For Khashoggi, a Tangled Mix of Royal Service
and Islamist Sympathies
By ベン・ハバード & デヴィッド・カークパトリック (2018/10/14、NYタイムズ)
1980年代にアフガニスタンで、カショーギ氏は攻撃用ライフルを手に自らの写真を撮影し、
編集者らを後悔させた。しかし彼はその地では戦闘に身を投じなかったとみられる |
Lebanon, BEIRUTより─
ジャマル・カショーギは昨秋、母国での相次ぐ悪いニュースを振りはらってワシントンへと降り立った。
サウジ王室お抱えのアドバイザーとして、また非公式のスポークスマンとしても成功した彼はその後、新しい皇太子によってサウジ国内での文筆活動を禁じられていた─ツイートを発する事すらも。サウジの国営メディア「アラブ・ニュース」の彼の連載コラムは掲載をキャンセルされた。彼は結婚にも挫折した。彼のやっていた王国の支配者への批判行為を圧力でつぶすべく、彼の親戚たちは旅行を禁じられた。
彼が米国に到着した後には、サウジの彼の多くの友人らが次々と拘束されて裁判にかけられ、彼は困難な決断に迫られた─近いうちに帰国するのは危険すぎるが、この状態は永遠に変わらないことだろう。
そのために彼は、米国で新たに批評家として自らを再度立て直し、ワシントン・ポストにコラムを寄稿し始めた─西欧での身の安全を獲得したものと信じながら。しかし身の安全が確保されたのは、その時までだった。
カショーギ氏は、10月2日にイスタンブールのサウジ領事館に入る姿を最後に目撃された─彼はそこで、結婚のための書類を受け取る予定だった。トルコ政府によれば、サウジのエージェントらがそこで彼を殺害して遺体をバラバラにしたのだ、という。
若き皇太子が反体制派の人物の暗殺を命じた可能性は、トランプ大統領とってはサウジとの間にこれまでに存在した温かい関係を有毒なものに転じる可能性があった。そのことは、これら関係国の政府や企業各社などにとっても、皇太子がイエメンでの破壊的な軍事作戦に手を下してきたことや、レバノン首相の誘拐を彼らが看過し続けてきたこと…あるいは、彼がサウジの何人もの宗教家やビジネスマン・異母兄弟の王子たちを逮捕してきたことなどを想起させて、敵を封じるためには皇太子が手段を問わない容赦なき独裁者であることを、再び認識させた。
カショーギ氏の失踪は皇太子に仮借のない新たな光を当てたと同時に、彼のキャリアにおいて、複雑に絡まったシンパシーというものにも衆目が集まった─彼は民主主義にも共感を抱きながら、サウジ王室に対して長年仕えたキャリアのなかでは、政治的なイスラム主義にも共感を抱いていた。
彼は、政治的イスラムへの関心からトルコのRecep Tayyip Erdogan大統領とも個人的関係を築いていたが─Erdogan大統領は、いまやサウジアラビアに詰め寄って、彼の友人を見舞った運命を説明を求めている。
欧米への自主的な亡命は、新聞記者/コメンテーター/編集者として働きつつも、王室周辺における最も著名な人物でもあった60歳のカショーギ氏にとっての強烈な打撃だった。彼は若き日のオサマ・ビン・ラディンをインタビューした人物として国際的注目を浴びて、その後、王や皇太子の腹心の側近としても知られていた。
過去30年のキャリアがうんだ彼のキャラクター(人物像)とは─非常に広範な人脈を誇り、サウジアラビアに関係するあらゆる人物を見知っている、背の高くて闊達な、鷹揚な人物というものだった。しかしワシントンに居を定めたことによって、彼はさらなるアドバンテージを得ていた。彼は友人から<感謝祭>のディナーに招かれたときには、七面鳥とポテトを腹に詰め込む自らの写真をツイッター上で1700万人のフォロワーにシェアしていた。何に対して<感謝>するのか?…について語る順番が来たときに、彼はこう答えた─「なぜならば、私が自由を得て、自由に物を書けるようになったからだ」…と。
カショーギ氏と彼のサウジの指導者たちとのあいだの関係を知る数十人の人々によれば─彼が自由にものを書きたいと願う嗜好、そして彼が、海外から政治的な改革を組織したい、とも望んだことが、彼を皇太子との衝突の道に陥れたのだという。
オサマとアドナン、そして、ムスリム同胞団
カショーギ氏が名声を得たきっかけとは、彼がオサマ・ビン・ラディンの知己を得ていたことだった。彼は、かつてビン・ラディンの故郷の街ジッダで過ごし、そしてビン・ラディンと同様の、非・王室の名家の出身だった。カショーギ氏の祖父とは、サウジ・アラビアの初代の国王を治療した医者だった。彼の叔父のアドナン・カショーギAdnan Khashoggi氏とは著名な武器商人だったが、ジャマル・カショーギ自身は叔父の財産の恩恵というものを受けていなかった。
カショーギ氏はインディアナ州立大学への留学後にサウジ・アラビアに帰国し、英文紙の記者となった。数名の彼の友人たちは、若き頃のカショーギ氏がモスリム同胞団に入団していたことを明かしている。
彼は、後には同胞団の会合への参加を止めたものの、保守的なイスラム主義にも通暁し続けて、反西欧的なレトリックをしばしば論じながらも、誰と友人になるかに応じて、それらを表に出したり隠したりする能力もあった。
彼の新聞社における同僚たちは、彼がフレンドリーで思慮深く、信仰心の篤い人物だったと語る。彼は、ニュースルームでよく共同礼拝を行っていた─と、同僚であったインド人エディターのShahid Raza Burneyは想起する。
1980年代には多くのサウジ人らがそうであったように、カショーギ氏はアフガニスタンでの(CIAとサウジアラビアに支援された)反ソビエトのジハード(聖戦)に対して喝采を送った。そのことゆえに、彼はもう一人の若きサウジ人、ビン・ラディンから面会の招待を受けたときには、そのチャンスに飛びついた。
「そこで彼は、まず第一に、何といってもアフガン・ジハードに共感するジャーナリストだったのだが─それは、当時のアラブ人ジャーナリストや多くの欧米人ジャーナリストらも同様だった」、と、カショーギ氏に彼のアフガン時代に関するインタビューを行ったノルウェー人のリサーチャーThomas Hegghammerは言う。
彼の同僚らも、その点に関しては賛同している。
「ジャマルが一種の過激主義者だった、というのは誤りだ」と、現在、インド紙のエディターを務めるBurney氏はいう。
しかし、戦争における失敗がアフガニスタンの立つ健全な足場を脅かしたことがカショーギ氏を脅かして、また同様にビン・ラディンを後のちテロリズムの道へと陥れた。
「彼は、すべての闘争の後に、アフガニスタンが決してひとつに統合されなかったことに失望感を抱いた」と、カショーギ氏のサウジ人の友人(報復を恐れて彼は匿名を望んだが)は語る。
カショーギ氏のアフガニスタンへの旅と、サウジの諜報部長だったTurki al-Faisal王子と彼との関係は、幾人かの彼の友人たちにも彼がサウジ政府のためにスパイ行為をしていたのではないか、といった疑念を抱かせる。
何年かののち、2011年にパキスタンで米国の特殊部隊がビン・ラディンを殺害したそのあとには、カショーギ氏は、彼の古い知己の死を悼んで、彼が如何なる人物となり果てたかをも悼んだ。
「私はつい先刻…君、Abu Abdullahのために心が引き裂かれて泣き崩れた」と、カショーギ氏はツイートを発した─ビン・ラディンのニックネームを使って。「君は、アフガニスタンでのあの美しい日々には、美しくて勇敢だった─君が憎しみと熱情に屈するよりも前には」。
記者から王室のインサイダーへ
From
Reporter to Royal Insider
カショーギ氏はジャーナリストとしてのキャリアを踏み出した直後にアルジェリアを取材し、第1次湾岸戦争の折にはクウェートにもはいった。彼は、王国のメディアでの出世の梯子を昇ったが、そこでは王子たちが新聞社を所有していて、記事の内容は検閲され王室メンバーが関わるスキャンダル報道は葬り去られた。
2001年9月11日のテロ攻撃の後に彼は、アラブ世界でよく語られていた陰謀説に対しては反論して、ハイジャックされた航空機とは「イスラムの信仰と寛容なる精神と共存の価値観に対する攻撃も行った」と書いた。
彼は2003年にサウジの新聞Al Watan紙の編集長に任命されたが、2か月も経たないうちに、尊敬されるあるイスラム宗教学者が非・モスリムへの攻撃を正当化するために教義を利用した、と非難した記事のために解雇された。彼は2007年に再び職に復帰したが、2度目の職務期間はやや長期にわたって勤めた。
彼は、アブドラ国王の外遊旅行にも同行して、また後にモハメッド皇太子によって逮捕された億万長者の投資家、Alwaleed bin Talal王子とも懇意となった。元・諜報長官のTurki王子は、彼が英国と米国の大使の任に就いた際に、カショーギ氏をアドバイザーとして雇った。
カショーギ氏はその時期に、ヴァージニア州McLeanに、王国から亡命後に彼の住んでいたコンドミニアムを購入した。
海外での蜂起と、母国での改革を支援する
Backing Uprisings Abroad, Reforms at
Home
多くのカショーギ氏の友人らは、彼が王国に仕えていたすべてのキャリアを通じて個人的には選挙による民主主義を信奉していたことや、またムスリム同胞団スタイルの政治的イスラムへの嗜好をも隠し持っていたことを語る。
1992年のアルジェリアでの軍事クーデターが、イスラム主義政党による議会の主導権獲得への望みを打ち砕いたとき、カショーギ氏はロンドンのイスラム主義者の友人と連携して、「アルジェリアの民主主義の友(The Friends of Democracy in Algeria)」なる組織を立ち上げた。
そのグループは英国で新聞広告を掲載し─その中では「あなたが一票を投じるときに、これはアルジェリア人を含む世界中の人々が拒否された報奨金(bounty)である事を想起してほしい」と訴えていた─と(その試みの公的な顔を演じながらも、カショーギ氏の役割を隠蔽していた)彼の友人のAzzam Tamimi氏は述べる。
50歳に達するまで、カショーギ氏のムスリム同胞団との関係とは曖昧なものだった。数人の同胞団のメンバーは、今週、カショーギ氏が常に彼らと一緒にいたように感じていた、と語る。彼の世俗的な友人たちは、そうは信じていはなかったに違いない。
カショーギ氏は、サウジ王室の漸進的な改革以上のものを望んだことはなく、結局、イエメンとバーレーンでの(イランの影響力の阻止が目的だとサウジ人らに信じられていた)サウジ政府の軍事的介入を支持していた。しかし彼はまた、アラブ世界全域で2011年に勃発した叛乱の波にも熱狂していた。
しかし、アフガンでのジハードが辿った道と同様に、アラブの春の動きは、サウジ・アラビアとアラブ首長国連邦が富と資金力で反政府勢力を潰して独裁者を支援し、暴力へと陥ったことで崩壊の途を辿って…彼を失望へと導いた。
「彼はサウジ・アラビアが、そのポリシーを地域全体における叛乱の弾圧を加速するために用いた事を好まなかった」、とカショーギ氏を知るワシントンの中東アナリスト、Sigurd Neubauerは語る。
サルマン国王が2015年に王位に着き、その息子で非公式に頭文字のMBSで知られるMohammed皇太子に巨大な権力を委ねた後には、王国に対する最小限の批判を容認する寛容さもまた色褪せていった。
若き皇太子は経済を多角化し、社会構造を柔軟に改革して、女性の車の運転をも解禁した。
カショーギ氏はこれらの動きを称賛したが、皇太子が強権を行使する方法に苛立ちを表明した。例えば、カショーギ氏がトランプ氏の大統領への選出を批判したときには、サウジの高官らは米国の新政権と彼らとの関係が損われることへの危惧から、彼が物を言うことを禁じた。
モハメド皇太子は権力の全てを駆使して彼の批判者らを追跡し、彼らの旅行の自由を奪い、幾人かを投獄した。カショーギ氏は昨年彼の何十人もの友人が逮捕されて、何百人もの友人が汚職の容疑でリヤドのリッツ・カールトン・ホテルに監禁されるよりも前に、王国を出た。彼らのなかでは少なくとも前の王の二人の王子らを含む何人もの者が、未だに拘禁されている。
カショーギ氏は、ワシントン・ポスト紙にコラムの寄稿を始めて、モハメド皇太子とロシアのプーチン大統領を比較した。彼の友人たちは、彼が書いたそのような記事によって皇太子が彼をブラックリストに載せたのではないか、と推測する。
「モハメッド・ビン・サルマンは彼のある種のイメージを創り出すために何百万ドルもの金を払ったが、ジャマル・カショーギはごく短いいくつかの言葉でそのすべてを破壊していた」、と友人のTamimi氏は言う。「皇太子は激怒していたに違いない」。
しかし、カショーギ氏の筆が止まることはなかった。
彼は人々の多くがサウジの腐敗のスケールの大きさを理解しておらず、石油の富による未来も限定されていると感じつつ、サウジを含むアラブ各国の経済に関するレポートの翻訳を掲載するサイトを計画していた。彼はまた、DAWN (Democracy in the Arab World Now、アラブ世界での民主主義)という支援運動組織をも設立していた。カショーギ氏が失踪したときには彼はその資金を確保して、幹部組織を設立しようと試みていたと友人らは語る。
イスラム主義に傾倒したCenter for the Study of Islam and Democracy(イスラムと民主主義の研究センター)から4月に賞を受賞した際、カショーギ氏はアラブ世界の全てにおいて、民主主義が過激なイスラム主義者や独裁者、エリート(彼らは民衆による政治参加はカオスを招くと怖れている)らによる攻撃の下にあると述べていた。彼は、内戦の防止と、より良いガバナンスのための唯一の手段とは、権力の分担(パワーシェアリング)にあると訴えていた。
モハメド皇太子は「彼自身による判断能力と、周囲の少数のアドバイザーの能力だけに頼りつつ、何百万ドルもの金を未来のプロジェクトのために投じている」─とカショーギ氏は書いた。「それで十分なのか?いな、十分ではない」、と。
彼がワシントンに移住した後、皇太子モハメッドの代理人たちは繰り返し彼にコンタクトをとって、その批判のトーンを和らげるように頼み、帰国することを求めていた…と彼は友人らに語った。しかし、彼は新しい生活をはじめていた。彼と友人のトルコ人のリサーチャー、Hatice
Cengizは結婚して、イスタンブールで新居を構えようと決めていた。
長年の友人であるMaggie Mitchell Salemは彼の身を案じて、ワシントンのサウジ大使館に行くような事があれば、いつでも彼女にショートメッセージを送るようにと頼んだ。
「彼は『ああ、マギー、マギー、君は馬鹿げたことをいってる』といって笑い飛ばした」、と彼女は回想する。
https://www.nytimes.com/2018/10/14/world/middleeast/jamal-khashoggi-saudi-arabia.html
https://news.wttw.com/2018/11/20/trump-declares-support-saudis-despite-khashoggi-murder
https://news.wttw.com/2018/11/20/trump-declares-support-saudis-despite-khashoggi-murder
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