Saturday, May 19, 2012

シチズン・エネミー(市民のなかの敵)Citizen Enemies -Those who protest the killing of Anwar al-Awlaki have to say what they would have done instead. By Christopher Hitchens


*昨年秋の米軍の空爆によるアンワル・アル・アウラキ殺害に関するコラム
シチズン・エネミー(市民のなかの敵):アンワル・アル-アウラキの殺害に抗議する者たちは、その代わりに何ができたのか語るべきだ
 By クリストファー・ヒッチンズ10/3, 2011, Slate.com)

 おそらくそれは…主にヘルファイヤ・ミサイルによる終わりという成行きを特徴とする一種のつかの間の映画的な満足を与えたがために、アル・カイダの中心的なメディア向けスターの閃光のごとき最期は、ジハードの脅威についてのさし迫った問いのいくつかを再び、蒸し返しただけだった。それはまた、それ自身の行動規範も持たず、先例にも頼らずに作戦行動をする良心に欠けた犯罪的暴力の世界では、言葉が武器になるとか、思想(考え)と行動との関係とは何か、などの事項に我々が直面するようにと強いた。

 その問題のエッセンスを簡潔なフレーズで言い表わすならこうだろう:
あなたはこのコラムの読者として手に入りそうな爆薬や発火装置を何でも見境いなく用いる「国内産(homegrown)の」、または「一匹狼の(lone wolf)」狂信的な人間の仕業によって仕事や遊びの最中に、あるいは仕事や遊びに行く道すがらに爆破されるという可能性がより一層強くなるのだ。そしてあなたはアル・カイダ、またはシャバブ(あるいは彼らが方向転換したいかなる代理人でも)の手の中で死ぬかもしれない。同様にローカルな工作員たちは、一つのランダムで予測不能な行為を実行する為にアメリカの都市郊外の町からでも出現するだろうそれが時々起ったように狂信的な人間は自らは我々の国の岸辺を離れて、ソマリアかイエメンかアフガニスタンに向かうことだろう。そして我々の足元には、Fort Hoodの基地で「神は偉大なり」と叫んで武器を撃ち放ったニダル・ハサン少佐Maj. Nidal Hasan (*1) のような人物や、またはTimes Squareで爆破を起こそうと彼のSUVの車両を改造したFaisal Shahzad (*2)あるいは(彼自身の証言によれば、もっとイージーに…)下着に可燃性の薬品を詰めてデトロイト行フライトに搭乗したFarouk Abdulmutallab (*3) のような者らも存在する。
(*1)ニダル・ハサン少佐の記事:http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2009/11/hard-evidenceseven-salient-facts-about.html
(*2)ファイサル・シャハザッドの記事
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/05/money-woes-long-silences-and-zeal-for.html
(*3underwear bomber"と呼ばれた アブドルマタラブの記事
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/people/a/umar_farouk_abdulmutallab/index.html


「一匹狼lone wolfという語をこれら全てのケースに当てはめるのは、厳密にみて精確とは思えない。なぜなら、単独行動する者に影響を及ぼすのは、土地の仲間言葉で話しながら「野獣の腹の中に住める」ような、国内育ちのカウンセラーたちかアドバイザーたちなどだからだ。一番最近の例ではAnwar al-Awlakiアンワル・アル-アウラキは古典的な、最も成功したその例だった。たとえば、彼のHasan大尉とのコンタクトは進化して行き、彼に対して意図的に人を撃つことの宗教的な許可を得るに至るすべてのステージ(段階)を歩かせたように見える経緯がとてもシステマチックだった。アウラキは我々のつい鼻の先で働いていた時期もあり、バージニアやその他の場所で、既存のモスクのコンテクストからプロパガンダを放っていたのだ(状況が揺れるなかでそもそも彼がFBIの注意を惹いたのは彼が国境をまたいでハチミツを輸送していたためで、それ故我々が彼を知るに至ったのかもしれない) (*アウラキはかつてハチミツの交易を副業として、ビン・ラディンのためのテロ資金を稼いでいたとか)

 しかし彼自身はそのステージ(段階)では、サラフィ主義に身を投じるジハーディストとして、充分に蛹(さなぎ)にはなってはいなかった。ゆえに我々は今、この国に住む人々の耳へと直接的に囁くことのできるアメリカ市民という現象に立ち会っているしかし、最近まで彼は我々の国の法律が彼に届かない地理的ロケーションからのみ、それ(*テロ行為への協力)が可能だった。しかしこの種の法的、道徳的な挑戦というものには、どんなに遠まわしな物でも先例は存在しなかった政治的、または軍事的な先例は勿論のこととして。このジレンマは暫くはずっと我々と共にあるだろうから、私に、この魅惑的かつ苛立たしい敵の出現の背景について大体の説明を提供した最近のブックレットを推薦させてもらえないだろうか。

 ─「アップルパイの様に極めてアメリカ的な:アンワル・アル-アウラキは、いかにして西欧流ジハードとなったのか」(As American as Apple Pie: How Anwar al Awlaki Became the Face of Western Jihad)とのタイトルでそれは、the International Center for the Study of Radicalisation and Political Violenceから刊行された(その著者とは私はプライドを持って急いで付け加えたいが私の息子なのだ)そのブックレットは、英語を話し、欧米で活動するサラフィズムの扇動者らの伝統を検証しているその伝統とは大抵の人が考えるより長くより多岐にわたっているのだがしかし私自身は今は亡き Samir Khanの書いた側面にもっと興味を惹かれるのに気付く彼はパキスタン系のアメリカ人で、同じヘルファイヤ・ミサイルの攻撃で死ぬまでは、アウラキのゾッとするような嫌悪すべき)雑誌「Inspireのエディターだった。このユニークなオンライン出版物については、Yemenから我が国に向かう航空機に乗せられたプリンター・カートリッジ爆弾に関する、あざけりに満ちたそのアップビート(調子のいいレポートについて…またはあなた自身のママのキッチンのテーブルでこうした爆弾を作る方法についての、アップビートなカバーストーリーを思い出す人々もあるかもしれない(その同じミサイル攻撃で、こうした爆弾の製造者もまた死亡した可能性もあるが)
Queens育ちのSamir Khan
 他の殉教戦士の戦術とは、はるかに遠く離れた戦場で用いられているものなのに、前述のKhanはそう遠くない過去に、しかもオサマ・ビン・ラディンさえもがチェスボードから排除されるなかで、国内産によるアメリカへの攻撃を「フィフス・ギアへと入れていた」のだ。( ..moving "into fifth gear”)
 レトリカルな意味で、これはビン・ラディンの抱いていた強迫観念(オブセッション)対インドや対イラクの作戦と区別する、スペクタクル的な「遠くの敵 the far enemy」への攻撃、あるいはアメリカの威光やセキュリティに対する攻撃と対照的な鏡像をなすのだ。この最後の日々に彼は彼自身の参謀たちとの間でさえ、この二番目のタイプの戦闘のリニューアルを論じていた。しかしそれは、ずっと壮大さに欠けたイメージを喚起していたそうした哀れな場違いのアマチュアが恐らく一度だけの、悪意と恨みによる限定攻撃を、彼の近隣住民や同僚たちや通りすがりの人間たちだけに対して行うだろう…というイメージを。

 私はこうした真性の退歩というものを眺めるのも重要だと思う…鼻面を突っ込みたがる、両親の家の地下室に住むテロリストのなりたがり屋(ワナビー)たちなぜならそうした事の証拠(幼い子供らに自爆テロの爆弾を運ばせるといった)が…通常であれば我々の不幸を願う者たちの間でさえも嫌悪の念を掻き立てているのだ。それはまた彼らが志願者をリクルートする度量をも劇的に減少させている。その一方で、余りに注意も払われていないことだが、そうした戦術はそこで大量に用いられる高価な爆破物をも代償にして潰す何かがある。彼らは信義と信頼を根こそぎにする。あなたは本当に(新兵訓練の)ブート・キャンプであなたの隣にいる男が、一日に5回も自らをひれ伏させる(*イスラムの礼拝をする)男であって欲しいのか?我々は隣のシートに座る髭を生やした男について何か語るべきだろうか?あなたはあなたの町で「包括性(inclusiveness」)とか「人種的多様性(diversity)」の精神のために心から歓迎すべき次に行われる開発が、モスクのためのものであってほしいのか?

 この種のスローで、間接的な文化的浸食とは計算しがたい損害を生む。そして彼らは恐るべきチープなやり方で自己を複製しつつあるイスラム原理主義の不安に「過剰反応」する人々もいるだろうがそれは僅かで、そしてそれはただ祈りの宗教的義務に従おうとするだけの男の機嫌を害して、すべての想定されうる嘆きや軋轢の装置が是正を求めて行動へと繋がることだろう。しかしながら、こうした小さな騒乱のカーニバルと社会的な腐食は、我々の司法権の圏外から来るが、我々の軍事力のリーチの中にあって、そうした行為する間に我々を嘲り愚弄している。

 我が国の政府が自国の市民たちを、誰にもはかり知れない方法や基準でリストアップした暗殺者リスト(death list)に掲載する権利がある、という恐ろしいアイディアに我々が加担することによっても…我々はいかなる地球上の国の政府も、私が自己防衛のための先制攻撃ドクトリンと呼べると思う物への誘惑の喚起に直面することはないだろうと思う(*それは先制攻撃ドクトリンとはいえまいの意味)このような可能性において私の警告を共有する人たちや、また我々がそれを通じて(*国家テロの権力の)濫用を受けると思う人たちも、我々がそれに代わる代替手段として何ができるのか、を提案せねばならぬ重い義務を背負っているのだ。
*このcolumnの続編  Lord Haw Haw and Anwar al-Awlaki に続く… http://www.slate.com/articles/news_and_politics/fighting_words/2011/10/anwar_al_awlaki_assassination_the_one_legal_protection_the_unite.html

Thursday, May 17, 2012

ハンガーストライカーが、イスラエルの司法制度の土台をゆるがす Hunger strikers shake foundations of Israeli justice system - By Omar H Rahman


 
パレスチナの刑務所収監者たちによる
ハンストには長い抵抗の歴史がある

ハンガーストライカーがイスラエルの司法制度の土台をゆるがす
By オマール・H.ラーマン
Hunger strikers shake foundations of Israeli justice system (4/27, The National, UAE)  

  4月17日の深夜零時が近づいてきた時─ 政治犯で収監され66日間のハンガーストライキを続けた挙句に世界のメディアのヘッドラインを飾っていたパレスチナ人Khader Adnanは、彼の自宅に戻される途上でヒーローの歓迎をうけた。夜空を花火が彩り、車のクラクションが鳴らされ、歩いている人々も、車やトラクターに乗る人々も飛び降りてはAdnanを迎え入れようと村のゲートへと走り出していた。

「彼が刑務所から出たなんてこの目で見るまでは信じられない」と、夫の4ヶ月間の試練の間重荷を背負っていた見るからに心配気な彼の妻のRandaは言った。しかしAdnanは最近リーダーになった者らしい身振りで、未だに刑務所内に残ってハンガーストライキを続ける他の政治犯らの家族の家々を先に訪れてからでなければ家に戻らないと言った。

4ヶ月にわたって拘置されていたAdnanは、何ら犯罪行為の宣告も受けることがなく、いかなる悪事を働いた証拠もなかったのだ。しかも、最終的に彼の解放に繋がった合意の一部のなかでは、イスラエルが彼に対する新たな証拠を持ち込めば、彼を新たに裁判にかけることができるという条件が付されていた。彼のハンガーストライキの終わりから解放に至るまでの2ヶ月近くの間にそれに失敗したイスラエルは、そのようなことを始める証拠を入手していない、と暗黙に認めた。そしてまた、それはパレスチナ人が、何の容疑もなく家から連れ出された挙句に、何ヶ月も、あるいは最悪の場合何年も拘置されかねない状況に対して、いまひとつの安堵をもたらした。

彼のハンガーストライキは、イスラエルの複数の刑務所において似通った波状の抵抗運動を引き起こし… 彼が自由を獲得した暁には、およそ1,500人のパレスチナ人の収監者らがイスラエルが続ける大規模な収監のポリシーと、収監者たちへの取扱いに抵抗して無期限の集団的なハンガーストライキに身を投じていた。逮捕される以前には、単なるマイナーな公的人物に過ぎなかったAdnanだったが、彼の窮状とは殆どすべてのパレスチナ人にとって、親密なコネクションを分け合うことのできるものだった。
Islamic Jihadのメンバー、
Khader Adnan刑務所からの解放を
人々が歓呼で迎えた

収監者権利擁護の代表的な組織Addameerによれば、イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地域を1967年に奪って以降、総計75万人以上のパレスチナ人がイスラエルの拘置システムによって捕らえられてきた。そのすべての時期を通じて、平均3百万人程度だったパレスチナの小さな総人口からみれば、それはその地域の人口のおよそ25%を占めており、すべての男性の半分近くを占めている。

「パレスチナの社会においては刑務所の収監者について話す際には、我々はそれを伝聞としての立場で話すよりも、むしろそこにいた経験をもつ者として話すものなのだ。だから、こうした過酷な試練を逃れたことのある、パレスチナの家族を見つけることは殆ど困難なのだ」、とパレスチナの政治と社会を研究する西岸の53歳のBirzeit大学の教授、Dr. Saad Nimrは言う…彼は、人生において合計8年間を刑務所で過ごしている。

パレスチナ人の人生における、収監者の問題の中心的な重要性とは、実質的に世界の他の地域での何にも比較しがたいものがある。パレスチナ政府─それは1993年から準自治体としてパレスチナ地域を治める─ は収監者問題の担当省庁を有し、そして、そこには多くの社会的クラブや組織、この運動に捧げられた博物館までもが作られている。

何年もの間にわたり、刑務所は人口の中の膨大な年代にとっての大学の代替物ともなり、また草の根的な政治運動組織のベースをも供給してきた。この国のもっともポピュラーな政治的人物であるMarwan Barghoutiは、現在5つの終身刑で服役しているのだが、いまだに大統領候補になりそうな競争者の一人だ。抵抗活動というものは珍重され、またイスラエルへの協力は最大の罪とされる軍事占領下で45年近くにわたって生きてきたあとに、刑務所に収監されるスティグマは、信用の失墜というその原則から名誉の印へと変貌して、無論プライドの源泉ともなるのだ。

単純に言えば、パレスチナ人にとっての収監者問題とは単なる占領下の人生のミクロコスモス(小宇宙)であり、多くの者達が大きな監房をより小さな独房の代わり、とみている場所に過ぎない。彼ら全員が解放されるまでは、その刑務所の壁の中ではなんら劇的な変化など起こらない。

今日イスラエルの刑務所には、およそ4千7百人のパレスチナ人収監者たちがいる。300人以上のこうした収監者たちが、Adnanのように「行政拘束administrative detention」を受けているが、そこでは6ヶ月までの間、犯罪の容疑や裁判もなしに人を投獄できる。この最初の期間が過ぎると、そのプロセスに対するいかなる是正の手段も回避して、軍事裁判官は収監者をさらに無期限に拘束できるとされている。

イスラエルの主要な人権団体NGO、B'Tselemによると、「行政拘束の対象者というものは、彼らの拘束の理由を一切告げられることはなく、また彼らに対する何の証拠があるかのも知らされることはない。それに加えて、特定の服役期間を宣告されて服役する囚人たちとは異なり、そうした人々が開放された後になってさえも、行政拘束の対象者は彼らがいつ解放されるのかを知ることができず、そして彼らが拘束されることのできる期間の長さには、何ら制限がない」という。
パレスチナ地域の軍事司法制度での罪の容疑の領域では、有罪という判決を受ける確率が99.7%という際だった数字に達し、逮捕はほとんどいつでも実施されている。いかなる抵抗活動も刑務所への投獄に繋がるもので、それは政党のメンバーシップの取得も含まれる。パレスチナ自治政府の現職大統領、マフムード・アッバスの政党であるファタハでさえもイスラエルの軍事当局からは禁じられている。

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33歳のKhader Adnanは人生で8回にわたって逮捕されている。彼の最近の収監とは、2011年12月17日の早朝にイスラエル兵たちが西岸の都市Jeninniに近いArrabeh村の彼の家を襲撃した時に始まった。Adnanは彼の妊娠中の妻と二人の娘の前で逮捕され、目隠しをされて尋問センターに連れて行かれ、そして彼が言うには、そこで何度も殴られたという。22日間にわたって彼は拘束されて尋問されたが、彼は逮捕された日以来、始めたハンガーストライキをずっと続けたという。1月8日に彼は軍事裁判官の前に出頭したが、そこで裁判官は彼に秘密の証拠に基づいた4ヶ月間の行政拘束を命じた。

ハンガーストライキを始めた最初の1ヶ月間、Adnanはパレスチナの内部でも海外からもほとんど注目を浴びることはなかった。通常の場合と異なり… そうした方法というものが、しばしば集団によって、そして普通は政党を通して行われるなかで、彼の行ったのは単独の個人による抵抗行為だった。彼の状況が悪くなり始めた頃に、ようやく人々が彼の行為に対するレスポンスを返し始めたのだ。

「それはグループとしての行動ではなくて、それは、同時に起こったいくつかの努力の行為だった」と、Nablusの22歳の活動家Bisan Ramadanは言う。「彼がハンガーストライキを行っている間に、あらゆる種類の人々が行動し始めたのを私は目にした。それは美しい行為で、このことを力づけるものだった」。

パレスチナの収監者たちにとって、ハンガーストライキは古くて、祝福された抵抗の形態(フォーム)である。1970年には、Ashkelon刑務所において収監者たちが15日間にわたって食事を取らず、一人の男が死に至って、現代におけるそうしたストライキの最初の例となった。1976年には、収監者たちは45日間にわたってハンガーストライキを継続した。何十年もの間、パレスチナ人は集団によるハンガーストライキを、彼らの権利を求める多くの抵抗の機会に行ってきた。最後に起きた大きなストライキは2011年の9月で、そこでは収監中に大学の学位を取得する権利が得られないということに抵抗した400人の刑務所収監者たちが含まれていた。そのストライキはその後に続いた何ヶ月間かの間に、イスラエルとハマスの間での捕虜交換の取引が成立したときに終焉したが…その時には2005年にハマスに捉えられていたイスラエル兵士の捕虜、Gilad Shalitの開放との交換という条件で、1,027名のパレスチナ人の収監者たちが解放されたのだ。

Adnanのケースは、その最も特筆すべき点として、特にこの「行政拘束」の制度そのものに対して抵抗したという点で、こうした過去のケースに対し際立った違いをみせている。
「それは、この人物一人の問題ではなかった」、とRamaanはいう。「このハンガーストライキは、行政拘束に脅威を与えていた。我々はこれを推し続けるなら、我々はこのことすべてを覆すことができるだろうと感じた」

Adnanのハンガーストライキはゆっくりと、より一層大きなレスポンスを生み出し始めた。パレスチナ地域ではデモが起こり始め、中東以外のメインストリームの報道メディアが、このストーリーを取り上げ始めた。しかしその一方で、イスラエル社会は何が起こっているかに対して気づかないか、関心のなさを示し、行政拘束の問題はイスラエルのメディアのなかでは論議されることはなかった。

「大半のイスラエル人は、パレスチナに関係のあることには何も関心をもたないのだ」、と、イスラエルの日刊紙Haaretzのシニア・コラムニスト、Akiva Eldarはいう。「人々は、(Adnanが)刑務所で死ぬことのリスクだけについて懸念した…それが彼らに対する、何らかの暴力行為を引き起こす可能性がある故に。イスラエル人に関する限り、Adnanが彼らに何の問題をも引き起こさない限りは、彼は(刑務所で)死ぬかもしれなかった」。

Adnanがハンガーストライキを終わらせるまでに1週間も満たなくなった頃、彼のハンガーストライキに、西岸地域のBurquin村から来た別の行政拘束者であるHana Shalabiが参加した。Shalabiは2年以上にわたって行政拘束を受けていた後、昨年10月にShalitとの捕虜交換で開放された収監者のうちの一人だった。Shalitの解放から4ヶ月たたぬうちに、彼女は30歳の誕生日の1週間後である2月16日深夜に、イスラエル兵らが彼女の家族の小さな家を急襲した時に、再逮捕された。
ハンストをする娘、ハナ・シャラビの
プラカードを掲げる母親

彼女の逮捕とそれに続く日々の彼女のハンガーストライキに対して、メディアの注目が加速的に拡大してゆき、人々からの支持がAdnanの周囲をも、奮い立たせた。このペアの実践しているハンストの行為にはその後、自分たち自身の行政拘束に抵抗するための他の10人の収監者たちが加わった。 「私は単に行政拘束と、我々(パレスチナ人)に対するすべての不当な逮捕に抵抗したかったがために、ハンガーストライキに加わった」、とShalabiは言った。「私は最初から、自分がこんなに長くやれるとは思っていなかった、だが、私の信念と意思、そして決意というものが私を継続させた」

Adnanによるハンガーストライキの66日目に、イスラエルの最高裁判所は行政拘束令について裁定を下し 彼の弁護士たちは彼の当初の刑期を、4ヶ月から尋問期間を差し引いた期間と定めるとの条件によって取引した。その時点が到来したなら彼が、新たに(提出される)代わりの証拠によって裁判を受けるか、あるいは解放される、という条件の下で。その取引はイスラエルとの(問題の)決着を容易にしてしまったものの、しかしおそらくそれはAdnanの生命を救った。イスラエルの重荷を除去することについてはいくらか批判もあったが、彼の弁護士たちは、これまで一度も法廷で真摯に問われたことのない、行政拘束の期間が設定(固定)されて、それが彼の素早い解放を保証することになるだろう、と感じた。

そのニュースは、彼女自身によってハンガーストライキの最初の1週間を継続していたShalabiの行動を終わらせた。次の数週間の間には彼女の行為がメディアの注目を喚起したが、目に見えた支持による真の成果は生じなかった。Shalabiにとって44日間の長い期間は、運動への機運やメディアの注目を惹き寄せるものだった。これらのすべての出来事を通じて、イスラエルはAdnanの取り扱いからも学びとり、拘束期間の間中にShalabiの家族が彼女を訪問することを禁止したり、弁護士や独立した医師とも接見することを制限していた、多くの戦術を変えるに至った。

「私はすべての肉体的・精神的なプレッシャーや、独房にも耐えねばならず、そして自分の周りで何が起こっているのかも自分でよくわからない中で、自分自身の運命を交渉(ネゴシエーション)した」、とShalabiは言った。

「最後には、彼女には余り自由な選択肢はなかった」、とAddameerのディレクターのSahar Francisは言う。「彼女は非常に悪い状態に陥っていた。彼女は44日間、ハンガーストライキをしていた。彼女にはプレッシャーがかかっていた。彼女は、彼女の拘束のケースが非常に深刻なもので、彼女が非常に長期間、行政拘束される可能性があるのでは、との恐怖を感じていた。こうしたすべての状況のなかで、どうして彼女にフリーチョイスがあるだろう?」

Shalabiのハンガーストライキは、彼女の弁護士、Jawad Bolousがイスラエル側と取引をして、即時の解放の代わりに彼女の3年間のガザ地域への追放を命じる、との条件を取り決めた後に、世間の論議の嵐が巻き起こったなかで、終えられる可能性があった。その後に続く日々に両者の属する側から告発が返されたのだが、そのなかにはShalabiの父親による、Bolousが彼の娘のことを勝手に操作している、との告発もあった。

*********

世間での論議にもかかわらず、AdnanとShalabiの解放は他のパレスチナの政治囚らが彼らに対する拘束に抵抗するための途を開く大きな勝利だとみなされている。2つのケースと、またそれ以外に今日もストライキを続けている人々のケースが、パレスチナの収監者たちのプロフィールを際立たせている。

「今日の、政党相互の間の関係はよくない」、と、1992年にパレスチナの史上最大の10,000人の収監者による協調行動のハンガーストライキを統率したPalestinian Prisoners Societyのリーダーの Qaddoura Faresは言う。「すべての党派が、どのようにハンガーストライキを行うかに彼らの独自のアイディアを持っており、彼ら相互の間にはもはや十分な信頼感というものがない。そこでは彼らが、それぞれの目的のために相手に利用されるのでは、との疑念がある」

マフムード・アッバス大統領によって出された声明では、彼は収監者による運動が党派ごとの分裂を生み、パレスチナ社会を苦しめないように、と焚き付けている。「収監者の抵抗運動においては統一を維持せよ、なぜなら、分裂や非合意が我々の故郷の地や、正しい運動に対してどう影響してきたかをあなた方は知っているはずだからだ」。

そしてさらに、大半のパレスチナ人たちは、彼ら自身を占領から解き放つ努力において、特に第2次インティファーダの時期における経験のために疲弊している。

彼自ら、「Release Marwan Barghouti(マルワン・バルグーティを解放せよ)」という運動のリーダーを務め、収監者問題担当省のチーフであり、収監者運動の組織化で長年の経験を持つSaad Nimrはこのように嘆く─、 「私はパレスチナ人たちに、孤立した事件で行政拘束に反対するデモ行動をとること以外は勧めることができない。我々は(その問題のポイントを)知っているし、我々はイスラエル人を知っている。我々は、デモがイスラエルの考えを変えさせられるとは信じられない」

しかし、おそらくすべての中で最も(彼らを)弱体化させている障害とは、構造的な…、イスラエルとの和平交渉の結果であるだろう。パレスチナ自治政府の本当の存在とは─ それはイスラエルとパレスチナの人々の間の緩衝物として機能して、占領者と占領される人々の間の緊張関係を緩和してしまい、そして後者に実質的に与えるはずの権利を何も与えないままでいる。パレスチナ自治政府はイスラエルによる占領の責任を吸収するばかりでなく、それは平均的なパレスチナ人からの抵抗への責任をも奪い取っている。パレスチナ自治政府の設立以前にはパレスチナ人たちは市民社会組織の広汎なネットワークを設立し、それが占領に対する集団的抵抗運動のバックボーンをなしていた。今日では、人々はパレスチナ自治政府が彼らの問題をイスラエルとの交渉を通じて解決するよう頼みにはしているものの、いかなる成果をも得てはいない。しかもパレスチナ自治政府は集団行動の喚起を嫌い、人々が彼らの権利のために路上で抵抗運動をすることには興味がない。

「ここには、ある種のスキゾフレニア的状況がある。あなたは占領に抵抗する人々を必要とするが、同時にあなたの指導者(リーダー)たちが彼ら(占領者)に会いに行くことも必要だ」とSaad Nimrは言う。「私は、パレスチナ自治政府が民衆の抵抗運動にとっての資産となり、それを支持するものへと、リフォームされて欲しいのだ。それは抵抗運動をリードする組織であった筈だ」。

現在のハンガーストライキの波が継続するにつれて、これらすべてが何に繋がるのかの判断は難しくなる。社会の他の側面と同様に、収監者の運動はパレスチナ自治政府、収監者問題担当省とその他の関連のシンジケートによって広汎に吸収されてきた。しかし、和平交渉の崩壊とともにパレスチナの政治は変化への絶壁に立たされて、そしてこれがいかに大衆的な抵抗運動の広がりに影響するかも、不明瞭だ。現在の事実上のパレスチナの首都のなかのRamallahで、Adnanは何かを打ち樹てようとした男であるかのように語る。彼は解放の夜に群衆に向かって演説をし、政治的党派のラインによる分裂の噂を払いのけて未来への展望を語り、集団行動の必要性について包括的に語った。

「今や、パレスチナの刑務所収監者たちの受けている苦悩をより一層、露わにすることが私の義務なのだ」、とその後AdnanはNational紙に語った。「この闘争は私の家から、私の村から、私の人々から始まった。それは草の根のレベルと、そしてオフィシャルなレベルで、西岸とガザで、(歴史的なパレスチナと)そして世界中のすべての自由な人々に向かって、収監者についての言葉として広めねばならない。この問題を、これ以上見過ごすことはできない」

その問題の固有の挑戦が巨大であるにも関わらず、Adnanが切り開いた端緒とは、意義ある変化を推進するのに必要なスペースをもたらすかもしれない。来りくる日々に、個人のハンガーストライカーたちの最近のラウンドが終着に達して、イスラエルが彼らを解放するか彼らを刑務所で死なせるかの選択をすれば、その結末はこの地域内と海外の双方にとっても大きなものとなるだろう。 「4か月にわたってパレスチナの収監者たちは、彼らの拘束への抵抗を行った」と彼は反逆精神で語った。「この占領を揺るがすには、何千人もの人間は必要でない、それには真の信念を抱いた10人が居れば充分なのだ」
Palestinians holding Khader Adnan's poster
カドゥル・アドナンのポスター
http://www.thenational.ae/arts-culture/hunger-strikers-shake-foundations-of-israeli-justice-system#full

ハンストのパレスチナ政治囚とイスラエル刑務当局が待遇改善で合意(5/14, JSR)

 イスラエル刑務当局は、パレスチナ政治囚がハンストの終了に同意したと述べた。
 パレスチナ囚人クラブの幹部筋も、当局と囚人グループの間で協定が成立したこ
とを確認した。刑務当局との交渉団のメンバー、サーレフ・アルーリ氏(ハマース幹部)によると、同当局は、行政拘留による投獄者のリストを提出し、期限終了時に彼らを釈放する(延長措置を取らないこと)ことに同意した。また、「パレスチナ情報センター」(ハマース系)のサイトは、エジプトの仲介のもと、対象の囚人すべての独房拘禁を72時間以内に解除することをイスラエル側は認めた。
  さらに、イスラエル側は、ガザ地区からの囚人家族の訪問を認め、また、「シャリート法」を撤回する。同法は、捕まっていたイスラエル兵、シャリート曹長の
釈放圧力として、パレスチナ囚人への家族の面会や学習の便宜(著書の差し入れ
 など)を厳しく規制するもの。
  行政拘留問題では、刑務当局と囚人代表団の間で意見の対立が続き、激論が交わされたが、エジプトの情報幹部の介入でぎりぎり妥協が成立したという。
  77日の長期ハンストを続けている、ビラール・ディアーブ氏(27)とサエル・ハラフラ(Thaer Halahla)氏(33)の弁護士によると、2人は、行政拘留期間切れまで絶食を続けると語った。(その後、長期絶食の囚人は、弁護士の説得でハンスト中止に同意、民間の病院に収容された。5/15 Maan News)
   イスラエルの監獄では、4月17日からパレスチナ人の集団ハンストが始まり、約2000人(Maan News、Haaretzによると1600人)が約1カ月間絶食、一部の囚人は、以前からのハンストを続け、40日以上、最長77日に渡っていた。アムネステ ィ・インタナショナル、人権のための医師団=イスラエルなど内外の人道団体、EU、国連などが憂慮を表明、早急の囚人待遇改善を求めていた。PLO執行委員のハナーン・アシュラーウィ教授は、合意成立は非暴力抵抗の力を証明したと述べ、「この勝利は、囚人だけでなく、その家族、占領下とディアスポラにある、すべてのパレスチナ人の勝利だ」と語った。
  クネセト(イスラエル国会)は8日に、安保関係を含むすべての囚人の人道的待 遇を求める法案を、第2、第3読会で承認している。(5/14 Haaretz, Maan News)

Monday, May 7, 2012

サルコ王の首と一緒に去れ…Off with King Sarko's head - By Pepe Escobar


サルコ王の首と一緒に去れ By ペペ・エスコバル(5/5、Asia Times

 彼は、リビアでの偉大なるスペクタクルにおいて、新帝国主義 neo-imperialismによる解放者として振舞った─ 彼の2007年の大統領選でMuammar Gaddafi大佐が彼に6500万ドルのクールな資金援助をおこなってからわずか数年後に。

 聖なる(カダフィの)幽霊と、ニューヨークのアフリカ人ルームメイドとのあいだのミステリアスな同盟から得た利益で、彼は再選のための大統領選から、阻止不能な挑戦者だった、IMF総裁にして国際的なセックスマニアのDominique Strauss-Khan.を排除することができた

 そして未だに、この日曜日にフランスの有権者たちは─Facebookスタイルのバスティーユ牢獄陥落によるリミックス状態のなかで…叫ばずには居られずにいる、「あいつの首と一緒に消えろ」と。

 なぜかって?傲慢のせいだ。フランス大統領Nicolas Sarkozy、またの名を、新ナポレオン風のKing Sarko、元・成金趣味の王でイタリアン・ファースト・レディのCarla Bruniの「お気に入り」…それは彼自身にとっての最悪の敵なのかも知れない。

リッツ風のライフスタイル A Ritzy lifestyle


  Bashir Saleh は元Gaddafiの参謀長で、リビアのソブリン債ファンドの社長だった。彼はその政権が2007年のSarkozyの選挙キャンペーンに資金を援助すると決めたとき、頼りにされた男だった。

  予測に違わずKing Sarkoはそうしたことについてはすべて否定し、すでに多くの人に周知のその件を暴露したフランスのウェブサイトMediapartを告訴すると言った。しかしこの木曜日にリビアの前首相Baghdadi Ali al-Mahmoudi はそのことをすべて再確認した。それは、Gaddafiの息子で元・London School of EconomicsのダーリンだったSaif al-Islam20113月に言ったことと、全く同じだった。「Sarkozyは、リビアから彼の選挙キャンペーンのために受け取った金を返すべきだ」、と。

 Salehは今やインターポールの監視下にあるが…彼は、さもなくば4月までは彼を追いかける役割にあったはずのNATOの反乱軍政権による滞在認可を得てフランスに残っている。彼は偶然にも、モンブランを眺望するこじんまりした心地よい400万ユーロ(5200万米ドル)の住居をスイス国境付近に維持している。

 彼はそうした生活状況はすべて「リビア〔暫定政府〕の大統領、Mustapha Abdel Jalilの同意の元に進行していることだ、と語ったKing Sarkoの警察によってまもられている。人生はすてきだ…今週Salehはパリのリッツ・ホテルにおいて目撃されている。

私の票はCarlaに投じる My vote is for Carla

 フランスの大統領選キャンペーンは今週、King Sarkoと社会党の挑戦者Francois Hollandeとの間のディベートにおいて、おなじみの(いわゆる)期待はずれの結果に達した。その画面には3兆バイトのアクセスが集中したが、それはそのディベートが本質的に「はりつめていた」ことを示した。ノックアウトシーンはなかった。SarkoはコカインをやるDuracell bunnyのように振る舞い、いっぽうHollandeは─乾燥したソーセージの如きカリスマで─実際のところ堅固であり、相対的な精確さをみせていた。

 嘘は止まるところを得ずに噴出した。Sarkoは自らの雇用創出の実績を弁護した。20074月に、彼は5年の大統領任期後には失業率をわずか5%に抑える、と公約していた。今日フランスの都市圏のアクティブな人口の失業率は、9.4%に達する。Sarko5年間の後、フランスの失業率は100万人増加した。


 カフェで出されるお好みのマカロンのように、中道派のFrancois Bayrou ─選挙戦の初盤で9.1%の票を獲得した─はSarkoのキャンペーンを極右派を誘導して撃退するとのマニフェストを発し、彼自身Hollandeに票を投じるとも宣言した。
そんななかで、フランスの有権者の33%以上は予備選の投票に参加せず、その代わりにトップモデルのCarla Bruniの容姿の地政学的な効果(悪影響)に注意を集中していた。

  予備選の本当の勝利者(それは有毒な政治的ヘルファイヤー・ミサイル以下のものではない…)とは、抜け目のないビジネスウーマンのMarine Le Pen…つまり、同党の創立者で証明書つきのファシストのJean-Marie Le Pen.の娘…を通じて「正常化」されたフランスの極右派National Front18%の票を獲得した)なのだった。

 1980年代以来、ヨーロッパの極右勢力において拡大するNational Frontの影響力はただただ驚くべき物だ。癌はそこらじゅうに広まり、フランスからイタリア、英国、ベルギー、オランダ、オーストリア、ハンガリー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、そしてギリシャにまで広がっている。

 外国人嫌悪とイスラム嫌悪は健在で、恐ろしい危機に絡め獲られたヨーロッパ全土に拡大している。オーストリアでは、カリスマ的なJorg Haiderの何年もの政権の後に、極右がいま全面的に正常化し合法化された。オランダでは超イスラム嫌いのGeert Wildersの元に、PVV(Partij voor de Vrijheid - Party for Freedom自由党)が2010年の選挙で24%の議席を獲得して保守連合政権の一部となったものの、それはまた最終的に崩壊した…再び、Wildersのせいで。 スカンジナビアでは極右が大手をふるっている。


たとえばスウェーデンでは、Swedish Democratsスウェーデン民主党(ジョージ・オーウェル風で素敵なタッチだ)が、史上初めて議会に進出した。 ヨーロッパでは、極右主義者ほど悪く振る舞えるものはない:それはグローバリゼーションや「茶色人」や「黒人」の移民たちを激しく罵り、腐敗したエリート層を非難し、イスラムを悪魔呼ばわりし、危機のなかでのナショナル・アイデンティティ維持を警告する…多文化主義(multiculturalism)の横行のせいで…そして本質的に「反システム(反体制)」を標榜する。それはまるで、ナチスドイツの亡霊がフランスの南からカルパチア山脈に飛来してきているようだ。

極右政党が国の有権者票の15%をとっても不思議ではない、保守政党は慌てて政策を修正しようとする。それはまさしくKing Sarkoがフランスでやろうとしたことだ─1次選挙を失って、彼は狡猾なMarine Le Penが「共和国にも比較される」といった。しかしそうはならなかった、なぜなら何百万もの有権者たちのなかに実際、別の怒りが醸成されていたからだ…彼らのEURO嫌いというものが。

Europhobes, unite EURO嫌いたちよ、団結せよ

EUROゾーン危機は、国々が財政破たんするノン・ストップの正統的「緊縮経済」、失業、格付け会社の鉄槌、予算担当のテクノクラートたち、拡大する経済的な恐怖、何百万のフランス人たちは他のヨーロッパ人たちと同様、ブリュッセル(EU本部)を非難の対象とした。そしてKing Sarkoはたまたま、憎悪の対象のエリートの一部だった…理論上ではヨーロッパを「救おう」とした、ドイツの首相Angela Merkelとの「Merkozy」カップルの50%(片割れ)として。

それゆえに金ぴかキングのもう一つの問題は、彼が政治的・文化的・社会的プロジェクト─彼のヨーロッパのビジョンを全く売れなかったことだ。あるいは最低でもいかにして危機後のヨーロッパ(post-crisis Europe…その危機はまもなく消えると仮定して)を再創造するかを、指し示せなかったことだ。 Hollandeは冷えたキュウリのようなものかもしれず、彼の処方箋は「時代遅れ(期限切れ)」かもしれない─King Sarkoとエコノミスト誌が批判したように。しかし少なくともこの社会主義者のフランス政権復帰はすべてのチェス盤を揺り動かすだろう。 EU連合は強制的に、仏独の枢軸をその「post-Merkozy(メルケル・サルコジ後の)」の段階に再検討せねばならないが、しかしその枢軸は実際にヨーロッパ全土を支配している。

パリとベルリンには「継続」について多くの論議がある。それは前にも(仏大統領の)Giscard d'Estaing仏大統領と(独首相の)Helmut Schmidtの間にも、Francois Mitterrandと Helmut Kohlの間にも起きたことだ。 しかし、真のチャレンジとはHollandeの政権がより社会的で平等主義的なヨーロッパのために何ができるかだ。エコノミスト誌(それはロンドンのシティの金融業の利益を代弁するが)は、King Sarko(フランスだけでなくヨーロッパも「救おうと」していたが、それはナンセンスなのだ)にとても遺憾の意を表していた。 さらば金ぴか男─いい厄介払いだ。  (後略)


ニコラス・サルコジよ、退場せよ(Exit Nicolas Sarkozy) (5/7、NYタイムス) 

フランス大統領  Nicolas Sarkozyがまもなく、エリゼー宮を明け渡すことの理由はいくつか存在する。彼のカラフルなライフスタイルは彼に、右派への投票率が増すという危険を冒させ、彼のおこなった移民反対論者(移民バッシャー)たちへの迎合は彼に、左派への投票率が増すという危険を冒させた。しかし日曜日(5/6)の選挙で彼のこうむった大幅なロスの圧倒的な原因とは、ヨーロッパの金融危機への処方薬としてドイツの首相Angela Merkel が拵えた痛みの多い非生産的な緊縮政策に、Sarkozyが温かい支持を与えたことに対する反感だ。

僅差で勝利を得た、外見的にぱっとしない社会党候補者François Hollandeは、その代わりに、政府の支出と徴税の能力を復興と経済成長へと向けるように要求した。

地域の問題の解決には何でも一つのサイズの政策で対応できるといった回答を万能だと信じて、政府支出の急激な削減を好む政治家たちを拒絶したのは、フランス人たちだけではなかった。ギリシャでの日曜日の議会選挙で有権者たちは、今年はじめにドイツが広く提唱した(財政危機の)レスキュー・パッケージ(1710億ユーロの緊急融資の代わりに、経済成長率をとめる歳出カットを行うとの要求を含んでいた)に賛意を表していた2つの主要政党の候補者らを敗退させた。

そして、そこには選挙の無視しえない暗い側面があった。外国人嫌い(Xenophobic)のメンバーがナチス式の敬礼を行う極右政党、Golden Dawnは史上初めて、議会進出を可能にする21議席を獲得した。

Merkel女史が、容赦のない緊縮政策には効果がない、と認めようと準備している兆候はいまだにみられない。月曜日に彼女はHollande氏の選挙結果を歓迎して、「成長」は「進歩」のために必要だと述べた、しかし彼女は、Sarkozy氏の助力により構想した緊縮政策協定には「交渉の余地はない」、と言い張っている。

  Hollande氏はすでに、フランスの経済政策をリストラクチャリング(再構築)するつもりだ、と表明している─政府プログラムの刺激策によって成長と雇用を促進しつつ、富裕層と大企業に増税して国の負債に挑戦すると。その勝利宣言のなかで彼は、新たな経済協定を検討し、ヨーロッパにとっての「新たな方向」を模索するとも誓った。彼は明らかに、ドイツの政治家らを視野から外しつつ、主要な真実を掴んでいるようだ─ギリシャと他の諸国が、労働市場をリフォームして国家予算のコントロールの回復と取り組まねばならぬなかで…彼らは経済成長を許されることなしに、負債を再び支払うことはできない。

米国の経済は、大方のヨーロッパ諸国よりもよい状況にある。しかし、緊縮政策に関する議論はここでも続いている。それなら、共和党議員Paul Ryanの緊縮予算案を支持した上院の共和党議員たちにとって、警告は存在するのだろうか?そして、彼らの政党の大統領指名候補となりそうなMitt Romneyにとっては?財政赤字をコントロールすることは重要だが、過度の緊縮財政を早急にやりすぎることは経済回復を停滞させ、悪ければ生命を破滅させる。ヨーロッパの鈍い成長の数字がそれを証明しているのだ。そしてヨーロッパの有権者たちは、それを見出しているのだ。
http://www.nytimes.com/2012/05/08/opinion/exit-nicolas-sarkozy.html

*「フランス大統領選挙の本当の勝者はヨーロッパの極右勢力だ」
 (Newsweek日本版・5.16号に日本語訳が掲載されている記事)
France’s Turn for the Worse - Europe's far right is the true winner of Frane's presidential election-
By Yascha Mounk
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/foreigners/2012/05/europe_s_far_right_is_the_true_winner_of_france_s_presidential_election_.html

Monday, April 30, 2012

「猫とネズミ」を演じる米国とパキスタン US playing cat and mouse with Pakistan - By Karamatullah K Ghori


Hafiz Mohammad Saeed
「猫とネズミ」を演じる米国とパキスタン  By カラマトゥラ K. ゴーリ(4/22、Asia Times)

 4月2日に悪魔がその時を得て…米国が、2008年の11月に武装グループがムンバイの街を襲撃し、7人の米国人を含む166人の命を奪った騒乱の影の黒幕としてインド政府が訴えている、Hafiz Mohammad Saeedの首に1千万ドルの懸賞金を懸けると宣言した。

Saeedの纏っている宗教的な外衣、Jamaat-ul-Dawa(伝教党Party for Propagation)はしばらくのあいだワシントンのテロ組織の指定リストにも載り、国連の作る同じカテゴリーのリストにも挙がっていた。Dawaは、Saeedがインドのカシミール支配に対抗する武装闘争のために設立し、2002年にはインド議会場への攻撃に関与したとして非合法化されたLashkar-e Taibaの後継の組織だ。

Saeedの逮捕や告訴につながる情報の提供に対して、ワシントンがこれほど高額の懸賞金を懸ける決断をしたとのニュースは、インドの首都New Delhiを公式に訪れていた米国務次官、Wendy Shermanによってリークされ、世界に報じられた─ それはSaeedをワシントンの「お尋ね者リスト」に掲載させ…アルカイダのリーダー・Ayman al-Zawahiri (2千5百万ドル)のみに次ぐ、世界で2番目に高額な懸賞金付きの者とした。

それは単なる偶然なのか…一種の臨床的なシンクロ現象の実例なのかは不明だ…4月8日にSaeedに対する懸賞金の件が新聞の見出しを飾ったちょうどそのとき、パキスタンのAsif Ali Zardari大統領 は丸一日かけて「個人的に」インドを訪問し、贖罪のために、Ajmar市のスーフィ派の聖人Khwaja Gharib Nawazの聖廟を巡礼に訪れていたとインド人らは外部世界に報じたのだ。
それは、陰謀の要素がこの事件にそっと忍び込み、外交問題の論客たちに疑問を抱かせた点だった…ワシントンが思いがけないイニシアチブで…ムンバイ・テロの主軸の役割を担った咎でインド政府が照準を定めてはいるが、米国の照準範囲にはなかった男の首を狙う、と宣言したことには…何らかの繋がりがあるのではないかと。

彼はまた、パキスタンの定める照準の中にもいなかった。2009年にSaeedが、ムンバイへの攻撃に関与したとの容疑で自宅軟禁された事への異議申し立てに勝訴し、パキスタンの最高裁は彼を解放するようにと命じていた。

米国の国務省が懸賞金に関する宣言を発した丁度一時間後、Saeedは、パキスタンのGeoTVに出演していた。彼は、彼が自由な人間として─パキスタンに住んでおり、米国政府の担当者との対話にはいつでも応じると宣言した。 「彼らは、私をテロリストと呼ぶ。だが、私は裁判所に行って、彼らに私に関する結論を出すように申し入れたのだ。インド政府は私に対して4通の事件調査書類を送ってきた。その案件の審理には、6ヶ月かかった。そして上級裁判所における判事全員が、私も私の組織も、ムンバイの攻撃や(あるいは、その他のいかなる)テロリスト活動にも何ら関わっていない、との結論を下したのだ」─Radio Free Europeと、Radio LibertyはSaeedに関して、そのように報じていた─

ザルダリ(大統領)は、多くのパキスタン人にワシントンの信奉者だとみられていて人気がない─彼の前任者のペルベス・ムシャラフ大佐が、最もそう目されていたときよりもずっと。彼は米国のカバン持ちとしてパキスタンの国益を犠牲にしながら、彼の米国の主人に卑屈な忠臣のごとく無条件に服従しているとみなされて、軽蔑感の槍玉にある。

「メモ・ゲート(*)スキャンダル事件」は、未だに上級司法機関の審議の最中だが、それはパキスタンの大衆に、彼らの大統領がワシントンの軍官である…とのより大きな疑いをもたせている。この論議は、米国の統合参謀本部議長、マイク・マレン(Mike Mullen)提督に宛てて書かれたメモをめぐり、渦巻いているものだ…そのメモでは昨年5月のパキスタンでの米軍のオサマ・ビン・ラディン殺害のあと、パキスタンで軍部が同国の文民政府を乗っ取ることを阻止すべく、バラク・オバマ政権にあからさまに助力を要請しており…また同時に、ワシントンの政府インサイダーが同国政府と軍部の機構を乗っ取るように促すようにも提案しているそのメモの草稿は、ザルダリの依頼で書かれたともされている。(* Memo-Gate パキスタンの「メモ疑惑」スキャンダル

メモ・ゲートの主要なキャラクター、Mansoor Ejazはこう主張し火に油を注いだ…ザルダリは、彼の米国の操作役(ハンドラー)たちからビン・ラディン暗殺の隠密作戦に関して内報を受けていたのだと。このことは当然ながら、論客たちに疑問を持たせた…Saeedへの懸賞金についての発表というのは、ザルダリのインドへの「巡礼」訪問を容易にするために行われたのか、あるいはそれに影を落とさせるべくなされたのか?と。

ザルダリの聖廟への計画的訪問は、多くの人の眼にイチジクの葉(隠蔽目的の物)より以上のものではない、とみなされた…そしてまた彼がAjmerに赴く前に行ったManmohan Singh(インド首相)とのDelhiにおける会合は、そのことによる成果にも大いに便乗していたのだろう、と。

ザルダリは、ムシャラフ(前大統領)が7年前に、観光客のメッカである健康に良い保養地アグラの有名なタージ・マハール寺院の陰で、彼らの元に残した小片を、拾い集めようと試みることだろう。多くの論客たちが、ザルダリの「巡礼」外交とは、ムシャラフが気難しい近隣諸国との連帯を修復しようとした「タージ」外交の遅ればせながらの延長だろう、とみなしている。
 
  2005年にムシャラフが当時のインド首相、Atal Bihari Vajpayee(アタル・ビハリ・バジパイ)と会合した折には、宿敵である両国リーダーらにとって、残る課題が細部への配慮となった最後の瞬間に交渉が決裂したが…それは大きな解決策のブレイクスルーを得る寸前だった。
  両国は平和の流れを拾い上げることに真剣で、新たに刷新された活力と目的意識を抱いているようにみえた。
 
パキスタンはインドとの和解と関係正常化の途で大きな一歩を踏んだ…宗教的な右派勢力からの大きな反動にも関わらず…インドに「最恵国待遇」のステイタスを与えることで、その疎外された隣国との間の貿易・経済関係における巨大な振興策を講じ得るという利益を見出して。

ザルダリが、Delhiから幾つかのポジティブな勇気付けのシグナルを送られ、パキスタン大統領としてインドへの初訪問に乗り出したのは理解できるが─彼は、闇の中で充分に跳躍することができなかったのだ…特に、パキスタンのビザンティン風な政治文化の頂点での彼の謎めいた役割が、多くの疑念に取り囲まれているなかで。
Asif Ali Zardari
論客たちは両国間の国民相互の旅行を飛躍的に容易にするビザ関連の新たな合意が、ザルダリとマンモハン首相との会議で合意されるだろう、との見方で一致している。それは、関係正常化のキーポイントと常に言われる通り、人々同士のコンタクトのほんの小さな促進材料となるだろう。
しかし予言者たちはインドの抱える他の二つの棘だらけの問題、つまりSiachen と Sir Creek両地方の領土紛争問題…において、折れるよう説得されるだろうとも言う。それは合意の補足的な例外条項の部分さえもが、何年も前から準備されていたものなのだが…1980年代末に、故・Rajiv Gandhi や故・Benazir Bhutto が政権の座にあった頃からすでに。

"great divide(大いなる断絶)"といわれるこの両国の軍司令部の…その仕事にスパナを投げ込んでいる司令官たちは、今や彼らの鼻先を超えた先を見たがっていると信じられているが─パキスタン主導の貿易自由化は、軍の司令部が留保を解いて政治的な事柄と足並みを揃えないことには、実現しない。

しかしながら、カサンドラ(凶事を予言する者)たちは…Saeedと他の同類の者たちをムンバイでの犯罪の責任者として充分に名指ししない限りワシントンのSaeedに対する懸賞金がザルダリのDelhi訪問のアジェンダに強いも悪影響を及ぼすかもしれず、インド政府がパキスタンに集中させる不平不満をも再燃させるかもしれない、と懸念している。

この懸念から得る儲けの種とは、Saeedへの懸賞金の動きを騒々しく歓迎するインドの官僚たちの、ほとばしる熱意なのだ。その懸賞金がパキスタンからの…冷たくはなくても中途半端に生ぬるい反応を招いたのは、驚くまでもない。同国の大衆感情はワシントンがあからさまにパキスタンの腕をひねり上げ、その領土内にNATOが設けている物資輸送の中継拠点のもつれた問題への非難を和らげるように画策していると感じている─その陸の回廊は、昨年11月に米国がアフガン国境近くの部族エリアで行った襲撃で24人のパキスタン兵を殺害した事件以来、凍結されているが。

パキスタンでは、議会がいまだにNATOの設備の再開の是非について、審議を続けている。しかし民衆の間には、ワシントンが近日中にパキスタン兵士の殺害に関する無条件な陳謝を行わない限りそれを再開すべきでないとの、完璧なコンセンサスがある。

飴とムチ政策では強硬なムチを行使する方針第一へと傾いたワシントンは、この二つの「同盟国」を、辛いコーナーから救い出そうと考えてくれるかもしれないパキスタンのエスタブリッシュメント(既成権力)に対して、その方針だけを貫いて留まるしかない。同時に米国人のそのようなドラマチックかつセンセーショナルな動きは、パキスタンの民衆の間での反米の御旗をより一層高めるだけだ。右翼的な宗教政党はすでに大衆の狂騒を焚きつけている─Saeedはポピュリストたちの反米運動の真只中にあり、彼の首に懸賞金をかけることは怒れる雄牛に赤い布を見せるのも同然なのだ。
http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/ND06Df02.html


米国の懸賞金は、パキスタンの武装派リーダーを捉えられるのか?
 …通常は、政府が懸賞金を告知した場合にそのお尋ね者は隠れているため、発見するには一般大衆の助けが必要となる。 しかし4月2日にワシントンが、Hafiz Mohammad Saeedの逮捕や訴追に繋がる情報に対して宣言した1千万ドルの懸賞金の場合は、その型を破っていた。 Saeedはワシントンとニューデリー双方からのお尋ね者となるだろう…インド政府は彼を、2008年の166人の犠牲者を出したムンバイのテロ攻撃の首謀者として欠席のまま訴追している。しかし彼は彼の住むパキスタンではお尋ね者にはされていない
 Saeedはパキスタンでお尋ね者でないだけでなく、定期的に公的な場にも出ている。4月3日、彼は首都から約1時間ほど北のAbbotabadで、彼の組織の集会を催した。
 パキスタン政府でさえも、ワシントンによる彼への懸賞金告知には不意を突かれたようだった。「われわれはオフィシャルなチャンネルから、何の知らせも受けていない。外交チャネルからも。それゆえ、私はオフィシャルなコミュニケーションを通じた連絡を待つべきだと思う」と、4月2日に内務大臣Rehman Malikは述べた。
ワシントンは国務省のRewards for Justice programのサイトで懸賞金を告知している
http://www.rferl.org/content/us_bounty_for_pakistani_militant_leader/24537868.html

パキスタンが米国の新たな懸賞金に咳払い

 …理論的には、米国の懸賞金はSaeed氏の所在というものを、アフガンのタリバンのリーダーMullah Muhammad Omar(パキスタンに住むとの噂の)の現住所と同じ位価値あるとものする筈だ…しかしタリバンのリーダーと異なり、Saeed氏は堂々とLahore市内に住み、先週にはパキスタンの首都Islamabadでの反政府運動にすらなんとか顔を出した…警察がそこに出させまいとした努力にも関わらず。
 
 そしてまた最高200万ドルまでの懸賞金がHafiz Abdul Rahman Makkiの拘束に対しても賭けられたが彼はSaeed氏の義理の兄弟だ。これは彼を米国の「武装派お尋ね者賞金リスト」の39番目に押し上げた。米国の告知後1時間足らずの内にSaeedはその考えをからかい、彼と彼の親戚が潜伏する家でAl Jazeeraの電話取材 http://www.aljazeera.com/news/asia/2012/04/20124314501346522.html に答えた、「我々は我々の発見にかけられた報奨金のために洞窟に隠れてはいない。我々はパキスタンの何百、何千もの人々に毎日語りかけているのだ…」
 もちろん、その61歳の元エンジニアリングの教授が最近、パキスタン全土での集会で演説した映像 http://youtu.be/JrDX6wKlWFM を探すのも容易だ。Saeed氏は米国の即時撤退を主張するデモを行う非合法化されたジハーディストのグループ、宗教政党や保守派政治家ら等の、新たな連合組織の主導的人物として台頭してきた。

Pakistanmp治安本部のあるRawalpindiでの1月の集会で、Saeed氏は軍の強力な諜報機関ISIの元・長官Gen. Hamid Gulを含む元軍人らに程近いステージの横で、Financial Timesの記者インタビューに答えているhttp://youtu.be/5Np_GD3MwEs Gen.Gulは1987年から89年に、パキスタンのスパイとCIAがソ連軍と戦うアフガン武装勢力を支援していた当時ISIの長官を務めた人物だった。2010年にWikiLeaksが入手した米国の秘密の軍事フィールド・レポートによれば…退官したGen.Gulは近年になって、対ソ連戦争時代のリーダーたちと協力していた疑いがもたれるが…それらのリーダーらの、何千もの武装勢力ネットワークは最近アフガンで米軍と戦っている…(後略)
http://thelede.blogs.nytimes.com/2012/04/03/pakistani-scoffs-at-new-u-s-bounty-on-him/


非合法のリーダーら市政府に困難の時を強いる
…6時間にわたり、非合法化されたAhl-i-Sunnat Wal Jamaat (ASWJ)のリーダー、Maulana Mohammad Ahmed Ludhianviと、Jamaatud DawaのチーフHafiz Saeedが火曜日にイスラマバードの警察と猫とネズミ・ゲームを演じた。彼らは現れては消え、止められては解放されて…スペクタクルを見ようと群衆が集まり、交通渋滞が続く中で、車に乗車中行く手を阻まれては、彼らの武装ガードたちに保護された。
Ludhianvi
弄ばれて真っ赤な顔をした警官たちが遂にようやく交渉の末Maulana Ludhianviを捕まえたが、Saeedは逃げた後だった。 彼は警官の苦情PPC section 188の規定で産業地帯の警察に移送されたものの、数分の内には市政府が彼に保釈金を与えた…
http://dawn.com/2012/03/28/banned-leaders-give-tough-time-to-administration-2/
 How childish are they?..

Saturday, April 28, 2012

Memo-Gate パキスタンの「メモ疑惑」スキャンダル



年11月にパキスタン軍のクーデターを懸念したメモの疑惑事件は、いまだ裁判所審理のもとにある

   メモ・ゲート事件とは…パキスタンの元駐米大使Husain Haqqaniの意向で書かれたとされ、オバマ政権の統合参謀長のマレン提督に密かに渡されていた大それたメモにまつわる疑惑の話。メモの存在が知られたのは2011年10月にパキスタン系米国人ビジネスマンこと、マンスール・イジャズがFinancial Timesに寄稿したからだという。Haqqani元大使は、メモの件への関与を否定し─彼は金持ちのビジネスマンのイジャズ自身がそれを書き、米軍上層部の提督に渡るようはかったのだろうと主張しつつも、大使の職を辞任せざるをえなかった…イジャズは、そのメモは友人づき合いしていたHaqqani大使の言葉を自分が書き取ったと証言。

Mansoor Ijaz
 …メモの内容とは、ビン・ラディンの殺害後パキスタンで高まった安全上の「危険事態」を懸念し、「パキスタン軍部にクーデターなどの瀬戸際政策をやめるようにと米政府から強い直接的メッセージを送るようにリクエストした」ものだった…


 またそのメモは、パキスタンの諜報部ISIの最も韜晦で怪しげな一部門を米国のコントロール下に置くようにとまで進言。
 マレン提督はそのメモは信憑性を疑い何もしなかったという… それは「パキスタンの文民政府が半世紀以上もその国を支配する軍との勢力争いにあって、米国を彼らのサイドに呼び寄せようと」したものだとか。
  ─イジャズがFifnancial Timesに寄稿した記事は、ISIの怪しい部門について次のごとく触れていた

パキスタンのジハード戦士のスパイを捕まえる時だ  (抜粋)By Mansoor Ijaz (2011, 10/10 Financial Times)

…2011年9月22日、上院の軍事委員会でMullen提督はこうのべた、「信頼できる諜報筋からの情報によれば、おそらく2011年9月11日に、77名の米軍及びNATO兵士を負傷させた爆破テロ事件と、9月13日のKabulの米国大使館への攻撃とは ISI(パキスタン諜報部)のサポートでなされたものと思われる」

彼はまず、それがパキスタンの諜報部門が米国に秘密裏に戦争をしかけていたのがその実態だ、と述べた。おそらく、ビン・ラディンの住居への襲撃作戦に対する報復に…そしておそらくタリバンをアフガニスタンで復権させて、再びインドに対する「戦略的縦深(strategic deapth)」を回復しようの同国が常に抱くパラノイア的安全政策による戦略的国家利益のために…。

このところ、ISIのパキスタンでの役割についての疑問が喧しく取りざたされてきている。そうでなければ説明のしようのない多くの攻撃が、ISIの陰の姿のいわゆる「S-Wing」と関連があるのではないか、と論じられている…その部門とは、彼らだけがパキスタンの領土的な統一を守れると信じている、狭い…怪しげなナショナリストたちの権益を推進する組織なのだ。

今や米国の国務省は、「外国政府系組織が手を染めている」などと名指しされているテロについて、それはS-Wingがスポンサーとなって行っている、と宣言すべきときだ。オバマ政権がHaqqaniネットワーク(*)をブラックリストに載せるという計画とは、牙を失った計画にすぎず、そうしたグループへの軍事的なサポートや諜報ロジスティクスに対しての何らインパクトもない。これを主に行っているのは、S-Wingなのだ。ISIはわざと盲目の振りをしているのか…或いは彼らと共謀しているのか、それともS-Wingの実行する攻撃に対して無力なのかはもうどうでもいい。S-wingの行為は、阻止されるべきなのだ(*Jalaluddin Haqquaniのもとにパキスタン・アフガン国境地域両側に勢力を張る反体制的部族ネットワーク)

ISIは、過激主義による惨劇がパキスタンの外交政策の要にある状況を体現している。米国にとってはいまやパキスタンでの、グローバルなアンチ・テロリズムへの努力を全て損なってきたパキスタンの政府系組織への政治的、財政的なサポートはやめるべきなのだ(後略)
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/5ea9b804-f351-11e0-b11b-00144feab49a.html#axzz1tphSbqm8

*かつて怪しいMusic videoにDJ役で出ていたイジャズはYoutubeの視聴者に発見された(右)イジャズの言及しているISIの「S-Wing」などは存在しないともいい真偽のほどは定かではないが、しかし根も葉もない噂と当初評する人もいたクーデターの動きの話に関して12月22日にパキスタンの首相Yousaf Raza Gilaniが警告を書いた 
 
パキスタンの首相が軍の陰謀について警告 Pakistani Premier Warns of Plotting by By SALMAN MASOOD (12/23, NYtimes)

  パキスタンのYousaf Raza Gilani首相は木曜日に、同国で強い力を持つ軍を激しく叱責し、文民政府に対して企まれた
陰謀について警告を放った。彼の非難は、米国による急襲にオサマ・ビン・ラディンを殺害されたことで恥辱をこうむったその後に軍がクーデターを企んだ可能性がある、との噂が渦巻いている件に、スポットライトを当てた。

 普段は物柔らかな政治家のGilaniは、木曜日に「選挙で選ばれた政府を終わらせようとの陰謀がある」と批判した。その後の議会演説で彼は、政府はこれまでビン・ラディンの件を含む幾度かの危機にも軍をサポートしてきたが、その同じ軍司令官たちが、文民政府に対して背を向けたのだといった。
 「彼らは国家の中の国家にはなりえない」、「彼らは議会に対して回答する義務がある」。


 一方パキスタン軍のチーフGeneral Ashfaq Parvez Kayaniと、ISIのチーフLt. Gen. Ahmad Shuja Pashaは、最高裁判所がメモについて調査すべきだと主張した。 





Husain Haqqani
先週には英国のThe Independent紙が、さらなるヒントに溢れたブログ記事を掲載して、さらに怒りが助長された。その投稿によれば、ビジネスマンのMansoor Ijazに米国の諜報筋がこう告げていたという…ビン・ラディンの殺害後に、General Pasha(ISI長官)がパキスタンでのクーデターへの支持を集める目的で、ペルシャ湾方面に旅行していたと。これに引き続いて起きたメディアと政界での嵐は、General Pashaの辞任を要求した。Mullen提督へのメモの背後にいた、とされる元・駐米大使Husain Haqqaniも、辞職を余儀なくされた。Haqqaniは関与を否定するとともに、彼が何百人もの米国のスパイにビザを発給した、という嫌疑も否定した。  


木曜日にGilaniはこうした告発についても遠回しに言及し、Bin Ladinがパキスタンに6年ものあいだ住み続けることが出来たのは彼に一体どんなビザを発行されたのかが知りたい、と述べた。
  「我々は、彼がどうやってパキスタンに入ったのか知りたい」…と、Gilaniは明らかにGeneral Pashaに向けたジャブを放った。「なぜセキュリティ要員が彼を拘束しなかったのか?を」
  今週最高裁判所にGeneral Pashaの解任への嘆願書が提出されたが、裁判所はそのメモに関する調査の開始も重視しているhttp://www.nytimes.com/2011/12/23/world/asia/pakistani-premier-yousaf-raza-gilani-lashes-out-at-his-military.html?_r=2


滅多に姿を現さないと言われたPakistan軍のチーフ
Ashfaq Parvez Kayani  と ISI のチーフ
Ahmed Shuja Pasha- は 
Osama Bin Ladinの殺害後に突然メディアに
姿を表わすようになった
その後、Gilani首相は4月26日にパキスタン最高裁によって「法廷侮辱罪」の容疑により訴追された
 その理由はZardari大統領の汚職に関するスイスでの(長期にわたる)審理の再開を促す手紙を書くことを拒絶した由で、6か月の禁固刑をうける寸前だったがかろうじて裁判所の脅しの空文的な判決がおりただけだった。

  Hussain Haqquaniは、5/11にNYTに寄稿、Gilani首相を告発した最高裁の裁判官らをテロリストの手先だなどと非難した。同紙は、Husainが疑惑の渦中の人物であることをまったく伏せて、元大使でありボストン大教授としている
http://www.nytimes.com/2012/05/11/opinion/how-pakistan-lets-terrorism-fester.html?_r=1&hp
How Pakistan Lets Terrorism Fester



Islamabadの最高裁判所前に現れ支持者の
振りかけた花弁を浴びるGilani首相(4/26)


  

Sunday, March 18, 2012

「アラブの春」は忘却の縁にある? The Arab Spring on the verge of oblivion- By Hussein Shobokshi


「アラブの春」は忘却の縁にある  By フセイン・ショボクシ (2/23、Asharq Al-Awsat)

 アラブの春、として知られるようになったその現象─次々と起こされる革命と、それにひき続く余波…アラブ世界でのそれらの出来事に関心を抱く、多くのオブザーバーたちの間では今や、評価のし直しや懸念が優勢になりつつある。アラブの春は本来の高貴な目的から逸れてしまい…かつてない方法でイマジネーションを喚起し、世界を幻惑した若い世代の手からハイジャックされたのだ…と考えている者たちもいる。

 我々は、こうした革命を宗教的強硬派の流れがハイジャックして、人々に対し時には警告的に、彼らの「異邦人」的な視点を強制して…また時には軽蔑的な感情も鼓舞しようと図るのをみた。また別の場所では、人々に対して、自分たちの個人的権益だけにしか関心を抱かないような部族やクラン(一族郎党)による視点が強制されて…そのため、洞察といものは全般的に限定されたものに限定され、扇動を誘発する危険性へと繋がって憤怒の地獄の未来にも至りかねなくなっている。いつものことだが、ほんの小さな火花すらも、大きな火の海を誘いかねないのだ。そしてそこでは、大きな損失感を抱いたアナキスト主義者らが復讐の念を抱きつつ、現今のカオスと混乱の機会を捉え…彼らが「勝った」と信じている者たち(すなわち、革命とその余波から政治的なアドバンテージを得る者たち)の間に、恐怖感を掻き立てている。

 一方でその他の者たちは、人々や国家や地域が経験するに至った巨大な叛乱の間に、自然に発生した状況とは何だったのか、を眺めている。こうした叛乱は人々の心理状態に影響を与え、彼らの自信を喪失させ、未知のものへの恐怖感を抱かせる。こうして、彼らの最初のリアクションとは暴力的で、混乱したものとなる。しかし、やがて彼らは再び安定状態を獲得し、彼らのそうした新たなる状況にも適応するようになる。市民たちは自然な方法で変化を受け入れ始めるとともに物の生産も再度向上し、以前のごとく共存する状態となる。しかしもちろん最大の問題とは、混乱や心配、怖れや疑念の信じ難いほどの肥大…また理性や洞察力、決断を下すことを阻む圧倒的な感情である。結果的に、我々は今現在おきているような多くの失敗や混乱状態を目にすることになる。
 
 いかなる新しい状況でも、それがどんな性質の物かに関わらず…その状況下での勝者と敗者を招くものだ。彼らは両者ともに、自らの享受する便益を最大にし、そして損失を最小にするために力を尽くしている。

  そして多くの勢力分子や、異なるやり方があり、それらがなお一層の紛争状態や、いざこざを喚起する。おそらく、そのなかでも二つの最も顕著で効果的、かつ最も危険な勢力といえば、一つはメディアであり、いま一つは経済だろう。今日、メディアとは力や悪意によって用いられ、特定の人物にハイライトを当てて、公衆にその影響力を及ぼし…時には真実を埋没さるために…そしてまたあるときには、政治的・経済的な理由で特定の勢力に都合のいいストーリーが世間で注意を集めるように仕向けさせる。経済的影響に関しては、金は未だに最もパワフルな要素として、「決定権」を有するポジションを掌握させ、公衆の良心を買収し、立場や基本方針、スローガンをも変えさせるものとなる。

  もしも私が、アラブの春のオリジナルな熱狂者たちが現今の状況に対して下す評価を描写するなら、最新の進展状況に対する遺憾の念と、古き良き日への懐古の念だといっても誇張ではなかろう─物事がどんな状況だったのか、そして今それがどうなったかを比較すれば明らかなように。しかしそれこそが、幾つかの勢力の望んだことなのだ。彼らはアラブの春の「完璧な」勝利を怖れ、中東の状況を悪化させた破壊的な原則の全体的、かつ包括的な改革を怖れている。このようにして、こうした勢力にとっては、アラブの春の完全な失敗を保障する形で、現今の出来事に対処することが至上命題となり、最初は美しい物にみえたその状況に対して、人々に憎悪や恐れを抱くように仕向ける。彼らはそれをとても野蛮で、醜悪で、誤った物へと転じようとしている。アラブの春の「完全な」成功を怖れる者たちは、革命家たちの意志や目的に疑問を投げかけ始め、徐々に彼らを敵や裏切り者や、逸脱者たち、外部の代理勢力などと協力する者たちだ、とみなし始める。これはある状況を完全に異なる状況へと変えさせる、メディアと金の力である。

  アラブの春は、自由を抑圧し、尊厳を損ない、希望を押しつぶそうと試みる偽装を纏った全体主義的勢力による脅威を受けている─なぜなら、彼らはこれまで専制政治と独裁的暴政、絶対的権力の原則の下で生きており、今も行き続けているからだ。彼らは多くの方法や異なる名前を受け入れたが、こうした勢力らは最終的にはすべて、同じ目的を抱いている。

  アラブの春はまだ失われてはいない、しかしそれは、隠された、悪意のある戦争に晒されつつある。かくして、それに対して身を守り、そうした企みに対抗することが重要となる。アラブ世界の人々は、他の世界の人々と同じように尊厳と自由に値する人々なのだ。
http://www.asharq-e.com/news.asp?section=2&id=28581
 
*筆者のHussein Shobokshi:
A Businessman and prominent columnist. Mr. Shobokshi hosts the weekly current affairs program Al Takreer on Al Arabiya, and in 1995, he was chosen as one of the "Global Leaders for Tomorrow" by the World Economic Forum. He received his B.A. in Political Science and Management from the University of Tulsa.

Monday, March 5, 2012

The New Islamists: イスラム主義者の民主主義と信仰がチュニジアで試される時 The New Islamists -- Islamists’ Ideas on Democracy and Faith Face Test in Tunisia By Anthony Shadid


弾圧を逃れ英国などに亡命していたイスラム原理主義者らの多くが帰国しつつある昨今の舞台裏とは?
2月半ばに動乱のシリア国境で取材中に喘息発作で急死したNYタイムスのベイルート支局長・アンソニー・シャディド氏の伝えた最後の記事。

The New Islamists:イスラム主義者の民主主義と信仰 がチュニジアで試される時  By アンソニー・シャディド (2/19, NYtimes)

チュニスにて・ サイード・フェルジャーニの突然のひらめきは、彼がチュニジアの信心深い街でその貧乏な子供時代を過ごした後に…ひと世代ほど前の宗教的ルネッサンスが彼の知性を呼び覚まして、クー・デターを企んだ彼が拷問され背骨を痛めた後に…そして他のイスラム主義者たちと合流すべく友人のパスポートを借りた彼が、英国に亡命したその後に… 訪れた。
22年の後にフェルジャーニ氏は故郷に帰ると、民主主義を建設するという仕事がその手にあることを理解した─ イスラム主義者たちの主導で、アラブ世界のモデルになるようなそれを建設する、という仕事を。
「これは、我々にとってのテストだ」と彼は言った。


もしも、一年前に中東に吹き荒れた叛乱の嵐がアラブ世界のもうひとつの未来をイメージしよう、との決意を抱いた若者たちの時代の到来だったのなら─ その叛乱のもたらした余波のなかでエジプトとチュニジアで起きた議会選挙や、モロッコやリビア、そしておそらくシリアなどでもイスラム主義者たちによる決定的な影響力への展望がもたらされた瞬間とは…もう一つの古いジェネレーションによるものだったのだろう。


誰も、近代のアラブ世界の歴史が迎えた最も重要な一章のひとつが、どのように終わるのかを知らない…その地域の軸が、独裁政権への抵抗運動から、それよりもはるかに曖昧な何かを体現する運動へとその向きを変える中で。しかし、投獄や亡命・抑圧によって形づくられつつ長年培われた信念や同盟によって硬く結ばれた、Ferjani氏の体現する世代にとっては、何が出現しつつあるのかを断言するとしたら大いに言い分もあるだろう。
Anthony Shadid and People

彼らがアラブ世界の政治の前面に現れたということは、1928年にスエズ運河の畔の街でエジプト人教師の設立した復古主義運動のムスリム同胞団が、長らく固持してきた知的かつ組織的な武勇を描き出すものだ。しかし、かつてエジプトから放たれていた知的な潮流は、今や同じほどの頻繁さで、他の方向に向けて流れている…モロッコやチュニジアの学者や運動家らが、しばしば西欧の影響も受けつつ、アラブ世界の周縁の地に腰かけて、信仰と民主主義(…それは大方の過激なイスラム主義者や、ここ中東や西欧の多くの批評家らも和解不能のものとみなしているものだが)の統合というその思想を輸出しているなかで。 

多くの場合、彼らは─イランにおける1979年のイスラム革命や、1989年のスーダンでのイスラム主義者によるクーデターなどの経験を踏まえて─ 専制的なリーダーらによる権力や、あるいは世俗主義者による権力というのは人々に(何も)与えたがらないが故に、彼ら〔原理主義者による政権掌握…〕に信頼を寄せてほしい、と社会に求めている。

その信仰心にもひけをとらぬ…独学によって培われた溢れる知性を持つ57歳のFerjani氏は、そのような疑念があることを認める。数回のインタビューの一つでも彼は、歴史というものが…彼のよく用いる言葉だが…彼らの世代というものを、権力を掌握するか否かの能力において評価せず、40年にわたるその活動の後権力に対して彼らが何をしたのかによって評価するだろうと宣言した─
「私はあなたに、ひとつ語れることがある…つまり我々が今や黄金の機会(golden opportunity)を手にしているということだ」、と彼は微笑みながらいった。「そしてこの黄金の機会のなかでは、私はコントロールされたくはないのだ。私は、最もカリスマ的なシステムをもたらすことに興味がある─カリスマチックな民主主義システムを…それが私の夢だ。」
Saiid Ferjaniはチュニジアでクー・デターを企み、英国に亡命し、
他のイスラム主義者たちと合流した

好機との出会い A Chance Encounter

Ferjani氏にはその子供時代の何かが彼を真にこの野望への道に導いた、という事は何もなかった。名声あるカイルアンの街(その街をイスラムの第4の聖都、とも呼ぶムスリム達もいる…)に生まれながら、彼は特別、信心深い子供ではなかった。彼の父は商店主だったが、家族に充分な収入をもたらしたことは一度もなかった。彼はあるとき、3日間にわたってまったく食べ物のない日々があったこと、そして学校には安物のサンダルを履いて通ったことを思い出した。「貧乏、それを我々は味わった」、と彼は回顧した。


彼自身の述懐では、彼は16歳になるまで手に負えない程のやんちゃな子供だった。その年には、チュニジアに帰還する前はエジプトとシリアで学問を修めた(アラブ・ナショナリストからイスラム主義者へと転じた)Rachid al-Ghannouchiがその街、カイルアンでアラビア語を教える教職に就いた。Ghannouchiは─当時はエナーダ党(Ennahda Party)と呼ばれていたが、後にはイスラム傾向主義(Islamic Tendency Movement)と呼ばれた運動を起こすべく旅立つ前に…わずか1年そこに滞在しただけだったが、しかし彼は彼の生徒たちの間に遺産を残した。

「彼はいつも、世界と政治についての話をしていた」、とFerjani氏はいう。「なぜムスリムは遅れているのか?何が我々に遅れをもたらしたのか?それは我々の宿命なのだろうか?」、と。

Ghannouchi氏によって投げかけられたその問いは、後続のイスラム主義者の世代を形成したが…その"イスラム主義者"という名称は、彼らのもつ多様性を決して捉えてはいなかった。そうしたテーマは、ムスリム同胞団の創始者であるHassan al-Bannaの仕事のなかでも検討されていたが─al-Bannaの布教に対する考えが正しかったことは、その後50年以上にわたって証明された。それはまた、エジプトの思想家Sayyd Qutbの著作のなかにもみられた─彼の著作は、彼が1966年に絞首刑となったずっと後の日々にも反響をもたらしたが、それは中東に流血をもたらしたイスラム武装主義というものの台頭をもたらした。後に、1981年のAnwar Sadat(大統領)暗殺計画の構想の基礎をなした「隠された義務(The Hiden Duty)」という(Sayyd Qutbの)テキスト(一文)も、その件の解決を試みていた。多元的共存主義と民主主義を信奉したGhannouchiもまた、同じ問題を模索していた…イランで革命の怒りが沸騰していた時でさえも。
Racid al-Ghannouchi,
founder of an Islamist party in Tunisia
カイルアンの植民地時代のネグラ寺院(Negra Mosque)にFerjani氏をはじめ100名の若者たちが集まって、それら全てを学ぼうとした。「読んで、読んで、読んでそして…読んだ」と彼は回顧する。「歩いている間でさえも私は読んだ。」

Ferjani氏は最後に首都のチュニスに向かい、そこで彼は、彼に昔、アラビア語を教えた教師のグループに合流した。「最初から、そこには政治というものがあった」、彼はインタビューで述べた。

その当時のチュニジアはHabib Bourguibaの政権下だったが、彼はあるときムスリムの断食月ラマダンの最中にもオレンジジュースを飲むことをTVで主張したほど世俗的人間だった。1957年以来政権の座にあったBourguiba氏は、Ghannouchi氏の信奉者らを弾圧し…彼らの多くが処刑されるとの見込みがあったがために、Ferjani氏はクー・デターの陰謀を幇助したのだという。彼は議事堂の向かいの、白い漆喰壁に青いシャッターのある低い建物のなかで彼が経営していたビデオショップで、多くのオーガナイザーたちと出会ったという。

彼らがその計画を実行する17時間前に、Bourguibaの内務大臣だったZine el-Abidine Ben Aliが、自分自身のクー・デターを起こした。10日後の1987年11月17日に、Ferjani氏は逮捕された。彼は18ヶ月を刑務所で過ごす間に、彼が「ローストチキン」と呼ぶ姿勢で棒に括り付けられ、彼の脊椎骨を鉄の棒で破壊された。歩くことができなくなり、痛みは焼け付くようで、彼は動こうとするときは常に、囚人たちの背に担がれねばならなかった。

「彼らは、拷問が体中のどこでも感じられるようにする凄いエキスパートだった」、Ferjaniは回想する。「私は朝5時まで眠ることもなく、夜明けまで祈り続けた後に、私の中には何も残っていないと感じた後に漸く、眠りにつくことができた」。

彼は解放されて5ヵ月後、未だに車椅子を使っていたが、空港で警備員の眼に留まることなく彼自身で50ヤードは歩けるようにと、自らを訓練した。彼は髭を剃り、友人のパスポートを借りた。そして彼はロンドンへの航空機に搭乗して、英国への亡命を試みた。

Crucible of Exile 亡命による試練

Ferjani氏の世代のイスラム主義者たちは、刑務所で過ごした時期を名誉の勲章のごとく身に着けている。しかし、亡命という時期も、それに劣らず彼らを形造った…特に、チュニジア人にとっては。

Ferjani氏の旅した先であるロンドンは、1990年代に、イスラム主義者の政治的なハブ(中心点)となっていた。やがてGhannouchi氏がそこに到着して、Ferjani氏に合流した。サウジ・アラビアのサラフィ主義者たちも、しばしば彼らにとっての敵対者であるバーレーンのシーア派主義者と交り合っていた…故郷におけるよりも一層、彼らの共通の基盤を見いだして。

Gaza地区における学者でもありハマスのリーダーでもあるAhmed Yousefは、米国での似たような状況について回顧する─そこで彼はワシントンでの人との会合に生涯にわたるコンタクトを持っていたのだ。そうしたコネクションのなかには─モロッコの学者で、政治家であるSaadeddine Othmaniや、シリアのムスリム同胞団のリーダー・Ali Sadreddine Bayanouni、ヨルダン出身のイスラム主義者のリーダーAbdul Latif 、そしてモロッコの現在の首相でもあるAbdelilah Benkirane、などの人々がいた。

そうした環境は、1993年のニューヨークの世界貿易センタービルの爆破事件以降、より許容される度合いが低くなった─とYousef氏は言う…しかし、その時までは、「それはパラダイスのようだった」。

「亡命先において、人々は互いが必要だと感じる」と、ロンドンのパレスチナ人学者で、活動家でもあり、 Ghannouchi氏の伝記を書いたAzzam Tamimiはいう。「故郷では、国家の状況自体があなたに課せられる。それゆえ、プライオリティ(優先事項)も異なってくる」。

Ferjani氏は、彼のロンドン時代を、彼が1970年代にカイルアンで経験した知的な啓蒙の時代と比較する。彼は、妻と5人の子供をEalingの近郊に住まわせて、彼自身はやがてアル・カイダやビン・ラディンに関する論議に巻き込まれるようになったイスラム主義者の仲間の中に残ったが…しかし彼はその活動の地平を市民社会にも拡大した。彼は、ヨーロッパ史や民主主義、環境問題と社会の変貌に関するクラスを受講した。

彼はTamimi氏が、その多くが二度と故郷に戻ることを期待していなかったイスラム主義活動家たちにとっての「共通の根と、共通の立場(common roots and common ground)」と呼んだものを、理解したという。

「我々は、お互いを知っている」、と彼は言った。「しかし、知りあうことはひとつのことであり、その一方で、どんな意味においても、何かを一緒になすということは…多くの人がそう考えるかもしれないように…それは別のことだ。政治的なことにおいては、我々は完全に同意しあってはいなかった」。(*アル・カイダのようなテロ行為への参加に同意しなかったという意味と思われる)

Embracing Democracy 民主主義を信奉する

Ferjani氏にとって、その亡命時代を通じて抱いた政治的イスラムというものの支配的イメージとは、1990年代のエジプトでの流血の反体制運動や、アルジェリアの内戦、そしてビン・ラディン(…彼のマニ教徒的な世界観とは、ブッシュ政権が発する最も辛らつな声明の鏡像のようだったが)の台頭などの記憶だった。

しかし、ムスリム同胞団によって喚起された多くの潮流のなかで起こりつつある変化(シフト)というものも、それに劣らずドラマチックだった。亡命のなかで彼自身の思想を進化させたGhannouchi氏は、より一層、包括的で(異質なものへの)寛容度の高いイスラム主義への早くからの提唱者となり、一世代ほど前の時期から、選挙や多数派による支配等の概念というものが普遍的なもので、イスラムの考えとも盾しない、と論じていた。早くから彼は議会への女性の参加を増やすためのアファーマティブ・アクションの実践をも支持した…ムスリム同胞団が長い間たゆまず定義してきた、その布教活動における無慈悲な概念を打ち破るものとして。

「率直に言って、イスラム主義運動のなかに民主主義を持ち込んだ男とは、Gharouchi氏だ」、とFerjani氏は言う。Gharouchi氏自身が、昨年暮れにチュニジアからパレスチナ自治区までのイスラム主義活動家たちが参加して、イスタンブールで行われた会議におけるインタビューhttp://www.nytimes.com/2011/10/20/world/africa/rachid-al-ghannouchi-imagines-democratic-future-for-tunisia.html?pagewanted=allで述べた言葉の如く、「支配者たちは、彼らの反対者たちよりも以上に、暴力によって権益を得るもの」であるという。

アラブ世界の全域で交わされる論議では…それは欧米からはしばしば無視されているのだが…民主主義とイスラムが相容れるものかどうか、との問いは1990年代から沸騰していた。90年代の半ばには、ムスリム同胞団から離反してCenter Party(中央党)を作ったAboul-Ela Maadiという若きエジプト人イスラム主義運動家が、(民主的)選挙による権力の交代を支持し、そして異なる意見や、また非イスラム主義政党との連携が重要なものだと宣言した。

カタールのドーハを拠点に巨大な影響力を持つエジプト人宗教家のSheik Yusuf al-Qaradawiは、しばしば前衛主義者たちを支持している(2005年には、彼はアル・ジャジーラの衛星テレビを「イスラム法の前に自由あり」、と宣言して支持に回った。同胞団は未だにMaadi氏の離反に対しては怒りを抱いているが、しかし彼らは、1996年にはとても新奇なものにみえた彼の思想を、大幅に受け入れた。

こうした論議は、アラブ地域全体にこだましている。パレスチナ人であるYousef氏はエジプトでの学生時代に、Ghannouchi氏の月刊誌Al Maarifaを読んだ際の衝撃を回顧する。リビアでは、かつてMuammar el-Qaddafi大佐の牢獄において、ジハード主義者たちと政治を論じたこともあるAli Sallabiが、Ghannouchi氏とSheik Qaradawiは霊感の源である、と述べている。

批評家たちはこうしたシフトを戦術的なもの、レトリカルなものとさえ見ている。しかしその論議の本当の真髄は今日の、政治的イスラム主義の知的な潮流の支柱をなしているのだ。

古い同胞団の思想では「Al-sama’ wa’l-ta’a」、と言われた─翻訳すればつまり、「聞いたままに、それに従う(hearing and obeying)」 ということだ。

「それはもう終わった」、と、同胞団の創始者、Banna氏の孫であり、ロンドンを拠点とする著名なイスラム学者であるTariq Ramadanは言う。「新たなる世代は、もしもそのようなことが行われるなら、我々はその場を去るだろうといっている。あなたがたには新たな理解と、新たなエネルギーがあるのだ」。

彼は、エジプトが新たなイスラム主義の思潮の源泉であったFerjani氏の若い時代とは対照的に、今やヨーロッパに亡命した人々や、Ghannouchi氏や、Ahmed Raysouni氏のような北アフリカの学者たち、またチュニジアのEnnahda党や、モロッコのBenkirane氏による正義と発展党(Justice and Development Party)などの人々によってなされる発言に、より影響力があると指摘した。

「それはもはや、中東から発されるものではなくなった」、とRamadan氏は述べた。「それは、北アフリカ諸国や、西欧諸国から発されている。そこには新たなヴィジョンや、新たな理解がある。今や彼らはこうした思想を、中東へと戻している」。

そのロンドンでの仮住まいにおいてFerujani氏は、彼のカリスマ的国家体制というアイディアにおいて…それがイスラム主義者に主導されるべきか、他の者によって主導されるべきかに関する考えの形成に、Westminsterでの討論を取り入れた。彼はまた猛烈に左翼思想を拒絶した後、今ではカール・マルクスによる資本主義批判を支持している。

亡命は…と彼は言った、「自分を根本から、大きく変えた」。

Applying Theories セオリーを適用する

爽やかな冬の日に、Ferjani氏はチュニジアのEnnahda党のオフィスに座っていた─その党名が刻まれたプラスチック製の看板が、未完成 unfinished な印象を与える5階建ての建物のなかで。

彼が、赤い国旗を身に纏って空港を難なく歩行しつつ、チュニジアに帰還してから1年近くが経過した。彼は、彼自身のパスポートを持っている。彼の髭は灰色になったが、彼のカイルアンでの若い時代を思い出させる口髭を、未だに保っている。空港では200名前後の人々が彼を迎えていた。

「チュニジアには裏切り者のための場所はないが、(その国を)定義する者たちの場所だけがある」…国家を吟唱する群集と合流して、彼はそう歌った。「我々はチュニジアへの忠誠を尽くして生き、そして死ぬ。」

この日に、彼はより一層くすんだ気分でいた。世俗主義の活動家らは、彼らが10月の選挙におけるEnnahda党の勝利により確実にもたらされると確信していたカリファテ(カリフ=イスラム首長による統治体制)を公然と非難して、抵抗運動を繰り広げていた。同党に反対を唱える新聞各紙は、清教徒的なイスラム主義者らによる不正行為や、Ennahda党が過激な慣習を許容するだろうとの推測についての記事を満載していた。富裕層の集うカフェには、Ennahda党の成功について経験則的な用語で語るチュニジア人たちがいた…それはチュニジアにおけるコスモポリタニズムを絶滅させうる宗教(的勢力)によって、不可避の(宗教的)非寛容が是認されるということだ、といったような見方だった。文化的な論議は、誰もが認めているもの:つまり、病める経済というものが…より一層差し迫っているのだという論議に影を落としていた。

「率直にいって、我々はすべての物事のトップの位置にいると思う。」とFerjani氏は言った。

しかし、よりガードの少ない瞬間に彼は問いかけた─「あなたは、50年間にわたる問題を1ヶ月以内に、誕生して1ヶ月未満の政府と一緒に解決できるなどと、本当に思うのか?」

あるインタビューで、Ferjani氏はこう皮肉を飛ばした、「知っているだろう?権力というものは腐敗する」。彼はこの日、党の本部のオフィスで座りながら、権力に関するこうした問いと苦闘していた。彼の脇には、党の機関紙The Dawnの山があった。あるコラムは「反革命的メディア」に対して非難しており、他のコラムは陰謀に関する暗い推測を示唆していた。フロント・ページでは、「議会は座り込みデモには反対し、人々の要求を聞くことに賛成する」と宣言していた。

「我々は表現の自由を怖れない、しかし我々は、無秩序を容認することはできないのだ」、と彼は言った。「人々は責任を持つべきだし、彼らは、法と秩序があることを知らねばならないのだ」。

彼は、反対デモをする人々は警察の許可を得なければならない、と指摘する。彼は、報道メディアは無謀すぎる、と懸念していた。彼は、アンシャン・レジーム(旧体制)の勢力が未だに策謀をめぐらしていると仄めかす。散らかった部屋で、彼の元気旺盛さは厳格さ(いかめしさ)に変わり、彼の言葉はためらいがちだった。

「誰もが、独裁的本能に引きずられないよう注意する必要がある、いかなる事が起ころうとも」、と彼は言った。「我々は、我々の革命の魂を失うことはできない」、と。

これは─と、彼は言う─テストだったのだ。
http://www.nytimes.com/2012/02/18/world/africa/tunisia-islamists-test-ideas-decades-in-the-making.html?_r=1&hp=&pagewanted=allFebruary

*カメラマンTyler Hicks氏と国境線を移動中Anthony Shadid氏は、馬アレルギーの喘息発作で急死し、同僚Hicks氏は彼の遺体を担いで独りトルコまで辿り着いたとか(2人は2011年3月にもリビアでカダフィ勢力の人質となり拷問も受けたが生還したNYT記者4人に含まれていた)
*Photo gallery:Tunisian Islamists Test Theories of Democracy and Religion
http://www.nytimes.com/slideshow/2012/02/17/world/middleeast/20120218-ISLAMISTS-4.html
*At Work in Syria, Times Correspondent Dies
http://www.nytimes.com/2012/02/17/world/middleeast/anthony-shadid-a-new-york-times-reporter-dies-in-syria.html

2011年にカダフィ政府軍の人質として
捉われた経緯を話すShadid
*この記事は「アラブ世界を再形成するための苦闘…中東で起こりつつある政治的イスラムの台頭について探る」シリーズ記事の第1弾とされていた
*中東関係の報道でPuritzer賞も複数受賞、名文で知られたという氏がイスラム原理主義者復権の内情を伝えている(この続編を読めないのは残念)
R.I.P.Anthony Shadid 


欧米で有名なスイス生まれの学者Tariq
Ramadanはムスリム同胞団の創始者、
Hassan al-Bannaの孫だ
現在オックスフォード大の教授