Thursday, January 26, 2012

民主的なエジプトの船出? 象が飛ぶのを見守る Watching Elephants Fly- By Thomas Friedman

"サラフィ主義政党までもが、
25%の議席を獲得した"
The Salafists' election wins have
surprised many Egyptians

1月23日エジプトでは、60年来初の自由選挙で選ばれた、
新らしい民主的議会が船出した─

Watching Elephants Fly(象たちが飛ぶのを見守る) By トーマス・L.フリードマン(1/7, NYタイムス)

 いつの日にか私は是非、今ちょうど1周年を迎えているエジプトの民衆の反乱を論ずるジャーナリズムのコースを考えたいものだ。初回のクラスの内容は、このようになるだろう: あなたは象が飛ぶのを見たなら、常に何も言わずノートをとるべきだ。エジプトで起きた反乱とは、象が飛ぶようなものだ。誰もそれを予測しておらず、それを見たこともなかった。予測もしていなかったものがどこへ行くのかを、誰が知っているだろう?だから今は、何も言わずにとにかく口を閉ざしてノートをとることが最もスマートだ。

  もしそうするなら、あなたが最初にノートに書くことは、イスラミスト政党(原理主義政党)の党員たち…即ちムスリム同胞団やサラフィ主義のAl Nour党員たちが世俗主義政党のリベラルたちを下して、エジプトの自由議会選挙で65%の議席を獲得し、ここで実際に反乱の火花を散らしたことだ。神権主義的で反・多文化主義的、女性の権利には反対する、外国人嫌いのこうしたイスラミスト政党の傾向を懸念しないのは無謀でナイーブすぎる。しかし、この国の新たな権力の中心を争って権力を掌握した彼らの責任や、国民に雇用やクリーンな政府を提供せねばならない主要課題に激突して彼らが穏健化すると思わないなら、今日のエジプトの政治的ダイナミズムを見過ごすのも同じことだ。

 私と一緒に、水曜日に私が訪ねたカイロの赤貧地区Shubra el-Khemaの、Omar Abdel Aziz schoolのぼろぼろの校舎の女性専用投票所を訪れてみるがいい…私はそこで、最後の決選投票の様子をみていた。我々は、22歳の商業科の学生で、昨年タハリール広場でHosni Mubarakの政権を倒そうと闘った、低所得地域出身の世俗主義の若者Amr Hassanのガイドでそこを訪れていた。衝撃的だったこととは─ 票を投じた後にインタビューした女性たちが悉くムスリム同胞団かサラフィー主義者に投票した、と答えたことだ(彼女らは皆ベールを被るか、目だけをスリットから出していたが)しかし彼女らの中に、宗教的な理由で彼らに投票した、という女性はほとんどいなかった。

 多くの人が、イスラミスト政党に票を投じた理由とは、彼らがその地域に住む隣人で顔見知りの人々だったからだという…リベラルな世俗主義政党の候補者たちは一度もその地域を訪れたことがなかったという。年配の文盲の女性らのなかには、投票用紙を読めないために、子供らのいうままに候補者に票を投じた、と認めた人たちもいたが。しかし現実的に、彼女らのすべてがムスリム同胞団かサラフィストの候補者に対して、よりよい誠実な政府を期待できるがゆえ(…より多くのモスク建設や、飲酒禁止令ではなく)彼らに投票したのだと語った。

  ここに一人のエジプト女性が、なぜイスラミスト政党に投票したかのインタビューがある: 「私はムスリム同胞団が好きなのだ、彼らだけが誠実な人たちだ…私はもっとよい教育政策を望むし、きれいな空気が吸いたい。私たちには適切な医療福祉制度が必要だ… 私は、私の子供たちにきちんと教育を受けさせたい…彼らには仕事がない。ムスリム同胞団は単なるイスラミストの政党ではなくて、この国のすべての問題の解決に寄与するだろう。我々は若者がもっと働いて、昇給してもらえるようになってほしい…この国の教育は、悪化するばかりだ。私が一番怖れていることは、治安の問題だ。我々は家にいるときも怖がっている。我々は息子たちが学校と家を往復する間に誘拐されるのではないか、と怖れている」

 そんな中で私は、我々のガイドの若い革命運動家Hassanに、彼が誰に投票したのかを尋ねてみた。彼は彼の投票用紙に「SCAFを打ち倒せ」、と書いたという─SCAFとは現在国を治めるエジプト軍の評議会だ。彼は、彼のような世俗的若者たちがムバラク政権を転覆させている間に、イスラミストの政党が選挙戦に立候補し、軍の司令官たち(彼らは自分たちの保身のために、ムバラクを見捨てたのだ…)が未だに政権に留まっている状況への嫌悪感を吐き捨てるように口にした!

  そしてそこに、エジプトの今日がある─ 軍部と、上り調子のイスラミスト政党と、より小さなリベラル政党、そしてタハリール広場の世俗的な若者たちの間の、4日間の勢力争いだ。彼らのすべてが、この物語の展開の行く末について意見をいうことだろう。「我々は、新しい考え方をもつ新しいエジプト政府を望んでいる」とハッサンはいった。「自分は、必要ならばいつでも再び、タハリール広場に戻る用意がある」。


人々は物価や雇用・治安への対策を求めた
   無論、いまや誰もが一層力を得たようにも感じている。軍は武力を維持しつつ、いまや国を治めている。イスラミスト政党もリベラル主義者も共に、選挙民からの委託票を獲得した。そしてタハリール広場の世俗的な若者たちは、大衆の支持を得ていると感じている─ もの事がうまくいっていないと感じたときには、いつでも闘うために仲間を動員できる…という彼らの能力が証明されたことによって。いまやこの国の「ソファに座っている党(The Party of the Couch)」と呼ばれるサイレント・マジョリティでさえもがより一層力を得たように感じ、選挙でも多くの票を投じたのだ。


会議場へ入る議員ら
   選挙についての私のお気に入りのエピソードとは、選挙の内部オブザーバーが私に語ってくれた話だ(彼は匿名を希望しているのだが)。彼の投票所がちょうど閉まり、投票用紙の詰まった箱を投票所のワーカーたちが中央の開票所に運ぶべくバスに積みこんでいると、投票を終えたばかりの一人のエジプト人女性が叫んだという、「お願いだからその投票箱を、ひとつだけ置き去りにしたりしないで。それは私たちの未来なのだから…確実に運んで、正しい場所に置いてきてほしい」、と。

ムスリム同胞団の女性議員たち
Brotherhood's female parliamentalians

 その投票箱と、多くの平均的なエジプト人たちの手でそこに詰められたすべて希望は、この国の新たな始まりにとって確かに必要なものだ。でも、まだそれは充分ではない。この国にはリーダーが必要だ─この国のトップには、いまだに大きな真空がある─これらのすべての票を、すべての希望を引き受け、すべてのエジプト人が明らかに渇望している雇用や教育制度、司法制度や治安を生み出す戦略へと融合できるような誰かが。もしそれが起こるなら、これらの投票箱は真に、エジプトにこれまでとは違う未来をもたらすだろう。それまで私はただ、ノートをとるだけだ。
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/friedman-watching-elephants-fly.html?ref=thomaslfriedman
 *ここで触れている「ガイドの若い革命家のHassan」の言葉…若者の行った革命が軍や原理主義勢力に乗っ取られつつあるとの話は、最近「アラブの春」全般について語られがちでもある…


エジプト議会選最終結果 ムスリム同胞団系47%で第1党 (1/21, Sankei)

 エジプトの選管当局は21日、昨年11月から今年1月にかけて行われた人民議会(下院に相当、公選議席498)選の最終結果を発表、同国最大のイスラム原理主義組織ムスリム同胞団傘下の自由公正党が、全体の約47%にあたる235議席を獲得し第1党となった。
 イスラム教の原点回帰を唱えるサラフ主義政党「ヌール党」は事前の予想を大きく上回り約25%を確保して第2党に躍進。主要なイスラム政党2党だけで全議席の7割超を占める結果となった。

 世俗主義政党では、中道右派の新ワフド党が約8%、政党連合「エジプト連合」が約7%の議席にとどまった。昨年2月のムバラク政権崩壊後で初となる新議会は23日に招集され、今後は新憲法の起草に関与する。議長ポストは自由公正党が得る見通し。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120121/mds12012123110007-n1.htm

エジプトで最初に民主的に選ばれた議会の混沌とした門出(1/24、NYタイムス)

 (抜粋)月曜日に、エジプトで60年来初めての自由選挙で選ばれた議会のオープニング・セッションが開かれたが、ムスリム同胞団は議長選出のための討論が罵り合いに発展するなかで、デモクラシーの扱いにくさを体験して、その日のムードに水をさした。同胞団の選ぶ、彼らの屈強なる議長候補Saad el-Katatniが、対する挑戦者を'400票'対'100票以下'の大差でうち負かすまでに夕方までを要した。…「この議長選挙において意見の違いのあることが示されつつ自分が選ばれたプロセス自体が、人々のつかんだデモクラシーだ」と、el-Katatniは演説した…

 会議場の周りの道路では、ちょうど1ヶ月前に治安勢力と抵抗者たちが軍支配に抵抗して激しく衝突した印を消すために、ペンキが塗り替えられていた。しかしお昼頃には数千人の他の群集が到着し、その多くは軍の支配者たちに即座に退陣せよと叫びを上げた─ムスリム同胞団はその要求を支持してはいないが…彼らは軍が6月末に新たに選ばれるはずの大統領に権力移譲するプランを受け容れている…

 同党の100人を超すメンバーたちは、新しいリーダーたちへの応援の声を上げつつ、いかなる暴力沙汰も阻止すべく早朝から議会の外に集まっていた。カイロ市中のテレビ画面では、新政府の国営チャンネルが議会内部の様子をライブで映し出し、C-Span(*米国の議会中継TV)のエジプト版といった様相を呈した。すると、新たな立法議員たちが彼らの誓いの宣誓を終えぬうちに分裂が映し出された。タハリール広場における反・Mubarak運動のリーダーだったZiad el-Elaimyは、現在は社会民主党の議員だが、通常のエジプトの国家と憲法への誓いを述べる代わりに、革命への誓いを述べた。 サラフィストの党(25%の議席を得た第2党)の議員らの中には、イスラム法への忠誠の誓いを付け加えようとする者たちがいた…議会の最初のセッションを仕切っていたリベラル派ラフード党の81歳の最長老議員Mahmoud el Sakkaは、即興的な発言をする者たちを黙らせようと繰り返し叫んで、妨害した。

 新たな自由公正党(*ムスリム同胞団の政党)は先週、各党にわたる合意でKatatnyが議長になる事を宣言していたが、同胞団の前幹部のEssam Sultanには、異なるプランがあった。彼は1990年代半ばに同胞団とは袂を分かち、宗教と離れた新党を立ち上げて、若いグループや幾人かの改革主義者のリーダーたちといった増加する同胞団の離反者をひきつけてきた。

  こうした離反者の一人が、今はシリアスな大統領候補であるAddel Moneim Aboul Fotoughである。このところ、Sultan氏はリベラル派の各党とサラフィスト・グループをはぎ合わせ、同胞団が牛耳る議会に対抗する連合の設立努力に力を貸していた…
 ─彼はいたずらっぽい笑みを浮かべて議場に現れると、月曜日にはKatatny氏と対抗して議長に立候補する、と述べた。Sakka氏は即座に彼に黙るようにと叫び、ムバラク時代の議会ルールでは、議長が選出される前にその選出に関していかなる発言も禁じられている、という事を確認した。

 やがて同胞団の年長者であるMohamed el-Beltagyが、Sultanに対しSakkaのいうことをきくようにと叫び、同胞団メンバーらとSultanのWassat等のメンバーらが互いに罵倒しはじめた。すると幾人かの議員らのグループがSultanの弁護の側に回り、ルールや、議長の選挙を無視して討論することはエジプトの新たなデモクラシーに対する無視である、と論じた。「あなたは自由を要求し、デモクラシーについて喋っている。それはどこにある?」…同胞団に挑戦する独立派議員のYoussef el Bdryはこう述べ、彼はそれをムバラクの旧支配政党になぞらえた。最後には、Sakkaは革命の名の下にルールを曲げて、Sultanに短いスピーチを許した。そして、常に前もって運命付けられていた政治の場においてはこの60年間で初めて、少なくとも少々サスペンスのある結末が生じた…

http://www.nytimes.com/2012/01/24/world/middleeast/new-egypt-parliament-elects-islamist-from-muslim-brotherhood-as-speaker.html?sq=egypt

エジプト政治の新議会が、ラディカルな方向にシフト(1/22, Financial Times)

  (抜粋)エジプトで新たに選ばれた議会では、これまでムバラク政権下で力をふるっていた勢力が完全に一掃されて、21年間議長をつとめていたFathy Sorourがその座を去り、新たな議長Saad al Katatnyが選任された(Katatnyの所属するムスリム同胞団は、2010年11月の意図的な不正選挙によって、最近まで議会から排除されていた)。月曜日のセッションは、革命後のエジプトで初めて「不正操作なしに」選ばれた議会による、歴史的なセッションだった。

 そこではこれから先、イスラム原理主義者たちと軍の、どちらがより大きな権力を分け合うか…という情勢の不穏さを背景に─革命のなかから生まれた…より若くて冷たく冷えた、よりモダンな勢力が置き去りにされていた─ムバラク政権を倒した1月25日の革命において先頭に立っていた若い活動家たちは、水曜日の革命1周年にm軍の評議会が7月の大統領選を待たずに直ぐ政権を議会に移譲するよう要求して反対の声をあげた。─軍幹部らは、若者らを孤立させるために(そして権力移譲が、実質的にその途上にあると印象づけるために)、議会の開会セッションを1ヵ月以上も遅らせてきたのだ。

 「革命の若者同盟(the Coalition of the Youth of the Revolution)」のリーダーであるShady al-Ghazali Harbは、軍の役割と権力を規定して大統領を選出する新たな議会令によって、 軍の評議会は大きく権益を左右されると述べる。「我々は大統領の人選がイスラム原理主義者と軍の間での取引になってほしくはない。それゆえに、権力は、市民の手にあらねばならない」。「我々は議会の合法性に関しては疑問を抱いていないが、それは、彼らだけが権力移譲を支配できる、という意味ではない。議会の合法性は革命によって生まれたものであり、彼らは革命が要求するものには責任をもたねばならない」

 活動家らは、イスラム原理主義者たち(*同胞団など)が─若者グループを外国勢力の手先として中傷したり、市民に向かって武器を使用した軍評議会を非難するのに失敗したことに憤っている。同胞団は、軍の評議会を非難はしたが、自分たちが議会における主導勢力として台頭するチャンスを妨げぬよう、目だった対立を避けてきた。しかしアナリストらは、彼らと軍評議会は新たな力の分け合いに入っており、対立の可能性があるとしている…
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/c4cd4528-44f6-11e1-a719-00144feabdc0.html?ftcamp=rss#axzz1krpBBH9y

 (*西欧の影響でアラブ諸国が民主化する?というお気に入りの題材を得たトム・フリードマンは、コラムを連続で書いていた─ 
他のコラムでも、彼はこういっている:「サウジ・アラビアやイランなどはこれまで原理主義政権が支配しつつも…豊富な石油資源があるために、国民に厳格なイスラム原理主義を強いたり、欧米に肘鉄をくらわせるかのように核開発をしたり、女性を労働力から排除しながらも、一定以上の国民の生活水準は維持して、近代化の恩恵という贅沢も享受してきた…しかしエジプトにはそんな贅沢を享受できる石油資源というものがない」。
 「…エジプトでは今後、政治化したイスラム原理主義が石油資源なしに近代化とグローバリゼーションに取組まねばならないのだとしたら、いったい何が起こるのか?それは、いまだかつてないユニークな実験になるだろう…」)

Saad Al-Katatny, who becme speaker of Egyptian Parliament

関連記事
「ムスリム同胞団」のブギーマンを恐れるなかれ
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/02/fear-not-muslim-brotherhood-boogeyman.html


Monday, January 23, 2012

影の取引が、カダフィの富と体制を助けた Shady Dealings Helped Qaddafi Build Fortune and Regime


"リビアの革命"によって、無残にも撲殺されたカダフィ大佐、彼は本当は誰に、なぜ"成敗"されてしまったのだろうか…英仏米が先導し、アラブ連盟も協力したNATO軍?欧米石油資本?反体制勢力とは本当にリビアの民衆だったのか?─2011年3月にNYTが報じたカダフィ大佐と欧米石油企業の密約の気になる記事

いかがわしい影の取引がカダフィの富と体制の維持を助けた - By エリック・リヒトブロウ、デビッド・ロード、他 (2011/3/24, NYタイムス)

 2009年、カダフィ大佐の上位の側近たちは、リビアの油田で事業活動を行っていた国際的なエネルギー企業15社の幹部を呼びつけ、異常な要求を行った─それは、彼の国がパンナム103便の撃墜(1988年の)や、その他のテロ事件において果たした役割に対して支払う15億ドルの(欧米への)賠償金を、彼ら石油企業が拠出せよ、というものだった。国務省が記録したそのミーティングの要旨によれば、リビア政府高官たちは彼らを、こう言って脅した─もしも彼ら企業が従わないなら─そのことは油田のリース事業において「深刻な結果」を招くだろう、と。

 多くの企業は、その言葉をきいて躊躇した─テロ行為の犠牲者らの遺族とリビア政府が法的な和解をすることなど想像しがたい、として。しかし、米国を本拠とする数社を含むいくつかの企業は、ビジネスを続けるための代償として、リビアの強要を受け入れるようにみえた…と、石油業界の幹部たちや米国政府の役人たちは証言し、国務省の関係書類は記している。そのエピソードや、よく似た他のエピソードが─2004年に米国がカダフィ大佐の政府との交易を再開して以降の…腐敗やキックバック(賄賂)に満ちた、力づくの戦術や政治的パトロナージュが蔓延するリビアの文化を反映していた、と政府関係者らは語る。米国やその他の国際的石油企業やテレコム企業、Contractors(契約請負業者)などはリビア市場に参入するにつれて、カダフィ大佐やその忠実な支持者らがしばしば、何百万ドルもの金を「署名料ボーナスsigning bonus」とか「コンサルタント契約料」として引き出していることや─あるいは、権力者の息子たちが、俄か仕立てのパートナーシップ契約を締結しそれらを得ていることを発見したという。「リビアのクレプトクラシー(泥棒政治)ではカダフィ・ファミリー(al-Qadhafi family)自身、もしくは彼らと親しい政治的同盟者らのいずれかが─売買したり所有し得るあらゆる価値あるのものに直接の利害をもっている」、と2009年の国務省の機密公電は(同省独自の「カダフィ」のスペリングを用いて)述べている。

 欧米諸国からの経済制裁が解除されて以来、カダフィ大佐と彼の政府が国際的企業の協力のもとに蓄積してきた富は、彼のその国での足場をさらに確固たるものにした。米国とその同盟国による軍事介入の行く末は未だ見えていないが[*本記事は2011年3月掲載]、カダフィ大佐のもつ財源(彼が軍の兵士や傭兵、支持者らに支払うため用いていると米国政府関係者が信じる数百億ドルの現金を含めて)は、彼が政権からはじき出されることを防ぐか、少なくともそのことを引き延ばしている可能性がある。同国政府がビジネスを継続したい企業を食いものにするだけでなく、リビアの銀行は明らかに…イランが近年テヘランに対する国際社会の経済制裁を尻目に巨額の金を資金洗浄することを助け、見返りに儲けのいい手数料を得ていたことも─Wikileaksの暴露した別の機密文書の中のトリポリからの公電に記されている。その公電によれば─2009年には米国の外交官が、リビア政府関係者にこうも警告したという─彼らのイランとの取引が、リビアが国際社会において強められた立場を…短期的にみこまれるビジネス上の利益の潜在的可能性ゆえに、危険に晒していると。

 経済制裁解除後の最初の5年間には─カダフィ大佐は自国の核開発能力の維持を断念し、テロリズムの断罪へと走った─多くの米国企業はリビア政府との取引に対しては消極的だった。しかし2008年に、スコットランドのロッカビーでのパンナム機撃墜におけるリビアの役割についての合意が最終的になされると、米国商務省の高官たちは自称・米国ビジネスのマッチメーカーとして働き始めた。リビアは…数年前に同国の70億ドルの国債に対する「投資の機会」の責任者だったリビア政府官僚に接近して、長期に亘ったポンジ・スキーム(ネズミ講詐欺)を企み数十億ドルの金を盗み取ったニューヨークの金融マネジャーBernard L. Madoffのお陰で、現金で潤っていた─と、国務省の2010年のエピソードの要約は語る。あるリビアの政府官僚は「我々は、それを受け取っていない」と報告しているが。

 国務省によるとカダフィ大佐は、数多くのビジネスの意志決定に個人的に関わっていた。彼は、政府が外国企業との合弁ビジネスを認可する監視機関として設立した各地方の”riqaba” councl(リカバ評議会)と共に働き、2億ドル以上の事業契約のサインは、すべて自らの手で行うと主張していた。彼はまた、もしも最近まで行われていたような経済制裁が再び課された折に、どうやって現金や投資を隠ぺいするか、を学んでいたという。カダフィ大佐と彼の家族は、彼らに忠実なリビアの部族メンバーの名義で世界中の銀行に口座を開いていたと、リビアの亡命旧王族のメンバーで、カダフィ大佐の多くのビジネス取引にも詳しいIdris Abdulla Abed Al-Senussiは語る。(そうした銀行口座のいくつかに関しては、数十億ドルの金へのアクセスが当局により禁じられた可能性もある)そして、カダフィの親類縁者は贅沢なライフスタイルを享受した─豪華な家を持ち、ハリウッドの企業に投資をし、米国のポップスターとプライベート・パーティーを催して。

  カダフィ大佐が意志決定を行わない場合、同国経済の数々の産業セクターの運営を任せられた彼の息子らの一人がそれを行った。リスク・コンサルティング会社Kroll社の業務執行幹部であるDaniel E. Karsonは、彼が代理を務めていた某国際コミュニケーション企業が2007年にリビアの携帯電話市場への参入をはかった際のあるインタビューを回想する。その当初からリビアの政府高官は彼らに対し、外国企業は独裁者の長男のMuhammad Qaddafiをローカル・ビジネスパートナーとしなければならないと明確化した。「我々はその企業に対して、彼らがすべてMuhammad Qaddafiを通さねばならないことをアドバイスした」、とKarson氏は語るが(彼は、彼のクライアント企業の名を明かすことを断った)。「これは基本的に、小売や、価格、品質、そして納品方法においても守らねばならないことだった」、カダフィ・ファミリーとのビジネスを恐れたその企業はリビアでの投資を断念した、と彼は言う。Coca-Cola社は、2005年に清涼飲料メーカーが瓶詰工場を開設した折に、その支配をめぐって対立したMuhammad Qaddafiと弟のMutassim の間の激烈な争いに巻き込まれ、武力紛争のなかで何ヶ月も工場を閉鎖せざるを得なかったと外交公電は記している。また国務省の記録によれば、イリノイ州の機械メーカーCaterpillar社は、2009年にリビアがカダフィ家支配下の国営企業とのパートナー契約を強要したため、インフラ建設プロジェクトへの機器納入の高収益の取引を閉鎖しようとしていた。抵抗を試みたCaterpillar社は、米国の外交官らが打開策を講じることに失敗した後にリビアでの事業活動を禁じられた。

  カダフィの側近らがリビアで事業展開する石油企業らにロッカビー事件の和解を命じた際には、2009年2月の国務省の公電によると、業界幹部らは「小規模な運営企業やサービス企業であるほど支払いの要求に折れるかもしれない」、との見解を表明していた。数名の業界幹部らや和解に密接に関与した者らはみな匿名を条件に、その支払いが行われたことを語るが、企業名は公表しないよう求めている。その他の企業も同国政府と金のかさむ契約を結んだ。2008年には、カリフォルニアの企業Occidental Petroleumが、リビア政府に30年契約の一部として十億ドルの「契約署名ボーナス(signing bonus)」を支払っていた。同社のスポークスマンは、長期契約における巨額なボーナスの支払いはよくあることだったとする。その前年にはカナダの石油大手Petro-Canadaも、リビアの政府高官から30年間の石油掘削ライセンスを与えられた事と引き換えに同様な10億ドルの支払いを行った事を、外交公電と同社幹部が伝えている。同社は英領 Virgin Islandsのビジネス・コンサルタントで、カダフィ一家とも親しい Jack Richardsを取引締結のローカル・エージェントとして雇ったと、カナダの新聞The Globe and Mailは報じている。Richards氏からのコメントは取れなかったが、彼はカダフィ・ファミリーのサポートを得るために、彼らを英国王室所有の土地に射撃ツアーに連れて行ったという。

 同社はまた、カダフィの息子Seif al-Islamにも言い寄った─Petro-Canada社は彼の描いた絵の展覧会のために出資した(それは美術館に展示を拒否された後、カナダの評論家たちに"ゾッとする"、"陳腐さの勝利"などと酷評されたのだが。)リビアで1億ドル以上の契約を取りつけたモントリオールのSNC-Lavalin社もまた、もう一人のカダフィの息子Saadiのために展覧会への出資を行い、彼をサッカーチームの選手として雇った。ノルウェーでは、リビアとの間に700万ドル以上の明かに違法な「コンサルタント契約」を締結した国営石油会社の幹部2人が2007年に退職し、政府の捜査を受けている。
 George W. Bush政権時にホワイトハウス高官で財務省幹部だったJuan Zarateは、2004年にビジネス取引を再開を決定したことを回顧し、その当時政府高官らはカダフィ大佐をリハビリテイト(国際社会に復帰)させることによる便益が、明らかなリスクよりまさっていると信じていたという。「それは悪魔との取引だった」、とZarate氏はいう。
  「それによる国交(やビジネスの)正常化への希望がまさっており、カダフィの中東の狂犬としての価値は低いが、ビジネス・パートナーとしての価値のほうが高かったのだ」、と彼は付け加えた。「しかし私は、これは人々の誰もが望んでいたような解決方法だったとは思わない」。
http://www.nytimes.com/2011/03/24/world/africa/24qaddafi.html?pagewanted=all

*カダフィは2011年10月下旬に反政府勢力の群集の手に落ちた。そもそもアラブ連盟諸国はなぜ、リビアへのNATO軍の武力攻撃を許可する国連決議案に賛成し、カダフィ大佐の殺害をも許したのか、民衆蜂起したリビアはなぜ国際社会の手で転覆させられたのかと─この直後に、デュポール大のアラブ系米国人の政治学者KM教授に質問してみた─KM教授は、「カダフィ大佐の、あのような無残な殺害方法はアラブ諸国の誰も許してはいなかった」としつつ、そこには次の3つの原因があったと整理してくれた:

1. ここ数年、カダフィ大佐はアラブ諸国全てに背を向けられていたこと
  (2004年以降、欧米に侵攻され体制を強引に転覆されたイラクのサダム・フセインの運命を目にして怯え…カダフィ大佐が核開発を断念、パンナム機撃墜の賠償にも急遽応じて外交政策を親欧米に転じたことへのアラブ諸国の冷ややかな目ということか)
 (3月に、アラブ連盟が「全会一致で」国連でのNATO軍によるリビア侵攻決議を支持した理由には色々の噂もあったが)  
 「確かに全会一致だったのには、何らかの(微妙な)理由もあっただろう」

2. 米国やサウジなどのグループの権益の方向にさからったこと 
 (リビアの石油利権の今後の契約先を、これまでのドイツなどのEU主要国の欧米契約企業を切って、中国・ロシアなどBRICSに移すなどと宣言していた、そのことなども含まれるのだろう)

3.そしてエジプトやチュニジアでおきた革命の余波を受けたことが第3の原因
 (それではやはり、リビアの革命は、所詮は石油の利権が第一、" It's all about oil"?)それに対する答えとは、「それも勿論あるし、その他のこともあるだろう」

 ─リビアの反政府勢力の蜂起とは、本当にリビアの民衆全体の意志だったのか?→「…それについては、リビアは広大な国なので、国内には色々な勢力もあってはっきりしたことは何ともいえない」。
 ─それで、そうした勢力には、アル・カイダの残党も混ざっていたというわけか?→「そうだろう」。
 ─チュニジアやエジプトに始まった革命の波はfacebookなどを通じた若いネット活動家に先導されてきたとも言われて、そこには米国の諜報機関に招かれて指導を受けた者もあったと報じられたが…このリビアの「革命運動」の蜂起にも米国が地下で関わっていたところがあると思うか?→「…それも勿論あっただろう。」
 KM教授の答えは明確で意外にあっさりとしていたが…通常、ネット上では陰謀論のように語られることも、話の切り口によっては 陰謀論でも何でもないように聞こえてくる。

*英国のブラウン政権下では、英国BP社がカダフィ大佐の息子サイーフ・アルイスラムと、巨額の石油、天然ガスの大口契約を結んでいたはず。英国は石油権益と引き換えに、パンナム機事件の容疑者メグラヒをもリビアに返還していた。リビアの国際社会への回帰により英国で期待されていた大きなビジネスが、米国などに簡単に無視された理由は不可解でもある(当時、メグラヒをスコットランドの刑務所からリビアに連れ帰ったサイーフは、リビアがメグラヒの行為の「責任を取ってロッカビー事件の賠償支払いを受け容れた」理由は、単純に国際社会の経済制裁を終わらせる為だったが「それは我々がその犯罪を犯したという意味ではない」と述べたとか。彼はBBCのインタビューで、ロッカビー事件の遺族らを「とても貪欲だ」と非難し、彼らが我々を脅迫することで時間を浪費するかわりにリビアの政府と協力して「同事件の背後の真犯人は誰だったかを発見すべきだ」ともいっていた…(参考記事):
Qaddafi’s Son Says Release of Lockerbie Convict Was Part of Business Negotiations


「地中海クラブ」の戦い

http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/03/club-med-war-by-pepe-escobar.html
パンナム機爆破事件(1),(2)
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2009/09/colonel-gaddafi-with-friends-like-these.html
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2009/09/lockerbie-more-evidence-of-cynical.html
「US -サウジ」のリビアに関する取引が露呈…反革命の甘い匂い
http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/04/sweet-smell-of-counter-revolutionby.html

Tuesday, January 17, 2012

トルコ外相ダーヴトオール、中東の紛争について警告! Turkey Warns against Sunni-Shiite Civil War in Mideast- By Juan Cole

中東で話題の仲介者ダーヴトオール─ますます不穏さを増すシリアやイランの情勢に対する彼の立場とは?
 
 
 トルコの外相、中東地域のスンニ派v.s.シーア派の争いに警告を発す(1/5, By ホアン・コール from "Informed Comment")

Ahmet Davutogluトルコ外相
  トルコの外相Davutoglu Ahmet Davutoglu ダーヴトオール・アハメット・ダーヴトオール は、水曜日(1月4日) にテヘランで、中東では複数の非武装勢力によるスンニ派対シーア派の内戦が煽られつつある、との警告を発した。この地域で対立が生じているフラッシュポイントのなかでは特に、ペルシャ湾の入り口付近でのイラン/米国間の緊張が高まっている状況だ。イランはここで10日間に及ぶ軍事演習を行い、同国には世界的な交易の重要拠点の海峡を閉鎖して、世界の石油供給の6分の1を停止させる能力がある、と警告した。
 しかしこのイランと米国の対立で語られていないことは、イランに対抗して米国がサウジアラビアとバーレーン〔共にスンニ派勢力〕をバックアップしていることだ。バーレーンでは、何万人ものサウジアラビア人、パキスタン人その他のスンニ派の人々が、この島々〔バーレーンの〕のスンニ派君主から市民権を与えられているが、その市民の58%はシーア派である。バーレーンの君主は立憲君主制を要求する人々の抗議運動を強く弾圧した。サウジアラビアは、バーレーンの王Sheikh Hamad b. Isa Al Khalifahを助けるべく1000名の兵力を送った。米国はManamaに、ペルシャ湾からの石油供給の継続を任務とする基地を有し、米海軍の第5艦隊はそこを本拠としている。

 シーア派の三角地帯 Shiite Clescent

 この週末、バーレーン内陸部のシーア派地域においていくつかの反政府集会があり、一人の女性が催涙ガス弾で死亡した。

Juan Coleによる"シーア派三角地帯"?
この地図には異論も…
  トルコ外相ダーヴトオールは彼の現在の地位を、トルコが「近隣諸国との良好な関係を維持する」という立場の堅持によって獲得してきた。この彼のポリシーが2002年以降、トルコの中東諸国との貿易額を倍増させて、その結果長らくヨーロッパの方角だけを向いてきた同国が、この地域で影響力をもつ国として再び姿をあらわしたのだ。

 トルコはスンニ派が多数を占める国であり、現在政権を握る正義と発展党(Justice and Development Party)はNaqshbandi Sufi派(イラクとシリアでの重要勢力でもある)を含む強力なスンニ派の支持基盤の票田を抱えている。しかし同政府は、現状での政治的緊張にも関わらず、(シーア派の)イランとの関係の正常化にも力を尽くしてきた。トルコはイランから重要な天然ガスを輸入しており、この両国は、2011年には前年比55%増の150億ドル以上を相互に輸入し合った。トルコは韓国とも同様に、米国が意図している対イラン経済制裁による、イラン中央銀行を通じた石油・天然ガス取引停止からの除外を求めている。イランのHalkbank(ハルク銀行)はインドによるイランの石油の購買を取り仕切っている。

 スンニ派とシーア派間の緊張は、イラクにおいても高まりつつある。水曜日にはバグダッドのシーア派地域で何件もの爆破事件があり23人が死亡した─犯人は明らかに、イラクの宗派間紛争が再燃することを意図していた。そして、同時にまた政治的危機も高まっている。(イラクの)シーア派の首相Nouri al-Maliki は、スンニ派の副大統領Tariq al-Hashimi がテロ攻撃(そのひとつはal-Maliki自身の暗殺を狙っていた)に関与していたと非難した。Al-Hashimiはクルディスタンに逃れ、彼に対するいかなる法的な処分もその地で執り行われるよう望んだ。しかし、イラクの法廷の一つは彼のバグダッドにおける出頭を求めた。彼は、al-Malikiの任命した判事らによる裁判を受けるよりも他国への亡命を望んでいるようだ。Al-Malikiによるal-Hashimiの告発により、スンニ派主流のIraqiya党は統一政府への参加を停止された。Al-Malikiは、イラクでのシーア派に対するスンニ派アラブ人の暴力が、サウジアラビアの影響を受けていると非難している。

 現在のシリアの危機にも、スンニ派対シーア派の潜在的な緊張の側面がある。水曜日には治安勢力がデモ隊に発砲を続け、全国で26人の死者が出た。その死者のうち16名は、大規模な反政府集会の催されたHomsで発生した。支配勢力・バース党の上層部の司令系統は、シーア派派の異端セクトAallawi派のメンバーによって牛耳られているのだが…しかし、反政府的な集会を催している各都市の中心部の多くはスンニ派の色が濃く、それらの勢力の組織化にはムスリム同胞団が顕著な役割を果たしている。 

 トルコは、シリア政府による反政府勢力への弾圧に強い反対の立場をとり、Aallawi派のBasharal-Asad大統領にも強く反対する立場を表明している。アナトリアにおける「正義と発展党」のスンニ派支持基盤は、Syrian National Counsil(シリア国家評議会*)への支持を誘引する顕著な勢力である。同党は、その立場を急転回した─同党は2002年にダマスカスとの関係正常化を目指して政権を握ったが、昨春、民衆蜂起の起こる前まではその目標が大いに達成されていた。トルコはシリアと年間20億ドル前後の交易を行い、レバノン、シリア、ヨルダンとの間でも自由貿易地帯(free trade zone)を設立するために作業を進めていた。 (*SNC:シリアの反政府勢力の結成した組織。前記事「シリアの影の戦争」参照)
 ダーヴトオール外相は、一方に米国とサウジアラビア、もう一方にイランを置き、この両者間の仲裁を図ろうとするだろう。米国・サウジの両国とは違い、トルコは(イランと)戦争をしたくてうずうずしている、ということはない。ダーヴトオールの中東との交易拡大という画期的戦略は、シリアとイラクでの紛争というものによって甚大な不都合を蒙っている。トルコのアラブ諸国とのトラック交易は、シリアを経由してきた。Al-Arabiya紙のアラビア語の記事では、トルコがトラックをエジプトのアレキサンドリア港(彼らはその地から、アラブ世界の何処にでも物資が輸送できる)に送ることを計画している、と報じた。しかし、船舶輸送によるコストは明らかに利益を減少させるだろう。

 トルコの交易ポリシーは近隣諸国との調和的関係に依存しているため、宗派間の紛争を抑える必要性に駆られざるをえない。イランとサウジアラビアは産油国なので、経済的な繁栄を地域的な交易に絶対的に求める必要性ははなく、それ故に、もしも互いに反目し(愚かにも)戦うことを選んだとしても、独立した行動が可能になるのだ。

 ダーヴトオールの、未だに暴露されぬその特別なミッションが何であるにせよ、彼が全般的に強調する緊張の抑制という主張以上に重要なものはない。
http://www.juancole.com/2012/01/turkey-warns-against-sunni-shiite-civil-war-in-mideast.html

*上の「シーア派三角地帯」の地図はJuan Cole教授が勝手に作ったものだといい、このblog記事には地図が不正確だとの投書も噴出、教授は「それなら自分で作ってみて」などといっている…(上記リンクに複数の読者からの投書が掲載されている)

* 昨年以来のダーヴトオール関連記事

Turkey's Davutoğlu says zero problems foreign policy successful
外相ダーヴトオール、「ゼロ・プロブレム」政策は成功した、と語る (2011/9/18, Todays Zaman)

 トルコの外相ダーヴトオールは同国の「ゼロ・プロブレム」の外交ポリシー ─同国とイスラエル間の紛争の激化とシリアでの緊張の高まりで揺り動かされているその政策─は壊れてはおらず、依然トルコの外交政策として維持されている、と述べた。ダーヴトオールの言葉は、丁度トルコの外交戦略が周辺諸国との間の目にみえる関係悪化に直面して、批判の嵐を浴びていた時に発された。ウォッチャーたちはトルコの近隣諸国との間の古びた「ゼロ・プロブレム」政策がいまや…イスラエルとの怨恨(*)や、アラブの叛乱のために同国が強いられたいくつかの不恰好な妥協のために崩れ落ちたものと評していた。その最も顕著な例はシリアだ─トルコとシリアの同盟関係は…トルコによる、シリア政権の反政府運動の市民らへの軍による弾圧を止めよとの呼びかけをシリア政権が払いのけた際に限界点(ブレーキングポイント)に達した。 (*イスラエルとの怨恨:Gaza Flotilla号事件の項参照 http://hummingwordiniraq.blogspot.com/2011/07/boat-people-some-questions-for.html 及びhttp://hummingwordiniraq.blogspot.com/2010/06/letter-from-istanbul-by-thomas-l.html

 近隣との「ゼロ・プロブレム」政策のもとで、アンカラの政府は(これまで)そのシリアとの政治的結束を強化していた─1990には〔違法行為を犯したクルド労働党のメンバーをダマスカスのシリア政府が匿った事件により、〕同国と戦争寸前に至ったにも関わらず。シリアにおいて、トルコのRecep Tayyip Erdoğan首相は、Bashar al-Assad大統領と友好を深め、一度は敵対関係にあった隣人との間に、新たな政治的経済的繋がりをうち立てていた。しかし、Assadに抗議勢力の殺戮を停止し、改革を実施するように、と繰り返し要請した後で彼はいまや忍耐力を失った。

 ErdoğanはAssadと共に休暇をすごし、彼らの議会同士でのジョイント・ミーティングも開催、トルコはシリアの最大の交易パートナーとなり、隣人である両国間はビザなしで旅行できるようになり、そしてトルコは、シリアとイスラエル間の和平交渉における仲介役をも試みようとした。専門家たちは、近隣諸国とのゼロ・プロブレム政策とはその政権体制(regime)との間でのみ試みられたが、同体制が暴力的弾圧に出た際にはトルコはそれらとの関係を切り捨てたと評した。
 
 ダーヴトオールは日曜日にトルコのCNNキャスターとのインタビューで(国内問題が悪化中の)シリアを除いて、トルコは近隣との関係は未だに良好であると述べた。同外相によればトルコは、シリアの政権とその民衆とのどちらかを選択しなければならないが、「我々はシリアの民衆を支持する、なぜなら政権は無くなることもあるが、人々は常に残るからだ」と彼は述べた─シリアの民衆と共に立つことはトルコのゼロ・プロブレム・ポリシーの一部でもあり─誤っているとしばしば批判を受けがちなその政策は、これまでも今後も同国にとって常に正しいものだ、と。
http://www.todayszaman.com/newsDetail_getNewsById.action?load=detay&newsId=257118&link=257118


トルコは米国-イランの戦争をくい止められるか!?─トルコ外相ダーヴトオールが、緊張の高まる中でイランを訪問 By Noga Tarnopolsky (2012/1/4, Globalpost)

 トルコ外相ダーヴトオールが、彼のイランの対抗相手と「核開発に関する対話("Nuclear talks")」をすべくテヘランに飛んだ今日…この中東の動揺する両国は、困難な繋がりを確固たるものにすべく試みるだろう。レバノンのDaily Star紙は2日間の討議ではイランとシリア情勢の問題の進展など他の懸念も提起されるだろうと報じた。 
南部イランにてオマーン湾を望みつつイラン兵士が演習
 イスラエルの(イラン情勢および、後退するイスラエル・トルコ関係情勢を見守る)ウォッチャーたちは、彼の訪問は、トルコが(米国による経済制裁に服して、自国に不自由を蒙るよりもむしろ、)自らをイランとの緊張緩和を望む西欧諸国との仲介役となる可能性があると位置づけていることを示す、とみなしている。そんななかで、水曜日(イスラエルの)Ha'aretz紙は─イランのMahmood Ahmadinejahd大統領がイスラエルに、エルサレムを「ユダヤ化しようとの試み」はイスラエル自身の終焉を招くだろうと警告した、と報じた。イランにおけるトルコ-パレスチナ議員間の友好グループの会合におけるAhmadinejadの言葉は、イラン国営テレビによって放映されたが─彼は「宗教や、神に対してすら何の信念ももたないシオニストたちが、いまや敬虔さを主張して、神聖なるQuds(El-Qudsはエルサレムのアラビア語名)のイスラムとしてのアイデンティティを奪い去ろうとしている」と述べた。イランの大統領は、「このばかげた動きは実際に、抑圧的な植民地の警察勢力の継続であり、それはシオニストの政権を守り得ないだけでなく、その存在を終わりに近づけるだろう」とも付け加えた。イランの公営ニュース通信社IRNAは、Ahmadinejadがさらに「パレスチナ問題はこの地域の主要問題で、全世界と誰しもにとって無視できないものだ」と語った、と伝えた(後略)
http://www.globalpost.com/dispatch/news/regions/europe/turkey/120104/can-turkey-prevent-us-war-iran

アハメット・ダーヴトオール:地域のパワーブローカーなのか?独裁者の仲介役なのか?─トルコ外相は、アラブの民衆の蜂起のなかで無力化し苦闘する─(2011/6/8、The Guardian)

 近年、トルコ外相のアハメット・ダーヴトオールは、彼の近隣諸国との「ゼロ・プロブレム」政策においては、称賛と侮蔑の両方をほとんど同じ程度に受けてきた。 しかしトルコが…<大統領Bashar al-Assadがトルコ政府からの改革への要求を無視している>シリアから到来する大量の難民の受け入れを準備する間に─ ウォッチャーたちはシリアと中東全域で生じる民衆蜂起がトルコのセルフ・イメージを汚して、地域のパワーブローカーのように見せはじめた、と論じている。

 外相ダーヴトオールはシリア、リビア、イランの政権を誘引すべく使節を送り、また同様にハマス、ヒズボラ、その他…伝統的に欧米の外交官たちにとっては石の壁に隔たれ接近が困難なグループに対しても使節団を送った。しかしカダフィやアサドの如き独裁者がトルコに鼻面を押し込んでいることは、トルコの外交オフィスの無策さを露呈している、とイスタンブールのEuropean Stability Initiative代表、Gerald Knausは述べた。「最近の出来事は、トルコのその外交への自負心を相対化した。彼らがこうした政権と個人的繋がりを作ろうとしたすべての努力は彼らに彼らの望んだようなレバレッジを与えなかった」、とKnausは言う。「トルコは、その仲介外交に自己過信しすぎた」と、イスタンブールのBahcesehir大学のEU研究の教授Cengiz Aktarはのべる。「しかしその方法は初めから間違っていた。我々は歴史による教訓として、独裁者に改革を促すのは無理と知っていたはずだ」

 しかしシリアからのトルコへの洪水のごとき難民の流れは、昨年、両国の間のビザを不要にしたことの賢明さをあらわしているとKnausは言う。「トルコはムスリム国家がいかなる発展を実現できるかの力強い一例だ。もしもシリア人がトルコを訪れたなら、彼らはそこに代替手段を見るだろう、それは、グローバリゼーションは良きものと信じるイスラム教徒の首相がラディカルに経済を改革できた、との実例なのだ」日曜日の、トルコの現首相Recep Tayyip Erdoganについての世論調査では、彼はたやすく3選されそうだという。「人々はイスラム教国で、デモクラシーが可能なことを見たのだ」、とKnausは言う。

  アンカラの与党AKPの某政府担当者が個人的に語った事によれば、Erdogan政権の内部でも次に何をにすべきかで意見が分かれているという。「彼らは即興的に政策を決めている」、とKnausはいう。今後トルコはシリアの難民を歓迎する。「我々にとっては国境の閉鎖は問題外だ。我々は状況を大いなる関心を持ってみている」、とErdoganは水曜日に語った。彼はAssadに直ちに改革を実行するよう要求した。「それが市民たちを納得させる」と。Assadが聞く耳を持たず拒否したにも関わらず、首相のチーフアドバイザーのIbrahim Klainは、政府の政策は失敗ではないと述べる。「多くのアラブ世界の人々が、トルコをインスピレーションとしてみている」と、彼は言い、彼らは最近Tahir広場で活躍したエジプトの若者たちを国内にホストとして招待し、シリアの反政府グループの2つの会合をもホストしたと述べた。

 政府はシリアの改革政権を指導する明確な意思がある。シリアのクルド人少数派に一層の権利を認める新政権は、トルコの世俗政権や軍とはうまくいかないだろう〔彼らは推定1400万人のトルコ国内のクルド人に、母国語を使う全面的自由または自治権を与えることに消極的である〕。彼らは既に、米国が北部イラクでクルド人に顕著な自治権を認めたことで、高揚状態にある。〔中略〕

  トルコにおける大きな変化によって、彼らはその熾烈な過去と地の利を、足枷ではなく恩寵として受け止めつつある、とKalinはいう。「長らくトルコの政策立案者たちはその歴史と地理的条件を大きな問題と捉えてきた。人々はいつも、「我々は世界の最も難しいパートに位置する。我々は常にあらゆる紛争に取り巻かれてきた」といっていた。いまや我々は、この地理的位置を戦略的な資産だと思っている」(後略)
http://www.guardian.co.uk/world/2011/jun/08/ahmet-davutoglu-turkey-foreign

テヘランでイラン外相Ali Akbar Salehi (左)と
会見したAhmet Davutoglu

Tuesday, January 10, 2012

シリアの影の戦争 The shadow war in Syria - By Pepe Escobar

(Demonstrators surrounded Arab League observers)

シリアの影の戦争  By ペペ・エスコバル (12/2, Asia Times Online)

 シリアをターゲットに据えよ─その戦略的な褒賞とは、リビアをも凌ぐだろう。ステージはもう、用意されたのだ。それに対する賭け金は、これ以上なく跳ね上がっている。リビアの「バージョン2.0」は、シリアになるのだろうか?…それはむしろ、「リビア・バージョン2.0のリミックス版」になることだろう。同じ「R2P(responsibility to protect)のポリシー」 (*)の根拠のもとで、爆撃されて「デモクラシーへと」追い込まれる一般市民らの姿を主人公に据えながら。…そこには国連安保理の決議はない(ロシアと中国が拒否権を行使するだろうから)その代わりに、トルコが光り輝きながら内戦の戦火を煽ることだろう。*responsibility to protect:〔記事末尾註参照〕

 米国の国務長官のHillary( 「我々は来たり、我々は見たり、彼は死んだり」 の)Clinton(*)は、数週間前にインドネシアのTVで、シリアに「内戦が」勃発するだろう、との予言を発した─政府軍からの大勢の逃亡兵が詰めかけている…潤沢な資金を施されて、「よく武装された」反政府勢力の光景を映し出しながら。 (*カエサルの勝利の言葉「我来たり、我見たり、我征服せり」“veni, vidi, vici.”のもじりを、筆者がヒラリーのミドルネーム風に挿入。勝ち誇った調子でシリアには内戦が起きると発言、また同じ11/8のインタビューで「アサドはもう死んだも同然」、と発言したことを茶化している?)
 そして今やその実現は、NATOGCCの手にかかっている。「NATOGCC」とはもちろん、今や、北大西洋条約機構の選抜メンバーとしての英・仏と、そして湾岸協力会議(Gulf Cooperation Council)から選抜された石油王国すなわちカタールとUAEのような「湾岸反革命クラブ」(Gulf Counter-revolution Club)との間で、充分に達成された共生関係のことをさしているのだ。

 それゆえあなたも、いまひとつの傭兵のパラダイスが放つ輝きを自由に浴びてみるがよい。

"NATOGCC戦争" The NATOGCC war

 Mustafa Abdul NATO(Jalil という名でも知られる)を議長としたTNC(Transitional National Council リビアの国家暫定評議会)との間の露骨な同意のもとで、かつて反乱勢力として知られていたリビア人たち─カダフィ体制を転覆させたばかりの、600人のフレッシュな、高い動機に導かれた兵士たちは、FSA(シリア自由軍Free Syria Army)たちと共に戦うべく、すでにシリアにむけて送り出された…トルコを経由して。これに続いて、イスタンブールではTNCとシリアの「反乱勢力」の間に、秘密のミーティングがもたれた─シリア国民評議会(Syrian National Council)という新しいブランド名のもとで。

 Trigger-happyな(むやみに銃を撃ちたがる)リビア人たちは、カダフィ政権の武器庫の中の豊富な武器へのアクセスを得るか、またはNATOとカタールから紳士的に「寄贈された」武器を入手した。こうした美味しい状況というのは、1980年代にサウード家に起きた状況にも相似した状況だ─彼らが(サウジ国内の)筋金入りのイスラム主義者らに対して、アフガニスタンに(ソ連の侵攻勢力と)戦いに行くことに青信号を出したときの状況に。

 TNCにとっては、北アフリカで地獄のような状況を生み出すよりも、こうした闘争ホルモン一杯の失業中の戦士たちを遠い中東に送り、自分たちからは遠ざけておくべきなのだ。そしてNATOのメンバー国のトルコにとって戦争の不在(彼らは厄介者のロシアと中国に文句を言ううがいい)という状態のなかで、次なるベスト・オプションとは、その仕事を傭兵に任せてしまうことなのだ。

 そうしたプレッシャーは、絶え間なく執拗なようだ。ブリュッセルの外交官たちは、本紙(Asia Times)に対してNATOGCCの工作員たちがトルコのHatay県のIskenderunに司令センターを設立したとの情報を確認した。シリア北西部のかなめの都市であるAleppoはトルコ・シリアの国境に非常に近い。この司令センターの名目的なストーリーとは、シリアに通じる「humanitarian corridors 人道援助のためのルート」を設けるということなのだ。

 こうした「人道主義者たち(人道援助活動家)」とは、NATO加盟国の米国、カナダ、フランス、そしてGCC加盟国のサウジ・アラビア、カタール、UAEなどの国々から来るのだが、彼らは単なる「innocent monitors無邪気な監視要員たち」に過ぎなくて、NATOの一部ではない。こうした人道活動家たちとは、言うまでもなく陸上・海上・空上の援助部隊および技術的な専門家によって構成される。彼らのミッションとは:北部シリア…特にIdlib、Rastan、Homs の地域に浸透することだが、こうしたなかでは特に、少なくとも人口2千5百万人(その大多数がスンニ派とクルド人)を有するシリア最大の都市Aleppoに浸透することだ。

 このニュースがブリュッセルからもたらされる前でさえ、フランスの風刺的な週刊誌Le Canard Enchaineや(同様にトルコの日刊紙Milliyetもまた、)フランスの諜報部と英国のMI6とが、南トルコのHatayと北レバノンのTripoliにおいてFSAに都市ゲリラ戦技術の訓練を施していると暴露していた。こうした武器は─ショットガンからイスラエル製のマシンガンとRPG(携行式ロケット弾)にいたるまで─大量に密輸されてきたのだ。

 シリアにおいては─サラフィ派から軽犯罪者に至る─武装ギャングたちが、反政府運動の初期段階から、正規軍兵士や警察官、一般市民に対してすら攻撃をしかけてきたことは公然と知られている。過去7ヶ月間におよそ3千500名の人々が殺され、そのうち多大な数の一般市民と1,100名の軍兵士らがこうしたギャングらに殺されている。

 そしてまた、そこには軍の脱走兵らもいる。そのために、Assadが現状におけるシリアの悲劇の大方が、高給を得た、よく武装された兵士たち(傭兵たちは勿論のこと)によって、外国勢力からの脅威のもとに煽りたてられたのだ、と主張するとき、それは本質的に正しい。

 Homsのローカルな情報筋が本紙に伝えたところでは、FSA(シリア自由軍)というものは「それはちょうど犯罪者たちに、メディアの報道上で都合のいいカバーを与えたに過ぎない。」彼らはBaba Amirでの彼ら自身のビデオを持っているが、そこで彼らは完璧なばか者(complete idiots)のように見える。(ここにそのリンクがあり、便利なキャプションもついている!:http://www.youtube.com/watch?v=5tC3RebQ2hc
 しかし、こうした少年らや男たちが誰だろうと、彼らはスンニ派の国民からの多くの支持を得ている。さらに、彼らはコミュニティ内部にコネクションをもっている。さらにまた、コミュニティ内部でも支持をうけている─金持ちからも貧乏人からも。

 Homsのすぐ郊外にある、大多数の生徒がスンニ派の某私立学校で教えるキリスト教徒の女性が、ギャングたちに車を止められて車を盗まれたという。彼女はHomsに着いた時に何本かの電話をかけ、そしてその後彼女の車は戻ってきたという。それゆえに、市の境界線の外で車を盗んだ者は誰でも、市の中・上流階級の人々とのコネをもっており、彼らというのは車を返却させることができるのだといえる。このことは私に、Homsに革命へのドグマ(教義)というものが浸透していることを示唆する。FSAの「コンセプト」とは充分に支持されているし、Baba AmrやBayada,Khalidiyyaのような貧困地域の人々もFSAを、自立的に(自主的な意思で)支持できるのだ。

いつもの票をかきあつめろ Round up the usual votes

 リビアにおけるのと同様、アラブ連盟はNATOGCCのためにそのドアマットの役割を期待通りに果たし、シリア政府の資産の凍結やその中央銀行との取引停止、アラブ諸国からの投資活動の停止を含む、厳しい制裁措置に賛成票を投じた。端的に言えば:経済戦争(economic war)の宣言だ。レバノンの新聞L'Orient Le Jour は、それを慇懃に「政治的な婉曲語法」と呼んだ。アラブ連盟の22の加盟国メンバーのうちの、19カ国がこれに賛成した─シリアは既に一時的停止状態におかれた。イラク(政府の大半がシーア派の)と、レバノン(ヒズボラが政府の一角をなす)だけが、賛成票を投じなかった。

 そんななかで、椅子取りゲームの、意地の悪い日和見主義者たち(nasty opportunists)…そのシリア版…もまた相変わらずその力を維持している。シリアの国家評議会(The Syrian National Council)とそのイスラム主義者(イスラミスト)仲間の一団は、Bashar al-Assad政権との間のいかなる対話をも拒否した。シリアのムスリム同胞団の理事長(secretary-general)、Riad Chakfiは、「リビアの反乱分子」を引き入れ、トルコ軍に対し、北部シリアに侵攻して緩衝地帯(buffer zone)をつくるように懇願した。前の副大統領Abdelhalim Khaddam(彼はパリに亡命した)─や、他の副大統領Rifaat al-Assad(スペインに亡命した)─のような危なっかしい国外亡命者たちは、ムスリム同胞団(それは「新生シリア」の権力のトップに着くことだろう)が、彼らに権力の座に着くことを許すだろう、という幻想を抱いている。

 これは完全にばかげている─なぜなら、「新生」シリアでのゲームの名前は、サウード家(The House of Saud )となるだろうから。サウード家は、エジプトのムスリム同胞団(彼らは、権力の掌握にどんどん近づきつつある)や、トルコのAKP党(本質的にムスリム同胞団の小型版だ)、そしてシリアのムスリム同胞団との、決定的なつながりを持っている。サウジ人たちは、トルコへの決定的な投資家勢力でもある。彼らは彼ら自身を、エジプトの主要投資家であると捉えている。そして彼らは「新生」シリアの主要投資家になることを、死ぬほど願っている。

 するとここに、トルコの演じるゲームに関する、重要な疑問が沸く。シリアの関係情報書類においては、トルコはもはや仲介者ではなく─彼らはすでに、政権交代のがむしゃらな主唱者になった。テヘラン-ダマスカス-アンカラの協約のことは忘れたまえ…それはつい最近、2010年までは現実だったのだが。ソフト・パワーと、外務大臣Ahmet Davutogluが発案して、盛んに喧伝された「我々の近隣諸国との問題をゼロにする」("zero problems with our neighbors")という外交ポリシーのことも、忘れたほうがいい。

 Davutoglu自身は、トルコ自身によるシリアへの制裁措置(─アラブ連盟のそれの再演としての、政府の金融資産凍結と中央銀行との取引停止)を宣言した。Davutogluはトルコ国境に沿ったシリア国内への軍事的緩衝地帯の設置は「アジェンダ(課題項目)にはない」と主張したが、しかしそれはまさに、こうしたNATOGCCの影の「人道主義的モニターたち」の方針しだいだ。11月中旬以来トルコのメディアは、北部シリアの飛行禁止区域(no-fly zone)と前述の緩衝地帯をAleppoまで広げて設置する詳細なプランを、興奮した論調で書きたてていたのだ。

 その動機だって?…「預言者」のHillary Clintonに聞いてみるがいい、─内戦を煽るための動機を。

決戦は、地中海クラブ・スタイル Showdown, Club Med style

 トルコ型の政治モデルの、アラブ世界のスンニ派多数派地域への売り込みに必死に狂奔しながら(GCCは未だにそれを買ってはいないが)、トルコはロシアとイランとの決定的関係について、深刻な計算間違いをしているのかもしれない。トルコのエネルギーの70%前後は、ロシアと、イランから輸入されているのだ。勿論ロシアとイラン両国は、トルコがNATOのプレッシャーに屈してミサイル防衛の一部としてのレーダー中継局の国内設置を許すことに対し、憤っている。

 ロシアは、シリアのシナリオに対して、明確な考えを持っている。ロシアの外務省はここ何週間もあからさまに言い続けている、「我々は、シリアへの軍事的介入を絶対に受け容れない」と。

 先週、モスクワで行われた新興BRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の外務大臣代理の会議では、間違いはあり得なかった。 BRICS諸国は本質的に赤線を引いた。シリアへの外国勢力の介入は許さない…「シリアの内政問題への、国連の許可のない、いかなる外部勢力による干渉も、排除すべきである」と。「イランを爆撃しろ("bomb bomb Iran")」ではない。その代わりに、対話と交渉を主張しているのだ。そして、これ以上の制裁措置は「逆効果」なので、課さない。BRICSは明確に、リビアのシナリオがゆっくりと「NATOGCCの戦争」に形を変えていくことを看て取っている。(*アメリカの保守派、John McCainが大統領選キャンペーン中につい言ってしまい物議をかもした言葉)

 外部的情報を加えるなら、戦艦空母のAdmiral Kuznetsov(核ミサイルを搭載した)は、駆逐艦Admiral Chabanenkoと小型快速船LadnyとともにすでにMurmanskを出て、東地中海に向かっている。同艦隊は1月中旬にはシリアのTartus海軍基地に到着して、黒海にいる他のロシア艦隊と落ち合うだろう。ロシアの国防省からの600人の軍部要員・技術者を駐留させているTartus基地は、ロシアの黒海艦隊のメンテナンスと給油の中心地点なのだ。ロシアが空母George H W Bushの攻撃グループ(…これも今東地中海にいる)のメンバーとバレーボール・マッチをするかどうかは、スリルのある見物だ。

  シリアの大衆はAssad政権以外の何かを望んでいる、という議論は、公平な見方だろう─しかしそれは「人道主義的な空爆」の変化形(varient)だとか、ましてや内戦などでは、勿論ありえない。彼らはリビアに、NATOの遺産(レガシー)をみている─国中のインフラは実質的に破壊され、都市は空爆で灰燼に帰し、何万人もの人々が死傷し、アル・カイダ系の狂信主義者たちがTripoliで勢力をふるい、民族(部族)間の憎悪は、広汎に広がっている。彼らは、新たなブランドの虐殺(massacre)を望まない。しかし、NATOGCCは望んでいる。
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/ML02Ak01.html
註:*R2P(responsibility to protect)
 「独立国家の主権は必ずしも特権ではないが責任であり、国家はその国民を、民族虐殺、戦争犯罪、人道に対する犯罪、エスニック・クレンジング(これらをMass Atrocity Crimes─大規模残虐犯罪と総称する─)から守る責任がある」との見地の元に…独立国家がこれを守れない場合、国際社会がその遂行を援助しなければならないとする考え。そのRtoPとは、国際社会にとってのノーム(規範)であって法ではない。国際社会は経済的、政治的、社会的手段によって現状の危機に対処し、外交的または強硬な手段、あるいは軍事介入をその最後の手段とし、犠牲となった人々の安全と正義の再建、大規模犯罪の起因の解明をはからねばならない…とする。
  〔…ルワンダ虐殺が阻止できななかった際、当時のコフィ・アナン国連事務総長が嫌疑を唱えたのが端緒。2000年には、カナダ政府がInternational Commission on Intervention and State Sovereignty(介入と国家主権に関する国際委員会、ICISS)を設立、翌年に報告書「The Responsibility to Protect」をリリース。アフリカ連合(AU)は、これを組織理念にもりこんでいる。2006年には国連安保理が国連決議1674の一部として採択。2009年に国連事務総長藩基文が新たな報告書を発表し、これを更に推進させている。(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/Responsibility_to_protect)
ウェブサイト:http://www.responsibilitytoprotect.org/

活動家らが非難、「シリアへの監視団は誤解を呼んでいる」((1/5, AP通信、Al-Jazeera)
─アラブ連盟の監視チームは殆どが、Assadに忠実な地域へと案内された、と反対勢力。政府は政治犯釈放を宣言─

 活動家らは、シリア政府がアラブ連盟の監視団らを政府に忠実な地域に連れて行き、道路の表示を変えて彼らを混乱させ、政府支持者らを反政府的な地域に送って偽の証言をさせた、と政府を非難。

 12月27日に始まった1ヶ月に及ぶ監視団のミッションは、9ヶ月に及ぶ政府の弾圧が、5,500人の人々を殺害したと国連が伝える国の内部への稀な視察を行っている。しかしそこでは、政府に忠実な者達が監視のプロセスを修正不可能なほど損ねたという怖れがもたれている。

 水曜日までにはアラブ連盟はコメントしていないが、シリアの外務省スポークスマンはこれを否定。「我々はミッションの仕事の妨害をしていない」とAP通信に語った。彼は政府のエスコートが監視団には必要だったと語った。

反政府勢力による主張

 反政府側の活動家らはなかでも、政府に忠実な者達が軍用車両を警察の車両に見せかけるため、青く塗り替えたとも主張。この方法により、政府が反乱分子への弾圧を終わらせるために、軍隊をアラブ連盟のプランにしたがって人口密集地域から撤退させた、という主張を許すことになる。同プランは政府が治安勢力と重武器を市街道路から撤収させ、反乱勢力のリーダーらや、解放された政治犯らと対話をはじめることをも要求している。

 シリアはこれに12月19日に合意し、監視団の入国を許可。約100名の監視モニターが現在、政府がこの件にしたがって殺戮を止めているかどうかを調査している。

 人道活動家らは12月21日以来、400名程度の人が亡くなったとしている。…アラブ連盟の理事長Nabil Elarabyはカイロで、同地域の組織機関はシリアへの監視団のミッションの短縮は考えていないと述べた。火曜日にはあるアラブの外交官が、シリアで殺戮が続いているので、22カ国からなる同連盟の監視団を撤退させると述べた。殆どの外国メディアの取材も禁じられているのでこれらの情報の確認が不可能となっている。

 アラブ連盟は都市からの政府側の重火器の撤収、何千人もの政治犯の釈放など、監視団の存在によるいくつかの勝利があったとする。

「誤ち」が認識される

 シリアでの弾圧を調査すべく派遣されたアラブ連盟の監視団は「過ちを犯した」と、クウェートの国営報道機関がカタールの首相Sheikh Hamad bin Jassim Al Thani(アラブ連盟のシリア・タスクフォースの議長でもある)の言葉を報じた。その「過ち」については詳しく明らかにされていないが、彼は国連からの「技術的支援(technical help)」を求めているという。

 シリア政府側では、木曜日に政情不安に関与して拘留されていたが(その手を血で汚していない)、552名の収監者を解放した。また国営SANA通信社は、11月に2,645名の収監者が解放されたと報じた。人権グループと国連は、3月中旬以来の反政府運動で数千人が逮捕されていたと推定。
http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2012/01/201215101052888818.html

 アラブ連盟監視団のモニターが、嫌悪感を表明しシリアでのミッションを中止(1/11, Reuters, ArabNews)

 アラブ連盟監視団メンバーの一人が、─「恐ろしい光景の数々」を目撃しつつも彼はそれを阻止することが出来ず、シリアに送られた監視団は独立して行動出来なかった、としてシリアを退去した。「私は自分自身が(シリアの)政権に加担していることに気づいたため、去ることにした」、とAnwar Malekは未だに監視団のオレンジ色のベストを身に着けたまま、Al Jazeera TVに語った。

 「どのように私が政権に協力したかって?私は政権に、彼らが殺戮を続ける大きなチャンスを与えて、そして私はそれを防げなかったのだ」。アルジェリア出身の彼は、カタールのAl Jazeeraの本部で語った…Malek氏は彼が止めた理由について述べた、「最も重要なことは、ヒューマニティに基づいて人間的な感情を持つことだ。私はHomsで15日以上を過ごしたが…私は恐怖の光景の数々、焼かれた遺体…をみた。私はこんな状況で私のヒューマニティを捨て去ることは出来ない」

 Malek氏はアラブ連盟のミッションのリーダー、スーダン人のGeneral Mohammed Al-Dabi についての批判を述べた─彼のこの監視団での役割についてはDarfur紛争における彼の過去の役割と関連して、人権団体から疑問が表明されていた。「ミッションのリーダーはシリアの公権力や他のどんな勢力をも怒らせないために、中間的なコースに舵を取りたがった…」とMalek氏はいう。彼は、シリアにいる時点からすでに、Facebookに批判的な投書をして注目を浴びていた。

 ある国連幹部(米国国連代表Susan Rice)は火曜日に安保理に対して、シリアはアラブ監視団の到着後、反対派に対する殺戮をさらに加速させたと語った。「アラブ監視団の到着後、推定400名前後の人々が新たに殺害され、一日平均で40人が殺されている。その数は、監視団派遣前よりもはるかに増加している」、とNYで国連大使Susan Riceは報道陣に語った。その死者の数はシリア当局が発表した、先週のダマスカスでの自爆テロによる26名の死者の数は含んでいないという。
http://arabnews.com/middleeast/article561817.ece

関連記事
http://www.asahi.com/international/update/0108/TKY201201080183.html
ロシア艦隊がシリア基地入港 アサド政権支持示す (1/8, Asahi.com)
 シリア国営通信などは8日、同国西部の地中海岸タルトスのロシア海軍基地に、空母など複数の艦船からなるロシア艦隊が入港したと伝えた。6日間ほど寄港するという。ロシアが改めてアサド政権支持の姿勢を示し、政権打倒に傾く米仏やトルコなどを牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。 ロシアは旧ソ連時代からシリアと友好関係にあり、タルトスの基地はロシアが地中海で持つ唯一の基地だ。反体制デモでアサド政権が倒れて基地を失えば、世界戦略に大きな影響が出るため、ロシアは同政権への支持を続けている。
http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2012/01/201211023919735848.htm
シリアは殺戮を激化させている、と国連
 国連安保理15カ国によるシリア情勢に関する密室会議で、米国国連大使Susan Riceは、(「シリア政府はこの(監視団派遣の)機会を暴力の終結と(アラブ連盟との)約束の履行のために活用せず逆に暴力をステップアップさせている」と語った。シリア政府国連大使Bashar JaafariはこのRiceの訴えを拒絶し、同国での暴力は「テロリストたち」と「武装グループ」によって引き起こされ、彼らは外国諸国からの支援を受けているとのべた
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-syria-observers-20111229,0,5093581.story
アラブ連盟監視団の団長はダルフール紛争での問題人物
 国際的人権団体は、監視団の団長Gen.Mohammed Ahmed Dabiはもとスーダン軍の諜報部チーフで、国際的な戦争犯罪法廷による召喚(Omar Al-Bashir大統領の)に従わなかった人物で、人選には問題があると批判 http://www.nytimes.com/2011/11/27/opinion/sunday/Friedman-in-the-arab-world-its-the-past-vs-the-future.html アラブ世界では、それは過去vs.未来の戦い(トーマス・フリードマン)  ─チュニジアやエジプト、リビアが革命勢力に震撼させられたとき、それらの国は「内側に破裂(implode)した」。しかしシリアが革命勢力に震撼されると、それは「外側に破裂(explode)するかもしれない」。 

 「シリアやエジプトの勇敢な若者は銃撃を怖れず立ち上がったが、シリアはより内戦になる恐れが強い」
  「なぜなら、シリアはレバント地域のキーストーン(要石)だからだ。シリアは多くの国々、宗派、民族グループと国境線を接しバランスを保っている。もしも内戦が起きたなら、シリアのすべての隣国がシリア国内の何れかの異なる勢力を支持したり、それらから影響力を及ぼされたりするだろう─スンニ派、アラウィ派、クルド族、ドゥルース派、キリスト教徒、親イラン勢力、親ヒズボラ勢力、親パレスチナ勢力、親サウジ勢力…等が、シリアを彼らの方向に傾かせようとする。トルコ、レバノン、ヒズボラ、イラク、イラン、ハマス、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルが皆、誰がダマスカスを支配するのかに権益をもち、そして彼らが皆、シリア国内での代理勢力に影響力を行使する方法を見出すだろう─それは大きな、レバノンのような内戦になるだろう」

Tuesday, January 3, 2012

中東イスラム主義テロリストの起源とは?*アラブのコンテクスト Middle Eastern Islamist Terrorism - By Jamal R. Nassar



カリフォルニア州立大のジャマル・ナッサール教授がイスラム過激派のルーツを解説-!!
アラブ・ムスリムの視点によるそのストーリーは、西欧人の解説とはニュアンスが異なっているようだ…
 
〔要約  ナッサール教授は著書『グローバリゼーションとテロリズム』の第5章、「イスラム:その教え・貢献・そして衰退」の冒頭において、7世紀アラビア半島の副産物だがユダヤ教・キリスト教のストーリーともよく似た"イスラム教"のメインストーリーを紹介している〕

 ─マリアに処女懐胎を告知した天使ガブリエルが洞窟で瞑想するムハマッドの許にも現れ、エデンの園を追われた人間の子孫たちを神の道に戻すようにと神のメッセージを伝えた─それがイスラムの始まりだった。イスラムの神Allahとは、キリスト教のGodをアラビア語訳したものにすぎない。コーランは神が遣わしたアブラハム、モーゼ、イエスの3人の重要な預言者についても詳しく描写している。キリスト教やユダヤ教とは異なり、イスラムは当初から「成功の物語」として預言者の存命中に急速に発展し、コーランのメッセージは100年のうちにアラビア半島から遠隔の地インドネシア、スペインにまで遍く伝えられて巨大なイスラム帝国を創り上げた─


  ユダヤ教とキリスト教の特徴を伝承しつつ、イスラムはそれに修正を加えた。その修正がイスラムにアラブ的な特徴を与えたのだとナッサールはいう。礼拝の中心地はエルサレムから、既にアラブの異教的な礼拝の中心地だったメッカへと変更され、安息日はムハマッドが最初の成功をおさめた金曜日とされた。


  イスラムのグローバル化はアラブの最も偉大な歴史的達成だったが、初期のムスリムがビザンチン帝国により征服されたのように、多くの場合にアラブは破壊されずに吸収された。イスラム学者らは、古い知識を9-10世紀の文明に転化して後の世界文明の発展に貢献した。代数学では現代文明に不可欠な小数点や数の表記をもたらし、薬学ではヨーロッパ人が病気治療に未だ魔術を用いていた頃に病院で外科手術を行い、科学では物理学と元素を教えた。哲学ではアリストテレス、ソクラテス、プラトンの知識を暗黒時代のヨーロッパ人に伝授した。ローマ帝国の最も偉大な時代と同様に、アラブ-イスラムの貢献なしにルネッサンスはなかった。その後帝国は何百年も継続し拡大したが、指導権は13世紀の末に、やがてオスマン帝国を率いる者の手へと渡り…19世紀末にはオスマン帝国は衰退しその領土を西欧帝国の拡大から守り得なくなったという。

 ─近代に入って西欧との文明的進歩の落差に気づいたアラブ世界に思想運動が勃興した。ナッサールはグローバリズムに翻弄される弱小国家には、「夢の転移 (Migration of Dream)」が蔓延しがちだと論じる(つまり、第三世界の人々が抱くグローバリズムや進歩への夢が、先進的な強国による抑圧、恐怖、国家テロ、戦争によって悪夢に転移していくという)

 アラブ人と今日の中東 The Arabs and the Contemporary Middle East  

 何世紀にもわたるイスラムの成功は、アラブ人たちに現代的な運命への準備をもたらさなかった。19世紀までにイスラム社会は、ヨーロッパ社会より、明らかにはるかな遅れをとっていた。ヨーロッパ帝国は軍事力で優位に立ち、中東とアラブ世界を植民地システムを通じ従属化した。敗北と迫害への抵抗が余儀なくされた初期の宗教と異なり、イスラムは大成功と勝利と共に始まり、その歴史的経験は勿論コーランが神の最終的な顕現だと保証しているようにみえた。この偉大なる歴史(への認識)は、西欧に対する従属的関係を受容れ難い近代のアラブ人たちにジレンマをもたらした。

 アラブの思想家たちの中には、19世紀に宗教の社会に対する関連性に疑問を唱え始めた者らがおり、こうした問いかけの中から3つの顕著な思想的な派閥が勃興した。これらの3つの派閥すべては、今日でもなお存続する。こうした思想の影響は宗教やそれを超えた出来事に彩りを与えている。そして、アル・カイダの源流は、この時代における知的な論議へと辿ることができる。その本質において1つ目の思想的派閥はイスラムを近代に適応させるよう主張していたが、もう一つの派閥は人々が「イスラムのオリジナルな教義と実践」とみなすものへの回帰を主張し、3つ目の派閥はイスラムを政治的な事柄からは一切引き離すことを求めていた。
 
 こうした派閥の初めの一派である革新主義(リフォーミスト)運動とは、Jamal al-Din al-Afghani(1897年没)とMuhammad Abdu(1905年没)の発案物だが、この両者は共にカイロのAl-Azhar Universityで教えるエジプトの知識人だった。Al-Azhar Universityは長い歴史のあるイスラム研究の主要な中心地で、その創立はイスラムの黄金時代の西暦910年に遡る。Al AfghaniとAbduは、イスラムの基盤は依然として健全さを維持しており近代のストレスの許においてもサバイバルしうる、と信じていた。彼らはイスラムの、知的エクササイズとしての解釈を主張した。言い換えれば、彼らはイスラムの教え方に、より近代的な解釈をとり入れることを提案した。al-AfghaniとAbduはエジプトで幾らかの影響力を持ったが、彼らの考え方は権力の座につかない知識人グループの内に留まった。しかし彼らの思想は20世紀の初めにal-Salafiyyaと呼ばれるエジプトのIslamistの一派に影響を与えた。未来のAl Qaedaのメンバーの幾人かは、彼らの思想的なルーツがこの初期の改革運動に遡るとしている。

 2つ目の思想の波は、2つの顕著な運動として現れた。そのうちの1つはアラビア半島で、もう1つはエジプトで始まった。2つの運動は大きく異なっていたが、共に多くの人々が「正しき(proper)」イスラムとみなすものに帰ることを唱え、信仰復興(リバイバリスト)運動とも呼べるものだった。イスラムの”清教徒”と言われるWahhabi学派は、イスラムとはシンプルなものであり、人々がその教えに則って行動すれば近代社会の発展の最中でも生き延び、発展できるものとみなしていた。その学派の父Muhammad Ibn Abdel Wahhab [1703 – 1792]は、預言者ムハマッドの時代のイスラム信仰の実践(practice)への回帰を主張した。そしてWahhab派の教えは、Abdel Aziz Ibun Saudという擁護者を見出した──彼は、アラビア半島をWahhabの旗印の許に彼のリーダーシップによって統一することを試みた。1920年代までにSaudは、大方の地域で彼の王国を設立し、そこでWahhab派の教えを強要した。Saudi Arabia王国は引き続き今日に至るまで、保守的なWahhabiの思想を(国民に)強要している。

 Hassan al-Bannaという名前の高校教師は、エジプトの信仰復興(リバイバリスト)運動を創立した。Al-Bannaは、商業活動や社会的福祉、教育、また身体的な健康の維持(フィジカル・フィットネス)においてもイスラムの教えの適用を唱える、純粋な宗教的一派を創立した。1928年の初めにal-Bannaはこうしたプログラムを実践するためムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)を設立した。同胞団はそれらの多くのプログラムを開始し、そのなかにはcooperatives(協同組合)、学校、スポーツクラブ、軍事教育プログラムさえも含まれた。
ムスリム同胞団の創始者 Hassan Al-Banna
同胞団は、無知とは反イスラム的なもので、よきムスリムは教育を受けねばならない、と強調した。1936年に、同胞団は英国・パレスチナ間の紛争での彼らの役割において──特に彼らが、英国の植民地主義者とシオニストの計画の脅威からパレスチナ人たちを助けるべく、パレスチナにボランティアを送った事で注目を浴びた。そうした動きは、同胞団のパレスチナでの支部の勃興に貢献した。この同胞団の支部が、1987年にパレスチナにおけるイスラム解放運動(Hamasとして知られる)の結成を宣言した。さらに、多くの他のアラブ諸国でも、同胞団のその他の支部が設立された。Al-Banna自身は、彼の仕事のこうした結実を目にする程、長くは生きなかった。彼はエジプトの秘密警察によって1949年に暗殺された。彼の運動の多くの継承者たちは、今日のエジプトでも勢力をなしている。1981年にAnwar Saddat大統領を暗殺したとされる者も、彼の追随者の一人だった。

 改革主義者と信仰復興主義者たちがイスラムの教義に基づく社会を主張する傍ら、そこには世俗的ナショナリズムを唱えるその他のアラブ人たちもいた。アラブ世界の政治をその独立時から支配するのはこうした世俗的ナショナリストらである。世俗的ナショナリストたちとはエジプトのGamal Abdul Nasser、シリアとイラクのバース党主義者、アラブ諸国が西欧植民地勢力から独立して以来権力の座にある多くの王族や大統領らに代表される。 

Hassan Al-Bannaと群衆
こうしたナショナリストらは、アラブのHomeland(故郷)の統合を主張した。彼らは、近代的なアラブ国家とは人工的なもので西欧諸国がアラブを分裂させておきたい欲求を反映したものだ、と論じた。バース党の創立者のMichel Aflaqのようなナショナリストは、アラブ人が一つの国家として結束しない限り、植民地主義とその影響からの自由は達成できないだろうと主張した。イスラエルがアジアのアラブ人たちとアフリカのアラブ人たちとを分離させている限りは、その統一は不可能なのだ。

 社会主義とは、ナショナリストのアジェンダのいま一つの構成要素である。それはしばしばNasserism(ナセル主義)とも呼ばれる。アラブの社会主義とは封建制度を終わらせるための土地改革、健康医療福祉や教育・交通輸送の社会的プログラム、すべての天然資源の国有化を課すものだ。ナショナリストのアジェンダはその初期には幾つかの成功を収めたが、多くの挑戦にもみまわれ、失敗したという認識に導かれた。ナショナリストの世俗的リーダーシップには、ヨーロッパとアメリカの政策立案者からの攻撃が常に絶えなかった。経済の自由主義的解放は一層のセットバックを生み、そして対イスラエルの戦争における失敗が、ナショナリスト勢力への本質的不信感をもたらした。

イスラム主義者よ、団結せよ Islamists Unite  

 ソ連が1979年にアフガニスタンに介入した際、アメリカはそこに幾つかの顕著なゴール達成の機会をみた。まず第一にアメリカは、ソ連がベトナムのごとく泥沼化する状況の創造を望んだ。二番目に彼らは、ソ連の共産主義に対するイスラムの統一的前線の創成を望んだ。その実行のため米国CIAはイスラム諸国の全土からアフガニスタンの戦線にボランティアを募るリクルートを始めた。結果的に、エジプトとその他アラブ諸国のムスリム同胞団に連なるボランティアたち、または少なくともWahhabi派の系統のボランティアたちからの思想的傾注が得られた。この二つのアラブ・イスラム主義の思想的派閥が、パキスタンと少なくともアフガニスタンの前線において一つの運動のために統合された。この時が即ち、ジハード(holy war)という概念が、武装した汎イスラム的なテロリストの国際的運動として生成された時だった。

 アフガニスタンでの闘いの中でエジプトの主導的イスラム主義者で医師のAyman Al-Zawahiriは、Saudiの裕福なイスラム主義者Osama Bin Ladenに出会った。彼らを結びつけたものはイスラムの人々と彼らの国土の外国による占領からの「解放」、という共通目的だった。CIAは30億ドルを投じ、ライフルやロケット・ランチャー、地雷やその他の武器を、40以上の国々の出身の10万人以上のムジャヒディーン、またはイスラム戦士に供与した。彼らがCIAから受けた武器や訓練とは顕著なもので、優勢なソビエト軍に対する彼らの勝利を可能にした。最後には何千ものアフガン人・ソビエト人の兵士らがこの紛争で死亡した。ムジャヒディーンたちが行った拷問の効果のみならず、アフガン人人口の半数は身体的な障害を負い、住む家を失い、あるいは死亡した。

 ゲリラ戦術とは、アフガニスタンにおけるムジャヒディーンらの戦術だった。多くのムジャヒディーン兵士が優勢なソ連軍の前にその命を失った。こうして、ゲリラ戦術はその性質において自殺的なものとなった。ゲリラ・ミッションは自爆ミッションへと形を変えた。しかしジハードにおいてはムスリムの解放のため死ぬことが英雄的行為として正当化された。そして未来の自爆テロリストたちが生まれた。彼らはアフガニスタンの英雄となり、世界の多くの国々で、ムスリムの若者たちに起きた夢の転移(migration of dream)となった。

 PDP(People's Democratic Party:ソビエトのアフガン侵攻時のアフガン政権)の奉じた進歩的なプラットフォーム(政治要綱)とは、女性の永久的な従属化を命じるイスラム主義者のイデオロギーに対しての、根本的な脅威だった。ソビエトによる占領期や、その以前にも、アフガンの女性の人権はその他のいかなる歴史的時期よりも保護されていた。過去のタリバン政権や今日の北部同盟による支配期とも異なり、PDP政権の時期にはアフガン女性らは多くの欧米の女性たちの享受しているのと同じ人権を謳歌していた。アフガン女性たちは、カブールや他の都市をブルカに隠れることなく歩き、車を運転し、デートに出かけ、高い識字率を達成し、大学に通い、農業やエンジニアリング、ビジネスなどの分野を学び、専門家として企業や政府で働いた。そうした権利はタリバンと北部同盟の戦争領主による深刻な挑戦を受けるものだ。

アル・カイダ Al Qaeda


 アル・カイダはアフガニスタンでの闘争のなかから生まれたが、そのルーツは何十年も前に遡った。古いリバイバリスト(信仰復興)主義の幾つかの思想が混合することで、新たな、より軍事的な形態のリバイバリスト思想が生みだされた。彼らのアフガニスタンでの成功と、その闘いの結末において裏切られた─という感覚が、新たな組織とその活動家たちの感情を鼓舞して、彼らに新たなる闘争への動機をもたらした。

 Abdalla Azzamという名のパレスチナのムスリム同胞団の活動家が、アフガンでの闘争にむけて、1979年にOsama bin Ladenをリクルートした。Bin Ladenは、同様にリクルートされた他の者たちと同じく、アフガニスタンでの共産主義との闘いへの熱意を抱いていた。しかし他の者たちとは異なり、彼には個人的な富とサウジアラビアのエスタブリッシュメントとのコネがあった。Al-Zawahiriはエジプトから、1980年にアフガニスタンに来た。彼はすぐにbin Ladenと出会って、友人となった。Bin Ladenは、医学博士の学位を持つ彼のことを"the Doctor"と呼んだ。アフガニスタンでの紛争の間にal-Zawahiriは、こうした傷ついたムジャヒディーンらの命を救う仕事に従事した。その頃、bin Ladenは彼の昔のリクルーターであるAzzamと袂を分かち、al-Zawahiriを含む新たなエジプトの友人らと親しくなった。こうした者たちとはIslamic Jihadの活動家やリーダーらだった。彼らのグループは1981年に、エジプト大統領Anwar Sadatを暗殺したグループでもあった。エジプトのIslamic Jihadはムスリム同胞団のメンバーから生まれ、その国の世俗的リーダーシップとの武装闘争を主張していた。

 Al Qaedaは1988年、ソビエトがアフガニスタンから撤退する前年に、オフィシャルに設立された。その計画にはパキスタン、アフガニスタン、エジプトなどのムスリムが国民の多数派を占める国々での世俗政権の転覆と、イスラム政権の樹立が含まれた。しかし彼らの目下の闘争とはアフガニスタンやカシミール、パレスチナなどの地における外国占領勢力からのムスリムの保護とならざるを得なかった。時にそうした闘争はソマリアやチェチュニア、ボスニアなどの他の地域に広がった。しかし米国がクウェート解放のためサウジアラビアに兵力を送った際には、サウジの米軍からの解放がもう一つの主要目的となった。米国と英国がイラクを占領した時には、イラクの解放がまた、もう一つの仕事の動機となった。
 
 Al Qaedaの反米イデオロギーは、中東での米国支配に挑戦するという意味では、オリジナルなものではない─それは、この地域の数多の者らに共有される。その組織の最も目だった特徴といえば、彼らが米国の領土内においてテロ攻撃を行うことへの決意─それは9・11以前には多くの米国人の誰にも想像できなかったことだった。それは別にしても、bin Ladenブランドのイスラムとはイスラムの一つの解釈にすぎず、そしてそれは、中東の多くの国々で広く受け容れられるものではない。Bin Ladenとal Qaedaの、サウジやイラクや他の中東諸国政府の転覆と「正しき」イスラム主義政府の設立への関心は、政治権力を握るための組織的な主要目標として強調されている。そうした野望は、"邪悪な帝国"と戦いアラーの秩序を地上に実現する、といった利他的意図からはほど遠いもので、bin Ladenとal Qaedaの他のメンバーらの関心とは、彼らの反動的な政治的・社会的アジェンダの実践のために絶対的権力を打ち立てることだ。その組織は、彼らの価値観と、彼らにとっての"正当な"世界秩序の概念の実現を強要するため、非武装の人々に対する弁護の余地のないテロ攻撃という方法をとる。
 
 アフガニスタンで、ボランンティアのムジャヒディーン(イスラム聖戦士)が米国の支援を受けていたのに対し、湾岸戦争後のサウジアラビアでの米国の基地建設や、パレスチナ紛争における米国のイスラエル支持、そしてチェチェン紛争での米国の沈黙は、bin Ladenとal Qaedaの彼のエジプトの友人らを憤らせた。そしてその闘争が、いまや米国へと拡大すべきものと看做された─それはエジプトの一団が長い間要求してきたことだった。BinLadenに、米国に対するこうしたキャンペーンを開始させた動機とは、湾岸戦争以降に、米国に裏切られたとの感覚だった。米国はムジャヒディーンへの支持を取りやめ、さらに悪いことに、パキスタン、サウジ、エジプトに彼ら(反体制勢力)とそのアヘン交易を弾圧するよう圧力をかけ始めた。アフガニスタン紛争を通じて、アヘンはムジャヒディーン戦士らの主要な支えだった。いまや米国はその支持を取り下げるのみならず、彼らの生命線を絶とうとした。さらに、bin Laden自身の国、サウジの政府は米国を招いて、その国土内に多くの米軍基地を建設させた。預言者ムハマッドの国がいまや超大国の軍に「占領された」こと、それは世界の多くの地域のムスリムたちを抑圧するようにみえた。

 Al Qaedaはソビエトとの闘争を米国とのものに置き換え、そこで他の方法で暴力を行使することに再度フォーカスした。ゲリラ戦術はいまやグローバルに到達するものとなり、そのターゲットは軍事的目標のみならず経済的、外交的なものを含み、1993年の世界貿易センタービルへの攻撃では、6人の犠牲者と1000人以上の負傷者を出した。米国はアフガニスタンのAl Qaedaの拠点と、スーダンにおいてbin Ladenに関連あると思われるターゲットをミサイル攻撃した。ここに戦争は開始された─ (後略)

  Dr. Jamal R. Nassar "Globalization & Terrorism: The Migation of Dreams and Nightmares," Ch.5 'Middle Eastern Islamist Terrorism' (Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 2005)   -  Courtesy of Dr. K.Marrar 

★イスラム過激派と冷戦時代のネオ・コン、CIAとの近しい関係を描くドキュメンタリー=BBC「ザ・パワー・オブ・ナイトメアーズ」
-BBC "The Power Of Nightmares Part 1of 6:Baby it's Cold Outside”
http://www.youtube.com/watch?v=eOlwbaPe2os


 "イスラミスト対CIA" の歴史を暴くこのドキュメンタリーは「国家権力による国家テロや帝国主義的勢力と対立する民族主義者等による過激なテロは、古今東西のグローバリゼーションの不可避な副産物だ」と説くジャマル・ナッサール教授のラディカルな見方とも呼応するかのようだ 「Part 1 」は1970年代に米国に留学したエジプト人サイード・クトゥブが、米国文化の堕落退廃に大きく失望して、ナセル大統領の親米政権にのっとられた故郷エジプトで反米的活動家となる経緯を追う。


ナセル政権下のムスリム同胞団への体制による弾圧と拷問のシーン(再現映画)も挿入される。ナセル大統領暗殺の容疑者として逮捕処刑されたクトゥブは医師アル・ザワヒリ等の後継者の思想的シンボルとなって今日のアル・カイダの誕生に影響を与えたとか。 (同胞団会員のザワヒリも当時容疑者として刑務所なかまだった)


  このドキュメンタリーではアル・カイダとは元々、組織として存在せず米国人のファンタジーだといっている。1993年の世界貿易センタービル爆破事件の際に米国の弁護士らが訴訟相手の組織としてでっち上げたのだとか。  
                                                       
Sayyd Qutb in Egyptian prison
 The Power Of Nightmares Part 2
http://www.youtube.com/watch?v=kKjzxxbkRH4&feature=related
Part 3~6は同page