エジプトの大都市では、警察は完全に姿を消し、治安維持の面では、軍が完全に取って代わった。ムバラク大統領自身が警察に帰宅を命じたという噂もある─
軍がどちらの味方なのか、当初は色々な憶測が飛んでいた─カメラの前で、群衆と握手を交わす兵士も映し出された。しかし週末以来軍はやや統制を強めてもいるようだ。
今後エジプトにおける軍勢力は'Turkish model'のように…丁度トルコで建国以来世俗派政権と人々を守る役目を果たしてきたトルコ軍のような位置を保つだろう、と述べる欧米の某アナリストもいた。ABCのマーサ・ラダッツ記者はエジプトにおいて軍は伝統的に民衆に最も尊敬を受ける組織で、また軍は彼ら自身の組織の維持を第一と考えるに違いない、それ故民衆の尊敬を損ねる行為は行わないだろうと予測した…
また今回抗議の群衆に対し、ポリスが放っていた催涙弾は「メイド・イン・US」と書いてあり、今のエジプトと米国の関係を象徴していたのだという。
…「米国が昔、イスラエルとの関係正常化して以来、エジプトはイスラエルとの関係を保持するための重要な要だ。 スエズ運河を管理し、中東からの膨大な欧米への石油輸送を可能にし、アラブ諸国の安定化の要となってきた。パレスチナの現状の安定化(ガザの包囲維持、物資の禁輸の部分的維持)にも重要な役目を果たしている」 と、アル・ジャジーラのワシントンDC特派員もサマライズしていた。
オバマ大統領にしてもムバラクにステップダウンしろ、とはいえず ここ数日ももっと改革を進めよ、人々の意思を尊重しろ等と求めるのみだった…
イスラエルは以前中東戦争の最中に、一時シナイ半島を支配していたこともある。欧米の「陰謀論者」はこのまま、エジプトで政権が揺るがされたらどうでるのか、という憶測をする人もある。現状ではまだそこまではいかないだろうが。イスラエル寄りの人々の間では、実際に反体制の群衆はイスラエルを志向して、外務省の周りに集まった人々はイスラエルに行きたいんだ、などの可笑しなジョークをいう人さえいる。否、イスラエルにとってエジプトの現政権が倒れることによる危機の大きさは計り知れない。ネットを見れば、何だかんだ言っても 英米人にはムバラク政権が倒れて ムスリム同胞団などのイスラム原理主義政権に取って代わられては困る、という本音がみえる…
しかし米国にはムバラクをもはや無条件で支持するわけには行かない、ムバラクは米国にとって負債になった─と米国の主要紙も警告している
大規模な反乱へのムバラクの返答は、エジプトの軍による支配の終焉を命じるのか(1/29 By Juan Cole)
彼はエジプトの前諜報長官、Omar Suleimaを彼の副大統領に指名した
彼は空軍参謀長の(Ahmad Shafiqを首相に指名した
あなたは、TONE DEAF耳つんぼという単語を綴れるか?
カイロ、スエズ、マンスーラ、アレクサンドリアでは抗議のため、夜になると群衆が戒厳令に逆らい街路にでている。警察はアレキサンドリアとカイロの内務省ビルの周囲で発砲したという。過去数日間に100人ほどが死亡したという。軍は広汎に、デモ隊に対しても、治安勢力の減小がもたらした略奪にも余り手をださずにいる。警察は不在となっている。近隣地域の急ごしらえの自警団が、泥棒や押し込み強盗、強姦者の侵入に対する警備に当たっている。エジプトの博物館でおきた比較的軽度の略奪事件は愛国的な群集が協力しあって阻止し、その後軍隊が警備に到着した。人々の中にはムバラクが中流階級の市民に、法や秩序のない生活がどのようなものかを味わわせるため、警察に自宅待機を命じたのだ、と噂するものがいる。それが真実かどうかは分からない。もしそうなら、階級的な心配事に付け込んで、群集の抗議行動が、強欲なスラム街の住民によるものだという印象を演出しようとの意図があると思われる。
http://www.juancole.com/2011/01/mubaraks-response-to-demand-for-end-of-military-rule.html
エジプトの怒りの日々
Days of rage in Egypt-By Victor Kotsev (1/29, AsiaTimes)
テル・アビブにて─
「エジプトを水面下で焚きつけているものが何なのかは、よくわからない」、と米国の有力シンクタンクStratforは、3週間前にキリスト教会の爆破テロがこの国を揺るがしていた時、エジプトの国内情勢を分析して書いた。それは3日間にわたる反ムバラク政権の抗議行動が巻き起こった今日、さらにますます本当になっている。木曜日には、いくつかの異なる報道が、衝突による死者は4人から7人、怪我人は多数に上り、860名以上が検挙されたと伝えたが、情勢は動いており、政府官僚は硬く口を閉ざし、ジャーナリストは報道制限にあっているとのことで、信用できるデータをみつけるのは困難である。
TwitterやFacebookのようなソーシャル・ネットワーキングのサイトも度々、部分的に接続できなくなっている。木曜夜までに2000人以上が逮捕されたと人権団体は伝えている。
抗議デモは火曜日─エジプトでは警察への敬意を表すための祝日だった─に始まった。彼らは専制的な大統領Zine el-Abidine Ben Aliが追放されたチュニジアの状況によって鼓舞されていた。NYタイムスによれば、抗議行動は伝統的な抗議行動とは異なり「エジプトの若者たち」に先導されていたというが、これもチュニジアの状況とパラレルだ。
「我々は変化を求めている、チュニジアと同じように」と、一人のデモ参加者、24歳のLamia RayanはいったとAPは報じた。Ben Aliへの反乱を引き起こしたMohamed Bouaziziの焼身自殺の例にならって、エジプトでもこのところ、多くの人々が自身に火をつけようとした。
火曜日のはやい時間には抗議行動は平和的で、警察も非常にその行動を抑制していた。しかし午後以降、何千もの人々がタフリール(開放)広場に流れ込んでムバラク退陣を要求すると、数箇所の都市で衝突が起きた。それに続く何日か、抗議行動の人数は多少小規模だったが、木曜日にスエズ・シティで大きな衝突が起きたといわれる。エジプトの有力な民主的改革派であり、ノーベル平和賞受賞者のMohamed ElBaradeiが抗議行動を主導するため、自ら亡命していたオーストリアから帰国した。
金曜日は決定的な日となると予想された。ムスリム社会では、金曜日には大半の男性が昼の礼拝でモスクに集まるため、聖職者が呼びかければ街頭での抗議行動へと誘引しやすく、デモの実施には都合のいい日だった。しかし、最有力の反政府勢力といわれるムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)は、抗議行動の影で、その最大限の影響力の行使を控えていた。
しかし木曜夜にこの情勢は変わり、同胞団は「金曜日はエジプトの国のための、総体的な怒りの日となる」という声明を発した。これは反政府勢力の世俗的リーダーであるEl Baradeiの存在によってさらに煽られる、不吉なサインだった。
何が起こるかの確かな予測はできない。多くの観察者はムバラクが、よく組織化された彼の治安部隊の助けのもとで嵐を乗り切ろうとするだろうと考えている。火曜日にはアメリカのヒラリー・クリントン国務長官が、彼の政府に行動の抑制と改革を求めたにもかかわらず、その政府は「安定している」と描写した。
エジプト大統領がトップとして現れるだろうということは、隣国イスラエルの、大方のアナリストの結論でもある─そこでは現状が大いなる注目をひきつけているが、その政府はエジプトの状況との距離を保とうとしている(過剰なほどのコメントが、イスラエルがエジプト国内の情勢に干渉しているとの陰謀論を支持している)。
それでも、木曜日にあるイスラエルの閣僚はHa'aretz紙で匿名でコメントを語った、「ムバラク政権は軍と治安維持策の確かな基盤の上にたっている…彼らは街頭で勢力と力を行使せねばならず、それを実行せねばならない。私の査定では、彼らにはその力がある」
そしてイスラエルからの旅行者たちは、依然として、カイロに到着し続けている─それはイスラエル政府が情勢には余り心配を抱いていないとのポジティブなサインだ。木曜にDov Nahariという旅行者が地上からYnetに投稿したのは、国際メディアは完全に騒ぎ立て過ぎているということだった。「我々はイスラエルのTVを見てやや怖れを抱いたが、我々はもうこの怖れを克服した」「我々は今も、ピラミッドとスフィンクスの前に世界中からの旅行者と共にいるので、この怖れは和らげられている。警察官もあちらこちらに居るけれど、全てはグレートだ」
しかしもっと確信のないアナリストたちもいる。例えば、木曜日にはStratforが今の状況を1979年のイランに喩える~(中略)
~無論、ムバラクはこれまでにない国民の不満に直面している。昨年11月の議会選挙の際にも、主要野党(ムスリム同胞団を含め)がその第2ラウンドで撤退し、結果として一人も代表を送らずにいる。キリスト教会への攻撃はこの国の緊張状態と過激化を強調した。
貧困レベルは驚くべきものがある。過去2年、世界的な経済危機がエジプト経済にも逆風となったが、現政府の対応は後ろ手に回っていると思われている。Ha’aretzによれば「エジプトの8千万の人口は年々2%ずつ増えている。3分の2は30歳以下で、その90%は失業している。40%の国民が1日2ドル以下で暮らし、3分の1の国民は読み書きができない~(後略)
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/MA29Ak03.html
ムバラクは権力に固執、米国は米国人の国外脱出用にフライトを用意U.S. Offers Evacuation Flights as Mubarak Clings to Power (1/30,NYTimes)
~抗議行動の震源地となっているタフリール広場の中心ではデモ参加者が再度結集したが、人々の中には軍の兵士に対して彼らが守護者であるかのように敬意を表している。ある地点では群衆が軍人の身体を担ぎ上げ、人混みの頭上を「人々と軍は一つだ」と唱和しつつ渡していった。
しかし朝の時間が経つにつれ歓喜のトーンは悪い予兆の感覚によって抑えられている。軍のジェット戦闘機とヘリが力の誇示のために広場の上空を飛来し、群衆をコントロールしようと兵士が空にむけて銃を放った。
カイロの別の場所では、目撃者によると武装兵士たちと100台の戦車が、1979年にイスラエルとCamp Davidの和平合意を結んだサダト前大統領が1981年に暗殺された時と同じパレードの会場地点に終結したという。そのときムバラクは副大統領だったが、サダトの暗殺により、彼がそれ以後決して後継者に譲ろうとしない現在の地位に押し上げた~
http://www.nytimes.com/2011/01/31/world/middleeast/31-egypt.html?_r=1&hp
エジプトの若者たちが、ムバラクへの叛乱を先導する By DAVID D. KIRKPATRICK and MICHAEL SLACKMAN(1/26, NYタイムス)
何十年もの間、エジプトの専制的大統領ホスニ・ムバラクは彼の政敵に対して賢明なゲームをしてきた。彼はリベラルな知識人たちの小さな、牙のない反対運動による無駄な選挙キャンペーンが民主的プロセスのうわべの外観を創造することを赦してきた。そして彼は彼自身がかつて正当化していた警察国家のやり方と同じ脅迫を行う、非合法化されたムスリム同胞団を、暴力的な過激主義者たちとして悪魔扱いした。
しかしこの永らえた…多くの人が余りにも安逸だという関係性は今週、予期できない第3の勢力、つまりリーダー不在の何千何万の若いエジプト人たちが現れ、ムバラクの30年の支配を終わらせるよう求めたことで、ひっくり返された。
今や、古参の反対野党たちは彼らに追いつこうと必死だ。
「イニシアチブをとって日取りを決め、決行したのは若い人々だった」と国際原子力機関の前理事長、Mohamed ElBaradeiは水曜日にカイロに急遽帰国するすぐ前の電話インタビューで、彼のウィーンのオフィスから少し驚きをこめて述べた。
Mohamed ElBaradeiはノーベル平和賞受賞者だが、1年ほど前に祖国の政界に飛び込んで以来、エジプトの気難しい(手におえない)、非効率的な反政府運動を再活性化するためのパブリック・フェースの役割を務めてきた。そして彼は若者の運動は彼ら自身が達成した、という。「若者たちには忍耐心がなない」、と彼はいう。「正直言って、人々にはまだ用意ができているとは思えない」
しかし彼らの準備ができていたこと─何万もの民衆が催涙弾やゴム弾、拷問で悪名高い治安勢力のオフィサーたちに勇敢に立ち向かったこと─は伝統的な反政府勢力を出し抜き、その座を奪ってしまった。
多くの小さな、合法的政党─20以上もの…彼ら自身の間でやっとひと部屋を満たす程度の数の草の根的支持者を擁する─は新しい変革のための運動に飛びついたが、街頭の若い抗議者たちの間には余り信頼されてはいないのだ。
ムスリム同胞団ですら、それ自身の組織制度と立場の保持のために余りにも防御的になっており、今や新たな若者の運動に乗じて利用することを模索している、とアナリストらやその前メンバーたちは言っている。同胞団はエジプトで政府以外の最大の支持基盤を持つ組織であり続けてはいるが、もはや大衆を街頭に繰り出させることのできる唯一の存在である、と自称することはできなくなっている。
ElBaradei博士は、1年近くにわたり彼の傘グループであるNational Association for Changeに反政府運動を統合しようとしてきた。しかし彼のことを、バリケードの上にいるよりも、大半の人生を海外で過ごす、世界各国を旅するディレッタント(好事家、素人芸術家)としてからかう人もいる。
彼はインタビューで、彼は彼自身を政治的な救済者だと思ったことはなく、エジプト人は彼ら自身の革命を起こさねばならないと述べた。今や彼は、若者の運動が「彼らに必要な自信を与え、変革はあなた字真によって起こることを─あなたが担い手となることを」と知らせたと語る~(中略)
~「いかなる政党も、昨日の"ミニ・インティファーダ(*)”の主唱者であるなどと、名乗ることは犯罪的なことだ」、とブロガーで政治運動家のHossam el-Hamalawyは語る。 (*パレスチナの民衆蜂起への例え)
とはいえムバラク氏の政府は、馴染みのあるシナリオに固執している。全ての証拠にも反して、彼の内務大臣は水曜日の動乱に際し、即座にそれが、政府の古き宿敵であるムスリム同胞団の仕業だと非難した。
しかし今回は同胞団は関与を否定し、それはElBaradei博士の傘組織のグループの一部によるものだと述べた。「人々は抗議行動に自発的に参加し、そこでは誰がどの組織に所属するかも分からない」と同胞団のメディアアドバイザーのGamal Nassarは、抗議行動にいかなるグループのサインもスローガンもないことと共に指摘する。
同胞団は、政府の公共サービスの多くの不備を埋めるための、学校や慈善事業の広汎なネットワークを運営している。幾人かのアナリストは、同砲団の制度的な惰性というものが、エジプト人の船を揺り動かすにはスローすぎる動きをもたらしているのではないかと指摘する。
「同胞団は非常な沈黙を維持している」と、カーネギー財団中東センターのリサーチディレクターAmr Hamzawyはベイルートで述べた。「彼らは街頭で起きていることや、そこにいる人々を取り込むことで利益を得る組織ではない」
ElBaradei氏もまた、ムスリム同胞団が西欧でその名が脅威を感じさせるものになった場合、メリットを得るものだろうか、と論じている。その会員にはその慈善事業でメリットを得るフォロワーたちの他に、数多くの大学教授や弁護士その他の専門職の人々を擁している。彼らは60年前に、英国が後ろ盾になっていたエジプトの専制君主に対して叛乱が起き、同君主が多元的な民主主義社会の実現を要求したことに対して、これに支持表明をしたとき以来、暴力的行為に関与をしたり、それを許したりしたことは一度もない。
「彼らは(単に)宗教的に保守的なグループなのだ、そのことには疑いがない。そして同時に彼らはエジプト人の20%を代表してもいる」と彼はいう。「あなたはエジプト人の20%を、どうやって除外することができるのか?」
ElBaradei博士は彼の多くの先任者たち同様に、その国際的名声により、ムバラク政権にとっては刑務所に収監したり、嫌がらせをしたり貶めることのできない難しい批判分子だ。そしてElBaradei博士は、イスラム過激派についての懸念に対して、反体制勢力というものに世俗的でリベラルな、見慣れた相貌を与えることでこれを和らげる。 (写真はElBaradei氏)
しかし彼は、西欧での彼への批判には、ますます声を高めて反論している。彼はエジプトの抗議運動に対するヒラリー・クリントン国務長官の反応には驚愕した、と言う。火曜日の衝突の後の声明で彼女は、エジプト政府に行動の抑制を求めたが、エジプト政府が「安定して(stable)」おり、「エジプトの民衆の正当な要求と利益に応えられる方法を探すように」、と求めた。
「"安定している"とはとても致命的な(悪質な)言葉だ」と彼は言う。「30年にわたる戒厳令、選挙操作に対して安定している、というのか?」
彼は付け加える、「もしも後に彼らが再び現れて、チュニスでそうしたように、”我々はチュニジアの人々の意志を尊敬している”などというならば、すでにそれは遅きに失することになる」
http://www.nytimes.com/2011/01/27/world/middleeast/27opposition.html
*「若者たちが、先走って」抗議デモを誘導したと賞賛する部分はNYタイムスによくありがちな書き方だと他の国のメディアでは批判も…。
*ElBaradei氏はABCのインタビューでもムスリム同胞団について、彼らが過激派ではなく保守派であることを強調し、また国民の20%(のみの)支持層をもつ政党であると延べ、明らかにムバラク政権が他にとって代わられる場合の西側の懸念を和らげようと努力している。警察が姿を消したことについてElBaradei氏は、それを誰が命じたのかはわからないと述べている。
(Muslim Brotherhoodは1928年にエジプトでスーフィ派のHassan al-Bannaによって創始されたアラブ世界最古の由緒ある反体制グループで、Hamasなどアラブ世界全域にその流れを汲む反体制組織がある)
歓喜する抗議の群衆、エル・バラダイへの声援を送る Jubilant Protesters Hail ElBaradei (1/31,NYタイムス)
要旨:抗議運動の群衆は、ムスリム同胞団に対し、少なくとも一時的にでも、反体制運動のリーダーとする、Mohamed ElBaradeiを支持して欲しいと求めた。これに対し、低姿勢を守ってきた同胞団のメンバーは週末に姿を現し抗議集会に参加─日曜にはElBaradeiが政府と政権交代のため交渉することを支持する、と述べた。
同胞団のリーダーで前国会議員のMohammed el-Beltaguiは、「同胞団は状況のセンシティブさを理解している、特にイスラム過激派に対する西欧諸国の懸念を理解する。そのため、今回は前面に出ることには熱心にならずにいた」 と述べた。 エジプト政府はこれに対し、終日沈黙を守り何のコメントもしていない。
日曜日には抗議勢力は、ムバラクによって副大統領に指名されたSuleiman氏は古い護衛部隊の残骸であると非難、より徹底的な刷新を求める、との要求を発した。2人の元・軍幹部、Suleiman氏と Ahmed Shafik氏の指名は、今後の情勢においても、軍部が中核的な役割を担うであろうこと、恐らく動乱の後の情勢も左右し、次の政権の決定にも、影響を与えるだろうことを示唆している(写真は元情報相長官で、訪問先のワシントンD.Cから急遽帰国したOmar Suleiman氏)
この数日間に看守たちが仕事を放棄した刑務所からの収監者の脱獄なども相次いでおり、Wadi Natrounの刑務所からはムスリム同胞団の34人の囚人が脱出した。しかし金曜日までに彼らは再度拘束された…
http://www.nytimes.com/2011/01/31/world/middleeast/31-egypt.html?_r=1&hp=&pagewanted=all
*(参考記事)「オマール・スレイマン、エジプトの謎のスパイ組織チーフが副大統領に」Omar Suleiman, Egypt's enigmatic spy chief turned vice president: Profile
http://www.middle-east-online.com/english/?id=43958
Sunday, January 30, 2011
Tuesday, January 18, 2011
共存の夢を失いつつあるレバノン Is There No Place for People Like Me in Lebanon?- The delusion of co-existence in a sect-based country
レバノンには、私のような人間の住む処はもうないのか?
─セクト主義の国での共存、という妄想─
─セクト主義の国での共存、という妄想─
By Hanin Ghaddar (1/13、Slate.com)
レバノンの政府は崩壊した。ヒズボラが組織した策略によって11人の野党出身の閣僚が辞職し、レバノンは行方のまったく見えない新段階におちいった。誰もが、国連レバノン特別法廷による告訴の手続を待っていたが、陰鬱なシナリオについての終わりのない討論があるばかりだ。未来とはより一層、分裂した、不確実なものでしかない。
全てのレバノン人が唯一、分かち合っているものは怖れでしかない。シーア派は、イスラエルがこの機会を利用して、ヒズボラを再び討つのではないか、と怖れている。彼らのリーダーだった前首相Rafik Haririを2005年2月の暗殺によって失ったスンニ派は、ヒズボラが正義が遂行されることを許すことはないだろう、と怖れている。そして、政治的に2派に分かれたキリスト教徒は、それぞれがレバノンでの役割や、その存在の継続について苦悩している。
キリスト教徒たちは、イラクやエジプトや中東の他の地域で彼らが攻撃のターゲットにされ、またヒズボラがイランの資金を使ってキリスト教徒地域の広大な土地を購入している、とも伝えられるために、より怖れを強めている。
レバノン人であるなら、キリスト教徒かスンニ派かシーア派であらねばならない。さもなくばこの国に属している気はしないだろう。あなたには何の権利もなくなる。宗派的なコミュニティだけがあなたを保護し、そしてその見返りとして、あなたは全てのレベルで、それに忠誠を誓わねばならない: 政治的に、社会的に、そして、もしも要求されたならその宗教的制度に対しても。
それがアウトサイダーだ、と感じずにいるために必要なことだ。もしもあなたが、世俗的なレバノン人になろうと試したいならば、それもできる。それは難しいけれども不可能ではない。
私はかなり前に、ごく私的なレベルにおいて世俗主義を奉じようと決意した。しかし、レバノンの新しい代議士、Boutros Harbの提出した法案を読んで以来、私は元の箱の中に戻りたいと思うようになった:それは、シーア派教徒という箱にだ。Harbの法案は、キリスト教徒とイスラム教徒の間での土地や不動産の売買を15年間禁じるというものだったのだ。
無論その法律は、私に個人的に向けられたものではなかったし、私はHarbが法案を提出した動機を理解できた。レバノンのキリスト教徒として彼は怖れていた、彼の法案は、彼の属するコミュニティが抱える、確かな怖れを反映していた。(Harbの提起した法案は成立するとは思われなかった。たとえそれが次の閣議で議題に上ったとしても─それが何時のことになろうと─レバノンの多数派の政治家たちは反対すると思われた; ヒズボラはそうするに違いないのだ。それでも、それはキリスト教徒のコミュニティの絶望と、レバノンにおける全般的な傾向を反映していた)
たった今この地域には、相手を追放し、寛容性を捨て去ろうというムードがある。それが今、イラクやエジプトで起こっているのを我々は目にしているし、イスラム世界全域で高まるスンニ派とシーア派の争いがスーダンを分裂させたり、イエメンの統一を崩そうとしているのを見る。
Harbは、ヒズボラが土地を買うことによって国の人口構成の状態が変わり、キリスト教徒は家を放棄させられ、ひいては国を棄てねばならぬ事になる可能性を懸念している。彼の怖れは正しいが、Harbや、他のレバノンのキリスト教徒やスンニ派リーダーたちはなぜ、南部の土地が売り払われて空っぽになりつつあることに気づかないのだろう?
私は南部で生まれ、そこに18歳まで住んでいた。私は今、その地方に行くと、昔とはまるで違う土地に居る異国人のように感じる。その土地は色を失い、人々は微笑み方を忘れてしまった。
若いシーア派の男たちには若いキリスト教徒の男たちと同様に、この国から出ようと試みる理由がある。彼らは、きちんとした仕事と安全が欲しいのだ。レバノンの全ての人はシーア派の人々に対しギブアップし、彼らをヒズボラの手に委ねたようにみえる。好むと好まざるとに関わらず、シーア派にとってはヒズボラだけがサービスを提供してくれ、利益を守ってくれる存在となった。
レバノンのキリスト教徒がどんどん減少していることは確かだ… 彼らの多くはすでに国を出たが、Harbの法案はあとに残るキリスト教徒の問題を解決しはしない。キリスト教徒の問題とは、法律的な問題ではない、そしてそれは、全てのレバノン人が直面しているのと同じ問題: つまりヒズボラの武力とイランの金という脅威の問題だ。
レバノンに世俗的な市民社会をいまだに夢見ている世俗的なレバノン市民もまた、もしもHarbの法案が通ったなら、犠牲にされるだろう。ある点において私のような人々はおそらく、国を出た方がいいと感じることだろう─世俗的な個人を受け容れることのできないこの国のシステムにより、より一層疎外される危険性を冒すよりは。
10年前に私は、マロン派のキリスト教徒と結婚した。我々はフランスで民事婚(civil marriage)をしたのだが、数年後に我々はベイルートのキリスト教徒地区である、Achrafiehに家を買った。その後、我々には息子が生まれ、彼はレバノンの慣習により、自動的に父親と同じくキリスト教徒と認定された。
この10年間にレバノンは政治的なラインにそって分裂した: 「3月14日連合」と、「5月8日連合」だ。個人的にもジャーナリストとしても、3月14日連合の理念を支持するシーア派として、私はただちに反ヒズボラ派のレッテルを貼られた。
私のような人間─ 世俗的レバノン人で/独立的なシーア派教徒─ は、レバノンの国家からは決して信用されないマイノリティであり、我々はどこに行ってもアウトサイダーであるように感じる。私自身の(シーア派の)コミュニティのなかでも私はアウトサイダーとみられる、そして、私の住むキリスト教地域では私は異国人のような気がする。あなたの祖国があなたを拒絶していると感じるのは、フェアなことだろうか?
レバノンの(宗派や民族ごとの)セクトに基づいた法制度では、異なる宗教の信者の土地を相続することはできない。それゆえ、マロン派キリスト教徒である私の息子は私から相続ができない。たった一つの解決法は、私の資産を記号的(symbolic)な価格で私の息子に売ることを通じ、私が彼にそれを譲渡できるようにすることだ。もしもHarbの法案が通ったなら、それすらも不可能になる。私の息子は私からは何も相続できない。
Harbの提案は、怖れの時のなかから出現したが、怖れというものは人々を、彼ら自身のコミュニティに引き戻すことができる ─特にレバノンのような国…つまり国ではなく所属するセクトが、人々の出自の第1のポイントになる国では。しかし、これは解決にならない。唯一の解決とは、レバノン人として団結すること─つまり2005年の3月に我々がCedar Revolution(レバノン杉革命)を始めたときのように、そしてあの時、我々がなぜ、どうやってあんなに強くなったと感じたかを思い出そうと試みるべきだ。
我々は、レバノン市民としてそのなかで共にあると感じていたから、強くなれた。我々は強かった、なぜなら、我々は民主的で自由でモダンな国の夢を実現できる、と信じたからだ。我々がキリスト教徒やスンニ派、シーア派になりはじめた瞬間に我々は、その我々の夢を失ってしまった。 (*写真はSaad Hariri首相)
レバノンの政府は崩壊した。ヒズボラが組織した策略によって11人の野党出身の閣僚が辞職し、レバノンは行方のまったく見えない新段階におちいった。誰もが、国連レバノン特別法廷による告訴の手続を待っていたが、陰鬱なシナリオについての終わりのない討論があるばかりだ。未来とはより一層、分裂した、不確実なものでしかない。
全てのレバノン人が唯一、分かち合っているものは怖れでしかない。シーア派は、イスラエルがこの機会を利用して、ヒズボラを再び討つのではないか、と怖れている。彼らのリーダーだった前首相Rafik Haririを2005年2月の暗殺によって失ったスンニ派は、ヒズボラが正義が遂行されることを許すことはないだろう、と怖れている。そして、政治的に2派に分かれたキリスト教徒は、それぞれがレバノンでの役割や、その存在の継続について苦悩している。
キリスト教徒たちは、イラクやエジプトや中東の他の地域で彼らが攻撃のターゲットにされ、またヒズボラがイランの資金を使ってキリスト教徒地域の広大な土地を購入している、とも伝えられるために、より怖れを強めている。
レバノン人であるなら、キリスト教徒かスンニ派かシーア派であらねばならない。さもなくばこの国に属している気はしないだろう。あなたには何の権利もなくなる。宗派的なコミュニティだけがあなたを保護し、そしてその見返りとして、あなたは全てのレベルで、それに忠誠を誓わねばならない: 政治的に、社会的に、そして、もしも要求されたならその宗教的制度に対しても。
それがアウトサイダーだ、と感じずにいるために必要なことだ。もしもあなたが、世俗的なレバノン人になろうと試したいならば、それもできる。それは難しいけれども不可能ではない。
私はかなり前に、ごく私的なレベルにおいて世俗主義を奉じようと決意した。しかし、レバノンの新しい代議士、Boutros Harbの提出した法案を読んで以来、私は元の箱の中に戻りたいと思うようになった:それは、シーア派教徒という箱にだ。Harbの法案は、キリスト教徒とイスラム教徒の間での土地や不動産の売買を15年間禁じるというものだったのだ。
無論その法律は、私に個人的に向けられたものではなかったし、私はHarbが法案を提出した動機を理解できた。レバノンのキリスト教徒として彼は怖れていた、彼の法案は、彼の属するコミュニティが抱える、確かな怖れを反映していた。(Harbの提起した法案は成立するとは思われなかった。たとえそれが次の閣議で議題に上ったとしても─それが何時のことになろうと─レバノンの多数派の政治家たちは反対すると思われた; ヒズボラはそうするに違いないのだ。それでも、それはキリスト教徒のコミュニティの絶望と、レバノンにおける全般的な傾向を反映していた)
たった今この地域には、相手を追放し、寛容性を捨て去ろうというムードがある。それが今、イラクやエジプトで起こっているのを我々は目にしているし、イスラム世界全域で高まるスンニ派とシーア派の争いがスーダンを分裂させたり、イエメンの統一を崩そうとしているのを見る。
Harbは、ヒズボラが土地を買うことによって国の人口構成の状態が変わり、キリスト教徒は家を放棄させられ、ひいては国を棄てねばならぬ事になる可能性を懸念している。彼の怖れは正しいが、Harbや、他のレバノンのキリスト教徒やスンニ派リーダーたちはなぜ、南部の土地が売り払われて空っぽになりつつあることに気づかないのだろう?
私は南部で生まれ、そこに18歳まで住んでいた。私は今、その地方に行くと、昔とはまるで違う土地に居る異国人のように感じる。その土地は色を失い、人々は微笑み方を忘れてしまった。
若いシーア派の男たちには若いキリスト教徒の男たちと同様に、この国から出ようと試みる理由がある。彼らは、きちんとした仕事と安全が欲しいのだ。レバノンの全ての人はシーア派の人々に対しギブアップし、彼らをヒズボラの手に委ねたようにみえる。好むと好まざるとに関わらず、シーア派にとってはヒズボラだけがサービスを提供してくれ、利益を守ってくれる存在となった。
レバノンのキリスト教徒がどんどん減少していることは確かだ… 彼らの多くはすでに国を出たが、Harbの法案はあとに残るキリスト教徒の問題を解決しはしない。キリスト教徒の問題とは、法律的な問題ではない、そしてそれは、全てのレバノン人が直面しているのと同じ問題: つまりヒズボラの武力とイランの金という脅威の問題だ。
レバノンに世俗的な市民社会をいまだに夢見ている世俗的なレバノン市民もまた、もしもHarbの法案が通ったなら、犠牲にされるだろう。ある点において私のような人々はおそらく、国を出た方がいいと感じることだろう─世俗的な個人を受け容れることのできないこの国のシステムにより、より一層疎外される危険性を冒すよりは。
10年前に私は、マロン派のキリスト教徒と結婚した。我々はフランスで民事婚(civil marriage)をしたのだが、数年後に我々はベイルートのキリスト教徒地区である、Achrafiehに家を買った。その後、我々には息子が生まれ、彼はレバノンの慣習により、自動的に父親と同じくキリスト教徒と認定された。
この10年間にレバノンは政治的なラインにそって分裂した: 「3月14日連合」と、「5月8日連合」だ。個人的にもジャーナリストとしても、3月14日連合の理念を支持するシーア派として、私はただちに反ヒズボラ派のレッテルを貼られた。
私のような人間─ 世俗的レバノン人で/独立的なシーア派教徒─ は、レバノンの国家からは決して信用されないマイノリティであり、我々はどこに行ってもアウトサイダーであるように感じる。私自身の(シーア派の)コミュニティのなかでも私はアウトサイダーとみられる、そして、私の住むキリスト教地域では私は異国人のような気がする。あなたの祖国があなたを拒絶していると感じるのは、フェアなことだろうか?
レバノンの(宗派や民族ごとの)セクトに基づいた法制度では、異なる宗教の信者の土地を相続することはできない。それゆえ、マロン派キリスト教徒である私の息子は私から相続ができない。たった一つの解決法は、私の資産を記号的(symbolic)な価格で私の息子に売ることを通じ、私が彼にそれを譲渡できるようにすることだ。もしもHarbの法案が通ったなら、それすらも不可能になる。私の息子は私からは何も相続できない。
Harbの提案は、怖れの時のなかから出現したが、怖れというものは人々を、彼ら自身のコミュニティに引き戻すことができる ─特にレバノンのような国…つまり国ではなく所属するセクトが、人々の出自の第1のポイントになる国では。しかし、これは解決にならない。唯一の解決とは、レバノン人として団結すること─つまり2005年の3月に我々がCedar Revolution(レバノン杉革命)を始めたときのように、そしてあの時、我々がなぜ、どうやってあんなに強くなったと感じたかを思い出そうと試みるべきだ。
我々は、レバノン市民としてそのなかで共にあると感じていたから、強くなれた。我々は強かった、なぜなら、我々は民主的で自由でモダンな国の夢を実現できる、と信じたからだ。我々がキリスト教徒やスンニ派、シーア派になりはじめた瞬間に我々は、その我々の夢を失ってしまった。 (*写真はSaad Hariri首相)
1/12にレバノン内閣のヒズボラ閣僚達は辞職したが、Rafik Hariri暗殺事件を裁く特別法廷においては、告訴が提出された。
http://news.yahoo.com/s/afp/20110118/wl_mideast_afp/lebanontribunalpoliticscharges_20110118094315
http://news.yahoo.com/s/afp/20110118/wl_mideast_afp/lebanontribunalpoliticscharges_20110118094315
Sunday, January 16, 2011
爆破テロが、エジプトを宗教紛争の脅威にめざめさせた/ Blast Awakens Egyptians to Threat From Religious Strife
爆破テロが、エジプト人たちを宗教紛争の脅威にめざめさせた By マイケル・スラックマン(1/6、The New York Times)
土曜日にアレクサンドリアの教会の外で人々に死をもたらした自爆テロは、この国の政府と宗教リーダーたちに …30年近く権力を握ってきたHosni Mubarak大統領の旗印でもあった「安定性」というものを損なうかもしれない宗派間紛争に、エジプトが加速的に悩まされつつあることを認識させた。
木曜の夜には、エジプトのキリスト教徒たちがコプト教のクリスマスイブを見るために厳重な警戒の下で教会へと向かうにつれ、この国は21人を殺害した爆破テロの現実と苦闘しながらも折り合わねばならず、政府に弔意を表わす長い公的弔問リストがハイライトを浴び、ムスリムとキリスト教徒の間に拡大する宗教的過激勢力が国民の統合を脅かしている、との懸念が喚起された。 (*写真:爆破事件のあったアレクサンドリアのコプト教会 )
"私がよく耳にしているのは、このようなタイプの事件は連続する事件の先駆けとなることが多く、それはエジプトを新たなイラクにしてしまう、ということだ─それが今、怖れられていることだ”と、この国の最高位の宗教官僚、Grand Mufti Ali Gomaaのスポークスマン、Ibrahim Negmはいう。"ここではパラダイムシフトが起きつつあり、それは我々が宗派間紛争に対して何か手を打たねばならないことを示している”
当局がアル・カイダの仕業の特徴を示していたとするその爆発は、健康問題を抱えた82歳のMubarak氏が今年、現状の維持のために6期目の6年任期就任を模索する可能性を強めた。しかし、多くのエジプト人たちは、今その「安定性」こそが─あるいはそれを「停滞」という人もいるが─おそらくエジプトに横たわる最大の問題だとあげつらいはじめた。(*写真:テロ後厳重な警戒のしかれたカイロのShoubra教会)
"現政権は長年「安定性」という幻想のもとに我々を騙してきた"、と独立系新聞Al Masry Al YoumのMagdy el-Galladは書いた。"我々は進歩してもいないし、我々の状況は安定してもいなかったのだ”
政治エキスパートたちや政治家たち、コメンテーターたち、反政府運動のリーダーたちや、平均的市民たちが… 爆破テロに続いておきた暴動のあとで大統領が安定化の名のもとにとった策こそが─ 罪状の容疑もなく逮捕を行うことを許した非常事態法の温存を含めて─ 制度的な弱体性、弱い政党勢力、社会的・政治的・経済的問題を解決できない官僚機構、という状況を生じさせている、と述べた。
"政府が完全に、何事に関してもコントロールを失っているのは明白だ─と、カイロ大学の医学部教授でリベラル運動家のMuhammad Aboulgharはいう。"彼らが唯一握っているコントロールとは大統領のセキュリティ関係と、彼の周囲のグループ、そして少数の政党内人物に関するコントロールだが、それだけだ”─
しかしこうしたすべての批判が放たれたにも関わらず、この爆破テロはエジプトが…その穏健派イスラム的考え方や多文化を包含する寛容さという歴史的伝統にも関わらず、近年圧倒的に宗教的原理主義の色彩を強めているという…これまで政府が強く否定してきたような状況におかれている、とのコンセンサスを生んだ。
そうした見方が、Mubarak大統領が権力の掌握を放棄するつもりはない、との人々の信念をますます拡大したと、人々はいう。Mubarak氏は昨年ドイツで外科手術を受け、その後何ヶ月間も弱っているようにみえたので、誰が彼を継ぐのかについての憶測を招いていた。しかし最近彼に会った人々は、彼は元気を取り戻したようで、権力を譲渡する意思はないようにみえる、と語っている。
政治的エリートたちや、軍や、ビジネスコミュニティ、そして与党の国民民主党(National Democratic Party)の間では…爆破テロの以前から…今はまだすべてが非常に不確かななかでMubarak氏の息子のGamalを9月の大統領選の候補者とすべき時ではない、と考えられている。
"もしもMubarakが明日姿を消したならば、イスラム過激派がこの国で最強の政治勢力になるだろう”と、Arab Writers Union(アラブ文筆家協会)の会長、Mohammed Salmawyはいう。"各政党が一緒になっても、政権をとるほどの力はない、そして軍というものがこの国を無秩序に陥らせることも許さない。また、より悪いことに、イスラム武装勢力による武力支配が導かれることもありえる、なぜなら、軍が社会全体を代表すると考えられる理由もないからだ”
大晦日の夜のミサの直後に爆破が起こったとき、政府は異例の速さと正確さで動き、数時間のうちにはMubarak大統領が国民の結束を呼びかけるテレビ演説を行った。Gomaa氏らのイスラム教宗教リーダーたちは、すばやく爆破テロを非難し、コプト教会の教皇 Shenouda 3世に連絡を取った。
数日の間は国民の結束を訴えるポピュラーソングがラジオで流され、国中のビルボード(ビデオ広告看板)では、三日月と十字(どちらも、イスラム教やキリスト教の信仰を表す)のマークが表示された。そして政府官僚は、これ以上の暴力を防ぎ、今回は現状に横たわる問題を正すためのプランを最後まで遂行すると約束した。
しかしその努力はあちこちで、この国の無関心なエリート層によるうわべ飾りの物であるかのように片付けられた。
"エジプトの官僚たちが、舗装された道路や、建設された病院やホテルの数に夢中になっている内に… 国の象徴的な、あるいは思想的なミッション(the symbolic or the ideological mission of the state )というものがどこかで、枯れ果ててしまったのだ”と国民民主党の上級官僚Ali Eddin Helalはいう。"どんな国家も、数値や数字だけで生きられるものではないのだ。人々に意味、というものを与えなければ"
国民の結束に関する討議も、何千ものキリスト教徒とその支持者たちが街路に繰り出すのを止めることは出来なかった。
"政府は腐敗している!”と、火曜日にカイロのShoubra 地区におけるデモの一つに参加した23歳のMina Magdyは叫んだ。”もしも正義があるなら、誰もあえてこんなことはしない。でも、人殺しをするような人々は信用するに値いしない”
爆破事件は、差別法だと彼らが感じる物の下で長い間いらだちを感じてきたキリスト教徒たちに、フラストレーションのはけ口を開けた。
多くの人たちが、政府はイスラム教モスクの建設に関しては無制限に許しながらも、キリスト教会に関しては修復すらも制限しているといって苦情を言う。彼らは昨年、南エジプトの町Nag Hammadiで起きたクリスマス・イブの銃撃事件… ムスリムのガンマンがキリスト教の礼拝者たちを銃撃し、7人を殺害して10人を負傷させた事件… の後には誰も裁判で裁かれていないとの苦情を言う。そして彼らは、最近の国会議員選挙において、野党が総議席数518議席の国会のうち、20議席に足らぬ獲得議席数で台頭し…不正と投票操作への告発が大々的に広がったが、政府がそれを否定した、との苦情を述べる。
"この宗派的な空気は、若者たちを教会の枠組みの中に引きこもらせてしまう”とコプト・キリスト教徒で国会議員のGamal Asaadはいう。"政治的な参加の余地はなくなり、彼らを保守的な宗教的論議に対して敏感にさせる。もしも真の選挙があるなら、もしも真の国民の代表がいるなら、もしも真の人々による参加があるなら、政治的な決定はより適切なものになり、これらのすべての問題に呼びかけるものになるだろう"
過去数年の間、エジプトは表面上、終わりのない危機や後退の連続と闘ってきた。フェリーボート沈没事件では1000人の主に貧しいエジプト人たちが海に溺れ、制御不能な火災が歴史的な議事堂の建物を丸焼けにし、テロリストがシナイ地方のリゾートを攻撃し、労働ストライキがほばあらゆる業界の労働者たちに影響を及ぼし、昨年の南エジプトでの銃撃事件を含めて、宗派間紛争の色合いを帯びた暴力が巻き起こった。
そのほとんど全てのケースで、国はそれがセキュリティ上の問題だと声明を発し、警察を出動させ、容疑者を拘留し、群衆をけ散らした。それは、エジプトの多数派のイスラム教徒と少数派キリスト教徒(8千万の国の人口中10%)との間の緊張が拡大している、との証拠が山積しつつある2010年においても、同様だった。
"思うに2010年はエジプトの歴史上でとても、とても悪い年だった"、と著名なキリスト教徒の家系出身のMona Makram-Ebeidはいう。"これは国家的な覚醒となるのだろうか?もしもそうでなければ、それはとても、とても危険な日々が到来することの予兆なのかもしれない"
http://www.nytimes.com/2011/01/07/world/middleeast/07egypt.html?_r=2&ref=world&pagewanted=all
*中東は原理化の波に晒されている─人々は安定性の弊害と真の民主化を意識しはじめたようでもある
街頭デモを起こしたエジプトのキリスト教徒らは、爆破テロが政府の仕業と信じているようでもある…
Saturday, January 15, 2011
ヒズボラの、最新のスイサイド・ミッション/ Hezbollah’s Latest Suicide Mission - By THANASSIS CAMBANIS
サアド・ハリリ首相がワシントンのオバマを訪問しているその間に、レバノン政府のヒズボラ閣僚が総辞職し政権が崩壊した。ハリリ氏の政府は今、暫定的なケアテイカー・ガバメントの状態におかれた…
水曜日夜、イランの支援をうけたヒズボラの一掃作戦で、11人の閣僚が突然、Saad Hariri首相の政府を辞職した…これは30人の閣僚からなる政府を自動的に解散させる最低数だった。
この動きは、長らく論争をまきおこしてきた国連後援のレバノン特別法廷(STL)とつながっている… それはヒズボラの上層部メンバーを、2005年の前首相Rafiq Hariri(Saadの父)の暗殺に関与したとして訴追しようとしていたとされる。
シーア派武装グループ(ヒズボラ)は、そのような告発はレバノンに深刻な影響を与えるものだとし、欧米の支援するHariri首相に、彼らがそれを米国-イスラエルの手先と称する国際法廷を否認するように求めてきた─
http://www.middle-east-online.com/english/?id=43625
ヒズボラの最新のスイサイド・ミッション By タナシス・カンバニス (1/12, the New York Times)
火曜日のレバノン政府の崩壊は、ヒズボラが反政府グループから支配勢力へとのし上がる最終ステージを示すシグナルだった。ヒズボラが、法的にはベイルートで、政治的な野党勢力の頭目として留まっていることは、誤ってはいない: "神の党"はそのレバノンへのコントロール力を結集してその地位を守るためなら、何に対しても止まることはない─内戦を含めて。
この危機は、国連がバックで進めていた、2005年の前首相Rafik Haririの暗殺に対する調査法廷への、ヒズボラの反対によって勢いづけられた─ アナリストの中には、暗殺された前首相の息子であるSaad Haririによって率いられたレバノンの現政府は、同法廷の合法性を拒絶することで、情勢の安定を得られるのではないかと考える者もいる。
Hariri氏には、ヒズボラとの間のチキンゲーム(*)において厳然とその立ち場を守る以外に、本当に選択肢はない: 彼がヒズボラに屈することで短期的には苦境に追い込まれ得るにしても、彼は最終的に(父Haririの暗殺者は訴追すべきという)法的なルールを放棄する権限はない。 (*食うか食われるかの、限界のゲーム)
彼は、彼の父親を暗殺した者たちに対しての責任を主張せねばならないだろう…そのプロセスにおいて彼の立場を失うにしても。彼と同盟を組むことは、ヒズボラにとっては…ヒズボラが多元性を容認する、法律に準拠した価値観にこだわり、神権的かつ好戦的なその敵勢力とは異なる存在であろうとする限りは、有効なオプションであり続けるだろう。
今日のレバノンの苦境は、しばしば正義を犠牲にすることによってしか安定性が得られない、多くのアラブ世界諸国の事情のミラーイメージ(鏡像)でもある。さらに、それは米国の影響力の限界をも示している。ワシントンは2005年にHaririが政権を握ったとき、彼の政治的同盟に対して強いレトリカルな支持をあたえたが、しかしヒズボラの軍とその支持者たちがベイルートの支配権を掌握し、政府の30閣僚のうち10閣僚のポストを強圧的に占めたこと(“the blocking third”:ブロックできる3分の1)によって、拒否権を獲得するのを阻止できなかった。
今週、Hariri首相がワシントンでオバマ首相と会っていたその最中に、反主流派勢力の10人の閣僚が、他の独立系の閣僚たちとともに辞任したことは、ヒズボラによるそうした力(拒否権)の発動なのだ。
アウトサイダーにとっては、この危機は当惑を感じさせるかもしれない。Rafik Haririの車両爆弾による暗殺から5年以上たって、未だに国際法廷は容疑者を訴追できずに逡巡を重ねている。2006年夏のイスラエルとの戦争の後に再武装し再起したヒズボラは、政治的な、かつ大衆の支持を集めた一連の勝利をおさめた。そのスポンサー(資金供給者)であるシリアやイランによる影響力も、ただ、強化されただけだった。そして政府の安定を招いたかもしれない、シリアとサウジアラビアの間の対話は今週、分裂した。
それならヒズボラは今、政治的なダイナミクスを変えつつあるのだろうか?
単純に言えば、ヒズボラは、Haririの暗殺の犯人だと規定されることによって、その大衆的な人気を集めている彼らの合法性(legitimacy)を傷つけることはできない。同グループの力は、そのおよそ100万人の支持者たちの無条件の支援によって支えられている。ヒズボラにとって重要なのは、そうした選挙民だけであり、彼らはそうした人々に対し自らがイスラエルと米国による侮辱からアラブの尊厳を守る唯一の保護者、というスタイルをとっている。
こうした支持者たちは、もしも彼らの党が… この国のスンニ派ムスリムに愛され、キリスト教徒にも、ドゥルーズ派やシーア派ムスリム(=ヒズボラの主要な支持グループ)からも尊敬されていたリーダーを殺害したと証明されたなら…余り許せるとは思わないだろうが、どうにか必死に理解したいと思うことだろう。それゆえにヒズボラは… 2008年にレバノンをイスラエルに対する内戦の際に追いやった戦争をはじめたことの責任は臆面もなく認めたにも関わらず… Hariri暗殺におけるいかなる役割も否定している。
しかし、彼らの言い訳は通じなくなりつつある。携帯電話の記録に基づいて漏洩された証拠が、ヒズボラが暗殺現場にいたと証明している。ヒズボラのリーダーたちは、彼らの部下たちがRafik Haririを保護しようとしていた、そして暗殺の背後にいたのはイスラエルだ、と主張する。しかし、もしも彼らがHaririを討ったことと他の穏健派のレバノンの人物たちの暗殺計画に加担していたことが証明されたなら、多くの市民たちの眼には、ヒズボラも権力に酔った武装派グループの一つに過ぎないと見られることになるだろう。
Haririの若い息子にはどんな選択肢があるのだろうか?彼は2009年に過半数の議席を獲得し(今は)断片化し縮小している政治同盟を率いているが、ヒズボラとその同盟者たちよりも支持票は少ない。しかし、彼の最良の戦略はシンプルだ…もしも彼に、その度胸があるなら: 国連法廷にこだわり続け、そこで得られた証拠を、裁判にかけることだ。
ヒズボラ(またはシリアの彼らの後援者たち)がRafik Haririを暗殺した、と信じざるを得ない証拠を整えることは国際的な法廷の訴追人に負っている。今は、首相はより説得性あるやり方で、その課程の公平さを信頼していることを主張すべきだ。もしもヒズボラが無実ならば、彼らは法廷で罪を免れるだろう; もしも有罪な場合、なぜ彼らは逃げねばならない?
この戦略が成功する確率は大きくはない: ヒズボラは最終的な勝者として現れる可能性が強い、なぜなら彼らは中東での、そしてイスラエルとの戦争における彼らの立場を維持するために、レバノンの国を喜んで犠牲にするからだ。しかしレバノンの孤独な首相には、解決のために長い射程のショットを撃つ以上のよい選択肢はない; さもなくば彼は、ヒズボラが罪を免れるために奉仕する従僕になってしまう。
(Thanassis Cambanisは“A Privilege to Die: Inside Hezbollah’s Legions and Their Endless War Against Israel.” の著者)
http://www.nytimes.com/2011/01/13/opinion/13cambanis.html?_r=1&hp
*最近立ち消え状態にあった国際法廷…暗殺の真相を知られたくないナスララは終の一手を打ったのだろうか?
*関連記事
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2010/10/how-party-of-god-became-lebanons-most.html
神の党はどのようにして、レバノンで最強の勢力になったのか─ヒズボラの進化 (2010/10/10)
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2009/06/new-evidence-points-to-hezbollah-in.html
ヒズボラがハリリを暗殺したのか?/国際法廷捜査のブレークスルー: ハリリ暗殺へのヒズボラの関与をさし示す新しい証拠 (2009/6/12)
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2009/03/lebanese-split-over-hariri-tribunal-by.html
ハリリ暗殺事件の特別法廷の近況とは? (2009/3/8)
Tuesday, January 11, 2011
正しい一杯の紅茶の淹れ方とは?How To Make a Decent Cup of Tea - By Christopher Hitchens
ヒッチンズの肩の凝らない新年のコラムは…ヨーコ・オノの、John Lennon30周忌のトリビュートをからかっているのだが…
…ヨーコが書きたかったのは、彼らの叔母さんが齢をとって記憶違いをしていた、というだけだったのではなかったのか?How To Make a Decent Cup of Tea-
Ignore Yoko Ono and John Lennon, and heed George Orwell's tea-making advice.
正しい一杯の紅茶の淹れ方とは?
─ヨーコ・オノとジョン・レノンは無視して、ジョージ・オーウェルのティー・メイキングのアドバイスを心に留めよ (By クリストファー・ヒッチンズ (1/3、Slate.com)
“Magnum のPhotos gallery ”British teatime.”http://todayspictures.slate.com/20110104/ をご覧ください”
正しいカップ一杯の紅茶にはルールがある。今や年末から新年への、人々のラマダン同様の長さのニュースタイルの休暇に、Hanukkahの(ユダヤ教の)お祝いとホリデーセールの慌しい商戦を足したこの日々を、無事に終えた最初の瞬間に…私は心からの最初の一口を啜って向き合うことができる。それは12月8日のことだが、ヨーコ・オノが、彼女の夫の暗殺から30周年忌に寄せたトリビュートを書いていたのだ。その、New York TimesのOp-Edページのコラムで彼女は、彼女ら二人がどのようにして、時折り一緒に紅茶を作っていたのかを想い返していた。…彼は、彼女のそのやり方について、"ヨーコ、ヨーコ、君はティーバッグを先にカップに入れるべきなんだ、そして、次に熱湯を入れるものだ”("Yoko, Yoko, you're supposed to first put the tea bags in, and then the hot water." )といって、誤りを正していた。(彼女はこのことを語りながら、彼の英国人性というものを二つの意味において描写していたのだが─ 私が思うには、彼は実際には言葉の順番を入れ換えて、このようにいっていたのは確かだと思う…"put the tea bags in first"、と) …これだったらfine、もちろんexcellentなのだ、そして私は感謝しながら頷くのだが、しかし、するとまた別の一撃が落ちてくる。ある晩のこと、彼は彼女に、彼の叔母が彼にこういって誤りを直させたのだ、と報告する。お湯はもちろん、ティーバッグよりも先にいれるものなのだ、と。 "それなら私たちは、いつもこうした機会に、間違ったやり方をしていたの?" と、彼女は問いかける。 " そのようだ"、我々のヒーローが答えた…その瞬間に、一世紀以上ものリバプールの不屈の伝統に対する変節者となって。
私はただ、このことがもたらすかも知れない弊害について、考えたくないのだ。米国ではすでに…あなた自身がその仕事を引きうけない限りは…カップかポットに一杯…本来、それがそうあるべき風味にわずかでも似た味のする紅茶を得ることなど、実質的に不可能となっている。ここではカップかポットに入ったもう沸騰していないお湯が、その脇に出される冷たい皿に寝かされたティーバッグと共に供される…ということが、きわめて普通になっている。そして次の作業とは、なまぬるいお湯を注ぐというばかげた動作で、そして何らかの色の変化が起こるまでティーバッグを湯に沈め、最後にその結果生じた残滓と何か気落ちするタンポンの代用物のような物をどうにかして廃棄する。その飲み物自体は棄てたほうがましの代物となるが、もしも飲みこんでしまったならそれは、James Earl Carter大統領の回想録を読むと同じくらい、あなたの士気を低落させる効果をもっている。
今ここで、紅茶が丁度コーヒーのように、バッグと共に出されない場合を想像してほしい(もしもあなたが、かつてそれを適当なブリキ缶入りで買った際にはそうしていたか、今でもそうしているように)、あなたはそのどちらの場合にも、熱湯を注いで少しの瞬間おいてから、一掴みの茶葉をその上に注ぎいれよう、と思うだろうか?私は違うと思う。一度やってみれば二度とはやらないだろう、もしもあなたがいいストレーナー(茶漉し器)をもっていたとしても。コーヒーの場合には敏速にやれば上手くいくかも知れないが、そうすることのメリットはどこにある?轢いた豆は(茶葉よりも)重くて稠密なものだが…どんな場合にも良いコーヒーには、ほとんど沸騰したての熱湯が求められる。それに対して紅茶とは、ハーブ(草の葉)で、完全に乾燥しているものだ。その内なるクオリティをリリースさせるためには、それは蒸らさねばならない。そして蒸らす(淹れる)過程では定義上、お湯が葉に当たるときに、そのお湯は沸騰していなければならない。このことだけ把握すれば、あなたは事の根本が判るはずだ。
第二次大戦直後の英国で厳しい食糧配給がなされていたとき、ジョージ・オーウェルは、一杯の正しい紅茶の淹れ方に関する記事(*)を書いたが、それは11の異なる "ゴールデンルール"の考察だった。それらのなかの幾つか(常にインドかセイロン─つまりスリランカ─の紅茶を少しだけ、使うべきで、銀製のポットは避けよ、といった条項は)オプショナルな事項か、もう時代遅れとみなされるかもしれない。しかし本質的な事項は簡単に暗記できるし、そして簡単に実行できる。
(*http://www.booksatoz.com/witsend/tea/orwell.htm ) 苛(いやしく)もポットを使うのなら、前もって必ずそれは温めておくことだ。(私は、単にカップかマグカップだけを使う場合であってもそれを勧めたい。)茶葉は、湯に浸される前にかき混ぜること。しかし、何よりもまず…、"あなたはティーポットを薬缶のそばに持ってくるべきで、その逆をすべきではない。熱湯は茶葉に衝突する瞬間に鋭く沸騰しているべきであり、それゆえに熱湯は、注いでいる間にも炎の上に置かれていなければならない"。それは難しいことではない、もしあなたがガスではなくて電力を使っていたとしても…ひとたびあなたが材料道具をすべて薬缶のすぐ隣のひとつの場所に持ってきたなら。
まだ、完全に終わってはいない。もしミルクを使うのなら、最もクリーミーでないタイプを使わないと、紅茶は吐き気を催すような味になってしまう。そしてミルクを先にカップに入れてはならない─ このことで、家族間の対立は何世代にもわたって継続する… なぜならあなたは(ミルクを)多く入れすぎてしまうからだ。それは後から入れること、そして、注ぐ際にはとても注意が必要となる。最後に、見苦しからぬ円筒形のマグカップは浅くて飲み口の広いティーカップよりも、必要な温度や味(フレーバー)をより長く保つことができる─これらの要素が、同時に影響を与えることが何と多いのだろう。オーウェルは砂糖が紅茶の味を圧倒してしまうと考えたのだが、私が思うに、ブラウン・シュガーや蜂蜜なら許容されるし、時には必要だろう。
比較的最近…数年前まで、アメリカでは、熱くて黒っぽい(blackishな)もの、または不味い(brackishな)ものならば何でも、コーヒーの名のもとに売られていた。それは過激なほどに薄く(weak)、過激なほど苦く調整され、そしてしばしば、沸騰点にあった…何の必要性もないのに。(私は過去形を使ったが、今だにそれがそのままである場所は沢山ある、そしてそれは2杯目のおかわりのフリー・リフィルが、何の戸惑いもなしに行われている理由も説明する)最低でも、大きな都市では消費者は今や、彼ら自身(の好み)により一層こだわるという考えを持つようになってきた…しばしば、うんざりする位に…好みのLatte(あるいは、それが何と呼ばれようと)についてあまりにも細かい注文をする人々の列の後ろに立っていて、我々はよく知っていることだが。
もしも、あなたが次にスターバックスか、それと同じような店で紅茶を飲みたいとおもったなら、忙しなくカップに入れて出される熱湯と、それに付けて出されるようなティーバッグを拒否することを、怖れてはならない。それは、あなたが注文したものではない。茶葉をカップに先に入れて、お湯は沸騰しているべきだ、と主張すべきだ。もしも、後ろの客が何かを呟くのが聞こえたら、その言葉を広めるがいい。そしてそれを、家でも試みるべきだ。…もしも忍耐心があるなら、お湯に放つことのできる茶葉とストレーナー(茶漉し器)を使って。私には感謝をしなくていいから、ハッピーニューイヤー。
http://www.slate.com/id/2279601/
ザ・ティーメーカー (The Tea Maker)By ヨーコ・オノ(12/7、The New York Times) JOHNと私は深夜、ダコタハウスのキッチンにいる。3匹の猫 ─サーシャ、ミーシャ、そしてチャロ─ が、私たち2人のために紅茶をつくるJohnを見上げている。
サーシャは白、ミーシャは体じゅうが黒い。この2匹は、ゴージャスでクラシックなペルシャ猫だ。その一方、チャロは雑種だ。Johnはチャロに特別な愛情をもっていた。"お前は可笑しな顔をしているな、チャロ!"彼はそう言っては、彼女を撫でる。
"ヨーコ、ヨーコ、君は最初にティーバッグをカップに入れるべきだ、そしてその次に熱湯を入れるものだ" Johnは紅茶を作る役を請け負った…英国人として。そこで私は、その役を降りた。
家の中に何の音もない真夜中になってから、Johnの作るお茶を啜るのは素敵なことだった。しかしある夜、Johnはいった、"今日の午後、僕はMimi叔母さんと話をしていた。彼女は、お湯を先に入れるものだというんだ。そしてそのあとに、ティーバッグを入れるのだと。僕は誓って彼女は、ティーバッグを先に入れよと教えてくれた、と思ったんだが…"
"それなら、私たちは、いつもこうした機会に、間違ったことをしていたの?"
"そのようだ…"
我々2人は笑い出した。それは1980年のことだ。私たちの何れも、それが2人が共に生活する最後の年だとは知らなかった。もしもJohnがここに居たなら、今日が彼の70歳の誕生日だったはずだ。しかし、人々は彼がここに居るか、居ないかを尋ねたりはしない。彼らはただ彼を愛し、彼への愛と共に彼を生かし続けている。私は世界中の人々から、彼らが今年、Johnがその短い地球上の40年の生涯の中で私たちにくれたものに対して感謝をし祝福している、と知らせるノートを受け取っている。
私たちが彼から受け取った最も大事な贈り物は言葉ではなく、行動だった。彼は真実を信じて、そして声を上げた。我々は、彼が権力を持つ一部の人々を怒らせたことを知っている。でもそれがJohnだった。彼はそれ以外のやり方はできなかった。もしも今彼がここに居るなら、私は彼が未だに真実を叫んでいたと思う。真実なしには、世界に平和をもたらす途はない。
今日、この彼が暗殺された日に、私は、彼と紅茶を飲みながら笑い出した夜を思い出す。
ティーンエージャーは帽子が落ちただけでも笑い出すものだ、と人々はいった。今、私は多くのティーンエージャーたちが悲しみ、お互いに怒りを抱いているのを見る。Johnと私は、とてもティーンエージャではない。でも、私たちの思い出とは、2人が笑い合うカップルだったことだ。
(ヨーコ・オノはアーティスト)
http://www.nytimes.com/2010/12/08/opinion/08ono.html
〔*ヒッチンズのコラムの最初の1行は当初あったものが現在のWebsiteでは削除されているようだ〕
Tuesday, January 4, 2011
アル・カイダが、東方キリスト教徒をテロのターゲットに?/ Qaeda seeks Muslims-Christian division in Mideast- By Acil Tabbara
アル・カイダは、中東でのムスリムとキリスト教徒の間の亀裂を利用しようとしている
─アナリストは言う:“中東のキリスト教徒は、攻撃すれば宗派間の衝突が容易にエスカレートする、アル・カイダにとってイージーなターゲットで、イスラエルに利益する”─
ドバイにて By アシル・タバラ
(1/4, Middle East Online)
アル・カイダは、中東のキリスト教徒には反撃の能力がなく、彼らを攻撃すれば宗派間衝突に容易にエスカレートさせられるイージーなターゲットだ、と発見した。
アレクサンドリアのコプト教会で元日に発生した、21人が死亡し79人を負傷させた明らかな自爆テロについての犯行声明は出ていないが、エジプト政府はアル・カイダが間接的に関わっていると示唆している。
46人のキリスト教徒を殺害したバグダッドのキリスト教会への攻撃への犯行声明を出したアル・カイダの一派ISI(Islamic State of Iraq)は、コプト教会に対する脅迫も行っていた…イスラム教に改宗した二人のコプト聖職者の妻たちを彼女らの意に反して、拘束していたとして。
そして12月には、アル・カイダの関連ウェブサイトShumukh al-Islamが、土曜日に爆弾テロのあったアレクサンドリアのAl-Qiddissin (聖人)教会を、ターゲットのコプト教祈祷所の一つとしてリストアップしていた。
“キリスト教徒は他のコミュニティよりもイージーで、弱いターゲットだ”と、バーレーンに本拠をおくInternational Institute for Strategic Studiesのアナリスト、Emile Hokayemはいう。
これは“アル・カイダの新たなる戦略なのだ。(それに比べて)シーア教徒を攻撃することは政治的なコストが高く、彼らには反撃の能力があるため深刻なダメージをもたらす”と、彼はイラクのスンニ派グループについて語った。
“米軍を攻撃することでも(また)、報復攻撃の脅威がもたらされる、それに反してキリスト教徒は報復できない”と、Hokayamはいう。
スンニ派武装勢力がイラクのサマラのシーア派聖廟を2006年に爆破して以来、信仰を異にする者同士の戦闘が勃発し、何千もの人々の命を奪った。
“アル・カイダは非イスラム教徒をすべて背教者であると信じていて、それゆえ彼らを殺害する権利があると信じている”、とイエメンのイスラム原理主義運動のアナリストSaeed al-Gamahiはいう。
“アル・カイダはムスリムとキリスト教徒の間の不安定さ(unrest)と宗教間の衝突を喚起し、おそらく内戦を引き起こそうとしている”、エジプトにおいて…と彼は言う。
彼らのネットワークは“彼らがそこに安住し損ねた国内で、混沌(カオス)状態を引き起こしている”。
土曜日の地中海岸の港湾都市における攻撃は、何百人ものキリスト教徒の若者と警察との間の衝突を含む、怒れる街頭デモを引き起こした。
月曜日遅く、カイロ北部地域の反対者たち(protesters)が、何千名ものコプト教徒の街頭デモを阻止しようとした警察に投石したことで、再び緊張状態が溢れ出た。
エジプトでは、金曜日のコプト教のクリスマス・デーを前に高度な警戒宣言が出された─その日は毎週のムスリムの祈祷・安息日でもあるが─そしてコプト教リーダーの教皇Shenouda3世は、通常通りクリスマス・イブのミサでスピーチをする積もりであると語った。
テロの脅迫の後、ヨーロッパとカナダのコプト教会でも同様にセキュリティが強化されている。
ドバイのInstitute for Near East and Gulf Military Analysisの主任、Riad Kahwajiは、アレクサンドリアの自爆テロだけでは、アル・カイダが戦略を変更をしたとは、結論づけられないという。
オサマ・ビン・ラディンや、エジプト生まれのアイマン・アル・ザワヒリを含む同グループのトップリーダーたちは、未だにキリスト教徒をターゲットにするという明確な声明を発していないという。
東方キリスト教徒をターゲットにすることは、この地域での対立を拡大し、イスラエルに利益することになる”と彼は警告する。
レバノンでは月曜日に、有力日刊紙Daily Al-Naharがこの事件を米国での911になぞらえて、”アラブ世界の、恒久的なSeptember 11”と呼べる、と指摘した。
”これはイラクとエジプト、そして恐らくその他の、宗教的な多様性を擁するアラブ諸国全土に広がる(そこにはレバノンなどの多くのキリスト教徒が含まれる)、危険な暴力的企みだろう”、と同紙は語る。
その他のレバノンの日刊紙As-Safirは、アレクサンドリアでの攻撃が、”エジプトとアラブ世界の未来に地震をもたらすシグナルだ”、と書いた。
バチカンによれば、キリスト教の揺り籠である中東地域には総人口3億6千5百万人中のうち、2千万人のキリスト教徒が住んでいるという。
アナリストたちは全て、こうした攻撃が中東からのキリスト教徒のエクソダスを進めるだけだろう、という点で意見を同じくする。
12月にはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が、10月31日のバグダッドの教会での虐殺の後にイラクの何千人ものキリスト教徒が”エクソダス”を開始した、との報告をしている。
バグダッドやアレクサンドリアの教会へのこうした攻撃は“地域全域でのキリスト教徒のパラノイアと恐怖感を拡大し、彼らが標的になりたくはないという信念を高めるだろう。
”それは既にキリスト教徒が激減している地域の、移住の動きをさらに加速することだろう”
(写真はカイロでの抗議デモのキリスト教徒たち)
http://www.middle-east-online.com/english/?id=43413
*中東学者のJuan Coleは、アレクサンドリアでのテロについてのアラブ各紙のレポートをブログに掲載している─
Christian Crowds Protest Violently in Egypt
エジプトで、キリスト教徒の群衆が暴力的に抗議 By Juan Cole (1/2、Informed Comment)
日曜日に、数多くの若いキリスト教徒の群衆が、アレクサンドリアとカイロの街頭で抗議デモを行った─
アレクサンドリアの抗議の群衆は、土曜日の朝、爆破され21人の死者と100人程の怪我人を出したSaints Cathedral に近づこうとして機動隊に阻まれた。カイロのAbbasiya地区では、720万人強のコプト正教徒の精神的リーダーであるコプト教皇Shenouda III世に対し、高位の人物たちが弔意を示しに訪れたSt. Mark’s Cathedralの周りに群衆が集まった。
─私は1970年代に大学院生だった折、Abbasiyaに住んだことがあり、コプト教徒の近隣住民達と会話したことを覚えている─
Misr al-Gadidah紙によれば─
同アラビア語紙によると要人たちが教皇Shenoudaを次々に訪問したが、そのなかには Al-Azhar seminaryの聖職者である Dr. Ahmad al-Tayyibや数人の閣僚たちも含まれた。騒々しい抗議の群衆は、彼らが立ち去ろうとする際に話しかけ、彼らの車を叩いた。少なくとも2人の閣僚が、怒れる群衆によって聖堂内に1時間半ほど拘束された。機動隊は何十にも取り巻き遂には群衆をけ散らした。
抗議デモの群衆はエジプトの内務大臣(米国の国土安全省Homeland Securityのチーフとほぼ同格)に対し、彼が土曜日の爆破テロを防ぐべき任務にあったとし、信任性欠如の面から辞任を要求した。
Al-Arabiya紙は─
スンニ派原理主義グループのIslamic State of Iraqが、聖人教会への攻撃を2週間前に指令しており、そして彼らは攻撃ターゲットとする教会のリストを掲げていたと報じている。イラクのスンニ派の原理主義者たちは中東のキリスト教徒を、米国など、外部世界のキリスト教徒勢力の協力者だと捉えているが、この見方は誤解にもとづいている。またエジプトにおいては、コプト教聖職者たちの2人の妻の件が論議を呼んでいる─彼女らは虐待を受けたため、夫たちから逃れる為イスラム教に改宗を試みたと報じられるが、エジプトの公的権力がそれを阻んだとされる。イラクとエジプトのスンニ派原理主義グループはその事件に怒りを感じ、コプト教徒たちに報復を企てたとされる。
そんな中で、(バチカンの)教皇ベネディクト16世とAl-Azhar Seminaryの聖職者Dr. Ahmad al-Tayyibとの間に、小さな諍いがあった。教皇は(今回のテロに反応して)世界のリーダーたちに対してエジプトのキリスト教徒の保護を訴えた。Al-Tayyibはこれを拒否し、それはエジプトに対する内政干渉であると呼んだが、彼は同時にエジプトのキリスト教徒に対する攻撃に対する熱烈な非難をも繰り返した。彼は教皇が何故、イラクでムスリムたちが殺されていた際にはこれを止めさせるように国際社会の介入を呼びかけなかったのか、と問うた(彼が言うのは恐らく米軍によって、という意味であろう)
エジプトのキリスト教徒への攻撃は、エジプトで現在は平和的な原理主義運動グループであるムスリム同胞団のスポークスマンによっても非難された。彼らはその攻撃が、すべてのエジプト人にネガティブなインパクトを与えたとし、犯人らを逮捕するよう求めている。ムスリム同胞団は、イスラム革命のための暴力行使を否定するムスリム同胞団というものを非難するアル・カイダとは、反目的な関係にある。しかしそのあとこの同胞団のスポークスマンは─レバノンのシーア派ヒズボラを(先の内戦で)爆撃したイスラエルへの非難と、その攻撃の犠牲者遺族への弔意を表すことで、すべてを台無しにしてしまった…。
イランもまた今回のテロ行為を非難した(シーア派のイランは、ハイパー・スンニ派であるアル・カイダを恐れ、憎悪している)。
http://www.juancole.com/2011/01/christian-crowds-protest-violently-in-egypt.html
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