかから生まれたが、そのルーツは何十年も前に遡った。古いリバイバリスト(信仰復興)主義の幾つかの思想が混合することで、新たな、より軍事的な形態のリバイバリスト思想が生みだされた。彼らのアフガニスタンでの成功と、その闘いの結末において裏切られた─という感覚が、新たな組織とその活動家たちの感情を鼓舞して、彼らに新たなる闘争への動機をもたらした。

 Abdalla Azzamという名のパレスチナのムスリム同胞団の活動家が、アフガンでの闘争にむけて、1979年にOsama bin Ladenをリクルートした。Bin Ladenは、同様にリクルートされた他の者たちと同じく、アフガニスタンでの共産主義との闘いへの熱意を抱いていた。しかし他の者たちとは異なり、彼には個人的な富とサウジアラビアのエスタブリッシュメントとのコネがあった。Al-Zawahiriはエジプトから、1980年にアフガニスタンに来た。彼はすぐにbin Ladenと出会って、友人となった。Bin Ladenは、医学博士の学位を持つ彼のことを"the Doctor"と呼んだ。アフガニスタンでの紛争の間にal-Zawahiriは、こうした傷ついたムジャヒディーンらの命を救う仕事に従事した。その頃、bin Ladenは彼の昔のリクルーターであるAzzamと袂を分かち、al-Zawahiriを含む新たなエジプトの友人らと親しくなった。こうした者たちとはIslamic Jihadの活動家やリーダーらだった。彼らのグループは1981年に、エジプト大統領Anwar Sadatを暗殺したグループでもあった。エジプトのIslamic Jihadはムスリム同胞団のメンバーから生まれ、その国の世俗的リーダーシップとの武装闘争を主張していた。

 Al Qaedaは1988年、ソビエトがアフガニスタンから撤退する前年に、オフィシャルに設立された。その計画にはパキスタン、アフガニスタン、エジプトなどのムスリムが国民の多数派を占める国々での世俗政権の転覆と、イスラム政権の樹立が含まれた。しかし彼らの目下の闘争とはアフガニスタンやカシミール、パレスチナなどの地における外国占領勢力からのムスリムの保護とならざるを得なかった。時にそうした闘争はソマリアやチェチュニア、ボスニアなどの他の地域に広がった。しかし米国がクウェート解放のためサウジアラビアに兵力を送った際には、サウジの米軍からの解放がもう一つの主要目的となった。米国と英国がイラクを占領した時には、イラクの解放がまた、もう一つの仕事の動機となった。
 
 Al Qaedaの反米イデオロギーは、中東での米国支配に挑戦するという意味では、オリジナルなものではない─それは、この地域の数多の者らに共有される。その組織の最も目だった特徴といえば、彼らが米国の領土内においてテロ攻撃を行うことへの決意─それは9・11以前には多くの米国人の誰にも想像できなかったことだった。それは別にしても、bin Ladenブランドのイスラムとはイスラムの一つの解釈にすぎず、そしてそれは、中東の多くの国々で広く受け容れられるものではない。Bin Ladenとal Qaedaの、サウジやイラクや他の中東諸国政府の転覆と「正しき」イスラム主義政府の設立への関心は、政治権力を握るための組織的な主要目標として強調されている。そうした野望は、"邪悪な帝国"と戦いアラーの秩序を地上に実現する、といった利他的意図からはほど遠いもので、bin Ladenとal Qaedaの他のメンバーらの関心とは、彼らの反動的な政治的・社会的アジェンダの実践のために絶対的権力を打ち立てることだ。その組織は、彼らの価値観と、彼らにとっての"正当な"世界秩序の概念の実現を強要するため、非武装の人々に対する弁護の余地のないテロ攻撃という方法をとる。
 
 アフガニスタンで、ボランンティアのムジャヒディーン(イスラム聖戦士)が米国の支援を受けていたのに対し、湾岸戦争後のサウジアラビアでの米国の基地建設や、パレスチナ紛争における米国のイスラエル支持、そしてチェチェン紛争での米国の沈黙は、bin Ladenとal Qaedaの彼のエジプトの友人らを憤らせた。そしてその闘争が、いまや米国へと拡大すべきものと看做された─それはエジプトの一団が長い間要求してきたことだった。BinLadenに、米国に対するこうしたキャンペーンを開始させた動機とは、湾岸戦争以降に、米国に裏切られたとの感覚だった。米国はムジャヒディーンへの支持を取りやめ、さらに悪いことに、パキスタン、サウジ、エジプトに彼ら(反体制勢力)とそのアヘン交易を弾圧するよう圧力をかけ始めた。アフガニスタン紛争を通じて、アヘンはムジャヒディーン戦士らの主要な支えだった。いまや米国はその支持を取り下げるのみならず、彼らの生命線を絶とうとした。さらに、bin Laden自身の国、サウジの政府は米国を招いて、その国土内に多くの米軍基地を建設させた。預言者ムハマッドの国がいまや超大国の軍に「占領された」こと、それは世界の多くの地域のムスリムたちを抑圧するようにみえた。

 Al Qaedaはソビエトとの闘争を米国とのものに置き換え、そこで他の方法で暴力を行使することに再度フォーカスした。ゲリラ戦術はいまやグローバルに到達するものとなり、そのターゲットは軍事的目標のみならず経済的、外交的なものを含み、1993年の世界貿易センタービルへの攻撃では、6人の犠牲者と1000人以上の負傷者を出した。米国はアフガニスタンのAl Qaedaの拠点と、スーダンにおいてbin Ladenに関連あると思われるターゲットをミサイル攻撃した。ここに戦争は開始された─ (後略)

  Dr. Jamal R. Nassar "Globalization & Terrorism: The Migation of Dreams and Nightmares," Ch.5 'Middle Eastern Islamist Terrorism' (Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 2005)   -  Courtesy of Dr. K.Marrar 

★イスラム過激派と冷戦時代のネオ・コン、CIAとの近しい関係を描くドキュメンタリー=BBC「ザ・パワー・オブ・ナイトメアーズ」
-BBC "The Power Of Nightmares Part 1of 6:Baby it's Cold Outside”
http://www.youtube.com/watch?v=eOlwbaPe2os


 "イスラミスト対CIA" の歴史を暴くこのドキュメンタリーは「国家権力による国家テロや帝国主義的勢力と対立する民族主義者等による過激なテロは、古今東西のグローバリゼーションの不可避な副産物だ」と説くジャマル・ナッサール教授のラディカルな見方とも呼応するかのようだ 「Part 1 」は1970年代に米国に留学したエジプト人サイード・クトゥブが、米国文化の堕落退廃に大きく失望して、ナセル大統領の親米政権にのっとられた故郷エジプトで反米的活動家となる経緯を追う。


ナセル政権下のムスリム同胞団への体制による弾圧と拷問のシーン(再現映画)も挿入される。ナセル大統領暗殺の容疑者として逮捕処刑されたクトゥブは医師アル・ザワヒリ等の後継者の思想的シンボルとなって今日のアル・カイダの誕生に影響を与えたとか。 (同胞団会員のザワヒリも当時容疑者として刑務所なかまだった)


  このドキュメンタリーではアル・カイダとは元々、組織として存在せず米国人のファンタジーだといっている。1993年の世界貿易センタービル爆破事件の際に米国の弁護士らが訴訟相手の組織としてでっち上げたのだとか。  
                                                       
Sayyd Qutb in Egyptian prison
 The Power Of Nightmares Part 2
http://www.youtube.com/watch?v=kKjzxxbkRH4&feature=related
Part 3~6は同page

Tuesday, December 20, 2011

“新生リビア”の最初の過ち The New Libya’s First Mistake - By Christopher Hitchens


“新生リビア”の最初の過ち-
-ムアマール・カダフィは殺されるべきではなかった、そして彼の息子たちは生きて拘束されるべきだ-
 By クリストファー・ヒッチンズ(10/21, Slate.com) The New Libya’s First Mistake
- Muammar Qaddafi should not have been killed, and his surviving son should be captured.


 深い無力感と、一抹のばかばかしさの感覚に屈しながら、私はこの木曜日の午後にiPadを借りて、それを使って初めてのメッセージを送ってみた。そのメッセージとは、その不愉快なガマガエルのごとき態度で、リビアに生きる民衆の上に40年間以上居座り続けていたMuammar Qaddafi を、その座から引きおろすべく圧力をかけている先陣にあった目覚ましいフランス人らの一人に呼びかけたものだった。どうか頼むから、と私は書いた…(リビアの)国民暫定評議会におけるあなたの友人たちと共に、そしてまた兎に角も結成された他の革命派の裁定機関と共に、Qaddafiの家族たちをこれ以上殺すことを止めて、すでに人道に対する罪で起訴されている彼らをハーグ国際法廷の被告席に送るためのスムーズな道を確保するように仲裁してほしい─と。

 単純すぎるって?ハーグの国際犯罪法廷は彼ら自身、少し前にすでにリビアの問題に対処する仕事の準備を整えているいう声明を出していたのだ。しかし今やもう、Muammar Qaddafiは死んでしまったし、彼の息子たちの一人のMutassimも殺されたと報じられ、そしてその(殺害に関する)合法性や適切さについての何の言葉すらも聴かれていない。リビアのいかなるスポークスマンも、独裁者の醜い死に関する彼らの声明の中で、法廷については何らほのめかしてはいない。米国の大統領は、そのような罪状認否を行わせるといったオプションが一度も提起されていないかのように語っている。そこではリビアから帰国して早々の(クリントン)国務長官が彼の次に話をしているが、彼女は色々と内容の薄い言葉ばかりを発しているななかで、Qaddafiが殺されたことはリビアに変わり目をもたらす助けになるだろう、との旨の言葉を言っている。英国のDavid Cameron首相は、Quaddafiによる長年にわたるテロの国際的な犠牲者たちに言及する暇があったものの、やはり国際法廷への言及は省いていた。

 多くの事柄のなかでも特にこの無言の同意は私に、軍の部隊がQaddafiの出身地の町Sirteに近づいた際には、彼らには何ら全般的な司令が発されていなかったのだと確信させる。「どうしても必要とあれば、彼を殺すがいい、しかし彼を(また他の家族やその他の者たちの名前も挙げて)生きたまま捉えてオランダに送るよう試みよ」といった意味の司令は、何も発されていなかったのだ。いずれにせよ、たとえそのような司令が広められていたとしても、それは余り強制的なものではなかった。

 無節操な政権が終わりを告げるとき、とくにそれが、権力を譲り渡さずにむしろ社会や国家を破壊することを示してから以降、人々がエクソシズム(悪魔祓い)のようなものを期待するようになったことは自然なことだ。モンスターの解剖用の死体を見とどけて、彼がこれ以上戻ってこれないと見とったことによって人々は満足した。それはまた、悲惨さと残虐行為を長引かせるための、「狼男」のようなレジスタンスを続ける、憎悪に溢れたその頭目がもう居ない、ということの再確認だった。しかし、Qaddafiはその死の瞬間には傷ついて戦う能力を失い、恐れにおののく賤民たちの小さなグループの先頭にいた。彼にはそれ以上のいかなる抵抗もできなかった。そして、私が上に記したようなすべてのポジティブな結果といえば、彼をまずは病院に連れて行き、次に拘置所に、そしてやがては空港に連れて行くといったような単純な方策によって達成できたはずなのだ。勿論、彼の法廷の被告席でのひと騒ぎはおそらく大いにポジティブなインパクトをもたらすだろう…なぜなら彼にいまだに信頼を寄せる哀れな迷える魂のごとき人々の妄想も、マッドマンがごく数時間でも法廷でわけのわからない言葉を述べる状況の露出に大しては持ちこたえられないだろうからだ。

 そして、新たなリビアが始まるが、しかしそれは悪臭を放つリンチと共に始まる。報道メディアの特派員たちは最近、反乱勢力がQaddafi忠誠派の人間たちやその資産に対して示した全般的な自制に対しては、とても友好的に騒がしく語っている。そのことは、そのような原則が主要な事柄に生かされなかったことに対しての、より一層の遺憾の念を抱かせる。今これを書いている時点では、Muammarの息子の一人Seif-al-Islam Qaddafiの行方はいまだにわかっていない。もしも彼もまた手に負えないからと殺したなら…あるいは最低でも、NTC(国民暫定評議会)と国際社会が彼らの武装兵士らに、彼を合法的に拘留せよと命じないならば非常に恥ずべき行為だ。 (*下:Saif-Islamが11月中旬に発見、拘束された際の写真)

  このことはSeifや、他のお尋ね者リストの者たちに対する過度のシンパシーの表明ではない。しかし、とくに彼は今は亡き体制の性質に関する膨大な量の有用な情報の宝庫なのだ…そしてまたおそらくは、戦略的な物資の行方に関する情報の貯蔵庫だろう─それはリビアの民衆の正当な所有物である、違法に確保されていた巨額な現金に関していっているのではない。このような証拠の隠滅に賛成することが犯罪に相当することの理由は、ひとつではない。父親Qaddafiの有用性に関しては、この誇大妄想狂に関する検証が進んでいない段階にあって、私はそれが値段のつけ難いもの、というべきであったと思う。そうであるとはいえ、彼の無数の犠牲者たちはそのような満足を、可能な限り感じ取らねばならない… 血を流しながら、支離滅裂となった体が粗雑に引き渡される様子を、パニックのなかで、そして彼の惨めさがその国の安全に全く何も寄与しなかった一発の弾丸で消し去られた様子を目にしながら。

 私はNicolae とElena Ceausescu(ニコライとエレナ・チャウシェスク) が拙速に処刑されたとき、ルーマニアにいた、そして私はUday とQusay Hussein(ウダイとクサイ・フセイン) が、逃げ場のない家のなかで取り囲まれて致命的な射撃と砲弾に倒れたときには、モスルにいた。どちらのケースでも、一般市民たちの感じていた安堵感は手に取るように感じられた。拷問と恐怖の古いシンボルたちが排除されたことの証明には、少なくとも短期的な、(社会的束縛からの)開放の効果があった。しかし私にはこの効果には、急速な減退のゆり戻しがもたらされがちだといえる… それはイラクで、Moqtada al-Sadrの無粋な(洗練されていない)信奉者たちがSaddam Husseinの処刑執行の仕事をになったことによって、確かとなった。この失策にみちた、浅ましきエピソードのあとには、宗派間紛争のいくつもの傷跡がいまだに残されている─ そして私は、もしも同じ様な怒りが木曜日に多くのリビアの民衆のなかで醸されなかったのならば驚くべきことであると思う。それは、修復するにはすでに手遅れだ。しかし、もしもQaddafi一族らの殺害が続いて、ハーグの法廷への召喚への侮辱が無視され続けるのならば、それは恥とすべきことだ。
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/fighting_words/2011/10/muammar_qaddafi_should_not_have_been_killed_but_sent_to_stand_tr.html


*註:Qaddafiの息子のSeif Al-Islamは11月19日にトリポリ南東の山間都市Zintanで拘束された。
http://www.nytimes.com/2011/11/20/world/africa/gaddafi-son-captured-seif-al-islam-qaddafi-libya.html?scp=1&sq=Qaddafi's%20son%20Saif%20Islam%20captur リビアの評議会はハーグの法廷の逮捕状は無視、彼は国内で裁判されるべきだと主張しているが日時は未定とか(関連記事)
http://www.nytimes.com/2011/12/21/world/africa/qaddafi-son-seif-al-islam-is-alive-and-held-by-rebels-rights-group-says.html?scp=1&sq=saif%20al%20islam&st=cse

*Legendary ColumnistのChristopher Hitchensは、2011年1月にesophagus cancerを煩っている旨を公表し、化学療法を受けていたが2011年12月16日にヒューストンの病院にて死去。Slate.comの毎週月曜日のコラムFIGHTING WORDS-A Wartime Lexiconは、11/28のものが絶筆となった(これは最終から6本前のコラム)
 http://www.slate.com/authors.christopher_hitchens.html

/////////REST IN PEACE/////////
CHRISTOPHER HITCHENS

Tuesday, August 30, 2011

ノルウェー銃乱射事件への性急な回答 A Ridiculous Rapid Response: Why did so many "experts" declare the Oslo attacks to be the work of Islamic terrorists? By C.Hitchens


ばかげた性急な回答─なぜ、こんなに多くの"エキスパート"たちが、オスロの攻撃はイスラム過激派の仕業だと宣言するのか? By クリストファー・ヒッチンズ (7/24, Slate.com)

 オクラホマ・シティの爆破テロ事件から16年がたった今、我々は一般市民の大量虐殺がおきた際に、すぐさまその犯行の動機を究明しようと反応する癖を、もう少し洗練させているべきだったのだろう。ノルウェーにおける最近の事件において示された、数多くの対照的な要素というものは、その作業をより一層困難にする代わりに、わずかに容易にする。その最新の大惨事の現場に集ったコウモリやトロールたち、それに…Stieg LarssonやHenning Mankell筆者のSlateマガジンの同僚のコメンテーターら)などの人物を加えた多くの人々が、複数の爆発現場についてのより広範な見方を許容しつつも、犯行動機について論ずるための、幅広い分析材料を呈示している。

 世俗的なスカンジナビアの社会民主主義というものが、ここにある─それは現在、アフガニスタンとリビアの地において、西欧の軍事的努力を提供しているもの(NATO勢力として)でもある。これによって、事件の発生当初には、よりオーソドックスな保守派たちがその事と、事件との繋がりに関しても非難するに至った─しかし、たとえそのように勘ぐっても…たとえばノルウェーのジハード主義者たちのグループが…Muammar Qaddafiに対して、また彼の最近のNATO軍への自爆攻撃の呼びかけに対して共鳴しているといえるのか、どうかは分からない…。

 そしてさらに、死傷者を出したその攻撃とは、ノルウェーの与党による若者の運動に対して行われたものなのだ…その頑強なる多文化主義が生み出してくれる…堅固な砦のごとき「グッド・フィーリング(いい気分)」や、ムスリム移民たちに手を差し伸べよう、とする運動というものに、反抗したのだ。これはノルウェーを軍事的なチェスのゲームボードから外そうと奮闘する、テロ勢力の思い描くような第一の目的ではないかもしれない。

 すると再び、この大虐殺の第一容疑者、Anders Behring Breivikが、そこに…彼自身のジャレド・ラフナー(Jared Loughnerの読書リストをともなった完璧な姿で、ノルディック白人勢力の熱狂を背景に現れる。私は、ある人々が、Braivikのフリーメーソンかぶれを「右翼的」だとみなしている事を、印象的に思った。昔は…カソリックのファシズムは、メーソン主義者というものを、ユダヤ人と同じぐらい憎んでいたのだ。(たとえば、チリの大統領、Salvador Allendeはフリーメーソンだった…伝統的な左翼による教会の聖職者の権威への抵抗主義(anti-clericalism…それが死に絶えつつあることが、私には残念なのだが)の中に立ち上がって。そして最後に─それはこの鏡の荒野においては最後とはいえないかも知れないが─ Breivikは、彼自身が熱狂的なシオニスト支持者であり、あらゆるイスラム化を目の仇にしている、とも明確に宣言していた。この後者の側面とはもっと注目されてもよいことだ。ヨーロッパの本当の「ネオ・ナチ」ギャングいうものは、通常、彼らの死ぬほど露骨な反イスラム主義とともに、暴力的な反ユダヤ主義を抱いているものなのだが、オランダのGeert Wilders(*)の一党のような、反移民のポピュリスト政治家たちにしても、それぞれイスラエル擁護の立場に立とうとしているのだ─左翼の多文化主義者からの批判にも関わらず。

 こうしたさまざまな事柄に対する読み間違いや、そして似たようなインジケーター(指標)の数々により、オクラホマ・シティの事件以後におきた反イスラムの魔女狩りよりも一層の、知的なカオスが引き起こされている。スペインの与党の保守派たちは、これとは逆の間違いを犯して…国内のイベリア地方のギャング・グループが、ヨーロッパでの最も致命的な政治的・軍事的ジハード運動のひとつに責任があるのだと(…すなわち、NATO諸国での総選挙の結果に影響を及ぼした結果、イラクでの軍事同盟にも深刻なダメージを与えた"作戦"に関与しているのだという)、誤った非難をした。

 このことへの問いを表現する、ひとつの方法とはこうだ:過激なジハード主義者と、彼らにとってのもっとも毒のある敵対勢力というのは、本当に共生関係(symbiotic relations)をもっているのだろうか?ロンドンやハンブルグでのモスクの祈祷や礼拝のテープからは、あなたは女性を家財道具として扱う必要性への訴え(すなわちホモセクシュアリティの病を根絶するための)や、国際金融でのユダヤの戦略を妨げよとの訴え…その他の”第三帝国”的な思考のファンタジーがもたらす…すべてのマニフェストを発見するだけなのだ。これらによるロジカルな、または病的な結論を急いで推し進めるなら…それはヨーロッパの人間も米国の人間もこれまで見たことのないものを巻き込むだろう::つまり、多民族的な民主主義に対して攻撃を行うには、異なる形態のファシズムの間のどれが最も効果的かという葛藤だ。

 このような思考方法が跋扈しているというきざしは、2001年の9月11日のすぐあとに、Jerry FalwellやPat Robertsonその他の扇動家たちが「オサマ・ビン・ラディンは、神の手業をなぞるために用いられた」Osama Bin Laden being used to trace the finger of God などと主張したときにもみられた。そして、Timothy McVeighを信奉するファンの末裔たちもまた、「9/11 Truth」などの不可解なメディアを通じて、非合法的なグローバル・パワーによる「橋渡し」のセオリーoverarching theory of illegitimate global powerをこしらえようと試み…それが911には世界にむけて露呈し、挑戦を受けたのだ…などといっていたのだ。しかしまた我々は、CIAやモサドが、実際のところはそのターゲットを恣意的に選定したり操作しつつ、共謀(なれ合い)や協力関係を組織してその華麗な仕事を実行し、一方ではより下級のアル・カイダの分子たちは放置して、彼らがより下等な爆破任務を実行するのにまかせているのにも気づかされる。そしてこの悲しき、自己嫌悪の世界というものは…Abbottabad の別荘の静止画像が分解していくのを目にする…彼がかつて大物であった愛すべき失われた日々を思い出しながら、TVのチャンネル・チェンジャーをかちかちさせている、その姿と共に消えてゆくのを…。

 それはさらにまた、オスロのジハード主義者たちのウェブサイトでも、浅ましいスペクタクルに達している─そのサイトとは、当初…自分たちの聖なる戦いも巻き込まれるかもしれない、と感じた者たちによる喜びの投稿の数々と共に準備も万端になっていた…しかしその犯罪の実行者はその日多くの若者を虐殺することを、全く異なる理由から欲していた負け犬だった…ということが明らかになった時に…それは終息して攻撃を止めた。新聞のヘッドラインのライターや、ニュースキャスターたちは、何かを宣言する前に待つべきだったのだ。その殺戮者らが…選択的になった選り好みのうるさい人間たちかも知れない、などと指摘する無神経さを犯すよりも前に。いわゆる「エキスパートたち(専門家)」と呼ばれる人たちは、その犯罪の手口から動機を分析して、模倣(reverse-engineer the motive)するような行為は恥とすべきだった… オクラホマの事件の折にも、Steve Emersonが─このような暴力の極大化には、「中東に関係する特徴がみられる」、などと述べたときのような、誤ちを冒す前に。Ultima Thule(古代の北の最果ての地…)から、ヨハネの啓蒙の黙示録に関する独自の見解を携えてやってくる青ざめたクリスチャンの騎手でさえ…彼がそれまでにそんなものを何ら自慢してもいなかったような…「中東に関係する特徴…」とやらを備えていると言われるのかもしれない。

 そんななかで、シリアの街角や広場の数々、リビアの市民的な抵抗勢力の委員会には、熱意と心配に溢れた人々が満ちている─彼らは、彼らが民主的政治体制への移行や平和的な戦術というものに、また、これまで奪われてきた資金が、長らく放置された社会再建に透明性をもって配分されることや、寄生的な軍や警察のカースト制度を除去することなどに対して賭けを行い、ときには、彼らの生命をも賭けてきたことは、ナイーブではなかったのかどうかを知りたがっている。長らくこのような言葉で懇願をしつづけている中東の人々を前に、我々は、彼らがその実行に同意した際にはすっかり躊躇するばかりなのだ。そんな折に、外国の大使ら*がHamaの街に一晩滞在したということは、明らかに我々にとっての「赤い武功章(red badge of courage )」ものだったに違いないのだが… この過去1ヶ月の間に西欧と国連が続けてきたためらい、というものは、近年の歴史上でももっとも信条に欠けた、幕合いの中間劇というべきなのだ。この大使らの行為が、我々のできる唯一のことであったのなら、それは激しく非難されることだろう。
http://www.slate.com/id/2299959/

註:*Jared Loughner:今年1月アリゾナでG.Giffords上院議員らを死傷させた銃乱射犯。(彼が影響されたと思われる「読書リスト」の件も報道された)
*Geert Wilders(ギート・ウィルダース):過激なイスラムで有名なオランダの極右上院議員
*Jerry L. FalwelやPat Robertson…両者とも米国の超保守的なキリスト教徒政治活動団体のカルト伝道師
*9/11 Truth:911のテロは本当は米政府の陰謀だと主張するネット運動
*Timothy McVeigh:1995年のオクラホマ・シティ連邦ビル爆破テロ犯として2001年に処刑された(が真犯人の囮だったと信じる人もある)
*Abbottabad: 米軍がオサマ・ビン・ラディンを殺害したパキスタンの山岳都市
*外国公使ら:2011年7月7日、南シリアのHamaで50万人の反政府デモがあった直後、米・仏の駐シリア大使ら(Robert FordとEric Chevallier) が同市を訪問してアサド政府を緊張させた
→参考記事US ambassador visits southern Syria

http://middle-east-online.com/english/?id=47767

Tuesday, July 19, 2011

ボート・ピープル:Gaza支援の船団に乗る"活動家"たちへの、幾つかの質問。Boat People- Some questions for the "activists" aboard the Gaza flotilla.-By C.Hitchens


ボート・ピープル: Gaza Flotilla(ガザ支援船団)の「活動家」たちへの幾つかの質問。- By クリストファー・ヒッチンズ (7/4, Slate.com) 

 "Gaza flotilla(ガザ支援船団)"の物語は、毎夏の恒例の特集となりはじめたようにみえる…時折り、アップデートされるその最新情報をまじえながら、メディアの中程のページで、それはハッピーな調子で揺れ動いている。ギリシャの財政危機に関連して、現状に内包された穏やかな緊張感を伝える記者たちにとっての、格好のサイドバー(補足記事)なのだ─ 
 「彼らは本当にやるのか、やらないのか?(※EUやIMFはギリシャの財政危機に再度、救済策を講じるのか、否か?)」 そのことには、さして色鮮やかな特徴(個性)はないものの…我々は殆ど個人的にもそのことを知っていたような気さえしはじめている。「the audacity of hope果敢なる希望(*) 」とか、「free Gaza ガザを解放せよ」(*といった朗らかで清々しいスローガンと、かくも単純で明快至極なストーリーラインは実際、それ自身を物語ってもいる。イスラエルがすでに、あまり遠くない未来には…(こうした人道支援運動に対して)何らかの回答を行うことを、ほぼ保証する態度を取りはじめたことや、前回に同船が出帆した際あれほど身震いするような暴力事件が起きたことを考えても、これがこのシーズンに恒例の─人々のお気に入りの特集記事にならない理由など何もない。

 しかし、贅沢なるこの瞬間に、その船に乗船している「活動家」らに幾つかの質問をするのは不可能な事なのだろうか?(活動家 activistとはずいぶんとニュートラルで、ほとんどポジティブなニュアンスを持つ言葉ではないか?flotillaという名前も、その安心感を与えつつディミヌエンド(デクレシェンド)していく様な音感は「Small is beautiful」といった雰囲気をたたえている。…これまでにこの件について書かれたほとんどの考察とは、その企みの手段や意図に関するものであり、平和的な戦術についての率直な許容を表明している心やさしげなカバー記事ばかりだったのだ。私はもう少し、そのことのもつ政治的な野望や、その事業の暗示する含意を知りたいものだ、と思う。

 flotillaとその指導者らが…パレスチナのムスリム同胞団の支流組織を形成するハマスと密接で道理にかなった協調関係にあることを語るのは安全かつ、フェアなことにみえる。その組織の政治的な指導部とは主に、ガザ自体に本拠を置いている。しかし、その軍事的な連携(コーディネーション)はダマスカスから発せられる─そこでは現在、長い間抑圧されていたシリアの民衆のなかでますます、拡大している各セクションと、Bashar Assadとが戦争状態にある。緊急に人道物資援助を必要とする箇所も多いシリア人の難民キャンプは、シリアとトルコの国境の付近に出現しつつある(後者のトルコ政府は、flotillaの目的について何となく同情的でもある。)こうした状況の下で、「活動家」たちに、シリアの世襲のバース党政権に対する蜂起のなかでは、彼らがどこに立ち現れていたのかと尋ねる対話を開始するのは正しいことではないのか?

 そして再び、この地域でのシリアのもうひとつの代理勢力とは、Hezbollahだ─彼らは「国家の中の国家」を形作り、レバノン領のなかで私兵を維持している。このグループの古参幹部らは最近、国連により、2005年2月の白昼のレバノン前首相Rafik Hariri の殺害にまつわる訴追においても名指しされたのだ。Hezbollahの指導部とその広報宣伝組織は、国連との協力をすべて拒みながら─Assad政権(イランの独裁政権からの、ますます強力な支持に頼る)との間の不朽の連帯を表明している。再びいえば、ハマスの指導部は、このテヘラン-ダマスカスのローカルな枢軸と、せいぜい危なげな妥協をしているかのように見える。確かに…ガザの封鎖を実行する人々(brockade-runners)らのなかの誰かがそのスポークスマンとして、この件への問いにどう思うのかを我々に語ってくれてもいい筈なのだが?この地域で民主的な、多元主義的な革命が広く拡大しているいま─ハマスは、彼ら自身のバージョンの神権主義によってガザを支配している…そしてむしろ、継続している深い変化への希望を横切って立つかのように見える勢力と、連携しているようにみえる。誰がいまこの外見をもっと見苦しからぬ体裁にするために、時間を割こうと申し出るだろう?ガザに関してメディアに出た記事の半分は、それが広大なオープン・エア(露天)の刑務所に似ているという、スタンダードな言い方を含んでいる(そして私が最後にイスラエル占領下にあるその地を見たとき、それは確かに、その喩えに値するものだった─)問題なのは、その思想や、その同盟相手の関係からすると、ハマスにはその地域の警護役としての能力に関しては、余りに過剰なぐらい適任過ぎる、ということだ。

 たった数週間前には、ガザのハマスの政権は─私の数えたかぎりでは─オサマ・ビン・ラディンの死に対して憤激と悔やみを表した、世界で唯一の政府権力と化していた。ギリシャの港の数々を包む小さなさざ波が折り畳み、陽光が照りつける今… これらの「活動家」たちが、彼らのパートナーらの世界的展望のなかのそれらの要素を討論したのかどうか、知りたいジャーナリストは居ないのだろうか? Alice Walkerには本当に、このことに何のコメントもないのか?

 ハマスは多くの政府と国際的組織によって、テロリスト・グループのリストに列せられている。私は、その(テロリストという)特定の言葉が過去に勝手な用法で使われてきたことは認めてもいい。しかし、私にとってもっとも懸念されるのは、ハマスがオフィシャルな関連方針として採択している『ユダヤの議定書(The Protocols of the Elders of Zion)』というものだ。この胸のむかつくような偽書は、20世紀の人種差別思想と全体主義のキーポイントとなる基礎的書物で、その理論や実施方法において、ヒトラーの政権との繋がりも消しがたいものだ。人権への忠誠を宣言する「活動家」が、そのような邪悪な素材の宣伝に色々なレベルで協力しかねないとは、私には異様なことのようにみえる。しかし、この件についてコメントするために彼らが招かれた所を、私はまったく見たことがない。

 その小さなボートひとつでは、いずれの方法でも、ガザ地区の生活の福祉には大きな違いを生み出せないだろう、なぜなら、送られた物資はあまりにも取るに足りない分量だからだ。それ故に、この事業のもっとも顕著な点とはシンボリックなものに過ぎない。そしてシンボリズムは、それが急ぎ足で審査されたときでさえ、あまり魅力的なものではない。その大胆な事業が意図している便益の享受者たちとは…それぞれ、昨今自らの市民たちの血によって眉を吊り上げさせた…中東のもっとも時間逆行的な独裁者らと密接な繋がりをもつ支配的グループなのだ。そのグループははまた、Hezbollahとal-Qaidaの双方との間に、どうにか温かな関係を保ち続けているか、あるいは少なくともそれらに礼儀を尽くした言葉を発している。そんな中で、一度は「民族虐殺を認める令状(warrant for genocide)」だと精確に描写された書類(ユダヤの議定書)が、前述のグループの宣言する政治的プラットフォームの一部を形作っているのだ。そこには、臭いのテスト(smell test)にも合格しないような何かがある。私はこのシーンを伝える記者たちの中に、私をこの件に押し上げてくれる者がいないのかどうか、と不思議に思う。
http://www.slate.com/id/2298332/

 * Gaza Flotillaは、Free Gaza Movement および、トルコの財団 Foundation for Human Rights and Freedoms and Humanitarian Relief (İHH)が主催しているとされる(Wiki)
  *2008年から幾度かにわたって実施された支援船団は実際に欧米のいくつかの活動家団体の協力で行われた
(参考)
 *Gaza Freedom Flotilla: http://en.wikipedia.org/wiki/Gaza_Freedom_Flotilla
 * Free Gaza Movement(BBC) http://www.bbc.co.uk/news/10202678



 *下写真:2010年5月、Flotillaをイスラエル軍兵士らが急襲、親パレスチナの活動家9人(主にトルコ国籍)を殺害した






*"The Audacity of Hope":
American Activists Plan Gaza Flotilla Ship Named for Obama Book 

 →米国の活動家グループ[UStoGaza.org]は、独自に資金を集め、バラク・オバマ大統領の自伝書タイトルに因む「Audacity of Hope」号に乗った50人ほどの米国人たちが、Flotillaの船団の2010年9、10月の8度目の航海に参加した
http://thelede.blogs.nytimes.com/2010/07/20/american-activists-plan-gaza-flotilla-ship-named-for-obama-book/

*"Free Gaza Movement":http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/organizations/f/free_gaza_movement/index.html

*前回flotillaが出帆した折に発生した暴力事件
Israeli troops raid aid flotilla headed for Gaza, killing nine
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/31/AR2010053101209.html?hpid=topnews

What's To Investigate?http://www.slate.com/id/2298332/

*1988年のHamas綱領:32条でユダヤの議定書に言及?
http://avalon.law.yale.edu/20th_century/hamas.asp

*Alice Walker:アメリカの黒人差別を語る女性小説家、スパイク・リーの映画化した小説の原作「カラー・パープル」ではPuritzer賞を受賞

Tuesday, June 28, 2011

彼はなぜBiなのか?…溜息。 Why Is He Bi? (Sigh) - By Maureen Dowd


彼はなぜBiなのか?(…溜息) By モーリーン・ダウド (6/25, NYTimes)

 彼は、そのように生まれついた。

バイ。

 両性愛者(バイセクシュアル)のことではない。超党派(バイパルチザン)のことでも、勿論ない。彼は、二元的な(バイナリーな)人間なのだ。

 我々の大統領は、同時に両方のサイドに立つことが好きなのだ。

 アフガニスタンでは、彼は米軍を撤退させたいと思いつつも、同時に、軍を踏み留まらせたいと思っていた。
 彼は兵力を増派しながら、同時に撤退も行った。彼は、「対反政府勢力counterinsurgency」の戦略には数が少なすぎるが…「対テロcounterterrorism」の戦略には多すぎる兵力をそこに残してきた…彼は二つの戦略を同時に行いたいようだった…我々の仕事は終わった、だが…我々はまだそこに留まる必要がある/我々の仕事は終わっていないが、去ることもできる。
 
 対リビアの戦略では、オバマ大統領は背後から状勢を指揮したいと思っている。彼はカダフィへの敵対心に関与しているものの、議会ではカダフィへの敵対心はもっていないのだといっている。

 国の予算に関しては、彼は支出を抑えたいと望みつつ、支出の増加も望んでいる。環境政策では、彼はエネルギー生産高を増やしたいと願っているが、油田の掘削には消極的だ。ヘルスケアの問題では、彼は国民の誰もが医療保険でカバーされてほしいと願っているが、ユニバーサル・ヘルスケア(国民皆保険)のシステムは推していない。ウォール・ストリートでは、彼はFat cats(金持ち)らを激しく攻撃するが、カクテル・パーティでは彼は、彼らのfat(脂肪)の一部を、彼自身への選挙資金として集金したがっている。

 政治の場では、彼は対抗勢力の人間と友だちになることを好むが、彼らのことをバッシング(非難)もしている。他の人々にとってバイ・パルチザンシップ(超党派であること)とは…彼らの元々の政治的アイデンティティを超越することを指すが、オバマ大統領にとっては…それは、彼自身がすべての他者の政治的アイデンティティを分かち合うことを意味する。彼は彼自身である、ということを除けば、いずれのサイドにも深く連携していないようにみえる。

 彼は、大胆な変革(change)という考えのもとに大統領へと選出された、しかし今や…オサマの捕捉と彼がパキスタンやイエメンで行った無人偵察機での作戦を除けば…彼はそれを安泰なやり方(彼にとっての)で遂行している。彼はいつもと同様に、政治的な責任を回避するが、政治的には完全に曲がりくねった態度を示している。
 
 クリントン夫妻による2008年の選挙キャンペーンを打ち負かすことのできた男(…それはなぜならこの国が、クリントン主義者たちの婉曲語法と詭弁から、逃れたいと願っていたからだ)…は今や、婉曲語法と詭弁の新たなるクリエイティブな地平線を切り開いているのだ。

 オバマは同性婚(gay marriage)の問題では「進化」を遂げているのだが─それは、女の子だったら、誰でもあなたにこう説明できるだろう…それは彼の人間関係恐怖症の、初めの兆候なのだと。

 恐らく、2012年の中間選挙戦に向けて走り出したいま、経済戦略や戦争戦略でのすべての悩みのタネに加えて、オバマは自身の党の内部のホモ嫌い勢力からの否認に、恐れを抱いているのだ。しかし彼は、彼が同性婚に気乗り薄である理由とは、彼のクリスチャン精神の表れだという説明を試みた…彼は滅多に教会に行くこともなく、世俗的人間主義者(ヒューマニスト)、そのものであるにも関わらず。

 火曜の夜にマンハッタンで開かれた集金のためのゲイ&レズビアンのガラ・パーティで、600名以上のゲストの4分の3から何百万ドルもの選挙資金を集めつつ、大統領は「ゲイ・カップルはこの国のすべての他のカップルと同様の法的権利が与えられるに値する、と私は信じる」と─この問題の決定権が各州に委ねられるとの立場を守りながらも宣言した。

 彼はニューヨーク州のカソリックの大司教、Timothy Dolanほどに酷くはない─木曜日に大司教は、今度は「ナショナル・カソリック・レジスター」誌のインタビューで再び、不機嫌そうに答えていた、「あなたはこの件が、これで終わりだと思うのか?今度は重婚者たちも、自分らの結婚する権利を主張し出すと思わないのか?今や自分の妹と結婚したいと思っている誰かが、"自分には、その権利があるのか?”などと問わないだろうか?要するにそれとこれとは、方針が同じじゃないのか?」

 大司教は、このように結論した…「次に起こることは、ご存知の通りこうだ。彼らは野球の各イニングには4回のアウトがある、と主張するだろう。これはクレージーだ」(彼は連邦判事の Scaliaのような口調になってきている)

 オバマの同性婚問題に対する消極性は、我々の知っている彼のプログレッシブな世界観と比べると、大いに、そしてわざとらしいほど一貫性を欠いている。そして最初の黒人大統領が金曜日の夜に、オルバニー(NY州議会)で同性婚の法案を通過させた(州知事の)Andrew Cuomoを…我々の時代の市民権運動における前線のリーダーとして、歴史に名を残させようなどとするなんておかしなことだ(*写真:Gay Marriage認可法案を成立させて大人気の、Andrew Cuomo NY州知事!)

 しかし大統領にとっては「非常に差し迫った緊急性」というものは、ゲイのコミュニティから小切手を貰うためだけに適用されるものであり、今こそ同性婚を認める時だ、と考えるすべての米国人のスピードに追いつこう、というものではない

「Don't ask, Don't tell(*"DADT"=軍における同性愛者差別撤廃のため…そのことを内密にすれば咎めない、とする連邦法…2010年同法の撤廃案が可決されたが現在は保留中、近く施行される)」のもとでは、オバマは今や大衆を率いてはおらず、大衆を追っている。そして、もっと悪いことには…変革への一陣の風に吹き上げられた若い、ヒップな黒人大統領は大胆さと希望(audacity and hope*オバマの自伝のタイトル)においては、二人ほどの老いた白人の保守派…Dick CheneyとTed Olsonにも後れを取っているのだ。
 (*Dick Cheneyの娘のElizabeth Cheneyは、同性愛者だと知られている。*Ted OlsonはBush政権前期の訴訟長官だが、退任後にカリフォルニアの同性婚禁止の撤廃に尽力した人物…) コミュニティ・オーガナイザーとして、オバマはその、感情移入のめざましい才能を進化させてきた。しかし今や、彼はそれを間違った方法で用いている。部屋の中のすべての人々の考え方を知るだけでは、十分ではない。あなたは部屋の中の誰が正しく、彼と共に立つべきなのかを決める必要があるのだ。リーダーとはmediator(仲裁者)やumpire(審判員)ではなく、convener(会議の議長)でも、facilitator(世話役)でもないのだから。

 Chris Christieが時々、そう言うように、「大統領は、姿をみせるべき」なのだ。

 すべての言葉の曖昧さで、オーバル・オフィスの男は彼のアイデンティティをシールドし、本当のバラク・オバマは誰なのかを覆い隠している。

 彼は、ゲイのコミュニティからインスピレーションを得るべきなのだ: いずれにせよゲイたちがすべきひとつのこととは…すべてのコストを支払ってでも、彼らとは何者なのかを宣言することなのだから。

 この国が直面している最も重要な幾つかの課題において大統領は、もう箪笥の中に隠れておらず、カミングアウトすべきだ。

http://www.nytimes.com/2011/06/26/opinion/sunday/26dowd.html?ref=maureendowd

Monday, June 27, 2011

「米国育ちのテロリスト」デビッド・ヘッドリーの多くの顔 The many faces of a homegrown terrorist By Dinesh Sharma

デビッド・ヘッドリーが多重人格というのは本当なのか?

「米国育ちのテロリスト」の多くの顔 By ディネシュ・シャルマ The many faces of a homegrown terrorist By Dinesh Sharma (6/16, Asia Times Online)

(前記事の続き;冒頭略)

 先週、米国生まれのテロリストについて懸念を感じていた人々は、このパキスタン系米国人テロリスト、David Coleman Headleyの心が、コンパートメントに細かく隔離された、複雑な、多重的な分裂状態にあったと知ってショックを受けた─彼は多くの文化的、国際的なボーダーをもまたいだ諜報機関へと入り込んで、彼らを騙していたのだ。(右:David Headleyの法廷でのスケッチ)

 合衆国の司法当局は、最終的に2009年10月に彼を逮捕し、当局は彼とその共謀者とされるTahawwur Hussain Ranaが、デンマークの新聞社Jyllands-Posten(挑発的な漫画を掲載した)への攻撃を謀議した件で告訴した。

 2009年12月には、連邦捜査局(FBI)もまたHeadleyを、2008年のムンバイの大規模な虐殺テロ(164人が殺害された)計画に加担し、テロ組織Lashkar-e-Tayyiba (LeT)への物資援助、そして米国市民の殺害幇助を行った容疑で告発した。
 
 12件の容疑で告発されたHeadleyは、終身刑と莫大な罰金の支払いに直面していた。すると彼は…友人のRanaも、ムンバイ攻撃での役割を負っていたとして名指ししたのだ。Headleyはインド、デンマーク、あるいはパキスタンへの身柄引渡しを逃れ、死刑の宣告から免れるために、司法取引を結んだ。6月6日に結審を迎えた裁判において、Ranaはデンマークの新聞社へのテロ計画幇助とLeTへの援助の二つの罪状で有罪となったが、ムンバイへの攻撃計画における幇助の罪は問われなかった。

 ムンバイ攻撃の計画において、今や盛んに報道されているパキスタン諜報部ISIの関与という事実を再度確認したことに加えて、Headleyの裁判は国内生まれのテロリストの「多重人格」、あるいは「解離性同一性障害」を、白日のもとにさらけだし─心理学者たちや、治安の専門家たちに現実的な実例を提供した。彼の複雑なストーリーに関しては、既にドキュメンタリーも生み出された─HBOのドキュドラマなら理想的でさえあるかも知れない。 (*左:Tahawwur Rana)

 Headleyのプロフィールをさっと一見するなら、そこに彼の異なる人生のフェースにおける、人格上の深い亀裂や分裂、あるいは、全体性の欠如が見出される。Headleyが実際、1992年に多重人格性障害(MPD)と診断されていたことは、驚くには値しない…私は私の臨床的な仮説を検証しつつ、そのことを確認した。しかし、彼の病気とその診断を囲む状況は不透明なままに残されている。

  彼は、ニューヨークとシカゴ、フィラデルフィアのパキスタン系米国人コミュニティで、また同時に彼の先祖の故郷パキスタンでも、Daood Sayed Gilaniとして知られていた。テロリストに転じる前、1980年代と90年代にはHeadleyは、主にバーやビデオレンタル・ストアを経営するスモール・ビジネスのオーナーだった。2001年には、パキスタンからのヘロイン密輸の複数の容疑を受けつつも無罪となり、その後彼は米国麻薬取締局Drug Enforcement Authority (DEA)の情報屋となった。

 DEAに協力して覆面捜査を行いながらも、Headleyは2002年と2003年にかけて、LeTの組織の深層との接触を開始した。「彼は直ぐに手の平を返して…それが彼にとって好都合であるならば、すべての者たちを裏切ったのだ」と、あるテロリズム・アナリストは語る。

 ISIの、より効果的な継っ子組織の一つであるLeTへの度重なる訪問の後に、彼は2008年のムンバイへの攻撃と他のテロ活動の実行の責任を負い始めた。他の治安アナリストによれば、「LeTにとっての夢が現実となった」、のだという。Headleyの中に、LeTは「完璧なテロリスト」を見出した─ 金のある米国人で…米国のパスポートを持ち、いかなる嫌いや尋問にもであうことなしに米国を自由に出入りできる人間、として。

 2006年にHeadleyは彼のイスラム名を棄て米国人としてのアイデンティティを選択し、パキスタン系イスラム教徒たちとのコンタクトを隠蔽しながらインドへの旅を容易にするために、彼の母親の苗字を名乗り始めた。

 その当時、彼の親しい友人らやビジネス仲間らも、彼が何を計画していたかは想像もつかなかった…「David Headleyは気狂いだ…脳みそのある人間にはこんなことは出来るはずがない」、とRanaの妻は語った。

 MPDの臨床的な診断というものは容易に、あるいは少しずつ入手できるものではない─そこには全人口のなかでも非常にまれな、精神病理学的条件が必要となる。しかしこの、1960年に首都から数歩の距離のワシントン・DCで生まれたパキスタン系米国人のジハーディストのケースには、それが当てはまるようだ。

 1992年と、その他のストレスにみちた人生の変遷の時期において、Headleyは米国精神科協会(APA)の診断・統計マニュアルに示されたMPDの全面的な症状を示していた可能性がある。

・アイデンティティが分裂し、2つかそれ以上の顕著な別のパーソナリティによって特徴付けられる…ひとつはパキスタンに根を持ち、もう一つは米国に根を持つ。

・二つ以上の別の人生を送っているため、毎日の出来事に関する重要な個人的情報が分裂している。

・社会的機能、職業的機能または他の重要な分野で、顕著な失意の状態や障害を呈する。

・Headleyの異なる人格は、広く受け容れられる文化的な枠組において、「正常」とは見えない。

 発達心理学的にみると、Headleyの分裂した人格は初めから始まっていたようである。彼はパキスタン人の外交官Sayed Salim Gilaniと、米国人の母親Serill Headleyの息子であり、この両親は共に彼の生まれた当時、ワシントンのパキスタン大使館に勤務していた。

 Headleyは…彼の父が離婚し家族がパキスタンに帰国した後に、子供時代の一部をパンジャブ州の軍エリートの予科学校Cadet College Hasan Abdalで過ごした。熱烈なイスラム教徒として育てられ、学校で彼は過激派思想の強い影響を受けた可能性がある。彼は子供時代の友達で、後に明らさまな共犯者となるRanaに軍学校で出会い、二人は生涯の友人でビジネス上の協力者となった。

 彼の父親のもつイスラム的な世界は、米国において彼の母親が彼に提供した世俗的なライフスタイルと真っ向から対立した。1977年に17歳の当時、パキスタンの政情変化のために、Headleyの米国人の母は彼を、彼女がKhyber Passという名のバーを経営するフィラデルフィアに移した。
 
 波乱に富んだ十代の時期に米国の価値観を試したHeadleyは、母親のオープンな、あるいは「放蕩な」選択に対して反抗しながら、その狂信的思想の兆しを示しはじめて…非イスラム教徒全てが嫌いだと告白していた。 (*写真はHeadleyと米国のパスポート)



 Headley自身は、彼の憎悪がそれほど深く、彼自身を結局ジハードの道に駆り立てる物だとは想像できなかった。彼はISIやLeT、DEAなどの組織内部への潜入に成功し、別人を装うことでインドの治安勢力を避けつつ、同時に米国とパキスタンで何人もの女性にいい寄ったり離婚を重ねていた。
 
 「多くの人々はその人生のなかに矛盾を抱えているものの、人々はそれと折り合うことを学ぶものだ」、とHeadleyの叔父のWilliam Headleyは、記者に語った。「しかしDaoodhは決してそれをしなかった。彼の左半身は、右半身とは会話しないのだ」。

 病気に起因するHeadleyの狂信思想は、彼の気の触れた心のコンパートメントに隠され、しまいこまれていた。 その低いレベルの変化形といえば─通常では国境線によって分たれた異なる文化の間で生活しつつ分裂した忠誠心(divided loyalties)の持つ人々において、より低周波数の、小さな波長で見出されるかも知れないものだ。

 このような自国生まれの反米主義とは、我々の想像するよりもより激しく、米国の下院議員の個人的なブラックベリー端末から送られた猥褻なTwitter画像などよりもずっと危険だ。
http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/MF16Df06.html


「テロリスト」デビッド・ヘッドリーは、米国のスパイか? By スワラジ・チャウカン(12/17.2009 The Moderate Voice.com)

 米国はなぜ、11/26のムンバイのテロ攻撃の容疑者、パキスタン出身のDavid Headleyの、インドの司法当局による尋問を許さないのか?それは、Headleyが米国のスパイでもあるからか?…そのことインドのメディアでホットな話題となっている。 

 Headleyとその共犯者Tahawwur Hussain Ranaは、インドでの公共スペースの爆破を共謀した容疑で10月にFBIによって逮捕された。

 David Headleyは、ワシントンD.C.に生まれた─その地で彼の父Sayed Salim GilaniはVoice of Americaに勤務し、彼の母Serrill Headleyはその秘書だった。パキスタンの首相Yousaf Raza Gillaniのスポークスマン、Danyal GilaniはHeadleyの異母兄弟である。

 インド政府のオフィシャルな情報源によれば、David Headley(本名Daood Gilani)の、カシミール分離主義派Lashkar-e-Taiba (LeT) とのリンクを、米国CIAはムンバイへのテロ攻撃の1年前から察知していたが、彼がインドとの間を自由に旅行している間そのことをインド当局には伝えなかったと、The Times of Indiaは報じている。

 ミステリアスなことに、HeadleyとRanaのビザに関する書類は、シカゴのインド領事館から紛失した。

 そのような訴えはインド亜大陸で抱かれる疑念…テロリストのネットワークがこの地域で(米国の求める国益や秩序に従順ではない国々の)政府の不安定化をもくろむ活動に、米国の諜報機関自身が責任をもつのでは、との疑いに信憑性を与える。長らくカシミールは地政学的な理由から(宗教的理由からではなく)、遠隔地からのテロ攻撃を呼びやすかった。

 ワシントンの不透明なパワー・ポリティックスや、LangleyのCIAにおいて、米国の政策立案者たちは多くの有名な人々を使ってきた─その中には、ダブル・エージェントだったLee Harvey Oswaldや、Saddam Husseinも含まれる。そして今現在の最大のお尋ね者、オサマ・ビン・ラディンを忘れてはならない*(この記事掲載当時OBLは逃走中)─彼は、アフガニスタンでのソ連の帝国建設の野望に対抗する、彼らのお気に入りの戦士だった。

 The Times of India はこう続ける、「(インドの)捜査官たちは、米国の諜報機関がインド当局からその情報を遠ざけ続け、パキスタン生まれのHeadleyのことが、"露呈する"ことを決して許さなかったのだと信じている。」

 「ムンバイ攻撃に関与した容疑でFBIが逮捕した49歳のテロ容疑者:Headleyは、2009年3月にインドを訪れていた─LeTによって実行されたムンバイ攻撃の4ヵ月後だ─しかしそれでも、FBIは依然としてインド当局に、HeadleyがLeTの工作員であることを伝えなかった…明らかに彼がインドで逮捕されることを怖れていた」

 「同じ情報源によれば…もしもHeadleyがインドの法廷でより軽い罰をうけたなら、Headleyが米国のスパイであると同時にLeTのためにも働いていた…と信じられる道理に叶った根拠を、インド当局に与えるかもしれない…と彼らは心配していた」
 「それはさらに、Headleyと米国諜報機関に司法取引があったとの考えに信憑性を与えた」

 「彼のインドへの幾度もの訪問の間にHeadleyはクレジットカードを通じて、米国の銀行からの多くの金と、パキスタンから持ってきたらしきインドの偽造通貨を何十万ルピーもの金に換えていた…」

 「インドの捜査官達は、そのクレジットカードの請求書を米国の銀行で誰が支払っていたか、の捜査を試みてはいない…」

 ワシントン生まれの、パキスタンの元外交官と米国人の母との間の息子Headleyは、インドに幾度も旅行し、ムンバイを含む多くの場所を訪れ、ボリウッド・スターたちと交友関係を結んでいた、とThe Hindustan Timesはいう*中略…HeadleyがDEA(麻薬取締局)の情報屋だった件は推測としている。

 別の記事によればHeadleyはユダヤ人を詐称していたという(Wikipedia
参照)それは何故か?FBIによれば、彼はユダヤ人を装う為、「How to Pray like a Jew」という本さえも所持していた FBIは、彼がインド、パキスタン、湾岸諸国やヨーロッパを頻繁に往復していると知った後に彼を監視下においた。

 インドの人々のなかには、もしもインド国籍の誰かが米国のどこかをテロ攻撃した容疑者とされ、そしてインド政府が米国当局による彼の捜査を拒否した場合、米軍はインドへの軍事作戦を行うだろうか?と問いかける人々がいる。もしそうなれば、今インド政府は一体どうするのだろうか?

 その場合─インドの首相は、彼がついこの間…例のお騒がせ闖入カップルの眼前で…ホワイトハウスで親愛感を込めて握っていた米国大統領の、その手を噛むのだろうか?
http://themoderatevoice.com/56118/terrorist-david-headley-an-american-spy/

*写真:David Headley(2009年頃?)Headleyは今や、米国政府にとって「スター証言者」なのか?

関連記事:
ムンバイのテロへと繋がる、新たなスパイのリンク
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/05/new-spy-links-to-mumbai-carnage-by.html

ムンバイ攻撃を共謀?─テロ容疑者、ラナ&ヘッドリーの裁判のゆくえ
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/06/chicago-businessman-tahawwur-rana-is.html

Thursday, June 23, 2011

ムンバイ攻撃を共謀?─テロ容疑者、ラナ&ヘッドリーの裁判のゆくえ

「ムンバイのテロ事件」への共謀を問われ…シカゴで行われた容疑者たちの裁判は複雑怪奇に?…

シカゴのビジネスマン、タハウール・ラナはデンマークでのテロ未遂計画幇助で有罪、ムンバイの攻撃計画では無罪との判決下る
Chicago businessman Tahawwur Rana is guilty of Denmark plot but not guilty of aiding the Mumbai attacks (6/9, Chicago Tribune)

 これまでにシカゴで開かれた最も顕著なテロ裁判の場で、木曜日にシカゴのビジネスマンは有罪判決を受けたが…陪審員団は彼を最大の罪─すなわち、2008年のMumbaiテロ事件での共謀罪からは無罪の評決を下した。 (*右図:Ranaの法廷でのイラスト)

 Tahawwur Rana 50歳は、幼なじみの友達David Coleman Headleyをテロ計画において助けたこと…シカゴのノースサイドからパキスタンの部族エリアへと足取りを拡げ、Mumbaiでのテロ攻撃へと及び、またDenmarkの新聞社も襲撃してスタッフを斬首しようとしたテロ未遂の計画も幇助した、との容疑で訴追された。

 HeadleyとRanaは、2009年にシカゴで逮捕されている。

 2日間の審議の後に陪審団はパキスタン出身のRanaに対して、Denmarkのテロ計画でHeadleyを幇助したとの罪で有罪判決を下した。しかし陪審団は、米国人6人を含む170名を殺害したMumbaiのテロ計画では彼は無罪だと認めた。Ranaはまた、パキスタンのテロリスト・グループ、Lashkar-e-Taibaを支援した件で有罪とされた。

 陪審団がRanaに対し…彼がインドのカシミールの分離統治に反対しているパキスタン本拠の過激派グループ、Lashkarの支援で有罪…との決断を下したのは、Rana自身がFBI捜査官に対する逮捕後の供述で、Headleyが同グループのために働いていたと知っていた、と話したことに基づいている。
 RanaはMumbaiのテロ幇助容疑から赦免されたことで終身刑を免れた。しかし彼は依然として懲役30年の宣告に直面し、弁護団は失望を表している。

 「我々は、この件に関する(陪審員らの)熟考に立ち戻ることは出来ない、そのため彼らがどうしてこの判断に至ったのか、よくわからない」とRanaの弁護団の一人Patrick Blegenはいう。「明らかに、我々は甚だしく失望している。我々はRana氏を信じており、そして我々は彼が無罪だった事を信じている。しかし、陪審は異なる判決に達した。我々は彼らの決断を尊重するが、しかし彼らは間違っていたと考える」(後略…)
http://www.chicagotribune.com/news/local/ct-met-rana-terrorism-trial-0610-20110609,0,141351.story

*Terror trial evidence
デビッド・ヘッドリーが、インドで撮影した「テロ攻撃のターゲット候補地」の写真の数々(法廷での証拠)http://www.chicagotribune.com/news/local/breaking/chi-110524-terror-trial-evidence-pictures,0,7248341.photogallery?index=chi-terror24subtah20110524111114


ラナのテロ裁判の終幕…州検察側が数多の証拠を示唆するなかで、ラナの弁護団は"スター証言者"(ヘッドリー)を罵った…
In close of Rana terror trial, defense rips star witness as government points to evidence
By Annie Sweeney, Tribune reporter (6/7, Chicago Tribune)
 

 テロ幇助の容疑で訴追されたシカゴのビジネスマンの弁護人は、彼に対するこの告発が…自らがテロリストであることを認めた人物が死刑を免れるべく試みた、絶望的でっちあげだと訴えた。

 「David Headleyに関しては、何事も単純に済む様な問題はない」、とTahawwur Ranaの弁護人Patrick Blegenは、州政府側のスター証言者に関していう。「彼は、自分にはすべての人々が騙せるものと思っているのだ」。

 最終弁論の場でBlegenはHeadleyの信憑性をひどく非難し、彼がいかにしてヘロイン密輸で2度も告発されたか、家族や当局に対して度々嘘を繰り返しついてきたか、そしてFBIによる抑留中にさえ、大胆にも彼の妻に電話をかけて彼の兄弟に警告するように頼んだか…等々を陳述した。

 「彼は彼のオフィスから、正義を妨害すべくはかったのだ」とBlegenは言った。
だが、裁判官が彼を紹介した直後に、検察側のテーブルから最後の言葉を放った米国の連邦副検事は、強い声で…陪審団に対しHeadlayのバックグラウンド(病気を含め)を超えたその向こう側に注目するように、と求めた。

 「皆さん、一秒たりとも…(このようなことで)この男が(車中の会話において)言っていたことを変えさせてはならない」、とCollinsは政府が残したRanaに関する盗聴録音について語った。「それはあなた方が今、行うべき眼前の仕事から、あなたがたの方向性を逸らしてしまう」

 検察当局はHeadleayには人格障害(人間性欠陥)があると即座に認め、彼のことを酷い、軽蔑すべき(awful and despicable)人間だと呼んだ。しかし彼らは、Ranaを陰謀の内側に据えた長い証拠のリストをも読み上げた─それは、HeadleyとRanaが2009年に、自動車での長時間の走行中に録音された秘密録音を含むものだった。

 シカゴにおける最も顕著なテロ裁判で、50歳のRanaは、彼がHeadleyを支援し─2006年から2008年にかけて5回にわたり彼を、シカゴを本拠に彼の経営する移民ビジネス会社の代理人として旅行させ…インドのムンバイへのテロ攻撃(2008年に170人程の人々を殺害した)のターゲットの候補地探しをさせた…という犯罪の容疑者とみなされた。

 彼は、50歳のHeadleyに同じビジネスの隠れ蓑を着せた上でデンマーク旅行をさせ、コペンハーゲンの新聞社を標的とした2度目のテロ計画の未遂(ムスリム世界の大半を激怒させたモハメッドの漫画掲載への報復を目的としていた)のために偵察を行わせたとの件でも告発を受けた。

 陪審団は水曜の朝からこの件に関する審議を始めた。
BlegenはRanaを合法的なビジネスマンであるとみなしており、Headleyがパキスタンのテロリストから何千ドルもの資金を集めつつ、同時にRanaには金銭を支払って詐欺的に(彼を利用し)ムンバイのオフィスを運営させた、との見地に立とうとしている。

 Blegenは、Ranaがいかなるテロ計画にも真に関わってはいなかった、と主張した。秘密の録音でさえもHeadleyの、信憑性の薄い、その解釈にもとづいたものにすぎないと彼は言う。そしてBlegenは、Ranaが6時間の審問の間に当局の放ったすべての質問にも答えたと指摘した。

 しかし、検察官らはRanaが、虐殺テロで死亡した若いMumbaiのガンマンを祝福し、またテロの計画者の一人(当局に告発されている事件の共謀者)のことをパキスタン軍の名誉に値すると述べている…車内での会話の録音のことを証拠に挙げている。

 また別のやり取りでは、HeadleyはRanaと、インドとデンマークのスポットを含む彼のテロ攻撃のトップ・ターゲットの地について話しているとしている。Collinsは陪審員団に対し、Ranaがそのことを論じ合っている会話中で笑っていると話した。

 州検察側は、その証拠に関する裁判に陪審員団が注目し続けるようにはかるとみえる。多くの証拠の提示と審査の後にも、共同訴追者であるVictoria Petersは陪審員らに対して、彼女が提出した15件に上る証拠を審議するように再度求めている。

 その証拠の一つとは、Ranaが─"Major Iqbal"(イクバル大佐)としてのみ知られる、告発を受けたもう一人の共同謀議者からのeメール内容を…彼がHeadleyに送ったメールの中に貼付けている、との訴えである。しかし、そのもう一人の共謀者もまた、Mumbaiテロ攻撃の1ヵ月後の2008年12月にHeadleyにメールを送り、彼にRanaがどう感じているのか、彼は「怖がっているのか」と質問しているという。

 Headleyが「酷い男(an awful man)」であった、と認めつつPetersは、陪審員団にこう尋ねた、「あなたがたは、政府(検察側)に対して何をして欲しいのか?”II'm sorry、お前たちは軽蔑に値する…我々は、あなたがたの提示する情報(Ranaに関する証拠)になど興味はない”、などと言って欲しいのか?」と。
http://www.chicagotribune.com/news/local/ct-met-rana-terrorism-trial-0608-20110607,0,4532268.story


テロの容疑者に対し、評決は分かれた(要約)(6/ 10, NYtimes)
Split Verdicts for Man Accused of Terrorism

…「テロリストを幇助しようとするすべての者に対する、この評決のメッセージは明白だ」と、政府側の検事Patrick J. Fitzgeraldは声明で述べた。「我々は暴力を容易にする者たちすべてに正義の裁きを下す」

 有罪、無罪のミックスした判決は、30年の懲役刑となるRanaと、政府側の双方に打撃を与えた…検察側の陳述は、死刑の宣告とインドへの身柄引渡しを免れるため、Mumbaiのテロ計画での重要な役割を担ったことを告白した、David Headleyの証言に大きく基づいている…

 Headleyの証言は…彼がRanaだけでなくパキスタン諜報部の幹部らもムンバイのテロ攻撃を幇助したと訴えた際に世界のメディアのヘッドラインを飾った。その告発は米国とパキスタン、インドの関係を悪化させる脅威を与えた─特に、パキスタンの軍事都市に隠れていたオサマ・ビン・ラディンを米特殊部隊が発見した後には─

.....Ranaの弁護団は、Headleyの成人して以降の大方の人生での詐欺行為を列挙し、彼の信頼性を切り捨てることで弁護を行った。Headley氏─パキスタンの外交官とフィラデルフィアの社交家との間の50歳の息子は、テロリストになる以前に多くの実質的な逮捕記録があり、麻薬密輸でも逮捕され、その後は長期の懲役宣告を逃れるため麻薬取締局の情報屋となっていた。

…Rana氏…パキスタン系カナダ人で3児の父親は、デンマークの新聞社の襲撃計画でも類似の幇助をし、告発されている。しかしその計画は実行されなかった。

 Rana氏の家族たちは判決の宣告を聞いて泣いたが、Rana氏は目に見える感情を示さなかった。彼の弁護士の一人は、「彼はショックを感じているのだろう」と語った。もう一人の弁護士Patrick Blegenは陪審員らについて語った、「明らかに我々は失望している。我々は彼らが、解釈を誤ったものと思う」

 Fitzgerald判事は、Headleyに対する判決に関して「それは、まだ当分先のことになる」と語った…
http://www.nytimes.com/2011/06/10/world/asia/10headley.html?ref=davidcheadley

*関連記事:



「米国育ちのテロリスト」デビッド・ヘッドリーの多くの顔http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/06/many-faces-of-homegrown-terroristby.html





ムンバイのテロへと繋がる、新たなスパイのリンクhttp://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/05/new-spy-links-to-mumbai-carnage-by.html