Monday, March 5, 2012

The New Islamists: イスラム主義者の民主主義と信仰がチュニジアで試される時 The New Islamists -- Islamists’ Ideas on Democracy and Faith Face Test in Tunisia By Anthony Shadid


弾圧を逃れ英国などに亡命していたイスラム原理主義者らの多くが帰国しつつある昨今の舞台裏とは?
2月半ばに動乱のシリア国境で取材中に喘息発作で急死したNYタイムスのベイルート支局長・アンソニー・シャディド氏の伝えた最後の記事。

The New Islamists:イスラム主義者の民主主義と信仰 がチュニジアで試される時  By アンソニー・シャディド (2/19, NYtimes)

チュニスにて・ サイード・フェルジャーニの突然のひらめきは、彼がチュニジアの信心深い街でその貧乏な子供時代を過ごした後に…ひと世代ほど前の宗教的ルネッサンスが彼の知性を呼び覚まして、クー・デターを企んだ彼が拷問され背骨を痛めた後に…そして他のイスラム主義者たちと合流すべく友人のパスポートを借りた彼が、英国に亡命したその後に… 訪れた。
22年の後にフェルジャーニ氏は故郷に帰ると、民主主義を建設するという仕事がその手にあることを理解した─ イスラム主義者たちの主導で、アラブ世界のモデルになるようなそれを建設する、という仕事を。
「これは、我々にとってのテストだ」と彼は言った。


もしも、一年前に中東に吹き荒れた叛乱の嵐がアラブ世界のもうひとつの未来をイメージしよう、との決意を抱いた若者たちの時代の到来だったのなら─ その叛乱のもたらした余波のなかでエジプトとチュニジアで起きた議会選挙や、モロッコやリビア、そしておそらくシリアなどでもイスラム主義者たちによる決定的な影響力への展望がもたらされた瞬間とは…もう一つの古いジェネレーションによるものだったのだろう。


誰も、近代のアラブ世界の歴史が迎えた最も重要な一章のひとつが、どのように終わるのかを知らない…その地域の軸が、独裁政権への抵抗運動から、それよりもはるかに曖昧な何かを体現する運動へとその向きを変える中で。しかし、投獄や亡命・抑圧によって形づくられつつ長年培われた信念や同盟によって硬く結ばれた、Ferjani氏の体現する世代にとっては、何が出現しつつあるのかを断言するとしたら大いに言い分もあるだろう。
Anthony Shadid and People

彼らがアラブ世界の政治の前面に現れたということは、1928年にスエズ運河の畔の街でエジプト人教師の設立した復古主義運動のムスリム同胞団が、長らく固持してきた知的かつ組織的な武勇を描き出すものだ。しかし、かつてエジプトから放たれていた知的な潮流は、今や同じほどの頻繁さで、他の方向に向けて流れている…モロッコやチュニジアの学者や運動家らが、しばしば西欧の影響も受けつつ、アラブ世界の周縁の地に腰かけて、信仰と民主主義(…それは大方の過激なイスラム主義者や、ここ中東や西欧の多くの批評家らも和解不能のものとみなしているものだが)の統合というその思想を輸出しているなかで。 

多くの場合、彼らは─イランにおける1979年のイスラム革命や、1989年のスーダンでのイスラム主義者によるクーデターなどの経験を踏まえて─ 専制的なリーダーらによる権力や、あるいは世俗主義者による権力というのは人々に(何も)与えたがらないが故に、彼ら〔原理主義者による政権掌握…〕に信頼を寄せてほしい、と社会に求めている。

その信仰心にもひけをとらぬ…独学によって培われた溢れる知性を持つ57歳のFerjani氏は、そのような疑念があることを認める。数回のインタビューの一つでも彼は、歴史というものが…彼のよく用いる言葉だが…彼らの世代というものを、権力を掌握するか否かの能力において評価せず、40年にわたるその活動の後権力に対して彼らが何をしたのかによって評価するだろうと宣言した─
「私はあなたに、ひとつ語れることがある…つまり我々が今や黄金の機会(golden opportunity)を手にしているということだ」、と彼は微笑みながらいった。「そしてこの黄金の機会のなかでは、私はコントロールされたくはないのだ。私は、最もカリスマ的なシステムをもたらすことに興味がある─カリスマチックな民主主義システムを…それが私の夢だ。」
Saiid Ferjaniはチュニジアでクー・デターを企み、英国に亡命し、
他のイスラム主義者たちと合流した

好機との出会い A Chance Encounter

Ferjani氏にはその子供時代の何かが彼を真にこの野望への道に導いた、という事は何もなかった。名声あるカイルアンの街(その街をイスラムの第4の聖都、とも呼ぶムスリム達もいる…)に生まれながら、彼は特別、信心深い子供ではなかった。彼の父は商店主だったが、家族に充分な収入をもたらしたことは一度もなかった。彼はあるとき、3日間にわたってまったく食べ物のない日々があったこと、そして学校には安物のサンダルを履いて通ったことを思い出した。「貧乏、それを我々は味わった」、と彼は回顧した。


彼自身の述懐では、彼は16歳になるまで手に負えない程のやんちゃな子供だった。その年には、チュニジアに帰還する前はエジプトとシリアで学問を修めた(アラブ・ナショナリストからイスラム主義者へと転じた)Rachid al-Ghannouchiがその街、カイルアンでアラビア語を教える教職に就いた。Ghannouchiは─当時はエナーダ党(Ennahda Party)と呼ばれていたが、後にはイスラム傾向主義(Islamic Tendency Movement)と呼ばれた運動を起こすべく旅立つ前に…わずか1年そこに滞在しただけだったが、しかし彼は彼の生徒たちの間に遺産を残した。

「彼はいつも、世界と政治についての話をしていた」、とFerjani氏はいう。「なぜムスリムは遅れているのか?何が我々に遅れをもたらしたのか?それは我々の宿命なのだろうか?」、と。

Ghannouchi氏によって投げかけられたその問いは、後続のイスラム主義者の世代を形成したが…その"イスラム主義者"という名称は、彼らのもつ多様性を決して捉えてはいなかった。そうしたテーマは、ムスリム同胞団の創始者であるHassan al-Bannaの仕事のなかでも検討されていたが─al-Bannaの布教に対する考えが正しかったことは、その後50年以上にわたって証明された。それはまた、エジプトの思想家Sayyd Qutbの著作のなかにもみられた─彼の著作は、彼が1966年に絞首刑となったずっと後の日々にも反響をもたらしたが、それは中東に流血をもたらしたイスラム武装主義というものの台頭をもたらした。後に、1981年のAnwar Sadat(大統領)暗殺計画の構想の基礎をなした「隠された義務(The Hiden Duty)」という(Sayyd Qutbの)テキスト(一文)も、その件の解決を試みていた。多元的共存主義と民主主義を信奉したGhannouchiもまた、同じ問題を模索していた…イランで革命の怒りが沸騰していた時でさえも。
Racid al-Ghannouchi,
founder of an Islamist party in Tunisia
カイルアンの植民地時代のネグラ寺院(Negra Mosque)にFerjani氏をはじめ100名の若者たちが集まって、それら全てを学ぼうとした。「読んで、読んで、読んでそして…読んだ」と彼は回顧する。「歩いている間でさえも私は読んだ。」

Ferjani氏は最後に首都のチュニスに向かい、そこで彼は、彼に昔、アラビア語を教えた教師のグループに合流した。「最初から、そこには政治というものがあった」、彼はインタビューで述べた。

その当時のチュニジアはHabib Bourguibaの政権下だったが、彼はあるときムスリムの断食月ラマダンの最中にもオレンジジュースを飲むことをTVで主張したほど世俗的人間だった。1957年以来政権の座にあったBourguiba氏は、Ghannouchi氏の信奉者らを弾圧し…彼らの多くが処刑されるとの見込みがあったがために、Ferjani氏はクー・デターの陰謀を幇助したのだという。彼は議事堂の向かいの、白い漆喰壁に青いシャッターのある低い建物のなかで彼が経営していたビデオショップで、多くのオーガナイザーたちと出会ったという。

彼らがその計画を実行する17時間前に、Bourguibaの内務大臣だったZine el-Abidine Ben Aliが、自分自身のクー・デターを起こした。10日後の1987年11月17日に、Ferjani氏は逮捕された。彼は18ヶ月を刑務所で過ごす間に、彼が「ローストチキン」と呼ぶ姿勢で棒に括り付けられ、彼の脊椎骨を鉄の棒で破壊された。歩くことができなくなり、痛みは焼け付くようで、彼は動こうとするときは常に、囚人たちの背に担がれねばならなかった。

「彼らは、拷問が体中のどこでも感じられるようにする凄いエキスパートだった」、Ferjaniは回想する。「私は朝5時まで眠ることもなく、夜明けまで祈り続けた後に、私の中には何も残っていないと感じた後に漸く、眠りにつくことができた」。

彼は解放されて5ヵ月後、未だに車椅子を使っていたが、空港で警備員の眼に留まることなく彼自身で50ヤードは歩けるようにと、自らを訓練した。彼は髭を剃り、友人のパスポートを借りた。そして彼はロンドンへの航空機に搭乗して、英国への亡命を試みた。

Crucible of Exile 亡命による試練

Ferjani氏の世代のイスラム主義者たちは、刑務所で過ごした時期を名誉の勲章のごとく身に着けている。しかし、亡命という時期も、それに劣らず彼らを形造った…特に、チュニジア人にとっては。

Ferjani氏の旅した先であるロンドンは、1990年代に、イスラム主義者の政治的なハブ(中心点)となっていた。やがてGhannouchi氏がそこに到着して、Ferjani氏に合流した。サウジ・アラビアのサラフィ主義者たちも、しばしば彼らにとっての敵対者であるバーレーンのシーア派主義者と交り合っていた…故郷におけるよりも一層、彼らの共通の基盤を見いだして。

Gaza地区における学者でもありハマスのリーダーでもあるAhmed Yousefは、米国での似たような状況について回顧する─そこで彼はワシントンでの人との会合に生涯にわたるコンタクトを持っていたのだ。そうしたコネクションのなかには─モロッコの学者で、政治家であるSaadeddine Othmaniや、シリアのムスリム同胞団のリーダー・Ali Sadreddine Bayanouni、ヨルダン出身のイスラム主義者のリーダーAbdul Latif 、そしてモロッコの現在の首相でもあるAbdelilah Benkirane、などの人々がいた。

そうした環境は、1993年のニューヨークの世界貿易センタービルの爆破事件以降、より許容される度合いが低くなった─とYousef氏は言う…しかし、その時までは、「それはパラダイスのようだった」。

「亡命先において、人々は互いが必要だと感じる」と、ロンドンのパレスチナ人学者で、活動家でもあり、 Ghannouchi氏の伝記を書いたAzzam Tamimiはいう。「故郷では、国家の状況自体があなたに課せられる。それゆえ、プライオリティ(優先事項)も異なってくる」。

Ferjani氏は、彼のロンドン時代を、彼が1970年代にカイルアンで経験した知的な啓蒙の時代と比較する。彼は、妻と5人の子供をEalingの近郊に住まわせて、彼自身はやがてアル・カイダやビン・ラディンに関する論議に巻き込まれるようになったイスラム主義者の仲間の中に残ったが…しかし彼はその活動の地平を市民社会にも拡大した。彼は、ヨーロッパ史や民主主義、環境問題と社会の変貌に関するクラスを受講した。

彼はTamimi氏が、その多くが二度と故郷に戻ることを期待していなかったイスラム主義活動家たちにとっての「共通の根と、共通の立場(common roots and common ground)」と呼んだものを、理解したという。

「我々は、お互いを知っている」、と彼は言った。「しかし、知りあうことはひとつのことであり、その一方で、どんな意味においても、何かを一緒になすということは…多くの人がそう考えるかもしれないように…それは別のことだ。政治的なことにおいては、我々は完全に同意しあってはいなかった」。(*アル・カイダのようなテロ行為への参加に同意しなかったという意味と思われる)

Embracing Democracy 民主主義を信奉する

Ferjani氏にとって、その亡命時代を通じて抱いた政治的イスラムというものの支配的イメージとは、1990年代のエジプトでの流血の反体制運動や、アルジェリアの内戦、そしてビン・ラディン(…彼のマニ教徒的な世界観とは、ブッシュ政権が発する最も辛らつな声明の鏡像のようだったが)の台頭などの記憶だった。

しかし、ムスリム同胞団によって喚起された多くの潮流のなかで起こりつつある変化(シフト)というものも、それに劣らずドラマチックだった。亡命のなかで彼自身の思想を進化させたGhannouchi氏は、より一層、包括的で(異質なものへの)寛容度の高いイスラム主義への早くからの提唱者となり、一世代ほど前の時期から、選挙や多数派による支配等の概念というものが普遍的なもので、イスラムの考えとも盾しない、と論じていた。早くから彼は議会への女性の参加を増やすためのアファーマティブ・アクションの実践をも支持した…ムスリム同胞団が長い間たゆまず定義してきた、その布教活動における無慈悲な概念を打ち破るものとして。

「率直に言って、イスラム主義運動のなかに民主主義を持ち込んだ男とは、Gharouchi氏だ」、とFerjani氏は言う。Gharouchi氏自身が、昨年暮れにチュニジアからパレスチナ自治区までのイスラム主義活動家たちが参加して、イスタンブールで行われた会議におけるインタビューhttp://www.nytimes.com/2011/10/20/world/africa/rachid-al-ghannouchi-imagines-democratic-future-for-tunisia.html?pagewanted=allで述べた言葉の如く、「支配者たちは、彼らの反対者たちよりも以上に、暴力によって権益を得るもの」であるという。

アラブ世界の全域で交わされる論議では…それは欧米からはしばしば無視されているのだが…民主主義とイスラムが相容れるものかどうか、との問いは1990年代から沸騰していた。90年代の半ばには、ムスリム同胞団から離反してCenter Party(中央党)を作ったAboul-Ela Maadiという若きエジプト人イスラム主義運動家が、(民主的)選挙による権力の交代を支持し、そして異なる意見や、また非イスラム主義政党との連携が重要なものだと宣言した。

カタールのドーハを拠点に巨大な影響力を持つエジプト人宗教家のSheik Yusuf al-Qaradawiは、しばしば前衛主義者たちを支持している(2005年には、彼はアル・ジャジーラの衛星テレビを「イスラム法の前に自由あり」、と宣言して支持に回った。同胞団は未だにMaadi氏の離反に対しては怒りを抱いているが、しかし彼らは、1996年にはとても新奇なものにみえた彼の思想を、大幅に受け入れた。

こうした論議は、アラブ地域全体にこだましている。パレスチナ人であるYousef氏はエジプトでの学生時代に、Ghannouchi氏の月刊誌Al Maarifaを読んだ際の衝撃を回顧する。リビアでは、かつてMuammar el-Qaddafi大佐の牢獄において、ジハード主義者たちと政治を論じたこともあるAli Sallabiが、Ghannouchi氏とSheik Qaradawiは霊感の源である、と述べている。

批評家たちはこうしたシフトを戦術的なもの、レトリカルなものとさえ見ている。しかしその論議の本当の真髄は今日の、政治的イスラム主義の知的な潮流の支柱をなしているのだ。

古い同胞団の思想では「Al-sama’ wa’l-ta’a」、と言われた─翻訳すればつまり、「聞いたままに、それに従う(hearing and obeying)」 ということだ。

「それはもう終わった」、と、同胞団の創始者、Banna氏の孫であり、ロンドンを拠点とする著名なイスラム学者であるTariq Ramadanは言う。「新たなる世代は、もしもそのようなことが行われるなら、我々はその場を去るだろうといっている。あなたがたには新たな理解と、新たなエネルギーがあるのだ」。

彼は、エジプトが新たなイスラム主義の思潮の源泉であったFerjani氏の若い時代とは対照的に、今やヨーロッパに亡命した人々や、Ghannouchi氏や、Ahmed Raysouni氏のような北アフリカの学者たち、またチュニジアのEnnahda党や、モロッコのBenkirane氏による正義と発展党(Justice and Development Party)などの人々によってなされる発言に、より影響力があると指摘した。

「それはもはや、中東から発されるものではなくなった」、とRamadan氏は述べた。「それは、北アフリカ諸国や、西欧諸国から発されている。そこには新たなヴィジョンや、新たな理解がある。今や彼らはこうした思想を、中東へと戻している」。

そのロンドンでの仮住まいにおいてFerujani氏は、彼のカリスマ的国家体制というアイディアにおいて…それがイスラム主義者に主導されるべきか、他の者によって主導されるべきかに関する考えの形成に、Westminsterでの討論を取り入れた。彼はまた猛烈に左翼思想を拒絶した後、今ではカール・マルクスによる資本主義批判を支持している。

亡命は…と彼は言った、「自分を根本から、大きく変えた」。

Applying Theories セオリーを適用する

爽やかな冬の日に、Ferjani氏はチュニジアのEnnahda党のオフィスに座っていた─その党名が刻まれたプラスチック製の看板が、未完成 unfinished な印象を与える5階建ての建物のなかで。

彼が、赤い国旗を身に纏って空港を難なく歩行しつつ、チュニジアに帰還してから1年近くが経過した。彼は、彼自身のパスポートを持っている。彼の髭は灰色になったが、彼のカイルアンでの若い時代を思い出させる口髭を、未だに保っている。空港では200名前後の人々が彼を迎えていた。

「チュニジアには裏切り者のための場所はないが、(その国を)定義する者たちの場所だけがある」…国家を吟唱する群集と合流して、彼はそう歌った。「我々はチュニジアへの忠誠を尽くして生き、そして死ぬ。」

この日に、彼はより一層くすんだ気分でいた。世俗主義の活動家らは、彼らが10月の選挙におけるEnnahda党の勝利により確実にもたらされると確信していたカリファテ(カリフ=イスラム首長による統治体制)を公然と非難して、抵抗運動を繰り広げていた。同党に反対を唱える新聞各紙は、清教徒的なイスラム主義者らによる不正行為や、Ennahda党が過激な慣習を許容するだろうとの推測についての記事を満載していた。富裕層の集うカフェには、Ennahda党の成功について経験則的な用語で語るチュニジア人たちがいた…それはチュニジアにおけるコスモポリタニズムを絶滅させうる宗教(的勢力)によって、不可避の(宗教的)非寛容が是認されるということだ、といったような見方だった。文化的な論議は、誰もが認めているもの:つまり、病める経済というものが…より一層差し迫っているのだという論議に影を落としていた。

「率直にいって、我々はすべての物事のトップの位置にいると思う。」とFerjani氏は言った。

しかし、よりガードの少ない瞬間に彼は問いかけた─「あなたは、50年間にわたる問題を1ヶ月以内に、誕生して1ヶ月未満の政府と一緒に解決できるなどと、本当に思うのか?」

あるインタビューで、Ferjani氏はこう皮肉を飛ばした、「知っているだろう?権力というものは腐敗する」。彼はこの日、党の本部のオフィスで座りながら、権力に関するこうした問いと苦闘していた。彼の脇には、党の機関紙The Dawnの山があった。あるコラムは「反革命的メディア」に対して非難しており、他のコラムは陰謀に関する暗い推測を示唆していた。フロント・ページでは、「議会は座り込みデモには反対し、人々の要求を聞くことに賛成する」と宣言していた。

「我々は表現の自由を怖れない、しかし我々は、無秩序を容認することはできないのだ」、と彼は言った。「人々は責任を持つべきだし、彼らは、法と秩序があることを知らねばならないのだ」。

彼は、反対デモをする人々は警察の許可を得なければならない、と指摘する。彼は、報道メディアは無謀すぎる、と懸念していた。彼は、アンシャン・レジーム(旧体制)の勢力が未だに策謀をめぐらしていると仄めかす。散らかった部屋で、彼の元気旺盛さは厳格さ(いかめしさ)に変わり、彼の言葉はためらいがちだった。

「誰もが、独裁的本能に引きずられないよう注意する必要がある、いかなる事が起ころうとも」、と彼は言った。「我々は、我々の革命の魂を失うことはできない」、と。

これは─と、彼は言う─テストだったのだ。
http://www.nytimes.com/2012/02/18/world/africa/tunisia-islamists-test-ideas-decades-in-the-making.html?_r=1&hp=&pagewanted=allFebruary

*カメラマンTyler Hicks氏と国境線を移動中Anthony Shadid氏は、馬アレルギーの喘息発作で急死し、同僚Hicks氏は彼の遺体を担いで独りトルコまで辿り着いたとか(2人は2011年3月にもリビアでカダフィ勢力の人質となり拷問も受けたが生還したNYT記者4人に含まれていた)
*Photo gallery:Tunisian Islamists Test Theories of Democracy and Religion
http://www.nytimes.com/slideshow/2012/02/17/world/middleeast/20120218-ISLAMISTS-4.html
*At Work in Syria, Times Correspondent Dies
http://www.nytimes.com/2012/02/17/world/middleeast/anthony-shadid-a-new-york-times-reporter-dies-in-syria.html

2011年にカダフィ政府軍の人質として
捉われた経緯を話すShadid
*この記事は「アラブ世界を再形成するための苦闘…中東で起こりつつある政治的イスラムの台頭について探る」シリーズ記事の第1弾とされていた
*中東関係の報道でPuritzer賞も複数受賞、名文で知られたという氏がイスラム原理主義者復権の内情を伝えている(この続編を読めないのは残念)
R.I.P.Anthony Shadid 


欧米で有名なスイス生まれの学者Tariq
Ramadanはムスリム同胞団の創始者、
Hassan al-Bannaの孫だ
現在オックスフォード大の教授

Tuesday, February 21, 2012

9-11からアラブの春まで From 9/11 to the Arab spring By Christopher Hitchens

Tunisian protesters with a picture
of Mohamed Bouazizi 

クリストファー・ヒッチンズが、死を前にして、
いくつかのメディアの紙上でアラブの春と革命運動を回顧していた

「この10年間世界の出来事に対して戦闘的な姿勢をとってきたHitchensが執筆活動を回顧した」 

クリストファー・ヒッチンズ/ 9・11からアラブの春まで Christopher Hitchens: from 9/11 to the Arab spring By クリストファー・ヒッチンズ  (9/9/2011, The Guardian)

   3人の男たち: Mohamed Bouazizi、Abu-Abdel Monaam Hamedeh、Ali Mehdi Zeu… チュニジアの街頭の物売り、エジプトの料理店主、…そしてリビア人の夫にして父親だった男性─その最初の男は、2011年の春にSidi Bouzidの街で、卑劣な官僚主義の手によるひとつの余計な屈辱に抗議して、彼自身に火をつけた。2番目の男はちょうど、エジプト人たちが集団でムバラクのエジプトの停滞と無意味さに反抗運動を始めたときに、自らの生命を絶った。3番目の男も、彼自身の生命を絶つと同時にそれを捧げたといえるのかも知れないのだ─ つまり、彼の質素な車にガソリンとホームメイドの爆薬を満載して、ベンガジのKatiba兵舎のゲート…リビアでの嫌悪の的、気の触れたカダフィ政権のシンボルのバスティーユ…を突破しながら。

人類の長い争いのなかで、「殉教」という概念は、そのヤヌス神のような2つの顔とともに自らを現すペリクリーズの葬送の祈り(*1)から、ゲティスバーグ(リンカーンの、奴隷解放と人民平等をうったえた演説まで、自らの存在よりも大きな何かに突き動かされて、喜んで死を選ぶ者たちには栄誉が与えられてきた。より懐疑的な目でみるならば、死ぬことに対して熱情を抱く者たちには、過剰な熱心さや自己への正当化、そして狂信性さえも疑われた。

私がその昔、支持していた英国労働党の党歌(anthem)は、深い真紅の色の旗について情熱的に語っていたのだが、それは、「死んだ我らの殉教者の遺体を覆っていた」とも歌っていた。私の母校オックスフォードのカレッジの窓辺の下に立っていたのは…そして、今も立っているのは…オックスフォードの殉教者(Oxford Martyrs)らの記念碑なのだ。CranmerとLatimer、Ridleyといった主教たちがプロテスタントの異教徒として、カトリックのQueen Maryの手で1555年に火炙りにされた。1世紀の末に、カルタゴで教会の父 Tertullianは「殉教者らの血は、教会の種子だ」と書いた。そして盲目的な信仰を抱く殉教者たちとの連帯というものは、何世紀もの時代を下っても一貫して保たれ、火刑に処された宗派はやがて彼ら自身が火刑を執行する側となる日を待ち望んだ。私は、労働党は彼らに課された罪からは免じられるだろうと思う。それは1969年の1月に、ソビエトによる祖国の占領に抗議してWenceslas広場で焼身自殺をした若いチェコ人学生のJan Palachにとっても可能だろう。私は、オックスフォードで行われた彼の名誉をたたえる記念集会の開催にも助力したが、私はその20年後の1989年のベルベット革命に貢献して、反体制の亡命者たちや出版の中心となったPalach Press社との繋がりをも持った。この繋がりというのは完璧に世俗的、文明的なイニシアティブで、一滴の人間の血をも流す原因とはならなかったものだ。

  とりわけ過去10年間のあいだに、「殉教者」という言葉は冷血で愛のないゾンビのような──自爆殺人犯のMohammed Atta、すなわち、彼が想像しうる限りの膨大な罪のない人々の命を死の道連れにした男の、狼のようなイメージで完全に傷つけられた。Attaのような男を見いだして訓練した組織は、それ以降、英国からイラクに至るまでの多くの国や社会で犯した言いようのない犯罪の数々に責任があり─そこで彼らは、冷血で愛のないゾンビがノーム(社会的規範)となって、文化は死に絶えるようなシステムを作ろうと試みた。彼らは、彼らが生よりも死を愛するゆえに彼らは勝つのだ、と主張し、また生を愛するような者たちとは、か弱くて腐った堕落者なのだと主張した。実際に2001年以降に私が書いたすべての言葉は、我々の間にはそれを説明してみせるだけで終わる人々もいるなかで、明白にあるいは隠然と、こうした憎悪に満ちたニヒリスティックな命題に対しての拒絶や、反論を試みたものなのだ。

チュニジアとエジプト、そしてリビアの殉教者らは、AttaよりもPalachのように考えて行動していた。彼らは生命を奪おうなどとは考えなかった。彼らはむしろその生命を、瀕死の寡頭政治の体制から不都合な存在として扱われる農奴たちよりも、ハイレベルな状態で生かしたいと望んだ。彼らは汚れた言葉で自慢げに、彼らの殺人行為が彼らに死後の肉体的生命への気味の悪いファンタジーを抱かせる余地について、主張したりしなかった。彼らは、耳障りに叫びつつヒステリー状態の中で棺を担ぎ上げるような暴徒たちを、鼓舞しようとは考えなかった。Jan Palachは彼の身近な同僚たちに、彼の振る舞いの深い理由とは(故郷の)占領ではなく、その「春」が凍れる冬にその道を空けるような酷い無気力が、プラハ全体に根を下ろしたからだと告げた。生きながら死んでいるような状態でいるよりも、人生肯定的な死を好み、アラブの春の先駆者たちもまた同様に、彼らの後継となる者たちを刺激し、彼らが市民となるための途を熱望するよう願った。潮は引いて波も引き、風景は再び茶色がかって埃に覆われるのだが、しかし、アラブの心からTahrir広場の模範やエスプリを追い出すことは何者にもできない。ここに再び、人々が彼らを繋ぐ鎖や牢獄の看守を愛することはないことや、そして文明的な生活への望み…つまりソール・ベローの描いたAugie Marchが、不滅のフレーズで言い表わしたような「誰もが普遍的に有する高貴さへの適格性」というものが、すべての人にとって適切で、共通であることが示された。

  2009年2月にベイルート・アメリカン大学でのレクチャーを行うよう招かれて(「中東の真の革命家たちとは誰か?」とのタイトルを与えられて)、私は当時、おぼろげに見え隠れしていた数少ない火花に関して私のベストを尽くして語りまくった。私はイランで芽生えはじめていた市民のレジスタンスについても、例に挙げた。私は、エジプトの偉大な反体制者で政治科学者で(政治犯として収監されていた)Saad-Eddin Ibrahim…いまやTahrir広場の抵抗運動の知的な父の一人である…の言葉も引用した。私はレバノンの「Cedar Revolution(杉の木革命)」の運動自身─それは希望の季節をもたらし、その継続がレバノンの(シリアによる)長年の占領を終わらせたのだ─についても、賞賛した。私はイラクでSaddam Husseinのカリギュラのような専制政治に「終り」の幕を下ろすことに協力したクルド人の勢力を支持したが…彼らは同時に、その地域で最も抑圧された最大の少数民族として自治もはじめていた。私は Salam Fayyadの著作を称賛したが…彼は「パレスチナ自治政府」のバロック的な腐敗に「透明性」をもたらそうと試みていた。こうした人々はてんでばらばらで共通点はないが、しかし私が期待し信じかけているのは…彼らは新たな布を織り出すだろう存在として繋がりのない糸ではないだろう、ということだ。

  読者たちのかなり多くは(残念ながら、殆どのアメリカ人たちを含めてと私はいいたいが)、私のことをある種の喜劇のからかわれ役者とみているのは確かだ。彼らにとっては革命の正当性は、ハマスやヒズボラのようなグループに属している…彼らはグローバルな巨人(colossus)への決然たる反対者で、シオニズムに対抗する疲れを知らぬ戦士たちだ。私にとってはしかし、このことは、長い間歴史的に継続している議論のもう一つのラウンドである。端的に言うなら、この進行中の論争は、反・帝国主義的な左翼(anti-imperialist left)と、反・全体主義的な左翼(anti-totalitarian left)との間で起きている。そこに、様々な形で私は巻き込まれてきた─両側のサイドに─私の全人生にわたって。そして、いかなる紛争のケースでも私はますます、反・全体主義の側につくことを決意しつつあった(これは大したことのように見えないかもしれないのだが、何かが、経験というものを通じて見出さねばならないのだ…単に原理原則 principleといったものから導き出されるだけではなく)。多元的共存主義(pluralizm)を善だとみなすような勢力は、そのために彼ら自身の意見が「穏健的」(moderate)に響きがちだろうが、彼らははるかに根本的に革命論者でもある(そして、より長期的にみても、彼らがよりよい反・帝国主義者をもつくるだろうことは、とても確かだ)

  こうした視点のどれもを進化させ、研ぎ澄ましていくためには、米国という思想(idea of America)に関するコンスタントな議論が必須とされてきた。現状ではそこには、私の帰化した国(米国)に関して、その信頼性や資源(resource)の面での衰退についての、もっとイージーな議論が存在する。私は、この中傷に参加することを選ばない。そのことが認識されようとも、されまいとも…権力が分散化された世俗主義的共和国というものは未だに…発展の途上か、あるいは今すぐ起こりそうな、いくつかの民主的革命というものの近似的モデルにすぎないのだ。アメリカ合衆国は、時には、このような模倣というものに相応しい尊敬に値することもあり、そうでない時もある。それが相応しくない時とは、すなわち…すウォーター・ボーディング(*waterboarding:CIAによるテロ容疑者への水責め) に対する疑念のケースなどにおいてだと、私は言わんと試みたい。私が信じるに、この国の草創の時期からの文学や手紙は、なんらかの革命と解放の思想(revolutionary and emancipating idea)への忠誠を、その通りに提示している。

アラン・フィンケルクラウトAlain Finkielkraut が「野蛮さ(Barbarism)」というものについて書いたのは、さほど遠い昔ではない…「それは、我々の先史時代からの継承物などではない。それは我々が踏む一歩一歩にまとわりつく、安っぽい犬(コンパニオン・ドッグ)のようなものだった」。私は自分の書く文章の中で、過去の全体主義からの数多い教訓の例を挙げながらも、そうした野蛮性の亡霊を消し去りすぎないように努力してきた。そして、いつの世も変わらぬ古い敵…レイシズムや、指導者崇拝や迷信が…それと関連する姿をとって、(しばしば、新たな擁護者のボディーガードに護られて)我々の間に現れるのを認識するのはなんと、容易いことなのだろう。何年ものあいだ、私はこの陰惨なたたかいの仕事を和らげようと試みてきた…文化や文明に貢献した作家や、芸術家についても書くことを通じて─単に、抽象的に弁護され得るような言葉や、コンセプトだけではなく。その試みには私は何十年も要してきたのだが、最後に私はウラジミール・ナボコフVladimir Nabokovについても書いた…

権力というものを一度もその手に掌握すべきでない人々とは、ユーモアのない人々だ。彼らはあり得ないほどに確実に、公正に、退屈さや画一性と手を結ぶ。米国という思想の本質的な要素とはその多様性なのであり、それゆえに私はいつも、それ自らだけのために面白い物事や、ばかばかしいけれども暴露的なことや、あるいは、単純にそのこと自体が興味を引く物事…を祝福しようと試みてきた。そうしたことのすべては、たとえば私の blowjobにおける人文科学art and science of the blowjobを論じた短いエッセイのテーマにもあてはまる─しかしそれらの記事は、ユーモア欠乏症がジェンダーの違いによる、ということを論じた私のエッセイのような、最も即座に誤った解釈をされがちな私の記事から私を救ってくれる事はなかったのだが。しかしそれでもなお私は、こうしたちっぽけなスケールの冒険もまた、制限や禁忌事項(すなわち、それが社会の最必須要件sine qua nonであると、みなされるようなもの…それは荘厳さや、信心深さを追い詰める仕方を知っている)に支配されないような会話のために、幾らかは貢献したものと信じていたいのだ。*sine qua non=an essential element of conditionある状態を生み出す際、最も重要な条件となるような要素

"Arguably"(Hitchens' last
 anthology book)
   私の最初のエッセイ・コレクション、1988年のPrepared for the Worstの序文のなかで私は、ナディーン・ゴーディマーNadine Gordimerの考えのことを書き添えた…シリアスな人間は、死後においてものを書くべきだ、という旨のことを。私はつまり彼女が、人間にとって日常感じている抑圧、つまりファッション(服装)についての抑圧や、商取引(商売commerce)上の抑圧、また自己検閲や世論、特に、知識人らの意見から受ける抑圧などが何も作用を及ぼしていないような状況で文を書くべきだという意味だ、と受け取った。その通りに生きることはおそらく不可能なことだろうが、こうした忠告と野望は、かなりの筋力を備えている…その試みがどのように朽ち果てる可能性もあるかの、警告を含むという点においても。すると1年ほど前に私は医師から、私が残りわずか1年ほどしか生きられない可能性がある、と告げられた。結果として、私の最近の記事の幾つかは常に、私の本当に最後の記事になるかもしれないとの充分な意識のもとに書かれた。一方で覚醒したり、また活気を生みだすような刺激を受けながらも、この実践とは、明らかに完璧化されたことはなかった。しかしそれは私に、なぜ人生は生きるに値するか、そしてそれを弁護するに値するかのについての、より一層ヴィヴィッドな考えというものを与えてくれた。
 http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/09/christopher-hitchens-911-arab-spring

*註1:シェークスピアの「ペリクリーズ」。古の詩人ガワーが語る、タイアの領主ペリクリーズの波乱万丈の物語 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

*ヒッチンズはフランス革命の心をアメリカの独立建国に伝えたThomas Paineが気に入っていたようで、彼の伝記風の本を書き、自分自身もヨーロッパから米国に渡った。彼はかつては左翼的と目されていた作家だったがイラク戦争中に米国に帰化し、サダムの全体主義に抗議してイラク戦争を擁護すると表明して、米国の読者を爆発的に獲得したのだとか… 
ヒッチンズの亡くなった昨年12月15日は米軍のイラク完全撤退の日だった…
*この記事はガーディアンに載ったバージョン。チュニジアとエジプトの"革命"に触発されたアラブの春に関してはロング・バージョンの記事をVanity Fairに、ショートバージョンをSlate.comに載せていた─
関連記事:クリストファー・ヒッチンズ評伝 Christopher Hitchens Died: Legendary Writer Dies At 62 - By Jade Walker [In Retrospect...]

Friday, February 17, 2012

シリアと、アル・カイダに関する嘘?Syria and the Al Qaeda lie - By Tariq Alhomayed

アル・カイダのアル・ザワヒリは、シリアの反体制派を支援すると声明…
…サウジ紙のAsharq Alawsatの編集長は、「シリアのアル・カイダ」の怪しい噂についてのコラムを執筆。
また、レバノンのアル・カイダ関係者と疑われるイスラム過激派、オマール・バクリが、シリアのアル・カイダについて弁明…


シリアと、アル・カイダに関する嘘  
By タリク・アルホマイヤド (2/14, アッシャルク・アル・アウサット)

 今日、シリアの人々が直面している状況とは、悲しむべき状況だ。人々はいまや、専制的で殺人的な体制と、人々の起こした革命を色々な言い訳のもとで損ねようとする勢力との間の板挟みの状況にある…彼らが過去11ヶ月間に払ってきた全ての犠牲にもかかわらず。シリアの人々と、その反体制勢力が悩まされている数多くの迫害の最新の例といえば…アイマン・アル・ザワヒリがシリアに関して発した声明を都合よく利用して─アル・カイダがシリアの革命勢力(反体制派)を支援している、と主張するような試みだ。

 アル・カイダのリーダー、Ayman al-Zawahiriがシリアのジハードと称するものを呼びかける声明を発して間もなく、人々のあいだにはこの国をアル・カイダが支持しているとか、この声明がアル・カイダの活動がシリアに存在している証拠だ、などと急いで論じたがる者たちがいた。 しかし、それは単純化のしすぎだ─もしもそれが、非武装のシリアの民衆に対して共謀しようという露骨な願望の一部ではないのならば。

Syrian oppsition has no central leadership
 人は問うだろう:それはどうしてだ?と。その答えはシンプルだ─シリアに関するアル・ザワヒリのすべての声明をみてみれば…この種の彼の声明は、これがはじめてではないのだ─彼はこれとよく似たような、シリアの革命運動を称賛する声明を何ヶ月も前に、革命運動がピークに達する以前にも発していた。アル・ザワヒリはまた、アラブの春をも称賛していた─もちろん、シリアの革命に関する声明は、エジプトの革命やチュニジアの革命、無論、リビアの革命への彼の称賛にくらべれば血の気がなく、色褪せている─そこでは彼は、NATOの野望と対立するリビアの民衆に警告を与えていたのだ。

 アル・ザワヒリは、アルジェリアの民衆にさえも、彼らの支配体制に対して叛起するよう呼びかけていた。それなのに、彼のこうした声明に関してはなぜ、誰も懸念を示さないのだろう…そしてその代わりに人々は、シリアの革命がアル・カイダに支援されているなどと、言おうとしているのだろう?

 アル・ザワヒリはアラブの春を称えるだけでなく、彼はそれが米国に対する「破壊的な一撃」になるとも語っていた。アル・ザワヒリはさらに、アラブの春は「アメリカからの直接の命令により収監されていた何千人ものイスラム運動メンバーの受刑者たちを自由へと解放した」とも、さきに述べていた。これらのすべてにも関わらず、我々は誰もが─国家であろうと個人であろうと─アラブの春がアル・カイダによって支持されていたなどと言っているのは聞かれなかった。これと対照的に、当時の誰もがアル・ザワヒリの声明には注意など払わなかった。もちろん欧米はムバラクに政権を去るよう急いで呼びかけ、湾岸諸国がイエメンに対しイニシアチブを発し、サレフ(大統領)の政権委譲を確実にするよう圧力をかけた─アル・カイダが常に、サレフの持ち札の一枚だったという事実や…現在それをバシャール・アル・アサドが同様に持ち札として用いている事実にも関わらず!

 それゆえに、シリアでのアル・カイダ(*現在反体制側を応援している)に対する脅迫とは、同国の政権に非武装の民衆を保護する義務を放棄させる、新たな試みに他ならない…ダマスカスの専制君主による犯罪を正当化する試みとも同じく。これはアル・カイダがそれ自身で提示している脅し、というよりも、シリアとその民衆の統一に対するより大きな脅迫となる何かを表している。アル・アサド政権はシリアのセクタリアニズム(宗派主義)を固定化して、少数派を脅かし、彼らを現体制の下に戻らせようとしている─ この同じ政権が、過去10年間…イランの支援のもとで(イラクであろうと、あるいはその他の地域であろうと)、アル・カイダによるアドバンテージを得ようとはかっていたのとも同じように。これは秘密でもなんでもないが、この地域と…そして西欧の諜報機関全てが察知していることに関係していることだ。

 それゆえに、我々が察するべきなのは、ダマスカスの専制君主の退場が遅れているということだ、そしてシリアでの流血や死、テロのシーンが延長しているということであり─そのことが暴力や殺戮、事態の緊迫への責任がある…それは今日、誰かが主張したがっているように、アル・カイダに関して語ることではないのだ!これは誰もが知るべきことだ─特にシリアの統一や、その非武装の人々の安全に関わる人たちが知るべきことなのだ。
http://www.asharq-e.com/news.asp?section=2&id=28477

レバノンに居るイスラム過激派・宗教家オマール・バクリの最新インタビュー(2/17, Al Jazeera)
  …冒頭でAl Jazeeraのビデオhttp://www.youtube.com/v/HeD0DL2PsAc が伝えるのは、レバノンとシリア国境を多くの武装ゲリラや武器が行き来する状況。そして宗教家のOmar Bakriのインタビューが挿入される。*Bakriはロンドン地下鉄テロ直後に英国からイスラム過激派として永久国外追放になり、レバノンに送られた危ない人物。ロンドンでは"Tottenhamのアヤトラ"と呼ばれていた。 
 …現在シリア政府は、彼を"レバノンのアル・カイダのリーダー"とみているという。だがBakriはこのインタビューのなかでシリアの状況への関与を否定。またアル・ザワヒリがシリアの反体制派にジハードを呼びかけた最近の声明ビデオを見て明らかになるのは、「シリア国内にアル・カイダのメンバーが一人もいないことだ」、などといっている。
  
 彼は、「自分にはエキスパートとしてそのことは判る…そうでなければ、シリア国内の反体制派にザワヒリが呼びかけて、誰か作戦を実行する人間をつのるわけがない…呼びかける前に自分たちがやるだろうからだ。彼らはシリア国内の反体制派の誰かに仕事をやらせて、その後に出てきて『自分たちがやった』などと声明を出すのが常套手段だ…」などといっている。

 …ビデオ後半では他の専門家がシリアには既にリビアやイラク、レバノンから多くのイスラム戦士(アルカイダを含む)が海路や陸路にて送られ、数千人がいるのは疑いないといっている。http://www.aljazeera.com/video/middleeast/2012/02/201221782012316678.html 
Omar Bakri

 Omar Bakriはシリア出身だがバシャール・アサドの父ハフェズ・アサドが政権をとった際に、イスラム原理主義者として反政府活動を行ったために弾圧され、1980年代に英国への亡命を許されて亡命した。英国に在住していた20年間に、自身のイスラム過激派組織al-Muhajiroun やAl-Ghurabaaなどを設立した。911テロ犯のグループを賛美したり、デンマーク大使館前でデモを行って逮捕されるなどの活動により、2005年に英国国籍が剥奪されレバノンに送致された(*レバノンでは一度終身刑になっていたというが今では解放されたのだろうか?)(7/21/2006)http://www.guardian.co.uk/world/2006/jul/21/syria.immigrationpolicy

 Omar Bakriが、この1月下旬にアル・カイダを賛美した言動が各紙に掲載された。1/25にはDaily Telegraphに対して、彼の組織Al-Ghurabaaとアル・カイダを含む「強硬派のサラフィスト・グループが、シリアでの反アサド政権の作戦を助ける準備がある」と述べた。
  Bakriはシリアで、彼らには「ムスリムの兄弟ら」が自爆テロのキャンペーンを行うことを助ける用意があるとし、「2つ3つの作戦でバース党政権は吹っ飛ぶだろう。アル・カイダはとても賢く、無から多くの武器を作ることができる。彼らは多くのキッチンに入ってピザ爆弾を作り、それがフレッシュなうちに配達ができる…」、などと述べていた(1/27/2012) 
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/syria/9039437/Muslim-cleric-banned-from-Britain-claims-Al-Qaeda-poised-to-launch-sucide-attacks-in-Syria.html

スンニ派過激派が、シリアでのアル・カイダの野望を支援している可能性がある (2/15, NYタイムス) By Eric Schmitt and Thom Shanker

  最近のダマスカスでの2件の自爆テロ(12/23、及び1/6)、及び2/10のAleppoでの自爆テロは実際、スンニ派過激グループ、または「イラクのアル・カイダ」のフランチャイズが行った仕業である可能性が高い、と米政府関係者らはみている…(中略)

 それらの爆破テロは、「アル・カイダと"ゆるい連携にあるが、直接テロリスト・グループの管理下にはない"スンニ派の武装戦士たちが、アサド政権を民主主義的運動によって覆したいという、共通の動機のもとに起こしたもの…」であると、米国のRAND研究所などの専門家は見ている。
(中略)
 イラク戦争中にはイラクに赴き、"イラクのアル・カイダ"などのグループに参加して過激派テロを行ていった者たちがいま、シリア周辺に帰国して、これらのテロを起こしている可能性が存在する。「今、そうしたテロのノウハウを知る者たちはこの地域には溢れるほどいる」、と中東政策ワシントン研究所のAndrew Tabler氏はいう。「アサド政権はかつて車爆弾の発明に協力し、彼らはこれまで、自らの外交政策の目的の為にそれを見事に使ってきた。そして、最近のそうしたテロを実行したのはアル・カイダである可能性もあるし、単にこの地域で似た様なバックグラウンドを持つ者である可能性もある」と彼は述べている。

 「イラクのアルカイダ」は近年そのメンバー数が顕著に減少をみせていたが、シリアでの混乱に乗じて暴力的テロを行うことによってアドバンテージを獲得し、民衆に人気のある反政府運動をハイジャックしようと考えている可能性もある…と幾人かの米政府高官は述べている。

 アル・カイダは「アラブの春」の、主にソーシャル・メディアを通じて起こされた非暴力による革命の成功で、その(暴力的な過激派としての)運動の隙を突かれ、またオサマ・ビン・ラディンの殺害によってもさらなる大きな打撃を蒙った。彼らはそれ以来、新たな足場となるものを探してきた。

 「イラクのアル・カイダに同盟する者たちがそのシリアにおけるネットワークを用いて、アサド政権の後追いをするとしても、驚くには値しない。それはシンプルな、ある種のご都合主義、日和見主義とでもいうべきもの」だとある匿名の政府高官は言う。またもちろん、アル・ザワヒリもシリアでの混乱に乗じたビデオ声明を発している。

 米政府内におけるシリアでのアル・カイダの役割についての論議は、水曜日に─ アサド政権のいかなる後継政権に対しても、アサド政権が現在保持する化学兵器や携帯用対空砲ロケット弾などの通常兵器の備蓄品を安全に確保することに対して、米政府が助力すると申し出た後になされた。

…しかし、現在の混乱した状況のなかでは、テロリストがシリア政府の所有するそれらの備蓄兵器を獲得する機会を得る可能性もある。リビアにおいても同様のことがあり、カダフィ政権が崩壊後に米国が残された同政府所有の多くの武器をリビアの近隣住民との協力のもとに破壊し、または安全に確保するために確認し、リスト化したりしてきた。しかしシリアでは現在、シリア政府に対して未だにロシアとイランが武器を継続的に供給している状況にある。
http://www.nytimes.com/2012/02/16/world/middleeast/al-qaeda-influence-suspected-in-bombings-in-syria.html?_r=1&hp=&pagewanted=all

 *米当局関係者は、このシリアのアル・カイダのことを「イラクのMosulのスンニ派ラディカルたちがシリアにやって来た…」という言い方をしているようだ。

 (参考記事) .."US and Iraqi intelligence says that foreign Sunni radicals (“al-Qaeda”) based in Mosul in Iraq have now departed in some numbers for Syria"... http://www.juancole.com/2012/02/save-homs-with-humanitarian-airdrops-by-drones.html

 *Al Qaeda in Iraq…Now in Syria! http://spectator.org/blog/2012/02/22/al-qaeda-in-iraqnow-in-syria/print
 
  …イラク戦争中、2004年に米軍の行った、悪名高いファルージャでの「大虐殺」の後に、イラクの反乱勢力はニネヴェ地方のMosulとTal Afarにその拠点を移して、AQI(Al Qaeda of Iraq)も同様にその拠点を移した… この「イラクのアル・カイダ」http://en.wikipedia.org/wiki/Al-Qaeda_in_Iraqといえば勿論、かつて残虐なヨルダン人司令官 Abu Musab al-Zarqawihttp://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Musab_al-Zarqawiで知られていた…彼はシーア派巡礼者の大量虐殺などの、一般市民に対する恐ろしいテロを繰り返した。
  (ザルカウィは長らく米諜報部の最大のお尋ね者だったが、彼がイラクで行った一般市民への残虐テロの行き過ぎは、アラブ民衆のアル・カイダへの嫌悪をたかめ、「アル・ザワヒリからさえ、その残虐テロの行き過ぎを慎むように諌められていた」…)
 しかし、2006年米軍の無人機が500Pound爆弾を2発投下して首領ザルカウィを殺害した、そして、最近ではイラクのアル・カイダの力は徐々に弱まっていた筈なのだが?…

*シリアのアル・カイダとは、「ユルい連携の組織」であって、確たる管理系統もないのが実態ではないのだろうか?
 (アル・ホマイヤド氏が言うように、状況の混乱を狙う過激派には警戒すべきでは?)

Wednesday, February 15, 2012

クリストファー・ヒッチンズ評伝 Christopher Hitchens Died: Legendary Writer Dies At 62 - By Jade Walker [In Retrospect...]

[In Retrospect...] Christopher Hitchens Died: Legendary Writer Dies At 62

クリストファー・ヒッチンズ死す:伝説的なライター、62歳で死去 By ジェイド・ウォーカー (12/16, The Huffington Post) 

クリストファー・ヒッチンズは、木曜日*2011.12.15にヒューストンで62歳にて死去した。伝説的なライターは2010年、食道がんと診断されていた。彼の死は、Vanity Fair誌が報じた。

ヒッチンズは1949年に、EnglandのHampshere州Portmouthに生まれた。彼の父Ernestは英国海軍の司令官であり母のYvonnneは簿記係だったが、母は彼がCambridgeの私立学校Leys School に入学できるようにとコツコツ貯金をし、後には彼をOxfordのBalliol Collegeへと通わせた。彼ら夫婦は決意を固めて、息子が最上級の教育を受けて、上流階級にはいるようにと仕向けた…The Guardian は報じる。

大学時代においてはヒッチンズは哲学と政治学、経済学を学んだが、心中では学べば学ぶほどに怒りが高まった。ヒッチンズの人種差別への嫌悪とヴェトナム戦争への反戦意識が、彼を政治的左翼へと導いた。彼は結局反スターリン主義的な左翼であるInternational Socialistsのグループに加わり、政治的反戦運動に参加した。

1960年代にカレッジに在籍していたことは同時に、ヒッチンズにより快楽主義的な生活スタイルをももたらした。彼はドラッグの服用は控えたものの、ヘビー・スモーカーかつ、酒豪となった。彼はそのような習慣が彼の物書きの作業を助けたといっている。「書くことは自分にとって大切なことで、それを助けるものなら何でも…それを昂揚させ、長引かせ、深め、時には議論や会話の集中度を高めるものは…自分にとって価値があった。ゆえに自分はそれと知りながら、リスクをとった」と彼は語った。

彼にとって書くこととはまた、彼の感じる憤りと、そして啓蒙の完璧な捌け口だった。英国王室やHenry Kissinger、ローマ・カソリック教会は1970年代の彼のお気に入りのターゲットのほんの一部だった。美食家(bon vivant)でありながら、ヒッチンズは少なくとも年一回は「彼自身の国よりも不運な国」で過ごすことにしていた。そのようにして、彼の初期のキャリアは地球を彷徨することに費やされ、世界のトラブル・スポットでレポートを書き、彼が残酷だとか悪だと感じた物事に光を当てた。New York Times は報じた

1981年に米国に移住して以来、ヒッチンズはThe Nation誌に書き始めた。彼は後にVanity Fairやthe Atlantic Monthly、Slate、Harper’s、The Washington Post 、そしてThe Huffington Post等の多くの出版物のために寄稿し、あるいは編集者を務めた。西欧に対するラディカルなイスラム世界の分子たちがもたらす危険性への確信に触発された彼の驚くべきイラク戦争擁護により、ヒッチンズは広汎な読者層を獲得し、そして2005年9月に彼はForeign Policy誌 とProspect 誌による"Top 100 Public Intellectuals"の一人に数えられた。

Los Angeles Timesによれば、ヒッチンズは2ダースほどの本(*) を書いた─そのなかには "Letters To A Young Contrarian," "God Is Not Great: How Religion Poisons Everything" と、 "Hitch-22: A Memoir"が含まれる。彼はしばしばTVやラジオにも顔を出した。彼はまたUniversity of California, Berkeley、 University of Pittsburgh、the New School of Social Researchにおいて客員教授を務めた。
文化的な論客として、ヒッチンズはけんかを好んだ。彼は幅広いテーマにわたり…政治から宗教、そして彼自身の死すべき運命に関しても手厳しい洞察を行ったが、しかしおそらく彼の最もよく知られた批判とは、1994年のドキュメンタリー"Hell's Angel"と、Vanity Fairに掲載された、Mother Teresaに関するものだったろう。

「(マザー・テレサは)貧者の友ではなかった」、ヒッチンズはいった。「彼女は貧困の友だった。彼女は、苦しみは神からの贈り物であるといった。彼女は彼女の人生を貧困の唯一の治癒策として知られるものに反対して過ごした…それは、女性への権限付与(empowerment)であり、彼女らの家畜のごとき強制的な生殖活動からの解放だった」

彼の、多くの人々が聖人とみなす女性についてのネガティブな肖像のために、何百人もの読者が雑誌の購読契約をキャンセルした。しかしそれでも、彼の死に関するレポートが伝えられると、インドのチャリティー・ミッショナリーは、彼らのノーベル賞受賞者の創立者への攻撃的キャンペーンを行った人物にも関わらず、ヒッチンズの魂のために祈ると発表した。AFPは報じた

2008年には「強化された尋問テクニック(enhanced interrogation techniques)」が全米の論議の的となっていた只中で、ヒッチンズは彼自身waterboarding (水責め)による尋問が本当に拷問かどうかを知るべくそれを体験した。彼は16秒間もちこたえた。
「いまや、いつも…それが溺れるときの感覚を誘発するということが、メディアで─あるいは議会で─論議されているのを見るのは不快なことだ」と彼は述べた。「それは溺れる感覚を誘発するのではない。それによってあなたは実際に、ゆっくりと溺れていくのだ」

常にcontrarian(反骨家)として、ヒッチンズは米国が曝け出すその長所も欠点も全て含めて受け入れ、そして2007年の58歳の誕生日に米国市民となる宣誓をした。そのセレモニーは前大統領George W. Bushの国土安全局チーフ、Michael Chertoffが行った。

Hitchens and Carole Blue
無神論者を公言しながら─あるいは「an antitheist(反・有神論者)」と呼ばれることをより好みつつ、ヒッチンズは組織的宗教が世界の憎悪と暴政の主な源(ソース)であると描写し、多くの人々に理性的な思考をするようにと呼びかけた。彼は人生最後の時期に、宗教的・政治的な人物らと、信仰や神の存在について討論した。

「信仰(Faith)とは意志を明け渡すこと(surrender of mind)だ─それは理性の明け渡しであり、それは我々を他の哺乳動物から区別する、唯一のものを明け渡すことだ」とヒッチンズは述べた 「信じる事は我々にとって必要なことだ…そして我々には懐疑心や理性を明け渡すことも必要だ…あるいはそれらすべてを捨て去って、すべての信頼や信仰を誰か(もしくは何か)に与えたいと切望している…それは、私にとって不吉なことだ。我々の支持する全ての美徳や信仰は過大に評価されている」

"Hitchens with the Kurds on a destroyed Iraqi tank"
- 1st Gulf War period -

2010年に食道がんを宣告された以後でさえ、ヒッチンズは神々や組織的な宗教に安らぎを求めることを拒絶した。彼はもしも誰かが人生の最後に彼が改宗したという人があったなら、それは宗教コミュニティの喧伝する嘘か、あるいはがんとその治療による効果が彼に自分自身を失わせたからだろう、と明言した。
「そんな言葉を発する存在は、癌の脳への転移によって狂乱し、恐怖におびえた存在かもしれない。私はそのような存在になればそんなことを言わないという保証はできない、しかし私自身のように識別眼のある人間だったら、そんなことを言うことはありえない」と彼は言った。

「クリストファーのような人間は他にはありえない。彼は猛烈な知性の男、書物のページ上でも、まるでバーに居るときと同じように活気のある男だった」とVanity Fairの編集者  Graydon Carterは語った。彼の文章を読む者は彼を知っていたように思うし、そして彼を知っていた者たちは、奥深く幸運な魂たちなのだ。

 ヒッチンズには妻のライター、Carol Blueと3人の子供がある
http://www.huffingtonpost.com/2011/12/16/christopher-hitchens-dead_n_1152786.html

*2008年の7月のVanity Fair誌で太鼓腹の59歳のHitchensが自らウォーターボーディング(水責め)を「突撃体験」した記事は衝撃だった。当時、CIAが秘密収容所でテロ容疑者に行っていたことが暴かれ、それは拷問か、そうでないか?が曖昧とされ論議を呼んでいた
"Believe Me, It’s Torture"
http://www.vanityfair.com/politics/features/2008/08/hitchens200808
http://www.vanityfair.com/video/2010/08/594157164001(video "On the Waterboard")




*2007年10月のVanity Fairの企画”On the Limits of Self-Improvement”(コラムニストが健康改善のフィットネスや美顔エステを体験…)
http://www.vanityfair.com/culture/features/2007/10/hitchens200710 










*Slide Show: FROM THE LIFE OF CHRISTOPHER HITCHENS http://www.vanityfair.com/culture/features/2011/12/christopher-hitchens-slideshow-201112#slide=2



*HitchensによるColumn
 Fighting Words/Wartime Lexicon・戦争語彙録” シリーズ(勝手訳)…

マッドマンの死- オバマが次に何をするのかが、オサマ・ビン・ラディンの遺産(レガシー)を決めるhttp://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2011/05/death-of-madman-by-christopher-hitchens.html
ばかげた性急な回答─なぜ、こんなに多くの"エキスパート"たちが、オスロの攻撃はイスラム過激派の仕業だと宣言するのか?
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2011/08/ridiculous-rapid-response-why-did-so.html
パキスタンはなぜ、アメリカを憎むのか?──それは我々が頼りだからだ
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/01/why-does-pakistan-hate-united.html
インドを忘れるなかれ!
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/04/dont-forget-about-india-prime-minister.html
モスクを脅すマウマウ団?
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/09/mau-mauing-mosque-dispute-over-ground.html
"掘削の同盟国”を呼ぶがいい!-アフガニスタンの巨大な埋蔵資源のもたらす問題に、なぜそんなにこだわるのかhttp://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/07/bring-on-coalition-of-digging-why-are.html
カソリックの大いなる隠蔽:法王の全てのキャリアには、それ自身に邪悪の臭いがある  
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/04/great-catholic-cover-upthe-popes-entire.html
アフガンのアヘン戦争に勝つ方法
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2008/10/let-me-try-translate-hitchens-how-to.html
彼らは神を信ずる:保守主義者のアメリカ例外主義への信条は、いかに信仰心の問題となったかhttp://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2012/08/in-god-they-trust-how-conservative.html
クリストファー・ヒッチンズ/ 9-11からアラブの春まで(The Guardianより)
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2012/04/christopher-hitchens-from-911-to-arab.html
正しい一杯の紅茶の淹れ方とは?─ヨーコ・オノとジョン・レノンは無視して、ジョージ・オーウェルのティー・メイキングのアドバイスを心に留めよ
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2011/01/how-to-make-decent-cup-of-tea-by.html

 

Sunday, February 12, 2012

怖れと嫌悪がうずまくアメリカ湾 Fear and loathing in the American Gulf - By Pepe Escobar


怖れと嫌悪がうずまくアメリカ湾 - By ペペ・エスコバル (2/3, Asia Times)

 ペルシャ湾?Khaleej-e-Farsf? 忘れたほうがいい─もうそれを、アメリカ湾と呼ぶべきときだ─戦争のハゲワシや、ジャッカルやハイエナたち、イスラエル人やアングロ・アメリカ人が喜ぶだろうから。サウード家だって、さほど喜ばないわけもないだろう。

 最近、米国のバラク・オバマ大統領が宣言した中東から東アジアへのペンタゴンの「転回」戦略 "Pivoting"strategyも、もはやこれまでだ─中国との対立は、南西アジアから始まっている…アメリカ湾において。それは、イランのシスタンーバルチスタン県のJundallahの、筋金入りのスンニ派主義の人殺しらを応援するワシントンの政権や、CIA工作員を装うイスラエルのMossadエージェントたち、イランの核科学者の連続的暗殺やコンピューター・ウィルス攻撃、テヘランがアル・カイダを援助しているとか援助されている、といったばかげた告発なども越えて、そのはるかに上を行っている。 (*最近、イランの核施設の遠心分離機を、"イスラエルが"サイバー攻撃で運転不能にしたという)

MOPで消し去れ MOP it all up

 これらの証拠を再度、確認すべきときだ。約1ヶ月にわたって3隻を下らない米国の空母とその攻撃グループがアメリカ湾とオマーン湾、アラビア海でバチャバチャと跳ねまわることだろう─米戦艦エイブラハム・リンカーン、カール・ヴィンソン、エンタープライズ、それに古き良きフランスの原子力戦艦空母シャルル・ド・ゴールが。そしていまひとつの、太平洋拠点の米戦艦空母も速やかに派遣されることだろう。

 この海上の米空母グループによるhajj(巡礼)のほかに、築40年の古き米国戦艦ポンセも、アメリカ湾に派遣されるため新たな水陸両用特殊作戦用のハブ装置を設置されつつある。ペンタゴンのCENTCOM(米軍の中東・北アフリカ・中央アジア方面の中央司令部)は、理論的にはイランの地下核施設の破壊が可能な…1万4千KgのMOP(Massive Ordinance Penetrator)と呼ばれるオーウェルのSF風の怪物的バンカー・バスター爆弾を急きょ、アプグレードしている。

 ある超党派の政策センターによる合衆国防衛プロジェクトは─それはワシントンで政治家たちや軍産複合体系の人間を混ぜあわせている無数の回転ドアの一つなのだが─イスラエルにさらに200個のMOP爆弾と、3隻のKC-135 空母給油タンカーを供与したいと考えている─イランに対する「軍事攻撃への信用性を高めるために」。

 DEBKA-Netといえば、イスラエルのプロパガンダ/偽情報のデジタル・フロントだ─故に、それは基本的に信憑性がない。しかし、その最新の大言壮語は精査するに値するものだ。DEBKAはペンタゴンが戦略的な2つの島に関して猛烈な勢いのモードを呈しているという─パラダイスのようなSocotra島(Yemenの南東380キロにあり、そこではペンタゴンが2010年以来巨大な基地を建設中だ)、そしてMasirahのCampJustice島(Hormuz海峡の70キロ南のオマーン領内にある)に関して。

 Socotra島は、かくしてアメリカ湾の米国の基地帝国の結び目(node)に加わる─UAEにおけるJebel Aliと-Dahfra や、 Qatarのal-Udeid 、KuwaitのArifjan のように。わずか数週間前に、1万5千名の追加米軍部隊がKuwaitに派兵されたことは記憶しておいたほうがいい。ペンタゴンはSocotra島とMasirah島での建設については途方もないほどに無言を保つことが予想され、そしてYemenとOmanの官僚たちも話をしたがらない。

 DEBKAは、2週間で3千キロ離れたDiego Garcia島から、既にアメリカ湾に駐留する5万名の米兵に加えて約5万名の米軍が空路で両島に集結するだろうという。この空・海軍に加えて、英国・フランスからの特殊部隊がサウジ・アラビアとUAEにコンスタントに注入されている。イランに陸路侵攻するには充分ではない、しかし「"no options off the table"他にまだ提案されていないオプションはない(その言葉のcopyrightは オバマにある…)」というシナリオの主なロジスティック・サポートをするには充分すぎる。

陣営を整え、戦さのために祈れ Build up, and pray for war

 DEBKAはこうした展開をすべて勝手に解釈して、予想しまくっている─それぞれ、確証のない事柄だが─そして、オバマが「イランの核開発施設への攻撃を2012年中に決定する」というが、それは完全にナンセンスだ。それはイスラエルのネタニヤフの政府の(ヒステリックな)ウィッシュフル・シンキングを反映するのかも知れないが、オバマ政権の戦略とは何の関係もない(…オバマの戦略は、イランを「放置しておいて…死ぬのを待つ」型の外交戦略だ─経済制裁・石油禁輸+(プラス)ペンタゴンがアメリカ湾に陣容をととのえて、それによりイランを核開発の事件書類における降伏を引き出す方策として)。

 ウィッシュフル・シンキング(希望的観測)とは、New York Timesの本日流行りの武器でもある─それはいまや、仲介人(ミドルマン)としての米国の立場を排除すべく、イスラエルのライターたちによるイランについての事件書類の作成を下請け作業しているかのようだ。

 この、武器を投入するすべての乱痴気パーティーのなかで唯一の良い点は テヘランとワシントンが未だに─何らかの意味で、対話を続けていることだ…所謂ブラック・チャネルを通じて…つまりバグダッド(の大使たち)や、トルコを通じて(Recep Tayyip Erdogan首相を仲介役に)、またウィーン(IAEAの本部があり、そこに外交官たちがいる)を通じて。ここでは7月1日までは、5ヶ月間の良い意志のための窓が開いている…EUと米国の対イランの石油制裁が発動されるまで。

 そしてそうなったら、そこには「Austere Challenge 12」(*) ─大がかりな米国・イスラエル合同の戦争ゲームが、そして何千もの米兵たちと、いくつもの米国・イスラエルのミサイル防衛システムのテストが再浮上することになる。

 「Austere Challange 12」はいまや、米国大統領中間選挙の直前1ヶ月以内の10月に再スケジュールされた─そのときにはMitt Romney…ネオ・コン・ギャングと気のふれたエヴァンジェリカル(キリスト教保守の福音主義者)がノンストップでイラン空爆をCATV放映するかもしれない。そのときまでは、Percy Bysshe Shelleyの「The Mask of Anarchy」のなかの言葉…「ライオンたちのごとくまどろみから目覚めて、立ち上がる…打ち負かされがたい数をもって("rise like lions, after slumber, in unvanquishable number"」(恐怖と嫌悪を、アメリカ湾から追い払すために)…を引用するかどうかは国際社会の世論に委ねられる。
"http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/NB03Ak04.html
 
(*)"Austere Challene 12": このところ「Austare Challenge 12」の名のもとに米軍とイスラエルが過去最大規模の合同軍事演習を行っている。Hormuz海峡近辺での昨今の米軍部隊の増派や周辺諸国の軍備の強化に加えて、それは演習ではなく実戦に備えた「何か」である…とイスラエルはみている。アメリカは、同時にイスラエルのTHAADミサイル防衛システムを強化、サウジには300億ドル分のF-15戦闘機を配備、UAEに最新の「バンカー・バスター」爆弾の供与を約束…米軍は新たにイスラエルに基地をも設置し、イスラエルはIDF(国防軍)がドイツにある基地から作戦に対応するという..
http://my.firedoglake.com/ctuttle/2012/01/05/austere-challenge-2012/


 ペンタゴンが、対イランのさらなる強力な爆弾を追求 Pentagon Seeks Mightier Bomb vs. Iran By ADAM ENTOUS And JULIAN E. BARNES (1/28, Wall Street Journal)

  (抜粋)
 ペンタゴンの戦争プランナーたちは、史上最大の爆弾が未だにイランの要塞堅固な地下施設を破壊するには能力が不足しており、さらにそれを強化するための努力をすることを発表した。
 3万パウンドの"bunker-buster"爆弾、MOP(Massive Ordnance Penetrator)は、イランと北朝鮮のさらに堅固に要塞化された核開発プラグラムを破るべく設計された。しかし最初のテストは、現在の爆弾がイランの施設を破壊できないことを示した。それは、その施設の深度のためでもあり、あるいはテヘランが、さらに堅固な要塞設備を追加したからでもある。

 …このためペンタゴンは今月、下院議会に密かに爆弾をより深く岩盤に喰いこませための開発予算の要求を行った。MOPのパワーアップは対イラン攻撃における非常事態プランのためだという。大統領の新防衛予算には他にも興味深いニューアイテムがある:無人偵察機のための浮遊基地は、コマンド部隊の輸送機発射台としても使える。

 国防省は3億3千万ドルをMOP爆弾20個の開発に費やし、その爆弾はBoeing社によって製造された。ペンタゴンはさらに8千200万ドルを投じて同爆弾のさらなる強化をはかるという …ペンタゴンは特にイランのシーア派イスラムの聖都Qom近郊のFordowのサイトのような山岳地帯の地下施設破壊能力についての懸念を抱いている。もしもそれを破壊したいならば、山そのものを吹き飛ばさねばならないという。ペンタゴン担当者は、MOPはNatanzのウラン精製施設の破壊に対してはより効果的だと推測しているが、それもあくまで推測であるという。

 パネッタ国防長官と前国防長官のロバート・ゲイツは、軍事攻撃は最大でもイランの核開発を数週間遅らせるだけだろう、という。攻撃賛成論者たちは、そうした遅滞を生めば彼らのプログラムを阻む他の手段を講じる時間を稼ぐのに決定的な効果があるはずだという …空軍関係者によれば、全長20.5フィートのMOPは5千3百パウンドの爆破薬を充填でき、爆発前に地下200フィートまで到達できるという。Fordowのウラン精製施設には少なくとも200フィートの高さがある…(後略)
http://online.wsj.com/article/SB10001424052970203363504577187420287098692.html

イラン側の武装についての分析
Iran's Deterrence Strategy in the Strait of Hormuz
http://www.stratfor.com/analysis/irans-deterrence-strategy-strait-hormuz

Iran nuclear facilities map




Natanz uranium enrichment plant (from BBC)
  

Saturday, February 11, 2012

シリア国民評議会(SNC)とは何か?- SLICES OF SYRIA....


シリア国民評議会(SNC)とは何か?

Syrian National Council (SNC) は、シリア国内に分散する反体制勢力をまとめて、2011年春頃より組織化され、11月半ばにイスタンブールで正式に結成を宣言した傘組織(unbrela organization)、異なる民族・宗派の混在するこの国で、アサド政権に代わる体制を模索する「7つの反政府勢力が結成した同盟」(BBC等による)だという。

SNCに参加するグループとは…

• The Damascus Declaration for Democratic Change grouping - (2000-2001年の民主化運動「ダマスカスの春」の際に生まれた組織の亡命支部だが、アサド政権によって弾圧されていた)
• The Syrian Muslim Brotherhood -シリアのムスリム同胞団(シリア国内では違法組織なので、トルコに亡命支部がある)
• Local Coordination Committees - (全国的なデモを先導した各地のローカルな草の根運動
• Assyrian Democratic Organization(アッシリア系シリア人の組織)
• Syrian Revolution General Commission (SRGC) - (シリアの40の野党勢力の合同ブロック)
• Kurdish factions, tribal leaders and independent figures make up the rest of the council.(クルド人勢力各派と部族リーダーら、及び、他の評議会に属する独立的人物たち)

SNCは、カダフィ体制に代わって政権を握ったリビアの国家評議会にも似ており現在評議会のメンバーは190人ほど。
シリアの新しい代理政府とか、トルコにおけるシリア亡命政府といった位置づけは未だ曖昧…(しかし1月21日現在で、米国・フランス・スペイン等を含む12の国連加盟国は、既にSNCを国連の加盟メンバーとして承認しているという。いかにも欧米寄りだからなのか)*SNCを承認している国のmap=Wikipediaのリンクを参照


SNCの最も著名な人物は、フランスを拠点とするシリア人亡命学者Burhan Ghalioun… 11月に議長に就任した。アラブ諸国に対し、継続的に民主的改革を呼びかけてきた人物だとか… (彼は1945年Homs生まれでダマスカス大哲学科卒、ソルボンヌ大にてヒューマニティーと哲学博士号取得。ジャーナリストのPepe Escobarは、Burhan Ghaliounを「欧米の代理人であり、シリアの民衆には未だ受け容れられていない」、などと書いているのだが…。) SNCの大半は亡命シリア人勢力だが「シリアの反政府勢力全体の6割を代表している」、と称する。国内からの支持拡大を求めつつも、シリア国内での支持者(勢力)の名前は伏せたい、としているという。SNCにはシリア国内の別の主な反体制勢力「National Coordination Committee for Democratic Change」から賛否両論の反応(mixed reaction)があるという。


SNCのChairman, Burhan Ghalion
 (ソース):http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-15155804
http://en.wikipedia.org/wiki/Syrian_National_Council


バシャール・アサド大統領と一族の相関図…

<Slate.comがシリアのアサド大統領一族の「家系・相関図」を掲載>
 アサド一族の亡き族長ハフェスは、1946年から1970年までにシリアの政権が18回も転覆された後、元国防相として'70年にクーデターで政権を奪って安定させた。アラウィ派で世俗主義者のハフェスは国内の多数派・スンニ派への支配を確立し'82年にはシリアのムスリム同胞団を弾圧、大規模なHamaの虐殺を実施(Hamaの屠殺人とよばれたのは、ハフェスの兄弟で右腕のリファートだった)
   現大統領、バシャールは、(2人の兄弟が父を継ぎ軍に入ったなかで)ロンドンで眼科医を目指して勉強しており、亡き父のハフェス・アサドの後継候補とはみなされなかった。しかし'94年、族長ハフェスが65歳の折に、最愛の息子で後継候補のバシャールの兄バシールがドイツのアウトバーンで、スポーツカーの横転する自動車事故で33歳で死亡、バシャールは後継者として呼び戻されたとか…。
 帰国後は軍に入り異例の速さで昇進…2000年に父ハフェスが死去して、バシャールはなかば「アクシデントで」シリア大統領になり 「unlikely autocratic opthalmologist ありそうにない、眼科医の専制君主」となった。
 …彼の弟で残忍で不安定な性格ゆえ父ハフェスが後継者にするのを危ぶんだマヘールは、今では巨大なシリア軍を統率するバシャールの参謀。叔父リファートから国防産業を受け継いだ。非正規民兵のシャビーハをも率いて、昨年の多くの政府側の残虐事件に責任があるとみられている…





*アサド大統領Interview: "An hour with Syrian president Bashar al-Assad" Charlie Rose Show  (3/27/2006)
http://www.charlierose.com/view/interview/484


Maher al-Assad


    Hafez al-Assad                                                   Bassel al-Assad

Tuesday, February 7, 2012

シリア:メール・オーダーの虐殺?Syria: Mail-Order Massacre?


2月4日に、国連でのシリア非難決議案にロシアと中国が拒否権行使
これと同時にシリアのHomsで起こった約300名の市民の虐殺は…
政府側と反体制側どちらの仕業? 欧米メディアと異なる、Pravdaのいい分は? 

シリア:メール・オーダーの虐殺 Syria: Mail-Order Massacre 2.4.2012 - By Timothy Bancroft-Hinchey (2/4、English Pravda)

 誰か、リビアのことを覚えているか?リビアでNATOが、ロシアと中国にこういって約束したときのことを…リビアの市民らを守るためには飛行禁止区域を設けるしかない…そしてそこを埋めに後からNATOが防御のためにやってくるから、といって。 そして2月4日は、NATOが後援するシリア反体制派による残虐テロが頂点をきわめ、偽のフラグを立てた出来事を起こしてX-Dayを宣言した日だった…NATOの軍を送りつけ、第3次世界大戦をスタートさせようとして…。

 NATO、またの名をFUKUS枢軸国〔France、UK、UKそしてIsrael〕が、国連決議1970及び1973を作成し…リビアの空軍機と、「都市や町々を爆撃する政府軍の航空機」がおこなった「酷い虐殺の数々」にもとづいて…リビアに飛行禁止区域を作ったときのことを覚えているか?リビアの当局が外国の報道機関に自由を与え、何時間か前にそれらの攻撃があったばかりの場所へと彼らを連れて行くからと告げたときに、何が起こったのかを覚えているか? (*FUKUS-Axis...筆者が前回の同じコラム欄http://english.pravda.ru/opinion/columnists/06-01-2012/120164-iran_hormuz-0/でFUKUS threeと呼んだジョーク)

 FUKUS枢軸国が、ロシアと中国に詳細を語るのに失敗したとき…そして、ミッション・クリープ(mission creep*末尾註としての飛行禁止区域戦術が、NATOの特殊部隊によるフルスケールの侵攻に転じたことを覚えているか(…そしてそれが、リビアで街の黒人たちの喉元を切り裂き、女性をレイプし、金属釘で子供らを突き刺し、人々や建物を焼き払い、泥棒や殺人、拷問、テロを働いたテロリストたちに与える全面支援へと転じたことを?)…どの国の政府が、そうした惨劇をバックで支援していたのかを覚えているだろうか?

 紳士淑女の皆さん、サーカスが街に帰ってきた…今回はシリアに。同じFUKUS枢軸国が企んで、シリアで虐殺をはたらいたテロリストらを武装させ、訓練している─そして、シリアの政府軍がそれに反撃したときには、彼らはヒラリー・クリントンとウィリアム・ヘイグ、アラン・ジュッペたちや…意志盛んな西欧メディアの批判の嵐によって嘲笑された…虐殺と、理性を欠いた軍隊と、人々への弾圧を告発されて。

 シリアの反政府勢力とは、シリアの民衆ではない。反政府勢力の言うこととは異なり、シリアの政府は人々に大いに人気がある…そして反政府勢力の言うこととは異なり、そのシリア国民評議会(Syrian National Council)という(反政府派の)組織は、リビアの暫定国民評議会のミラー(鏡像)なのだ…レイプ犯や、レイシスト、拷問者、放火犯、盗っ人や、殺人者らだ。そしてシリアの国民評議会SNCとは何なのか、それは、トルコを本拠としたSuriye Ulusal Geçiş Konseyiというグループだ。地政学的地図によれば、オスマン朝時代の…オスマン帝国がその地域全体を支配していた時代へとさかのぼる。親西欧の中央アジアと中東のパワーブローカーである、トルコとカタールの台頭を、称賛したいのか?

 一部では…もう一つのFUKUS枢軸国もまたこの地域を支配するために、そして来るべき戦争…まずはイラン・イスラム共和国との、そして次にロシア・中国との戦いへの足がかりとしてそれを用いようとしている。

2月4日:シリアの反体制派によって放たれたXデー
 シリア大使館の外でのシリアのはみだし者や亡命者らの反対デモと、今日の「Homsの虐殺」と呼ばれるものの偶然の一致に、誰か気づいた者はいるだろうか?西欧諸国の報道機関は─FUKUSに支援された反体制勢力の売るストーリーを従順に受け入れ、「我々には証拠はないが、我々にはそれを信じない理由もない」、などと書いている。実際には反体制勢力とFUKUS枢軸国は同じ存在であり、FUKUS枢軸国の軍備で暴虐を振るうために用いている。これは、アフガニスタンやコソボ、イラク、リビアにおきたのと同様のテロリズムと呼ばれるものだ。FUKUSの枢軸国は、その帝国主義的野望を受け容れる者なら、どんなテロリストとでもためらいなくはしゃぎ回るのだ。

メール・オーダーの虐殺 Mail-Order Massacre
 その虐殺、国連での決議投票のちょうど直前のいま(2月4日に)Homsで起こっていると思われる「虐殺」とは…ちょうどPravda紙が(1週間前に)シリアの敵によるトルコ国境への化学兵器の密輸の策略について暴露したためにその攻撃が実行されなかった、その1週間後に起きているのだ。

 その問題の「虐殺」とは─国連で進行中の決議投票の直接の影響をうけて起こったと思われるのだが─ いったい誰が行っているというのか?治安勢力が罪のない市民らを虐殺した、という証拠を誰か持っているのだろうか?武装したテロリストのギャングが近隣を包囲したときに、あなたは何をすると思うのか?シリア人たちはこうした傭兵やテロリストたちと、1年近くも戦ってきている。それとも、その「虐殺」はシリアの敵(Enemies of Syria)によって行われ、そのあとに政府軍からの報復の攻撃をうけたというのか?

 西欧メディアは105名から217名の人々が殺されたと報じて、西欧の人権団体組織も虐殺が行われた、と主張したが、BBC、SKY、Al Arabiya、Al Jazeera、AFPにはいかなる信憑性があるのか?リビアでも「反政府勢力」がテロリストやレイプ犯、レイシストと殺人者で構成されていることを我々は余りにも明白にみてきたが、シリアの敵Enemy of Syriaらとはいったい何者なのか?

 Homsの虐殺とは、政府による虐殺なのか、それとも国連決議投票の前夜に、シリアの敵Enemy of Syriaによってなされた、メール・オーダーによる虐殺なのか?それは余りにも、明白ではないか?もし国連安保理が投票しようとしていたなら、なぜシリア政府は彼らにモスクワと北京において巨大なプレッシャーをかけ少なくとも棄権させる理由を与えつつ、FUKUSの枢軸国による介入には拒否票を投じなかったのか(それは、いずれにせよ、もしもシリア非難の決議が通ったなら…リビアで起こったように…彼らのサインした紙切れなどは何の意味もなさないものになる)

 PravdaのHomsでの情報源によればその「虐殺テロ」では、テロリストらがアサド大統領の属するアラウィの少数派の人々の家から家をまわって虐殺を行ったのだという。メインフォト http://pravda-team.ru/eng/image/article/5/3/5/46535.jpeg )
をみるがいい。 矢印が示しているのは、それらの遺体の腕が縛られていることだ。すると、もしもシリアの政府勢力がコミュニティを銃撃したのなら、彼らはまず家々に踏み込んで人々の手を縛り上げ、その後に彼らを銃撃したというわけなのか?

 そんなことを信じるのが、いかに愚かなことか?事実はこれらの人々は、Homsで活動していたイスタンブールの親・FUKUS枢軸国のテロ部隊によって捉われたのだ─彼らは手を縛られて処刑され、そして当局が踏み込んだときに、カメラが人々のためにすべてを写すようにとカメラに向けられたのだ。西欧のくそ報道機関が、国連の決議投票とちょうど同時に、いまひとつの素敵な、気の利いたストーリーを我々のために拵えた。そして、ヒラリー・クリントン、ウィリアム・ヘイグ、アラン・ジュッペが彼らの主張をした。せいぜい、彼らのいうこととは完全に効力を持たず、最悪でも何かもっとずっと邪悪なことなのだ。
 彼らはロシアと中国が愚かだとでも思っているのか、それとも?

終わりに─ ライターのNajah Ibrahimは、この国がかつて歴史上一度も分裂やレイシズムや宗派主義(セクタリアニズム)に陥らなかったことを確信し、知識人たちに対して外国から押しつけられる危機に対抗するようにと呼びかけた。

更なる証拠─ これこれはHomsで、今日2月4日に誘拐された人々の書類〔死者の名前のリスト〕だ。彼らはすべて親政府側のシンパサイザーだ。今日、西欧に提示され、明日国連に提示される死者らの写真のなかにその多くが見られる↓
https://docs.google.com/spreadsheet/ccc?key=0AgcBgBbbRTCcdFZGNjNNdkM2bWpubmJCOWhKLXJVbHc&hl=de&pli=1#gid=0

 面白い。政府軍による「犠牲者たち」は銃撃によって処刑されたようだ… http://www.youtube.com/watch?v=5ito83NnXKc&feature=share

化学兵器による虐殺も、Homsの虐殺ももはやこれまでだ…
お次は何なのだろうか?

Timothy Bancroft-Hinchey  Pravda.ru
http://english.pravda.ru/hotspots/terror/04-02-2012/120420-nato_homs_terrorists-0/


victims of shelling by the Syrian army in the Khalidiya 2.4

拒否権の力 Veto Powers By Daniel Politi (2/6, International Herald Tribune・NYTimes) 

  ロシアと中国の政府は、シリアの暴力を終わらせるための国連安保理での決議に拒否権を用いたことで、批判の嵐を浴びた…しかしそこには、他の見方もある。

 各国のメディアによる意見やコメンタリーをざっとまとめると:

 中国の「Global Times」は北京の強固な位置を、中国の外交の新時代を開くとして称賛した。中国はついに、それが必要としていた「口を開くことによる報復を果たした。その本当の考えを隠すことは問題を避ける助けにはならない」。

 「China Daily」にとっては、拒否権の行使は「グッド・ポリシー」の問題だった、なぜなら「国際社会は、シリアの危機解決を助けるいかなる試みにおいても、主権と独立、領土の統一性を尊重せねばならない」からだ。マレーシアの「New Strait Times」もこれに同意し、暴力を終わらせたいとの願いは尊いゴールだが、「シリアの国内問題は他国の割り込むべきことではない」とした。

 「Pravda」のLisa Kaprovaは、より一層好戦的だ。彼女は米国の国連大使、Susan Riceによるロシアと中国への激しい非難について、彼女は「豚の頭をしており」「邪悪だ」と呼んだ。「シリアとリビアのテロリストに、まさに武器を供給しているのは一体誰なのか?米国とその精神病質の同盟者たちだ」といって。その一日前に、「Pravda」は、Homsの虐殺が「テロリスト」によってなされた「メール・オーダーの虐殺」だとも主張した…

 「Dar Al Hayat」では、Mostafa Zeinが西欧諸国の動機について、問いを発する─彼らは本当にただ、「シリアとイランの同盟に一撃を与えること」だけを望んでいるのだと。そうして、国連が民主主義を広めようとしているとは、「もはや誰も納得させられない」という。

 スウェーデン本拠の「Asian Tribune」のS.H. Moulanaもまた懐疑的だ─もしも米国と他の西欧諸国が本当に「中東の問題の解決に関心があるのなら、なぜ彼らはイスラエルにはっきり主張し、パレスチナ人に正当な祖国を与えないのか?」、と…

 さらにまた、「the Hindu」は論じている─NATOがバックで支援したリビアでの、承認なしに(un-authorizedで)行われたMuammar Qaddafiの排除と、ワシントンによる「アサドへの執拗な退陣要求」のあとに、「西欧諸国はこの酷い、延々と続く危機の只中にあってこれまで力と影響力のある同盟国であった国々を疎外していることに関しては、自らを責めるほかは責めるものがない(the West has only itself to blame for alienating what could have been powerful and influential allies in this terrible and protracted crisis)」、と。
http://latitude.blogs.nytimes.com/2012/02/06/russia-and-china-vote-against-u-n-resolution-on-syria/?scp=2&sq=Syria%20Russia%20China%20Veto&st=cse

Government Is Said to Kill 200 in Attack in Syrian CityBy JOAN NASSIVERA
http://www.nytimes.com/2012/02/04/world/middleeast/syrian-government-said-to-kill-200-in-attack-in-homs.html

*〔註〕ミッション・クリープ:終わりの見えない展開◆本来は米軍事用語で任務を遂行する上で目標設定が明確でなく当初対象としていた範囲を拡大したり、いつ終わるか見通しが立たないまま人や物の投入を続けていかなくてはならなくなった政策を意味し批判的に使われる言葉.