Sunday, December 27, 2009

イラン人の描くイラクのグランドデザイン/Iran's Grand Design for Iraq - By Amir Taheri

イラン人にイラクについて尋ねると、彼らは大抵こういう
イラクは歴史的にも、イランの延長なのだ…
あるいはイラクとイランの間に境はない、という風に。
‥西欧で知られるアミール・タヘリでさえも遠慮なく述べている


「イラン人が描くイラクのグランドデザイン」 By アミール・タヘリ(11/13、Asharq Alawsat)

 カルバラにあるシーア派第3のイマームHussein Ibn Aliの霊廟には、まもなく新しい門が完成する。その門とは、数十人のイランの職人たちが数年がかりで作り上げたもので、専門家がいうにはペルシャの手工芸品の傑作なのだという。

 先週、イランのメディアが報道したそのニュースには一見、何ら目立ったものはなかった。ともかくその霊廟は、他のイラクのシーア派の巡礼の聖地同様、イラン人によって建てられ、彼らの寄付で何世紀もにわたり維持されてきたものなのだ。

 しかし目立ったのは、イランの国営メディアがそれを報道するときに「国内ニュース」として報道したことだ。公営放送のIRNAは、そのニュースアイテムを「地方県のニュース」の部で放映した。

 カルバラとは、しかしイラクの国内にある─イラクはイランの隣国とはいえ、90年近くにわたる独立国家だ。
 多くのイランの支配層エリートにとって、その事実は明らかに認めるのは困難だ。彼らにとっては、国家の独立主権といったことには余り意味がない。

 公的なイスラム聖職者(mullah)たち、例えばテヘラン大学の金曜礼拝の導師のアフマッド・ハタミ(Ahmad Khatami)などは「イラク」という言葉を一度も聴いたことがないかの如くよそおう。彼らにとっては、イラクとは"Bayn al-Nahrayn" (メソポタミア) または、 "Atabat al-Aliyat"(聖廟群)といったものだ。8年も続いて何百万人もの戦死者を出した戦争すらも、明らかに、彼らにイラクが独立国だと納得させはしなかった。

 イラクを支配することは、1797年のKarim Khan Zandの逝去後にオスマントルコがペルシャの地から撤退して以来、イランのエリート層にとっての野望だった。

 第1次大戦の終焉とスマントルコ解体の後、シーア派聖職者はテヘランのカジャル・シャー(Qajar Shah)に対して、イラクの「聖なる」いくつかの都市を併合するようにと説得を試みた。しかし、Qajar一族は…彼らが墓場へと至った歴史上の過程のなかで、そうした征服を夢見る立場にはなかった。
 
 イラクが英国の援助のもとで独立国となることが一旦明白になると、聖職者はそのプロセスをボイコットし、イラクのシーア派を傍観的立場に留まらせようと決意した。

 1940年代までには、イランのエリート層は独立国イラクという既成事実をどうにか受けいれた。1950年代には、二つの国は王族同士の結婚で姻戚関係を結ぼうとしたが…周囲が企んでいたシャーの娘Princess ShahnazとイラクのFaisal王との間の恋愛関係が十分に進展しなかった時、その試みは失敗した。

 1960年代から1970年代の半ばにいたるまでイラクの政権は、彼らイラク人が (uruba) Arab人である…ことを強調してイランの影響を振り払おうとした。1968年から75年までに、100万人ほどのイラク人がイランとの関係を理由に追放された。代わりにバース党は、エジプトやパレスチナから移民した"純粋アラブ人”と彼らとを置き換えることを画策した。

 長年にわたる敵対関係の後に(両国が)関係を修復した1975年の合意以降、 Shahはイランの存在感を貿易や巡礼、文化交流によって復活させようとした。

 彼のアイディアはイラクの街々に、イランからの巡礼者や旅行者を溢れさせ、イラク経済をになう主要な要素としようというものだった。その計画は1979年にテヘランで聖職者達が政権を掌握したことで終わった。イランの新たな支配者アヤトラ・ルハラ・ホメイニは、イラクにおける単なる影響力を欲しなかった;彼は支配を欲した。ホメイニの野望は1980年から始まった戦争の引き金となった…サダム・フセインによって開戦された戦争ではあったが…アヤトラはその戦争を1988年まで引きのばした。

 サダム・フセインの凋落はイスラム革命共和国に脅威と、そして機会を与えた。脅威とは、イラン以外に唯一、シーア派が多数派の国であるイラクが近代的な民主主義国家となって、ホメイニの国家モデルのライバルとなるという可能性だった。機会とは、旧イラクの消滅による真空状態をイランが埋めることで、イラクを支配する夢を実現できるという可能性だった。

 イランによる現状分析では、イラクの状況からもたらされる脅威の部分は消えたという。イラクは米国その他の西欧諸国の長期的なサポートのもとでのみ民主主義を確立し、ホメイニ主義者のモデルを脅かすことができるだろうからだ。2008年にはイラク情勢が、西ドイツの1948年の状況に酷似していた。もしもその時に、欧米諸国が新興の西ドイツに対する援助を引き揚げていたなら、ソ連がその真空を埋めていたかもしれないのだ。

 テヘランの政権の見解とは、現在のオバマ政権はトルーマン政権が1948年に西ドイツに積極的に関与していたほどには、イラクにコミットしていないだろう、というものだ。
かくしてイランは真空に入り込み、空隙を埋めようと準備している。そして、テヘランは異なる前線において前進を続けている。

 過去5年の間にイラクにおいて何百ものフロント企業やビジネス事業がイランの資金によって設立された。イランによる"投資”はナジャフやカルバラで不動産バブルすらもひきおこした。バスラでは、2008年以降に新たに発された70%以上のビジネス免許は、イラン人に益するものだった、と報告された。

 イランが出資し、コントロールを握る武装グループ──いわゆるMahdi軍を含め─は都市戦のための新たな武器と訓練とを受けた。何千人ものイランの諜報部員が2003年来、6百万人の巡礼者にまぎれてイラクに入りそこに居住している。

 これまでイラン政府は、多くの聖職者たちがナジャフの重要な"howza"(神学校)を支配することに失敗してきたが─そこでは大アヤトラのアリ・ムハマド・シスタニ師のもとでイラクの主権の保証者(guarantors)としてふるまっている。

 しかし、イランはイラクのために、新世代の聖職者たちを訓練してプロモートした…モクタダ・サドル(Muqtada Sadr)はその中の一人で、彼は何年かのうちにアヤトラに指名されるという希望のもとに、聖都Qomでの速成コースに通った。
 政治の面では、イランはイラクのNuri al-Maliki 首相を追い出し、シーア派の宗派ブロックを2010年1月の総選挙で躍進させたいと願っているのだ。もしもそれに失敗するならば、その代案とは選挙自体を行わせないようにすることだ。

 それは州制度と称して、8つのシーア派の主要県がイランの影響の傘下でグループ化されるという新たな状況を生み出すだろう。イラクの政治エリートたちは、すでに"イランの党”と、イラクの独立を支持する党とに分裂してしまっている。

 聖職者たちのイラクへの冒険主義的ポリシーはイラン国内でも公の外交アナリストたちによる批判を呼んでいる。その議論とは、イラクを支配しようとすることは、イランが噛める以上のものに噛り付こうとしているというものだ。

 イラン独自の利益のために必要とされるのは平和なイラクであり、そこでは多様な民族・宗派のコミュニティーが権力を分けあい、安定を生み出すべきである。現今の攻撃的な聖職者たちのスキームはイランとイラクの双方に、苦悩の嘆きだけをもたらすだろう。
http://www.aawsat.com/english/news.asp?section=2&id=18793


 *アミール・タヘリはイラン生まれの保守派論客、イランの各紙で執筆後、ヨーロッパに在住する…。London Sunday Times、 Pakistan Daily Times、The Daily Telegraph、The Guardian、The Daily Mail、Asharq Al-awsatなどにイスラム過激派等に関しても書いており、CNN、BBCのコメンテーターもつとめ、西欧でよく知られているようだ。(「イスラム過激派」という本も書いている…)


*Asharq Al-awsatはLondonにあり、サウジアラビアの国営紙Arab Newsの姉妹紙だという

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