カストロがニクソンに出会った時─
1959年に米国を訪れたフィデル・カストロはアメリカ人たちを魅了したが…
米国・キューバの関係とは、つねに暗雲に覆われていた
When Castro Met Nixon
Fidel charmed Americans in a 1959 visit, but U.S.- Cuba relations were always doomed. By Fred Kaplan (2016/3/21, Slate.com)
オバマ大統領が、キューバと米国の間に新たに再開された貿易と外交の拡大や、その自由の増大の途を求めてキューバを旅行している今─こうした途が半世紀ほど前にいかに閉ざされたのかを想い起すことは意義深い。
それは、1959年1月1日のことだった─フィデル・カストロと彼のゲリラ勢力は、独裁者フルヘンシオ・バチスタが包囲を破って逃亡したその数時間後には、キューバの首都を行進していた─当初は、彼らとワシントンとの関係は良好だった。バチスタを毛嫌いしていた在キューバの米国大使やCIAの部門チーフの要求に応じて、ドワイト・アイゼンハウアー大統領は、カストロの革命政府を公式承認した─それを実行した国家とは、米国がベネズエラに次いで二か国目だった。
3か月後の4月には、エネルギッシュな31歳のカストロが…ふさふさとした顎髭にグリーンの兵服姿で米国へと飛んで、好い印象を与えて回った。ワシントンでは彼はナショナル・モールを散策し、コーン入りのアイスクリームを食べ、赤ん坊にキスをし、人々のサインの求めに応じたり、バスの上の学生たちに手を振って…近づいてくる誰とでも訛りは強いが流暢な英語で会話を交わした。
ニューヨークでは彼はウォールストリートの銀行家たちとランチを共にし、ブロンクス動物園でベンガル・タイガーに餌を投げ、セントラル・パークの夜の集会では3万人の聴衆を前にスピーチを行った。ヒューストンでは、彼は純血種のクオーターホース(競走馬)を寄贈されて、石油業界マンのフランク・ウォーターに革命に関する映画の製作権を与えた(ウォーターはカストロの役をマーロン・ブランドに、彼の弟ラウルの役をフランク・シナトラに演じさせたかったが、映画は製作されなかった。)
ワシントンの議会堂での上院外交委員会との会合で、カストロはこう言った─「我々は、米国の資産を侵害することには何の関心もない」。彼は彼の政府内部の共産主義者たちの存在をめぐる質問をかわして言った、「彼らの影響力は全くない」と。また、521名の人間たちを処刑した政府の銃殺部隊について詰問されたカストロは、銃殺された者たちは「戦犯」だったと主張し、キューバではまもなく報道の自由を認めて、4年以内には自由選挙も実施すると約束した。
ニューヨーク・タイムズのある社説は、「この若い男には、堂々たる貫禄がある」と訴えた─彼の訪米を取材したタイムズの記者は、彼を懐疑的な目でみていた人間さえもが「眩惑された」といって熱狂的に書きたてた…記者はカストロがその国に「別世界から…獰猛なラテンの熱情の世界から来たというのみならず…彼は別の世紀からやって来たようだ」などと書いた…おそらく彼は、サム・アダムスや、パトリック・ヘンリー、トム・ペインやトーマス・ジェファーソンなどが生きた世紀から来たのだ、と。「なぜなら、彼は長らく茫漠とした記憶にすぎなかった過去の革命の記憶を掻き立てただけでなく、ひとたびそれが深く感じられるや、新たな秩序を想い起こさせた─(「その夜明けに生きていること自体陶酔だったが…若いということは真の天国の祝福だった)‘Bliss was it in that dawn to be alive, but to be young was very heaven’」)フィデル・カストロは、彼に対する不信の念をも脇に置かせることに成功していた─少なくとも…部分的かつ一時的には。
そうした留保の状態とは、長くは続かなかった。カストロが米国で膨大な数の群衆を引きつけていたその間にも、タイムズのハバナ特派員は、キューバのあらゆる町や労働組合で共産主義者たちが組織されていると報じた。そうした報道は、カストロの訪米の前日に米国大使館が発した公電を反映するものだった。それでもなお、米国大使のフィリップ・ボンサルは公電において結論した─「まだ多くのチャンスが残っている─慎重な方法によってカストロに影響を与えるための方策が。…「我々が武器を手にするよりも前に、彼にキューバが抱えている問題を手直しさせるために、いま少しの時間を与えよう」と彼は指摘した。
アイゼンハウワー大統領は、その時、意図的に遠方にいて不在だった─彼は、カストロがワシントンに滞在していた5日間はずっと、ジョージア州のオーガスタでゴルフをしていた。しかし副大統領のリチャード・ニクソンは、キューバのリーダーと議事堂内の彼のオフィスで、日曜の午後に2時間半にわたって面会した。その会話の要約によれば─ニクソンはカストロには印象的な魅力がある、と語りつつ、彼は「共産主義というものに対しては信じられないほどナイーヴなのか、あるいは(すでに)共産主義者の規律(教義)の下にあるかのいずれかだ…私の推測ではそれは前者だろう」、と言った。そして「彼の政府や経済に関する認識とは、「私がこれまで50か国で出会った人間の誰よりも遅れている」、ともいった。それでも、ニクソンは「彼には指導者となる力がある。…我々には、彼を正しい方向に向かわせる以外に選択肢はない」、と書いた。
ニクソンの考える「正しい方向」とは─他のすべての米国政府の官僚たちの認識とも一致していた─それは、共産主義に対する冷戦状態にある西欧世界と連携し、外国投資家に対して広く門戸を広げ続け、自由貿易経済と、厳格な財政規律を維持することと引換えに、IMFからの貸付けを受けることだった。
これは、カストロがまったく意図していない方向性だった。バチスタとはアメリカの権益におもねる傀儡だったが、カストロの革命の主な信条とは、それらを断ち切ることだった。カストロが喚起した真の希望というもの(西欧の多くの人間のあいだでさえ抱かれていたようなもの…)すなわち、カリブ海の国家はいずれの超大国とも同盟を結ばないないだろう、との予測は、米国の政府官僚らにとっての深い憂慮の種だった。大使のボンサルは、カストロが共産主義に対して「慈悲深い寛容さ(”benevolent tolerance”)」を維持していることに、手をこまねいていた。国務省の地域担当専門家たちの上官も─「ナショナリズム的な中立主義」へのカストロの傾向に関して…それを共産主義者が最大限に利用する可能性もある、と警告した。
米国を訪問する前月の3月、カストロは米国人が所有していたキューバ電話会社を奪還した。彼は帰国から2週間後の5月には、農地改革法に署名した─それは外国人が所有する資産をむしばんで、外国企業はキューバ人に分け前を返さない限り、排除されることとなった。
この意味において、フィデルが常に共産主義者だったのか、あるいは彼はいつそうなったのか、物事が異なる進展をした可能性はあるのか─といったことを考えることにはあまり意味がない。
こうした懸念がもたれるさなかで、議会では砂糖条例の改正が議題となった。バチスタ政権時代に立法化されたその条例は、アメリカの砂糖輸入の70%がキューバからもたらされることを保証していた。6月には、ある省庁間のグループがその件を討議すべく会合を開いた。そこでは、米国企業はラテン・アメリカに90億ドルを投資していると指摘する者もあった。その地域圏に属する国々はいずれも、ワシントンがキューバの搾取に対していかなるリアクションをとるかを注視していた─寛容さとは、こうした他の国々でも同様に企業の資産を危険にさらす可能性があった。政府の官僚たちはアイゼンハワーに、その法律の改正を望まないようアドバイスした。
カストロが首縄を絞められたように感じるまでに長くはかからなかった。キューバは資源に乏しく、その国には砂糖と、その他の物を購入する少量の硬貨があるだけだった。彼はチェ・ゲバラをアジアとアフリカに派遣して、「非同盟」諸国からの経済的援助を得るための方策を探らせたものの、成果は得られなかった。
フィデルがワシントンに飛んだその同じ月に、キューバ軍の中にマルクス・レーニン主義者の一団を創設する援助を依頼すべく、ラウルは側近をモスクワに送った。そして、クレムリンはスペイン内戦で戦った元・将官らを派遣してきた。1959年10月には、KGBの上級エージェントが、キューバ島への資金と武器の供給について話し合うために島を来訪した。まもなくフィデルはラウルを新たな革命軍省の担当大臣に任命したが、そのことはキューバの将官たちの一団の離反(亡命)を招いた─彼らは米国に到着するや否や、(米政府に)ハバナのソ連との新たな関係に関する諜報報告を行なった。
結局、11月にはアイゼンハワー政権がキューバ政府転覆のための秘密計画を策定したが、その動きにはカストロの暗殺が伴う可能性があった。CIAの局長アレン・デュレスは、こう論じた─「カストロのいかなる後継者も、彼ほどの催眠的魅力は持たないだろう」から、フィデルの死はその体制の崩壊を「大いに促進するに違いない」と。(1970年代にチャーチ委員会が暴露したように、CIAはしばしばマフィアを仲介に用いて、数回にわたりカストロの暗殺を試みた)。
1960年8月、カストロは米国が所有していた7億4千万ドルの資産を1日にして掌握し、その行為を米国の「経済的攻撃」への報復だと正当化した─そして彼は、「ソ連やその他の共産主義諸国からの助力」を「喜んで享受している」とも宣言した。その翌月、カストロは国連総会に参加すべくニューヨークを再訪した。今回の訪米では彼は何ら気ままな散策も行わず、新聞による熱狂的な社説も書かれなかった。彼と側近たちは、ミッドタウンの高級ホテルの代わりにハーレムのテレサ・ホテルに宿泊した─そこで彼は、国務省の官僚たちや主流派メディアの記者たちと一対一の会談を行う代わりに、マルコムXと彼の住む近隣の黒人居住地域のローカル紙の記者らと会談した。国連では、カストロはソ連のニキータ・フルシチョフ首相が議会場に入ってきた瞬間に立ち上がり、大いに称賛した─フルシチョフはその返礼に、カストロを熊の如く抱擁した。
かくして、その後の数年間にはそのサイクルは頂点に達し─米国によるピッグス湾への侵攻や、第三次世界大戦の引金を引きかねない、核ミサイルをめぐるソ連と米国の睨み合い─という1960年代最大の危機を生じた。
そうした事件の多くは、おそらく避けがたいものだった─その意味で、フィデルが常に共産主義者だったのか、あるいは彼がいつそうなったのか、もしもアイゼンハワー1959年の春に彼に会っていたならば事態は異なっていたのか─といった問いにはさしたる重要性はない。彼の革命の特質を鑑みれば、カストロは米国企業の権益には屈服できず、IMFのルールブックに追従するわけにもいかなかった。そして、米国の世紀半ばの外交政策の性格を顧みても、いかなる米国大統領も、本土からこれほど近い地域でのこのような革命を看過することはできなかった。キューバの乏しい資源と経済的な自給自足の不能さゆえに、カストロはより力の強い国と何らかの連携を組まねばならなかった。そして、世界の二つの敵対的なブロックへの分離がより硬直化するにつれて、ソ連がその力とならざるを得なくなった。カストロの最初の動機がいかなるものであれ、彼は弱小国がコントロールできないグローバル・ゲームのなかに嵌め込まれた。
こうしたダイナミズムは、すでに1989年の冷戦の終焉により段階的に縮小をはじめて、2年後にはソ連が内側から崩壊した。米国は、大統領選においてしばしばフロリダが有する29人の選挙人区の決定的影響力(それは広汎な政治的影響力をもつ州の亡命キューバ人コミュニティの意向に左右された)ゆえに、その後も四半世紀にわたって国交の断絶を継続した。
オバマは、多くの第一世代の亡命キューバ人たちがすでに世を去った…という事実を認識して…その認識に従って行動した最初の大統領だった─オバマは彼ら亡命キューバ人の子供や孫たちの世代が、親たちの世代と比べればキューバとの外交関係復活への敵対心が低い、という事実や、(とりわけ多くの面で、1950年代末のタイムカプセルのなかで硬直化していたキューバ経済ゆえに)米国による投資が有効となる可能性、また、その門戸をふたたび世界に開けばキューバが西欧文化や価値観を取り入れるかも知れない可能性(カストロ兄弟がそれを望もうと望むまいと)といった認識のうえに、そうした行動にでた。
そこには、いまだに障害も存在する─それは、たとえ米国政府や亡命キューバ人たち、多くのキキューバの自国民が何らの固執を抱いていなくても…みずからの古い行動様式や認識に固執しがちなカストロ兄弟自身の問題だけではない。そこにはいまだに解決すべき、様々な問題がある─それは没収された資産の弁償の問題や、外国投資家の権利の問題、グアンタナモ基地の処遇の問題だけではない。
それらの整理には、何年もの年月を要する─真剣な論議をはじめるには、カストロ兄弟の死を待たねばならないかもしれない。しかしオバマとその側近たちは懸命にこう計算する─たとえ(もしも)彼らの希望のシナリオが楽観的すぎようと…米国にとってキューバが何ら脅威でなくなった今日、そして他の国々も出入りを開始した現状においては、その島のドアを閉ざしたままでいることは無意味なのだ。
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/supreme_court_dispatches/2016/03/conservative_justices_attack_the_aca_s_contraception_mandate.html
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