(★このコラムは2007年12月27日に、パキスタンでベナジール・ブットの暗殺された直後に、クリストファー・ヒッチンズにより執筆されたもの)
Daughter of
Destiny/Benazir Bhutto, 1953-2007.
運命の娘/ベナジール・ブット By Christopher Hitchens (12/27/2007, Slate.com)
ベナジール・ブットに対する最も容赦のない批判者でも、彼女が尋常ならぬレベルの肉体的勇気を持っていたことは否定し難いものがあったろう。
彼女の父親が、1979年にパキスタンの軍事独裁政権による死刑宣告を受け、獄中で臥せっていたときに…そして、家族の他のメンバーらがその国からの脱出を試みていたときに─彼女は、大胆にも、飛行機でその国に舞い戻っていたのだ …彼女の、それに続くジア・ウル・ハク中将との対立は、彼女が五年間にわたって刑務所で人生を費やすことを強いた。彼女はその経験を単なる…小さな、卑屈な男が彼女に負わせたことのように、一笑に付しているかのようにも見えた。
彼女の父親が、1979年にパキスタンの軍事独裁政権による死刑宣告を受け、獄中で臥せっていたときに…そして、家族の他のメンバーらがその国からの脱出を試みていたときに─彼女は、大胆にも、飛行機でその国に舞い戻っていたのだ …彼女の、それに続くジア・ウル・ハク中将との対立は、彼女が五年間にわたって刑務所で人生を費やすことを強いた。彼女はその経験を単なる…小さな、卑屈な男が彼女に負わせたことのように、一笑に付しているかのようにも見えた。
ベナジールは1985年に、彼女の兄弟の一人、シャハナワズが南フランスで不可解な状況のもとで死を遂げ、そしてもう一人の兄弟のムルタザも1996年に、カラチの自宅の外で制服の警官によって射殺されるのをその眼で見た。それは、その有名な住所…クリフトン通り70番地…において起きたのだ─私はその場所を、1988年11月に、彼女に会うために訪れていた─選挙キャンペーンの最終日に。そして私は、彼女がいかに勇敢なのかを、直に見出していた。ボディガードたち全員を嘲りのもとに振り切って、彼女は、私と一緒に…一台のジープを駆って、カラチのスラム地域への身の毛もよだつツアーに出かけたのだ。彼女が車外に出て長演説を振るうべく、拡声器を手にしてジープの屋根の上に登るたびに…群衆が車を転覆できるほど、近くにまで圧し寄せてきた。
翌日、パキスタン人民党(Pakistan Peoples Party)は、大差で地滑り的な大勝利を収めて、彼女を、35才にしてイスラム教国で初の女性リーダーに選出した。
彼女は、それに続く「再選任期」が終焉したときに─腐敗の容疑と、政治的陰謀の容疑による残念な混乱のなかで…ドバイへの金ぴかの亡命とともに、その任期を終えた。しかし彼女は、亡命というものが政治的な死の独自の形態になりうることを、明らかに理解していた。(彼女は、最近のMore誌でのエイミー・ウィレンツによる優れたプロフィール・インタビュー記事でも、そのことをよく語っている)アジアの他の二人のリーダーたち、すなわち、フィリピンのベニグノ・アキノBenigno Aquinoや、韓国の金大中Kim Dae-jungらとも変わらず、彼女は、自宅に戻る危険性を冒すことが重要だ、と決意していたようだった。そして、今や、彼女は逝ってしまった─まるで彼女が、アキノと同じ道を辿る可能性もある…と知っていたかもしれないように。
それが誰の仕業なのかを、誰が知るのだろう?それはもちろん、グロテスクだというしかない─殺害は、ラワルピンディで起こるべきことだった─パキスタンの軍エリートたちの要塞都市であるその都市の、フラッシュマンズ・ホテルの、敷地内で。…まるで、彼女はウェスト・ポイントか、クァンティコ(※ワシントンDCにある、米海兵隊の訓練基地)を訪問する途中で、殺害されたかのようだ。しかし、その殺害による利益の享受者が、ペルヴェス・ムシャラフ大佐である─というような、いかなるcui bono分析 (※「誰にとって、どんな利益になるのか」の分析)─というものも、構築しようのないものだ。
最もありそうな犯人とは、アル・カイダ/タリバンの枢軸だといえる─おそらく彼らの、パキスタンISI(諜報部Inter-Services Intelligence.)の内部の、公然たる(または、陰なる…)多くの共鳴者たちの、何らかの幇助のもとに─それは10月18日に、彼女の帰国を歓迎する車列が大型爆弾で破壊されたとき以来、彼女が名指しにしてきた相手だったのだ。
最もありそうな犯人とは、アル・カイダ/タリバンの枢軸だといえる─おそらく彼らの、パキスタンISI(諜報部Inter-Services Intelligence.)の内部の、公然たる(または、陰なる…)多くの共鳴者たちの、何らかの幇助のもとに─それは10月18日に、彼女の帰国を歓迎する車列が大型爆弾で破壊されたとき以来、彼女が名指しにしてきた相手だったのだ。
「Daughter of Destiny 〈運命の娘)」…とは、彼女が、自らその自伝に付したタイトルである。彼女は常に変わらない…皮肉味もなく、当惑というものも全くみせない態度で振る舞った。彼女は私に、何と華麗に嘘をついたのだろう?私が思い出せることは─そ の、トパーズ色の瞳から発される冷静な眼差しを向けながら言われたことなのだ─それは、いかにパキスタンの核技術開発が、ただ、平和利用だけに目的を絞った文民的なものかということについて、だった。そして、彼女の莫大な腐敗への容疑や、彼女のプレイボーイの夫、アシフ・アル・ザルダリAsif Ali Zardariに関する歓迎されざる質問をされたときには…彼女はいかに、正当な素振りで立腹していたことか?〈スイスの法廷は最近、ザルダリについては彼女の主張に反する事実を見出していた…NYTのジョン・バーンズは、1998年にその件についての優れた背景記事を書いている)。そしていまや、ブット一族による支配の二つの主な遺産─すなわち、核兵器と、力を得たイスラム過激派というものは、無視できないほどに互いに接近しあっているのだ。
そしてこれが、彼女の殺害というものがそこまで、災厄であるとも捉えられる理由なのだ。彼女には少なくとも、タリバンとアル・カイダに関しては、真に考えを変えたとみなされるような…最低でも、幾つかの理由があった─彼らに対抗する闘いの遂行に、喜んで助力するつもりになっていたという面において。
彼女は、いくつかの記事によれば…彼女の、やや疑わしい夫とのコネクションを断ち切っていたのだ、ともいわれる。彼女は、パキスタンの民主主義の欠如と、ムラーに操られた狂信主義との間に、コネクションを打ちたてようとも試みていた。来たり来るかなり疑わしげな選挙戦の候補者たちの間でも、彼女は…原理主義者たちのサイレンのごとき呼びかけに対抗しようとする、大衆の訴えに近づく何かを有する唯一の候補者だった。
そして最後に、彼女は 「安全性」への偏愛というものを放棄して行動し、そして、彼女自身の安全をも、尊大な態度で無視した。その勇気とは時に、より優れた動機にもふさわしいものだったが、彼女が解決したいとしていた多くの問題は…部分的には、彼女自身の創作によるものでもあったのだ─それでもなお彼女は、たぶん…彼女自身の宿命についての暗示というものを持っていたのだろう。
彼女は、いくつかの記事によれば…彼女の、やや疑わしい夫とのコネクションを断ち切っていたのだ、ともいわれる。彼女は、パキスタンの民主主義の欠如と、ムラーに操られた狂信主義との間に、コネクションを打ちたてようとも試みていた。来たり来るかなり疑わしげな選挙戦の候補者たちの間でも、彼女は…原理主義者たちのサイレンのごとき呼びかけに対抗しようとする、大衆の訴えに近づく何かを有する唯一の候補者だった。
そして最後に、彼女は 「安全性」への偏愛というものを放棄して行動し、そして、彼女自身の安全をも、尊大な態度で無視した。その勇気とは時に、より優れた動機にもふさわしいものだったが、彼女が解決したいとしていた多くの問題は…部分的には、彼女自身の創作によるものでもあったのだ─それでもなお彼女は、たぶん…彼女自身の宿命についての暗示というものを持っていたのだろう。
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/fighting_words/2007/12/daughter_of_destiny.html
〔※フラッシュマンズ・ホテル: ラワルピンディの三ツ星ホテル。ブットの自伝、「Daughter of Destiny」のなかでは、1978年に投獄中の父のズルフィカール・ブットに、Lahoreに投獄中の母親と共に面会に行くために、このホテルで警察の迎えを待っていたと回想されている。ベナジール・ブットが暗殺されたのはこのホテルではなく、同市内で、政治集会の多く開かれていたMurree Roadの公園Liaquat National Baghでのこと…。PPPの演説集会を終えて出る際に、トヨタ・ランドローバーのサンルーフから車の上に立って聴衆の歓呼にこたえていた瞬間に、自爆テロリストがちかづいて爆破された…。
ラワルピンディは、パキスタン軍の要塞都市であり、筆者のヒッチンズはこれをQuantico等の米軍基地の街に例えていた…〕
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