Friday, August 14, 2009

ベイトゥラ・メスード死す?/Baitullah: Dead or alive, his battle rages - By Syed Saleem Shahzad

…Baitullah Mehsud将軍は、パブリシティやプロフィール写真の露出を嫌った …時にはジョーク交じりにカムフラージュの衣装をつけていたとか?

ベィトゥラが生きていようと死んでいようと、彼の戦いは続く─ By Syed Saleem Shahzad (8月8日、Asia Times)

 パキスタン、および米国の当局はいまや、パキスタンのタリバン組織のリーダーで、TTP(Tehrik-i-Taliban Pakistan:パキスタン・タリバン運動)の首領ベィトゥラ・メスードBaitullah Mehsudが、水曜日(8月5日)に南ワジリスタンの部族エリアで米軍無人偵察機の攻撃により殺害されたと、先を争って確認しようとスクランブル態勢だ。 「諜報部からの情報にもとづき我々は、Baitullah Mehsudの死亡を断定した。しかし我々は空爆で彼が死亡した事実を、さらに地上捜査で200%確認したい。」と、金曜日にパキスタンの外相Shah Mehmood Qureshiは述べた。

 TTPは、Baitullahとその第2夫人が8月5日の無人機の攻撃で死亡したと複数のチャネルで伝えているが、彼の葬儀は既に開かれ、その後継者は金曜日に指名されるという。首都イスラマバードのMehsudジルガ(部族評議会)の会合はこの報道に関してコメントしていないが、南ワジリスタンのMehsudの最大のライバルのHaji Turkestan Bhitniは、米軍がその首に500万ドルの懸賞金を掛けていたMehsudは死んだ、という。 30代半ばのBaitullahはパキスタンでの幾つもの武装攻撃に関わってきたが、2007年12月27日のBenazir Bhutto元首相 の暗殺にも関わったとされる。

 もしもBaitullahが死んだなら、タリバンは、彼らの組織とアル・カイダやパキスタン民兵、部族民兵、また特にアフガニスタンのHelmand 県のタリバン組織との間を結び付けていた大きな力を失うこととなり、その打撃は大きい。 長年にわたるタリバン指導者たち(2004年6月に南ワジリスタンで米軍の空爆により殺されたNek Mohammad、2005年6月パキスタン南西部Balochistan で治安維持軍との銃撃戦で死亡したAbdullah Mehsudを含む─)の後継者として完璧なリーダーだった彼の代任を見つけるべく、タリバンは必死の後継者探しを迫られることになる。


 過去1,2年間、この小柄で糖尿病を患いながらも大いにカリスマ的だったBaitullahは、彼自身の存在と、南ワジリスタン以遠の地域で、主として中央政府と対立する武装勢力の傘組織TTPの存在を打ち立てた。多くの人が彼をアル・カイダの指導者オサマ・ビン・ラディンよりも大きな脅威とみた。 2001年末の米軍のアフガニスタン侵攻に続く同国でのタリバンの敗走以後、同国に居た有力なアラブ人司令官たちはすべて、国境の向う側の南ワジリスタンに逃亡した。彼らはその後直ぐに彼ら自身の資力と思想を投じ、その同じ思想をわけあい同盟を組む新たな世代を育成した。それは数年を要したが、その成果はNek Mohammad からAbdullah Mehsud 、 Baitullah Mehsudに至る人材によって明白となった。

 Baitullah はアフガニスタンのタリバンの貧しい寄せ集め部隊の一兵卒から身を起こした。余り有名でない宗教者の息子だった彼は、マドラサ(イスラム神学校)をドロップアウトした。パキスタンのアル・カイダの首領Khalid Habibや、アル・カイダの最有力のトレーナーAbu Laith al-Libbiは、大志を抱く Baitullah を彼らの傘下にいれ、彼にオフロード車両や多量の武器を与えた。そして重要なことは、ウズベキスタン・イスラム運動の首領、Qari Tahir Yuldashevが彼の2500名の重武装兵力の指揮権をBaitullahに与えたことだ。Baitullahは、彼に最大の思想的なインスピレーションを与えたこのウズベク人と共に住んだ。

 2002年、当時の首相Pervez Musharrafの暗殺未遂事件以降パキスタンのジハード運動の外貌は武力鎮圧され、武装兵士たちは部族エリアに逃亡した。彼らの中での著名人物にはジハード戦士の主導者Qari Zafar 、また元カシミール・ゲリラの司令官であったIlyas Kashmiriがいる。 彼らは皆、有名なタリバンの司令官 Mullah Dadullahなどと共にBaitullahによって保護され、Baitullahはそうした活動の途上で、地域で最も影響力を持つ者となっていった。 2007年までにはBaitullah は1年に何百人もの男たちをHelmand県に送り、南西アフガニスタンで外国勢力と戦うタリバン主導の反乱勢力を力づける最大の貢献者となった。彼はまた、パキスタンでのアル・カイダのミッションのため傘下の部族の無法者を自爆テロリストの人材として送りこみ、アル・カイダからの資金供与をひき出した。

 もしもBaitullahが死んだのなら、その後継者はパキスタンのタリバンのチーフとして、彼自身が手にしていたよりも一層巨大な一大勢力圏の支配権を継承するだろう。その新たな人物は同時に、パキスタン軍と対決する決戦に直面する… 同国軍はここ何ヶ月か、南ワジリスタンでの武装攻撃を準備すると同時に、Baitullahのライバルの部族民兵の武装を進めている。
米軍Central Commandの現チーフDavid Petraeus大佐はイラクで部族民兵勢力を武装化し、アル・カイダの外国勢力に対抗させることを発案した。このイラクでの経験は、2007年に駐カブールの英国大使Sir Sherard Cowper-Colesの興趣をそそり、彼は同じ作戦で、arbakai ─部族の長老の命に従って村々を守る部族のボランティア民兵たち─を組織化すること考えたが、…その作戦は失敗した。 同様に、パキスタンの治安維持組織はタリバンの打倒のために部族民兵勢力を武装化し始めた。しかし、彼らはタリバン殲滅の代わりに、宿命的に部族同士の抗争に火を点けてしまい、部族間紛争の亡霊の再来が招きよせられた。

 首都での会合 

 この過去5日間、Mehsud部族のメンバーはイスラマバードで、政情不安定な部族支配地域の平和を維持する合同コンセンサスを作るべく、会合を開いた。彼らはBaitullahの生死に関わらず、トップのパキスタン軍人たちや首相にも会い、彼らの現在の戦略アプローチが誤っていると指摘し、その説得を試みたいと考えている。 ジルガ(部族会合)のメンバーには前・議員や現職上院議員、部族の長老たち、国中に(戦乱により)離散している交易業者やビジネスマンたちが含まれている。 Haji Mohammad Khan Mehsudは、2004年(Baitullahの出現以前に)部族長老の権力削減という目的の一環として民兵勢力によって殺されたNawaz Khan Mehsudの息子だ。彼は、Baitullahと同じ南ワジリスタンMakeen 出身である。彼はAsia Times Onlineのインタビューに答えた─ 「我々はBaitullah Mehsudと共にはおらず、彼を支持してはいない。我々は、本当のターゲット以外のあらゆる勢力を攻撃のターゲットとするこの軍の作戦の意味が理解できない。」─ Haji Mohammad Khanは苦悩とともに語った。

 「Haji Turkestan Bhitni (*Mehsudのライバルだった)は我々の本拠の南ワジリスタンの出身で、Baitullahに代わるこの地域の新たな軍事的指導者だ。今やTurkestanの人々は Mehsud部族に対する恨みを晴らそうとしている。彼らはTank とDera Ismail Khanにおいて、親Mehsudの人々のすべての本拠の地域に武装勢力を送り、攻撃を実行するつもりだ。」「我々は、軍の高官たちに対して幾度も、我々はこれまでBaitullahと共にあったが、他所の地域で難民として暮らす気はないということを告げた。しかし高官たちは我々の要求には耳を貸そうとしない。Dera Ismail Khan と Tankでの少年たちをターゲットとした謀殺もまた、パキスタン軍が武装化したBhitni 部族の仕業だ。私は当局担当者に、この戦略によって誰が得をするのかと訊いた。もちろん、幻滅した我々の部族の少年たちはBaitullahに共感し、彼に協力することだろう。」とHaji Mohammad Khanは言った。

 パキスタン軍は、南部・北部ワジリスタン、および部族支配エリアに隣接する各都市で勢力を強めている。何週間にもわたり、ある地上作戦の実施が延期されているが、Pakistani Inter-Services の広報部 はまた、南ワジリスタンで近い将来に作戦行動の計画があることを否定している。パキスタン軍はここで、極度に困難な地域に直面し、また酷く敵対的なタリバンの支部組織は、予想に反して部族間の違いや互いの反目関係を脇において、統一戦線を組んでいる。
 このことに対する回答として、軍は部族民兵勢力をBaitullahに率いられていたMehsud部族にぶつけるべく武装している─ Baitullahは部族システムを壊し、それを実質的に、パキスタン全土で… 自爆攻撃の実行、また盗みや誘拐によって資金を稼ぐ武装ギャング組織に代えたのだ。

 昨今、パキスタンの治安勢力は超法規的にMehsud部族の者達を殺害し、その遺体は南ワジリスタンのBaitullahのもとに、「我々に逆らえば逆らうほど、お前たちは自らの部族の者の遺体を集めることになる」とのメッセージと共に送られた。(関連記事"Pakistan wields a double-edged sword”http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/KG18Df03.html  を参照。) だがそのような行為もBaitullahを怖気づかせることはなく、彼は即座に彼に逆らって立つ全ての者を処刑した── 最近ではQari Zainuddin Mehsud が暗殺されたのだ。

 Asia Times Onlineでは元・エンジニアでindustrialistに転じたHaji Mannan Mehsud に、何故Mehsud部族は、Baitullah Mehsudのグループに内部的アクションをとらないのかと質問した。「なぜなら、政府は不可解なポリシーをもっていて、彼らは我々を支持しないのです」と1995年に4千万ルピー(当時の米ドルで1千万ドル)を投資して南ワジリスタンでバター製造プラントを建設した Haji Mannanはいった。2008年にはその工場は、治安維持の口実のもと、軍によって破壊された。彼はこのことへの補償も受け取ってはいない。 Haji Mannanは続けた、「1999年以前には、国境には何の治安維持部隊も居なかった。それは必要がなかった。部族たちがパキスタンの国境地域の前哨部隊だったのだ。2000年から01年にかけて軍が我々の地域に到来し、部族兵力は彼らを助けて、彼らが必要とした全てのロジスティックスを支援した。Baitullah Mehsudもまた、911以降ですらも、彼らのガイド役だった。

 「今や状況は変わり、彼は米国かインドのエージェント(スパイ)だとして非難・追求されている。Baitullah Mehsudに関して、部族の長老たちは短い期間、相談を受けていたが、今や政府はライバルの部族を武装化し、彼らによるMehsudの部族の虐殺を幇助している…彼らがBaitullahと共にいようといまいと。」とHaji Mannanはいった。

 ジルガ(部族会合)に関して、上院議員 Saleh ShahはAsia Times Onlineに対し、未だに何の決定もなされていないと語った。 Baitullah Mehsud がプレデター機のミサイルで殺害されたかどうかの事実は近く公表されるだろうが、もし事実なら、パキスタンの混乱した部族エリアと国境をまたいだアフガニスタン側では新しいチャプターが始まるだろう。しかし、Baitullahの遺産は、パキスタンのタリバンと彼らのアル・カイダの同盟者たちに、なおもその戦いを続けさせることだろう。 (*筆者、Syed Saleem Shahzad はAsia Times Onlineのパキスタン支局チーフ)
http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/KH08Df04.html
*写真はBaitullahの背に手を回すHakimullah Mehsud

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Pakistan Says Feud Kills a Top Militant (Mehsudの後継者選びで反目、トップの司令官が殺害さる)(8月9日、NY Times)

 8月8日、パキスタン政府高官によれば、アフガン国境に近い山岳地帯におけるタリバンのMehsudの後継者をめぐる話し合いの場で、前リーダーMehsudの若くてアグレッシブな側近であったHakimullah Mehsudが、後継者の地位を狙うもう1人の司令官Waliur Rehmanにより射殺された。Rehmanは負傷したともいう。Hakimullahの死が事実なら、タリバンにとってもう一つの大きな打撃となる。こうした内部抗争により、パキスタン北西部のアル・カイダがパキスタンのタリバンの方向性を定めるのに一層大きな影響力を行使する可能性が出る。同グループは、最近アル・カイダとの連携を強め湾岸諸国からの多くの資金を獲得していた。ワシントンの対テロリズム担当高官は、TTPの内部抗争は米国とパキスタン政府がこれに乗じれば、彼らの勢力を弱める機会をもたらすともいう──先の米国の無人偵察機による空爆攻撃では少なくとも、Hakimullah Mehsudもターゲットの1人だった。

 会合に出席していたBaitullahの義父は、反目するグループにより拘束されたとされる。パキスタン政府担当者は、この後継争いには今後、アフガニスタンのタリバン総帥オマール師の重要な部下、Sirajuddin Haqqaniが率い、アル・カイダとも繋がりの強いHaqqani部族のグループが介入してくる可能性もあるという。 南ワジリスタンでのこのSara Roghaの会合で2人の後継者候補は口論となったが、地元のMehsud部族がHakimullah を後継者に推すのに対し、外国から来た武装兵士メンバーはRehmanの方を好んでいた。外国勢力とパキスタンのタリバンは相互の依存関係を強めている。2008年のイスラマバードのMarriott Hotel の爆破犯は、アフガニスタンのMehsud部族の部分的支配地域でMohmand Agencyにより訓練されたアフガン人だったが、この爆破を計画し資金援助したのはケニア出身のアル・カイダのメンバー、Usama al-Kinniだったことも、その明らかな証拠である…。http://www.nytimes.com/2009/08/09/world/asia/09pstan.html?_r=1&sq=Mehsud&st=cse&scp=2&pagewanted=all

http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/7163626.stmProfile: Baitullah Mehsud
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1706680,00.htmlThe Face of Pakistan's New Taliban
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/20th/2009/06/17.html
国境地帯一の軍事指導者メスードは第二のビン・ラディンか(2009年6月17日)(*写真右側ベイトゥラ・メスード)


*その後、Mehsudの後継者選びに関する報道は錯綜… Hakimullah は重傷ながらも生存、リーダーを継いだという情報も出た─それに対しパキスタンの外務大臣は情報は疑わしいともいっている。次のリーダー決定までの繋ぎの偽情報なのでは、ともいう…。
Hakeemullah annnounced new leader – doubts linger

Saturday, August 8, 2009

ゲイツ教授「誤認逮捕」事件と憲法の人権条項・A Man's Home Is His Constitutional Castle - By Christopher Hitchens

ハーバード大学の著名な黒人学者で、オバマの旧友でもあるヘンリー・ゲイツ教授が、自宅の玄関前で、〔黒人であるがゆえに?〕「誤認逮捕」された…その後、大統領は、怒ったゲイツ教授と逮捕した警官を共にホワイトハウスの庭に招き、和解のビールパーティを催したのだが。

─この事件について、ヒッチンズがリベラルなコラムを書いていた

人にとって"自宅"とは、合衆国憲法によって権利を保証された自分の城だ
 
─ ヘンリー・ルイス・ゲイツJr.は「Bill of Rights (憲法の人権条項)」の立場に立つべきだ……だが、彼自身や、彼を逮捕した警官の「面目」の立場にたって、

主張をすべきではない ( 7月27日 By クリストファー・ヒッチンズ) 

 もしも、あなたが警官と対立したなら、あなたには幾つかの試せることがあるだろう──そしてまた、試せないこと…試さない方がいいこともある。先日メモリアルデーの日に、私がワシントンのベトナム戦没者記念式典に向け、タクシーを駆っていたときのこと…突然、警察の車が車の列を横切り、全ての車両を急に停止させたのだ─そこで、私は車の窓を開けて、何か問題がおこったのか、と周囲に尋ねて…そして、どのくらい止まり続ける可能性があるのかという質問を発した…私は、紐状のヘアスタイルをした、ネズミのような顔の獣のごときブロンド女から、「きい~っ」という叫びを浴びせられたのだ… 彼女はまるで、誰かを苛める瞬間というものを…その場所で一年もの間、待っていたかのようだったのだ(彼女は、私がその支払いを助けたはずの制服を身に着けていた)。

 …私はしばしば、口を閉じているのが困難になりそうな事態にも遭遇するが、それをひと目見たときに私は、そのダメージを受けた生き物がトラブルを起こしたいとウズウズし…彼女に関わって何か裏手にまわってお喋りなどしたが否や、私は1時間でなく何日をも費やすであろう、と察知した。 (…彼女がこう叫んだのは、まるで気狂いじみていたと思う─ 「"Because I can! だって私ならかまわないのだ」「 Because I say so! 私がそう言うのだから、そうなのだ」…)憎しみで余りに熱くなったこの女性に─私は、問いかけることも、彼女の名札やナンバーを見るために充分に近づくことすらもできなかったのだ。この全ての事件が…特に、私の卑しくも低劣で受動的なる性質というものが、後日…それを思い返している間にも、私を悩ませて苛んだ─ しかし私には、それはできなかったのだ…あなたが理解してくれるのならそれを言いたいのだが…私はその後、そのようないかなる屈辱的な民族的記憶というものも、想い出そうとはしなかったし、勿論私はそのことを、最近までは、ほとんど忘れてしまっていたのだ。

 ─すると、より最近になって私は、夏の間を過ごすカリフォルニア郊外の木立の中を歩きながら、これから書こうとするエッセイについて考えていた。すると不意に、警察のクルーザー(パトカー)が、唸りを上げて近づくと、静かに私の隣に滑りこんできてライトを閃かせた。「What are you doing?"お前は何をしている?」…はっきり言って私は、これに、どう答えるべきか分らなかった──私はその週に、空港のセキュリティにも足止めされてうんざりしていた──私は、そんな求めに応じる気がしないことに気づいたので、突如こう答えた。「そのことを知りたいのは誰なのか?Who wants to know?」、私が歩き続けると、その声は訊いた、「Where do you live? どこに住んでいる?」「None of your businessそれはお前の知ったことではない」、私が告げると、その声は尋ねた、「What's under your jacket? そのジャケットの下にある物は何か?」…私は尋ねた、「What's your probable cause for asking? お前がそのように尋ねることの…probable cause(*)とは何なのか?」、私の心はもはや、わずかながらも保持している私の憲法上の権利に陶酔しかけていたのだ。すると暫くの無言の瞬間を経たのちに、その警官は、ほとんど訴えるような口調で…彼が私が不法侵入者か泥棒であるか否かを、どうやったら知ることができたのか?と問うた──私は、「You can't know that君には知ることはできない」、「for me to know and for you to find out. I hope you can come up with probable cause.  そのprobable causeを─私にとっては知らねばならないし、君にとってはそれを見つけなねばならない。私は君が、それを見つけるよう望んでいる」…といった。するとその車はゴロゴロと音を立てつつ私の横を過ぎ去り、そして去って行った。その運転手は間違いなく、事実の何らかのチェックに走ったと思われたものの、その後、戻ってはこなかったのだ。(*probable cause=米国憲法修正第4条に基づいての執行者が逮捕または家宅捜索、逮捕状の取得等を行うときに根拠とされる基準─また犯罪の容疑者に対しては陪審が犯罪が犯されたとの根拠とする基…)

 最初の事例において、私はそこに──誰もがみな気づくことだが、警察の力に加わることをどうにか許された…沢山の、ゆがんだ不適格者たちを発見したのだ。2つ目の事例では、私はよい警官が真夜中も更けてからでさえも彼の判断を行使できて、それを行おうとすること──たとえ”容疑者”の尻に喝を入れてでも?…を発見していた。しかし真面目に言って、もしも私が黒人だった場合、この2番目のような行動はできたのだろうか、あるいはそれを試みられただろうか、そんなことをする機会が与えられたのだろうか?"Skip"〔*ニックネーム〕こと、ゲイツ教授の問いとは、通常、そこに起こることはどんなことで、それ故に実際起こったことのうち何は不可能で、何は起こりえないか、という問いがあった。(ワシントン・ポストの黒人コラムニスト、コルバート・キングColbert I. Kingはかつて、両親から、几帳面に行動を律することが必要だといった考え〔need for punctuality〕を教え込まれた…という示唆的なコラムを書いていた。彼らの毎日のレッスンとはこうである─ もしもあなたが帰りが遅くなったら、あなたは走り出すかもしれないが…黒人の若い男が通りを走ったりすれば、目的地に達するよりも前に合法的に拘束される可能性が大きいことを忘れるな、というのだ。)

 私には、ヘンリー・ゲイツJr.教授が、自宅の玄関ドアを押し開けた場合に近隣の黒人の住民によって警察に通報される可能性というものがはっきりと想像できる。同様に、暴漢のような、あるいはは神経過敏な黒人警官が、その通報に応じる光景というものも容易く想い浮かぶ。そして私はその場合に、両者の間の誤解を解くのにいかに長時間を費やすかも予測できる。しかし、ゲイツ教授とはその子供時代のニックネーム("Skip")が部分的に表わすように、片足に障害をもち、細身で、物腰も穏やかなのだ。さらにまた、彼が警官に何を言おうが、それは彼自身の家のプライバシーのなかでの出来事だった。彼が、自分がその家の住人であることを明白に証明した後に、その家の中で手錠をかけられ、ダウンタウンへと連行されたのは、モンスター的な出来事の極みだ。大統領はこのすべての件について、口を噤んでいるべきだったのだが(彼は司法上の公平性の維持をその任務とする上級官僚で、我々の家庭の揉めごとを監督するマイクロ・マネジャーではないのだから)──しかし彼が、一度でも警察のやり方が「Stupid(愚か)だった」と述べたのなら、彼はその言葉に拘り続けなければならない…ケンブリッジ警察が痛ましくも、ご都合主義的な反応によって、虹色の陰影を拡げたことなどはものともせずに。それは合衆国の憲法であって、競合しあうコミュニティや、選挙区の塊りだけでの憲法であってはならず、それは市民が、自分の家とプライバシーの主権者であると規定するものだ。そうした自らの権利を守るために、人が礼儀正しく振舞わねばならない法的な必要性というものは、絶対、どこにもない。その権利は、ビールを交えた交渉で奪い去られるような権利でもない。

 人種や肌の色は、もしも考察されることがあっても、ここでは二次的な考察事項なのだ。私はかつて一度、ニューヨークのローワー・イーストサイドで、白人男性の強盗に出逢ったことがある。…私の証言にもとづいて地元の警察署がわざわざ見せてくれたのは、全て黒人ばかりからなる"前科者たち"のフォト・アルバムだった。そのようなやり方の馬鹿ばかしさは、中途半端に訓練された、文化的でない(警察官の)集団が、私が彼らに言ったことをどう信じるか…への無能力さを表すだけでなく、確実に、彼らの愚かしさ(stupidity )というものが、実際に罪のある人間たちが逃亡することを助けているのだ。ゲイツ教授はその主張を、Bill of Rights (合衆国憲法の人権条項)の立場によって発するべきであり、彼自身や、彼を逮捕した警官の「面目」の立場から発するべきではない。そして、もしも彼にそのような気持ちがなかったのなら、残りの我々自身もそういう態度をもって行動すべきではない。
http://www.slate.com/id/2223673/

Tuesday, August 4, 2009

現代米国の「人種教育」(2)/Racism Without "Racists" By Eduardo Bonilla-Silva


今日の米国は、「カラー・ブラインドな」〈肌の色には関知せず、平等を建前とする)社会、とされるなかで…(ラティーノの社会学者、エドアルド・ボニーラ・シルバは…却って隠蔽されがちな人種差別を「カラー・ブラインド・レイシズム(color-blind racism)」と呼んで告発する。…その意味とは何か?(’08年の米国のソシオロジークラスのテキストより)

「レイシスト」なき「レイシズム」

レイシズムというものに関連して、ここに不可解な謎が存在する。誰も、ほとんど誰しもがレイシストとみられたいとは思っていない;それなのに依然として、レイシズムは事実、堅固に存在し続けている。" (Albert Memmi, "Racism")

第1章: The Strange Enigma of Race in Contemporary America─ 現代米国の「人種」という不可解な謎

 今日の米国では、白人至上主義者の組織のメンバー以外に、「レイシスト」と呼ばれる白人は少ない。大半の白人は、「我々は人々の肌の色など気にしない、我々はその人たちがどんな人たちかを見るのだ── 肌の色とはもはや、マイノリティの人生におけるチャンスを左右する、主要な要素ではないのだ」、などという…醜悪な人種差別の「貌」がいまだに存在しているにも関わらず。 そして終いに、彼らは…ちょうどマーチン・ルーサー・キング牧師のように、「人々がその肌の色ではなく、その人格によって判断される社会」に棲むことを熱心に望む。もっとも辛辣なことに、大半の白人たちは、この国におけるいかなる「人種的問題」というものも、マイノリティ自身、特に黒人たち自身に責任があると主張するのだ。彼らは黒人たちが、「人種」にもとづく不必要で不和を促すような…アファーマティブ・アクションの様なプログラムを維持し続け、白人たちに何か批判されれば常に「人種差別」だ、と叫ぶことで、「Playing the race card(人種というカードを使っている)」と公けに非難する。そして大方の白人は、もしも黒人やその他のマイノリティたちが過去を思い出すのを止め、勤勉に働き、文句(特に人種差別への)をいうことを減らせば、すべての肌色の米国人は「一緒にやっていけることだろう」という。

  しかし、白人たちのそうした「誠実なるフィクション」にも関わらず、人種というものは、米国のほとんど全ての物事に影を落とす。黒人と、ダーク・スキンのマイノリティは実質的に、社会生活のいかなる分野でも白人に遅れをとっている。彼らは経済的に白人の約3倍も貧しく、白人よりも収入は約40%少なく、彼らの持てる資産の総体は白人全体の8分の1 しかない(註)。彼らはまた、白人よりもより劣る教育を受けている─人種的に統合された教育機関に通っていても。居住する住宅に関しては、白人の所有する物件に比べ、黒人の所有する物件の経済価値は35%ほど低い。黒人とラティーノは、住宅市場というものすべてに対してより少ないアクセスしかもっていない─それは、白人の不動産業者や住宅のオーナーたちが、その近隣地域に彼らが入り込むことを成功裡に、効果的に制限しているからだ。黒人たちは商店やレストラン、その他の商業的な取引においても、礼儀のない扱いを受ける。リサーチャーたちは、黒人層が車や住宅のような商品に白人よりも多くの金額を支払っている、との調査結果を提示している。最終的に、黒人とダーク・スキンのラティーノたちは、警察による「人種プロファイリング(racial profiling)」──高度に人種的区別の存在する犯罪法廷システムとも連携した──のターゲットであり、そうしたシステムが、逮捕・立件され収監される者たちや重罪で起訴され処刑される者たちの人種的割合における彼らの過剰性を保証している。
 
 ほとんどの白人が人種の差別はもはや存在しない、といっている国でのこのような極度な人種的不平等とは、いったいなぜ可能なのか?そしてより重要なことだが、白人たちは彼らの告白する「color blindness (肌の色への無関心さ・色盲なこと)」と、米国での「color-coded inequality(肌の色でコード分けされた不平等性)」との明らかな矛盾を、どうやって説明するのか?本書で私はこれらの2つの問いへの解答を試みたいと思う。私は、白人たちが強力な説明を発展させてきたことに関して議論したい─それは最終的には、彼らを今日の人種的不平等への責任、有色人種の地位に関するいかなる責任の嫌疑からも逃れさせる正当化となっている。

 こうした説明とは、私が「color-blind racism(色盲的人種差別)」と命名した新しい人種問題のイデオロギーから発している。この理論は1960年代の末に一貫性を獲得し、主流になったのだが─ ノンレイシャル(非人種的)な社会的ダイナミックスの結果としての今日の人種的な不平等を説明するものだ。「Jim Crow racism(ジム・クロウ法的人種差別主義)」が、黒人たちの社会的立場がその生物的・モラル的な劣等性の結果だ、と説明するのに対し、「color-blind racism」は、そのような安易な議論をすることを避ける。それに対し、白人たちは、マイノリティ人種の今日の社会的地位とは、市場原理(マーケット・ダイナミックス)の結果であり、自然に起きた現象で、そして黒人たちの文化性の限界に起因する結果なのだという道理を唱える。たとえば、白人たちはラティーノ人種の高い貧困率は彼らの弛緩した労働倫理(「ヒスパニックはマニャーナ、マニャーナ、マニャーナ…何でも"明日、明日、いつかそのうち" といって引き伸ばす癖がある」)の結果だとし、あるいは居住エリアの人種別の分離(segregation)とは、異なるグループ間の自然な傾向というもの…(「犬は猫と一緒に住めるだろうか?そうは思えない。ミルクとスコッチ・ウィスキーは一緒には飲めないし、ある種のものはミックスできないのだ」)の結果だとする。

 「color-blind racism」は、黒人その他のマイノリティ人種を人種的に"井戸の底(bottom of the well)" の地位に留めておくメカニズムが変化していくなかで、主流の考え方となった。私はこの本以外の場でも、今日の人種的不平等性は「ニュー・レイシズム」の実践のなかで <…それはとても微妙に制度化(インスティテューショナルに)のされた、明らかにノンレイシャル(非人種的な)ものではあるが>再生産されるものだ、と論じてきた。
人種的不平等が公然たる手段で行われていたJim Crow法の時代(たとえば、「ニガーお断り」と公言したり、投票所でのショットガンでの実力行使などもあった時代)とは対照的に、今日の人種差別は「見えるとも、見えない」手段によって実行される。たとえば居住エリアの人種別分離は、今日にも過去と同じくらいに存在しているが─それはもはや公然たる差別的な方法によっては行われない。その代わり、隠然とした方法…たとえば全ての売出し対象物件を表示しない、といった方法で、マイノリティーと白人が特定の居住エリアに誘導される─ より高額な賃貸料や売出し価格を提示したり、あるいはある物件を全く表示しないことによって─ こうした方法が分離的なコミュニティーを持続するための武器として選択される。経済的分野では、「笑顔による差別("smiling face" discrimination)」(主に、白人が大半のネットワークや特定の人種層むけの新聞上での、「今はお仕事はありませんが、どうぞまた後日チェックしてください」)といった求人広告の表示により、高等教育を受けた有色人種を低報酬の仕事や、限られた異動・昇進の機会しかない職に誘導することが、今やマイノリティをセカンダリー・ポジションに留まらせるための方法なのだ。政治的には、Civil Rights(公民権)の施行は、有色人種の政治参加のために多くの障害を取り去った。しかし、人種的なgerrymandering(勝手な選挙区の改定)、複数の選挙区での重複投票、(不公平な)決選投票や白人中心選挙区との恣意的合併などが地域の選挙で広範に行われ、また都市でのanti-single-shot devices (1人か2人の特定候補に集中して票を投じる事を許さない)などが有色人種を政治から締め出すためのスタンダードな方法となった。 銀行やレストラン、学校の入学アドミッション、住宅の売買取引においても、白人層の特権の維持は、人種的な差別が簡単には読み取れない方法で行われた。このようにして、color-blind racismの輪郭は米国での新たなレイシズムとして、非常に適したものとなった。

 Jim Crow時代のレイシズムと比較して、color-blind racismのイデオロギーとは"racism lite"(軽めのレイシズム)であるかのようにみえる。”Niggers"、"Spics"〔スペイン系アメリカ人〕 "Chinks〔中国人〕”といった露骨な呼び名を使うかわりに、color-blind racismは彼らをやんわりとotherize(異種化)する。(「これらの人々も、人間だ」)、神が世界に住まわせた彼らマイノリティが奴隷の位置にあると宣言する代わりに、それは彼らが、遅れた位置にある存在だと、なぜなら彼らは充分に勤勉に働かないからだとする、そして、異人種間の結婚を(ストレートな人種差別的価値観によって)悪しきものだとし、それを子供たちについての懸念や場所がらの問題、カップルに嫁せられる余計な重荷などから、「問題のあること」だとみなす。しかしこの新たなイデオロギーは、人種的序列維持のための政治的ツールとしては侮り難いものなのだ。Jim Crow法レイシズムが、公民権法制定前の暴力的で公然たる人種的抑圧システムを固定化すべく用いられたのと同様に、color-blind racismは今日、ポスト公民権法時代の隠然たる、制度化されたシステムのイデオロギー的な鎧(武装)として使われている。そしてこの新たなイデオロギーの美点とは、白人の特権の維持をファンファーレを鳴らすことなく、誰がその対象なのか、誰がその報酬を得るのかを名指しせずに、それを助けることなのだ。それは大統領をして「私はすべての人種的な多様性を強く支持する、高等教育における人種的多様性を含めて─」と言わせるが、同時に、ミシガン大学のアファーマティブ・アクション・プログラムが「不正」であり、白人に対して「差別的」なものであるという声明をださせる。こうして白人たちはその、人種的な利益を安全に保護するポジションを「レイシスト」と呼ばれることなく獲得する。color-blindness・色盲的人種差別主義のシールドによって保護され、白人たちはマイノリティへの怒りを表現でき、彼らのモラル・価値観・そして労働倫理を批判し、その果てには、彼ら白人たちが「逆人種差別」の犠牲者だと称する。これが、私が「レイシストなきレイシズム(人種差別主義者なき人種差別)」と呼んでいる、不可解な謎を説明するために、提示したい理論なのだ── (…後略)

*写真は:ニューヨークのプエルトリカン・デーにて(本文内容とは直接関係ありません!the 'photo' is not particularly related to the contents!)
*註: (Collins and Margo, 'Race and the Value of Owner Occupied Housing, 1940-1990' NY. Bard College, Aug.2000)
*Bonilla-Silva著:初版は1962年、第2版は2006年発行。

Saturday, August 1, 2009

現代米国の「人種教育」(1)/Rethinking the Color Line: Understanding How Boundaries Shift -Charles A. Gallagher


法律上では人種差別を認めないはずの米国社会にはなぜ、いまだに人種差別が存在するのか?

─オバマ政権も発足した、今日の米国の”人種教育”─大学ではいかに教えているのか?
 
カレッジのソシオロジーのクラス(人種関係論)のテキストから、C.ギャラガーによるイントロダクションを引用─)

Rethinking the Color Line: Understanding How Boundaries Shift (Preface) - By Charles A. Gallagher
──カラーライン(色による人種的区分け)を再考する:境界線はどう変化してきたのか?
 「Rethinking the Color Line」、というこの本のタイトルが、暗に社会学的に約束するものとは…今日での、人種と民族(race and ethnicity)という言葉の意味の探究であり─その意味が社会的、政治的、経済的、そして、文化的な力によって…どのように形成されてきたのか、を探ろうとするものだ。そうした意味では、これはとてもストレートな試みにみえるかもしれないが…しかし、そうではない。人種と民族(race and ethnicity)というものは常に、その意味が流動的で、曖昧で…意味の捉えにくい概念だったのだ。

 たとえば米国の国境線のすがたというものを…人種または、民族…というものの定義のアナロジーとして、ちょっと想像して欲しい。
  米国の国境線の概観や、その見取り図というものは一見したところ、人種や民族race and ethnicityと同様に、手際よく描いたり地図化したりできそうにもみえる。そう…それは我々が合衆国の国境をイメージできるのと同様に…道理にかなった、確実さをもって…誰かがブラックや、ホワイト、アジアン、またはアメリカン・インディアンであると規定できるということでもある。

 我々は、こうした人種的カテゴリーに人々を当てはめる─なぜなら、我々は肌の色や、髪の特徴、眼の特徴などの組み合わせに焦点を当てるよう、訓練されているからだ。
 我々は、個人個人というものを人種的カテゴリーに当てはめたあとで、決まって文化的なマーカーによって、さらに彼らを分類しようとする…すなわち彼らの民族的な…あるいは…先祖のバックグラウンドといったもので。例えば、もしもひとりの白人が部屋に入って来たなら、我々はその個人の人種を見ることだろう。彼や彼女が話を始めて、アイルランドなまりや、ニューヨーク市のアクセント、または南部の方言を使うことに我々が気づいたら。何が起こるだろうか?スーパーマーケットで我々の前に並ぶ褐色の肌の女性が、レジ係に話しかけており、そして我々が、彼女がジャマイカ人または英国人だと気づいた場合はどうだろう? 我々はまず最初に、肌の色で種類分けして、そして次に文化的なバックグラウンドで識別しているのだ。

 200年以上前に合衆国が建国されて以来、この国を定義する国境線は幾度も書き換えられてきた。1776年以前には米国が存在しなかったのと同様に、人種(race)という、今日理解されているような概念も、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸や、アフリカ、そしてアジアの一部を植民地化する以前には、存在していなかった。現在アメリカとして心理的に理解されている国の地図も、たった40年ほど前にできたに過ぎないのだ。その地図とは、1959年にハワイが50番目の州として米国領となってから以降につくられたものだ。それ以前には1803年にルイジアナがユニオンに買収され、そしてその後再び、ミズーリの割譲が1820年に行われ、その他の領土の受け入れも行われてきた─そして、我々はさらに、もしもコモンウェルスのプエルト・リコが55番目の州としてユニオンに入ることを決議するなら、心理的な地図を再び描きなおさねばならないことを思い出す必要がある。

 米国での人種と民族(race and ethnicity)という言葉の定義の問題は、米国の領土の形成と同じく、その概念の輪郭が与える意味が時間的経過のなかで変遷してきたものだ、といえる。2007年に白人(white)とみなされている人間は、米国の過去の歴史上では、black とかIrish、またはItalian、と定義されていた可能性がある。例えば19世紀と20世紀の境目の時期に、米国に到着したばかりのアイルランド系やイタリア系移民というのは、白人(white)とはみなされなかった。その頃、こうしたグループのメンバーは、米国の既存のいかなる人種的ヒエラルキーにも容易には属さなかったのだ。彼らは人種的なLimboに属していた─白人でも、黒人でも、アジア人でもないという─彼らの民族的バックグラウンド、つまりアイリッシュとイタリア系の移民を、主流派のグループとは識別させるような…その言語、文化や、宗教的信条─が、さまざまな意味で、彼らを人種的グループだと特定していた。

 それから1、2世代を経る間に、これらのIrish、とかItalian、と呼ばれる移民は、今日、白人(white)と呼ばれるグループに吸収されていった。彼らが、「非白人」または「人種的に曖昧」といったカテゴリーから…「白人」として認知されるに至ったその同化の速度とは、比較的素早かった。それは、米国史上の異なる時期においては、現在の最高裁判所の判事Antonin Scaliaや、上院議員Ted Kennedyの両親、または祖父母が、非白人のイタリア系とか非白人のアイルランド系、として認知されていたという事実でもあり、それは我々の人種的感受性にとっては奇妙で、ショッキングでさえもある。

 もしも誰かの民族的アイデンティティが人種的なアイデンティティに取って代わられた場合に、我々が社会学者に対して発する問いとは「なぜ?」という問いだ。
 米国の国土の形が時とともに変遷してきたごとく、人種と民族、というものの定義も変わってきた。あなたはあなた自身の抱く人種・民族といったものへの概念が、あなたの両親や祖父母の抱いている概念とは違っているなどと思うだろうか?人種とか民族が、今この特定の時代を反映しており、30年~40年の間にはまったく違うものになっていると思われたなら、あなたはそれをどう理解するだろうか?本書「Rethinking the Color Line」はここで、人種や民族の定義がなぜ、時とともに変わるのか、いかなる社会学的な力がそのような変化を起こさせるのか、そして次の世紀にはそうした分類は、どのように見える可能性があるのか─に関する理論的なフレームワークを提供する。

 ここでこうした例が示唆して、「Rethinking the Color Line」が意識的に探求するものとは、人種とか民族というものはが、社会的に構築された(socially constructed)概念だという事だ。…それが社会的に構築された…というとき、そうした(人種を区分けする)特徴、とは社会的、文化的な価値観に根づいているという事だ。人種や民族という言葉は社会的な構築物である─なぜなら我々がそれに、勝手に社会的な重要性を見出しているからなのだ。人種や民族とは文化的な価値観に基づくものであって、科学的な事実に基づくものではないのだ。

 重力の法則が働く瞬間を、考えてみてほしい。もしもあなたが、この本をあなたの机から落としたら、それは床に落ちるとあなた思うだろうか?勿論、そう考えるだろう。もしもあなたが、ブラジルか、南アフリカ、またはプエルトリコに住んでいるなら、あなたは同じことがあなたの本に起こると考えるだろうか?勿論だろう、なぜならあなたは重力の法則が全世界で共通だと知っているからだ。しかし、誰かが米国でBlackと定義される場合、その誰かはブラジルではWhite、 プエルトリコではTrigueno(中間)、そして南アフリカではColouredと定義されるのだ。重力の法則はどこでも共通だが、人種の区分けは時と場所によって異なる、なぜなら人種や民族の定義とは、その社会にとって価値がある、ないと定義された生物学的特長にもとづくものだからだ。それぞれの社会の価値観とは、それぞれの社会の経験してきた異なる歴史的な経緯や、文化的な状況、そして政治的定義づけに基づいており、そして人種と民族の概念は国と国との間で少しずつ異なるだけでなく、その国内部の国民の間でも少しずつ異なるものなのだ。

 例えば、米国の南部では社会的にも法的にもBlackとされた人物が、北部に移住した後にWhiteとして"容認"されることは珍しいことではない。人種という概念を定義付けるものは非常に不安定で、それは政治的な操作(マニピュレーション)によっても、たやすく変わるものなのだ。

 人種とか、民族的同一性、というものは、我々がそうだと定義する限りにおいて、文化的にも意味がある。言い換えれば、人種というものは我々がそれが存在する、と言うから存在するのだ。そして人種とか民族とかいう場合、その特徴とは、社会的なプロセスを反映している─つまりそれはこうしたコンセプトは違う方法でも想定できるという事だ。例えば肌の色や、顔立ちの特徴、髪の毛の質などをみるかわりに、我々は足の大きさで人種を区分けすることだってできる。靴のサイズが4から7の人は小人種、8から11の人は大人種、12から15の人はモンスター・フットの人種、といったように。こうした、より小さい足の人や、より大きな足の人は「Other」というカテゴリーの人種になるかもしれない。我々は同様に、眼の色、身長や、手の大きさ、あるいは鼻の高さでも人種のカテゴリー分けができるだろう。なぜなら人種の区分けに用いられた身体的特徴とは、勝手に選ばれたものであり、遺伝学的・生物学的・人類学的・または社会学的な何の根拠もなく、靴のサイズを人種の区分けに用いることも、まったくこうした現在用いられるシステムに代わるものとして有効なのだ。同様に、言語や宗教、国籍などを人々の区分けに用いるのと同様、人々が食べる肉の量や、人々のヘアスタイルによっても人種的な区分けを再定義することができるだろう。

 何が、こうした人種や民族というものの正確な定義付けを複雑化しているのか、といえば、それが常に変わり続けていることが原因なのだ。300万人のLatinoというものは、米国の国勢調査において米国の1人種グループとして区分けされているから存在するのか、それとも、Latinoとは(本当に)一つの人種グループなのだろうか?もしも現行の国勢調査の人種カテゴリーにおけるWhite、Black、Asian、American Indianという区分けが、Latinoとしての(人種的)経験を反映していないか、あるいはLatinoたちが非Latinoたちによっていかに認知されているかを反映していないならば、そこに「Brown(茶色)」といった人種カテゴリーが追加されるべきだろうか?…その新設される「Brown(茶色)」人種とは、ニューヨークのプエルトリコ系市民や、マイアミのキューバ系市民、サンディエゴ市のメキシコ系市民が当てはめられるべきだろうか?それは、なぜそういえるのか、またはなぜ、そうはいえないのか?我々は、メキシコ系アフリカ人の父親と日系アイリッシュ・アメリカンの母親から生まれた子供の人種は、どう定義づけたらいいのか?そのような問題に、人種や民族というものはどのように関わっているのか?

 1903年に社会学者のW.E.B.Du Boisが言ったこととは、「20世紀の問題とは、カラーライン(Color-Line)の問題だ」ということだ。それは21世紀のキーとなる問題のようにもみえる。Du Boisが年代に沿って記録したものとは程度やコンテクストがやや異なるが、それはいまだにカラーラインの問題なのだ。そのトピックまたは問題は、当初は人種や民族と関わりがあるとはみえなかったが、しかしより詳細な社会学的検証によれば、人種や民族が大きな問題となる場合のパターンjは、頻繁に出現する。人種や民族というものと…<誰がより良い教育や、適切なヘルスケアを受けられるのか、誰が貧困なのか、有害廃棄物の処理場はどこに建設されるべきなのか、誰が雇用され、あるいは昇進させられるか、または─どの人種・民族グループがより一層、死刑の宣告を受け、処刑されることが多いのか?…>といった事柄とのつながりをあなたはどう見るのか?人種と民族は我々の人生のすべての側面、相互に絡み合っているのだ…(後略)
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 Preface(同書の前書き)

 米国における人種と民族間の関係(race and ethnic relations)というときに、我々はそこに2つの国をみる。我々がメディアのなかで、我々自身をそう描きたい、と想像する国、そして我々が実際に住んでいるコミュニティだ。ポピュラーカルチャーにおいて人種がどのように描かれているか、一瞬でも思い出してみるとよい。テレビを点ければ、あなたはすぐに、白人、黒人、ラティーノ、アジア系が一緒にショッピングをし、食事し、働き、そして相互に交流し合う、人種の違いなどもはや意味のないファンタジー空間をみる。典型的なものは、Checkerのファストフードの広告だ。ヒップホップのジングルがBGMに流れるなかで、ドライブスルー・ウィンドウで車にぎゅう詰めになったヤング・アダルトたちがスナックを買おうとする。そこではもう、車内のグループが多様な人種の俳優によって構成されていることなど、目立ちもしない。若者マーケットに商品を売る新しい方法は、人種の境を超え、民族の境を超えている、ということのシックさだ。ハリウッド仕立ての米国の人種関係における、あなたのベスト・フレンドは常に異なる人種出身の人間だ。GapやOld Navy、またはPepsi などの製品を売るためには、多人種によるCMキャストはほとんど必須条件なのだ。このような人種的な涅槃(ニルバーナ)では、多様な人種のハンサムなミドル・クラスの男たちが、アッパーミドルのリビングでくつろぎ、フットボール中継やCoor'sビール・Domino Pizzaを肴にして、人の背中を大袈裟にたたきつつ、結束感と親しみを表わしあう。車のCMや制酸剤、スナックフードや炭酸飲料、ファストフード・レストランなどの広告が、くりかえし、(人種的に)統合され、お互いに同化した、美しく、肌の色に無頓着な米国、をみせる。こうして注意深く制作された人種的なユートピアやTVCMは、異なる人種の俳優たちが人種的にニュートラルな環境、たとえば、Chili'sやApplebee'sレストランのような環境にいるようすが描かれる。米国の、メディアにおける人種的「セルフ・プレゼンテーション」は圧倒的に、統合され、多人種的で、その多くの部分がColorblind(色盲的)なものに描かれている。メディア、とりわけ広告メディアは米国を一種の国際連合の再結成パーティのように描き、そこでは誰もが平等な社会的立場と平等な機会を享受し、全ての者はミドル・クラスなのだ。

 こうしたColorblind(色盲的)な米国の再現とは、人種というものが依然として人生の機会を左右する人種的マイノリティたちに関してはとても誤った表現をしている。例えば、米国の企業社会の人種的な多様性を思い出すとよい。トップ経営者層の上位ランクに顕著な動きがあるならば、人種的な障壁バリアがなくなったといえようが…エグゼクティブ層への進出率などは、非常に小さい。米国労働省のThe Glass Ceiling Reportでは、「"産業界フォーチュン1000社”と”フォーチュン500社"のシニア経営者層の97%が白人で、95~97%が男性だ、としている…米国の人種的マイノリティは、人口の30%を占めるというのに…。(後略…)

*…著者はまた、米国の上・下院など政界の議員数がマイノリティの人口比率や女性の人口比率をまったく代表していない、ということを挙げる。また、国勢調査による2060年の米国の人種別人口構成の予測では、マイノリティの数が圧倒的多数となり、白人は少数派となるとされる──この単純明快な予測をマスコミは把握しているにも関わらず、現在の人種問題による人種間の葛藤、矛盾、文化的集中度の高さによって生じる矛盾、といった社会問題をまったく無視している、と論じている )

*Gallagher による本書の初版は1962年、当翻訳は第3版(2007年発行)──このpreface、イントロダクションはこの講座全体の基本ライン。──

Thursday, June 25, 2009

イラン改革派の挑戦/Iran's streets are lost, but hope returns By Pepe Escobar


独立系メディア、Asia TimesのPepe Escobalのコラム、最後まで読んだことは少ないけれど…たまには読んでみては?

イランの街頭運動が敗退しても、希望は戻る By ペペ・エスコバル

歴史の天使はイランに住んでいる。…米国在住のイラン人、それがどんなにプログレッシブなマニ教信者のイラン人の類いであっても、このイランの民衆蜂起は米国のCIAが画策した”カラー・レボリューション”の一つだとしか考えようがない、と主張する。

これに対して、イラン人ジャーナリストや、パリ在住のイラン人ディアスポラ(離散イラン人たち)…テヘランから着いたばかりの人びとを含めて…は困惑してこういう:最高権力者のアヤトラ・ハメネイが調停者であることを止め、クーデターを正当化して、イランの体制を全体主義の方向に舵取りするなんて、どうして信じられよう?「イスラム共和国」から「共和国」の意味をうち棄てて…ブレヒト的に捻った言葉でいうなら、実質的に民衆を”廃止”するなんて?

ある、テヘランとパリの間を往復するイラン人ビジネスマンはこういう。「イランの政治闘争がリベラル派v.s.保守派の争いではなく、保守派v.s.聖職者階級を統合するファシスト的傾向との戦いだ、ということを西欧の人々は理解してない、そしてこの”国家の中の国家”という存在とは、Pasdaran(イラン革命防衛隊)のことなのだ。核開発計画もミサイル開発計画も、ともに、Pasdaranのコントロール下にある。そして、彼等とは一体誰だ?彼らはイラン・イラク戦争(1980年代の)の戦士であり、宗教警察だ…彼らは全てを支配している…彼らは全ての建物、全ての道路、全ての近隣地域に密告者をもっている…まるで1930年代ドイツのナチスのように。」

ミルホサイン・ムサヴィ …チャネル(導管、水路)の役目を負う、という地位に、歴史の天使から(首の骨を折るような)危険な速さで、彼自身も知らぬ間に投げ込まれた彼は今、立ち去ることを拒否している─彼自身考えられないことを行ったのだとしても─イスラム共和国的な言い方をすれば、つまり最高指導者に公然と挑戦したのだとしても。

核開発問題の前の交渉担当者で、最高指導者の部下の1人であったAli Larijaniは、彼の立場を翻した:彼は護憲評議会(Guardian Council)の、再選された大統領アフマディネジャドに対する偏向を批判した。聖都QomのCouncil of Experts(聖職者エキスパート評議会)も同様に態度を翻すかもしれない。しかし、パリ在住のイラン人ジャーナリストたちは、前大統領のAkbar Hashemi Rafsanjaniが、(最高指導者ハメネイと)ハイレベルなコネクションをもつとはいえ、護憲評議会に腹心の部下達を配しているハメネイの行いに関して、捜査を強いるのに充分な賛成票を得られるとは思っていない。

この最高の権力を持つIRGC(イスラム護憲評議会)は、決して決定を翻さない。彼らは徹底して、IRGCの戦略センター前主任であるGeneral Ali Jafari<彼は、最高指導者ハメネイ師により、西欧諸国が裏工作した可能性のあったカラー・レボリューション(改革派の革命運動)の暗号メッセージ粉砕の仕事に2007年に任命された>─の命令のもとにしたがう。暴動鎮圧のための特殊部隊─ al-Zahra部隊 (*革命防衛隊の設立当初からのバックボーンで2500名の女性からなるといわれる)とAshura 部隊(*同、300-350の男性からなるといわれる)はBasijの私兵との混成部隊だが、とにかく街頭を制圧しようとする。その抑圧はとても大きなものだ。最近到着したイラン人達がいうには、首都では誰も息すら出来ないという。

注目すべきコメンテーターのMasoud Behnoudは彼のブログの中で、彼のいつもの皮肉の矢を射ることすらできない。彼はこう書いている、「護憲評議会は事態の悪化を和らげられたかもしれない。問題なのは、すべてを彼らの首領であるアヤトラ・[Ahmad] Jannati─に頼っている事だ。そうだ、彼は20年以上ものあいだ、原理主義者の権利の追求の途をたどってきた人物だ…」イランの漫画家、 Nikahang Kowsar は、2009年のイランを1989年の天安門事件のREMIXとして永遠化したいという民衆の意識を読んでいる。

ハメネイ、新たなるサダム
ワシントンに本拠を置くResearch Institute for Contemporary Iran(現代イラン・リサーチ研究所)の代表、Mohsen Sazegaraは、1979年のイスラム革命直後、早い時期に、IRGCの創立者の1人だった。彼は遠慮なくはっきりという─ 彼からみれば、ハメネイは「人生最大の間違いを犯した」、「彼は、革命防衛隊と内務省があれば国を征服できると考えた」。Sazegaraは強調する、「過去120年の間で初めて、イラン人は宗教による助けと、宗教による動機づけなしに自ら行動を起こしたのだ。」

イラン政権の抑圧のマシンについて彼は指摘する、「反対派を殺害する者たち、我々が”白シャツ”と呼ぶ者たちは、革命防衛隊だ。彼らは諜報部門の特殊部隊に属している[彼は上記の Ashura 部隊について言及している]。彼らは、一般市民のようにみえるが、ナイフや鉄棒、武器を持っている。
Sazegaraは、12万人近い革命防衛隊について「軍隊であり諜報員であり、巨大な組織体だ。ハメネイはその創立者たちや革命の英雄たちの幾人かを端に追いやって、自分の腹心たちに取って代わらせた。」IRGCがどの程度民衆の支持を得ているかの推測は困難だ。Sazegaraは7人の軍人達の逮捕に関するしつこい噂を聞いた。彼の友人の1人はやはり軍人だったが、IRGCの大半はイラン人の大半が「クーデター」だと呼ぶものに関して、その呼び方に同意していない、と彼に語ったという。

Sazegaraがいうには、ハメネイ政権は「すでに自らの安全を守る事に心を奪われ、軍事化している。そうした暴力的な政権が、元に戻ることはない。先週の金曜日の礼拝の日に、彼は国中の彼の支持者たちの動員をはかった。自分は50万人の支持者を予測していたが、我々の友人の情報によれば、5万人以下しか現れなかったという。彼の党派の支持者は今回、中立的立場を守っているか、または(行動することを)恥じている。もしも彼がイランの民衆を抑圧しようとするなら、彼はサダム・フセインのような軍事独裁者になり、墓場の王者になるだろう。」

今年フランスで刊行された、「Les Mysteres de Mon Pays (わが祖国のミステリー)」の著者のReza Baraheniは、政府と民衆のあいだの対立は彼にデジャ・ヴの感を与えるという。然し彼は楽観的にこういう、「息子たちの世代は、父親たちの世代に対決している。前の世代たちが、シャーの手から力を奪い取ったように、イスラムの力がこうした反抗者たちの手に移るのに長くはかからない。しかし、これらの(新旧の)ふたつの体制の残忍さは同一のものだ─彼らが、デモクラシーによって体現される近代性に自らを同化する能力をもたないことも、そして彼らが支配する国の異なる未来に抱く恐怖感も同じものだ。

トロント大学の哲学者Ramin Jahanbeglooは、この危機の根は「人々の抱く国や社会の民主化への渇望と、保守派のリアクション」の間にあるという。ムサヴィとカルビは「イスラムのノーメンクラトゥーラは改革が必要な幾つかの部分を残している」と信じている、という。しかし、「反抗者たちは革命者ではない。こうした若者たちが思い出させるのは、この国の一枚岩(monolithic)なイメージというものが、必ずしも、人口の70%が30才以下である国民の大多数の意思の反映ではないことだ。国と民衆の分裂が、これほど大きかったことはないのだ。」という。

それだからこれは、「イランの共和国政体と、その宗教的寡頭政治家たちの間の政治的争いだ。共和国的な直感は、ほとんど公共空間での法的な正当性に対してだけに注意を注ぐが、宗教的な権威は公衆のオピニオンによる法的な正当性の判断に一歩たりとも譲歩することを拒む。」 ‥ゆえに、「イランは、その政治的歴史のなかで先例のない、法的正当性の危機にさらされている。」

パリ第7大学の教授Azadeh Kianは、ムサビの運動組織の構成を強調する、「彼らは組織された社会的グループに所属する、特に中産階級、労働者、トレーダー、そして企業家…他の誰よりも、政治的な目的が経済を独占することにより被害をこうむっている人々…とくに27%から30%のインフレ率、高い失業率(特に、30から50%に達すると見積もられる若年層の失業率)、そしてイランの資本と外国資本が海外に逃避していくことにより被害をこうむっている層だ。毎年イランの労働市場に加わる800万人の若者には何の仕事も用意されていないのだ。

Kianはいかに「イランの中央銀行の、先に辞任した2人の前総裁を含む多くのエコノミスト」が「アフマディネジャドが国を台無しにした」と確信しているか、を指摘する。彼はハタミ政権が蓄積していたすべての貯えを浪費し尽くした;そのいくらかは貧乏な者への給付金として…彼のマシンが田舎の、失業中の若者たちをBasij(革命防衛隊の下部組織の私兵、平服の宗教警察)へとリクルートしている間に。

Kianは、「保守派と彼らの伝統的な中産階級、大いなるバザール商人、そしてQomの大多数の聖職者達は大統領とはもはや同盟を結ばない」という。新しく到着したイラン人たちも、アフマディネジャドは今や、とても辛い状況にある、としてその言葉を裏づけようとする…(以下略)
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/KF25Ak02.html
*の注釈はWikipediaより
(ビデオ)ペペ・エスコバル自身がイラン情勢を解剖するトーク!
Struggle within Iranian elite

Tuesday, June 16, 2009

イランの神権政治/Don't Call What Happened in Iran Last Week an Election - It was a crudely stage-managed insult to everyone involved. By Christopher Hitchens


イランで先週、おきた出来事を選挙と呼ぶなかれ─ すべての人は骨な"舞台操作"で侮辱された ─ (6月14日 by クリストファー・ヒッチンズ)

私は、先週、イラン・テヘランが包まれた政治的な空気のにおいを伝えるべく、私に定期的な最新情報を送ってくれる、若いイラン人の友達の言葉を引用したい:

…私がアフマディネジャドの最後に催した大きな集会に行ってみた時の印象は、ファシズムとはこういうものでは、と想像していた気配そのものだった。うす汚くしみや斑点だらけの数多くの若者たち、デートをする恋人もできないような奴らが銃を与えられて、お前らは特別な存在なのだ、と吹き込まれていた─

そのことにはこれ以上の表現法はないだろう─ "イスラム共和国”の胸の悪くなるような核心に横たわる、不快な悪臭を放つ性的抑圧の喚起、またはイランのなかの擬似国家、国家の中の国家というものがわずかでも挑戦を受けたと感じて、内にとどめていた力を表に顕わす様子を描写するならば。先週のイランでの事件が(…すまないが、私はそれを選挙と呼ぶことは断固、拒否したい)、そこに参加した人たちや、見守る人たちに対する、露骨に舞台操作された侮辱だったというのには理論的な理由があるし、また現実的な理由もある。理論的な理由とは直ちに劇的な、エキサイティングなものではないが、それはより一層興味深く、重要な理由だ。

イランとその国民はシーア派の神権政府によって、聖別された宗教指導者たちの私的な所有物だと看做されている。このような全体主義的考えは、故アヤトラ・ルホラ・ホメイニ師が普及させた宗教的な’インチキ療法’をその起源とし、velayat-e faqui という名で知られる。この布告のもとでは元来、宗教指導者たちを、孤児たちや貧乏で気のふれた者たちの生命と財産の庇護者であるとし、そしてすべての国民は、黒いローブをまとった宗教国家に庇護された子供のような被後見人だと宣言する。それ故すべての投票・選挙はその定義として、それが始まる前から既に、終わっているのだ、何故なら非常に強力な権利を持つイスラム護憲評議会(Islamic Guardian Council)が、誰が立候補できるのか、できないのかを事前に決定してしまう。この一連の出来事を選挙、と呼んでいる新聞のすべて─ 街頭の集会や、世論調査、投票数のカウントといった情報で補いながら報道するメディアはすべて、アヤトラ達の間では救いようのない笑いの原因でしかない。(”彼らはそれにやられたのか?それは余りにも簡単じゃないか!”)先週起きたすべての汚い出来事を共犯者のごとく伝えたすべてのメディア報道は、恥を知るがいい。そしてまた哀れなわが国務長官─彼女は、この選挙結果がイラン国民の”真の意志と願い”の反映であることを望んでいる、とか述べたのだが─彼女もまた恥を知るべきだ。確かにそのような偶発性は、最初から熟慮の上で仕組まれたものだとは、彼女も知っていたことだろう。

その理論においては、アヤトラたちが最初に選択する候補者は必ずしも、実際に選挙に「勝つ」とは限らず、また「イスラム護憲評議会」のなかでも、誰がベストの候補者を指名すべきか、において意見の相違も存在している。2番目には、そのような状況であるから、それは依然として怨恨を生む。その結果、腐敗したシステムというものでは依然として不正行為が行われる。それはいわば、偽善と同様であり、悪は善の代償を購いうる、という褒め言葉と同じこととなる。殆ど信じがたい野卑さ(畜生性)と残忍さをもって、やがて、その守護者達は携帯電話とテキスト・メッセージのネットワークの遮断へと動く─ それは、かえって公平さの印象さえ与えるのだが、そして彼らの嵐のような"革命防衛隊"の機動部隊が、唯一つの投票の形だけが神聖なる認可を受けるものだ、と宣言する。(最高権力者のアリ・ハメネイは宣言する─、”神の奇跡の手が”すべての投票所におかれている、と─ そして投票の結果が、多くの人々が投票もし終わらないうちに宣言される、彼はそのような事をいつもやってきている。)

この明らかな選挙操作、不正の証拠、一方の側だけの支持は今ひとつの疑念、つまりアフマディネジャドのような文盲の原理主義者が、国家の後ろ盾をうけた国民投票的な多数票をなぜ増大的に得られるかの理由に関して疑いを生じさせる。他のイスラム諸国における、過去2年間に実施されたすべての選挙で起こっている傾向は、このようなものではなかった。モロッコでは2007年に、もっと騒々しく宣伝の好きな「正義と発展の党(Justice and Development Party)」が14%の票を獲得した。マレーシアやインドネシアでは同様に、シャリア法(イスラム法)に対して肯定的な立場をとる党派の市場シェアが拡大している、との予測が偽りであることが立証された。イラクでは去る1月の地方選挙で、バスラ市などの住民の生活を悲惨さに追いやっていた宗教系党派が罰則を課された。隣国のクウェイトでは先月、イスラム原理主義党派への投票数は貧相な結果におわったものの、4人の女性候補者─Rola Dashtiという鮮烈な女性(彼女はすべてのヘッドギアの着用拒否を宣言した)を含む4人が、50名からなる議会のメンバーに当選した。なかでも最も重要なのは、おそらくイランが支援するヒズボラが先週、レバノンが実施した開かれた元気旺盛な選挙で、納得のできる形で予測せぬ敗北を喫した事だろう─ それらの選挙結果は、いかなる集団によっても挑戦を受けるものではない。そして、私が聞いている限り、パレスチナ人が今年、再び選挙を行えるなら(そのような可能性の考えられる一つのポイントがあるのだが)、その場合ハマスが政権をとることは、まずほとんど起こりそうにないのだ。

しかし、彼らがその傘下の代理機関としての政党をもつレバノンのような国においてさえ選挙投票への準備を上首尾に行えなかったような、老衰した、狂信的な宗教的批評者たちは、彼らに対する「多数派」の支持層を育むことで、報道を規制し暴力を独占するような爛れた破産国家からも何とか報償を得られる。私は、このような慰めをオフィシャルに認可することを我々は、拒絶すべきだと思う。私は、「Neither Free Nor Fair: Elections in the Islamic Republic of Iran(自由でも公正でもない:イスラム革命共和国の選挙)」 http://www.iranrights.org/english/document-604.phpという本やその他のAbdorrahman Boroumand Foundationの本を読むことをすすめる。これには、イスラム護憲評議会を喜ばせなかった罪に過去に課された処罰は、単なる資格の剥奪だけでなく、収監や拷問、死であり、それはそうした順序で課されることがあると書かれている。Cyrus Nowrastehの新しい映画 "The Stoning of Soraya M." http://www.thestoning.com/ では、他のやり方で異議をとなえた者たちが、アフマディネジャドの配下の "草の根" 狂信者たちにどんな扱いを受けたかを、じきに見せてくれるだろう。

レバノンの選挙に触れるなら私は、最近、私自身がレバノンの南ベイルートで目にしたヒズボラの集会について語らざるを得なくなる。イラン大使館から公式に参加している使節団を目立つ位置に据えた広いホール、そこに貼られた親イランの政党の最もけばけばしいポスターとは、核爆弾のきのこ雲のポスターなのだ!このよく物言うシンボルの下に書かれたキャプションは「シオニスト」について世間によくある警告である。我々はイランが未だに、核兵器の獲得にはいかなる意志もない、と公式に否定していることを忘れがちだ。しかしアフマディネジャドは最近、イランのミサイルの発射実験を、イランの遠心分離機による核燃料精製の成功に相対するイベントとして賞賛し、そしてヒズボラは確かにイランの原子炉が平和利用以外の用途に用いられる可能性がある、との考えを抱くことを許された。このことは、特にmullahたちがイランを、悪意ある操作(vicious manipulation)でコントロールしている事実が、これ以上イランの"国内問題"とは看做されないことを意味している。国内でのファシズムとは、早かれ遅かれ、海外でのファシズムにつながる。これに今、面と向かうか、後に引き延ばすか、ということだ─ ところで、こうした(操作)というものには、もっと適切な名称を与えて欲しいものだ。
http://www.slate.com/id/2220520/

イランの騒乱の原因とは/Class v. Culture Wars in Iranian Elections: Rejecting Charges of a North Tehran Fallacy by Juan Cole


 '都市のアッパーミドル層 vs 農民・労働者の支持層 ' なのか? イランの選挙に関して、在米「中東工作員」コールの禿頭ブログから

イランの選挙における文化 vs 階級の戦争:
「北部テヘラン」に対して宣告されたほら話の拒絶(6月14日 by ホアン・コール)


西欧メディアの記者たちがアフマディネジャドの勝利にショックを感じた理由は、彼らが北部テヘランの富裕層の地域に取材ベースを構えていたのに対して、イラン国民の多数派である農民や労働者達がアフマディネジャドを熱心に支持していたからだ、と評論家たちはいう。それは再び我々が、このグローバル・サウスと呼ばれる労働者階級中心の国で、アッパー・ミドルクラスの報道と期待感とに騙され、犠牲となったことを意味する。

そのような動きは存在したのかもだが、その分析はイランにおいては間違いだ、なぜならそうした分析は階級や物質的な要素に注意を払いすぎて、イランでの文化的戦争に焦点を当てていないのだ。我々は1997年と2001年に、すでにイランの女性と若者たちが、曖昧ではっきりしない文化大臣だったモハメド・ハタミと彼の第2次Khordad movement(ホルダッド運動)を背後で支持し、そして彼が大統領の座を得て…、2000年には議会を掌握したのを観てきた。

ハタミは1997年に、70%の支持票を獲得した。彼は2001年には数多くの競合者たちのなかで、78%の支持を得た。2000年には彼の改革運動が65%の議会議席を獲得した。彼はよい男だった、だが彼のことを組合運動の男、とか農民たちのスターだと言うのは不可能だ。

過去10年余りの短い期間に、イランの有権者たちは個人の自由の拡大に関心を高め、女性の権利拡大、そして文化的な表現の自由のより広範な合法化への関心を高めてきた(高級文化だけでなくイラニアン・ロックミュージックなどに関して。)しかし保守強硬派の過激なピューリタン主義は、人々の望みをすり潰した。

90年代末から2000年代の初めの改革派たちにとっての問題は、彼らが選挙で選ばれ、大統領職を押えたのにも関わらず、実質的にはあまり多くをコントロールできなかったことだ。重要な政府のポリシーや法的規則の決定権は、選挙で選ばれていない政府の宗教政治家達の手にあった。強硬派の神権政治家たちは、改革派の機関新聞の発行を差し止め、改革派の決めた法令を無効にし、社会的・経済的な改革を妨害した。ブッシュ政権はハタミが、彼の改革政策の実行による外交上の、また海外投資等の分野でのいかなる成功の手ごたえも祖国に持ち帰れないように彼を“干した”。そのようにして2004年の議会選挙では、文字通り何千人もの改革派の候補者たちが選挙から締めだされ、立候補を阻まれた。誰が立候補できるかに関してのこうした強硬派のリトマス試験によって、当然ながら強硬派ばかりの議会が生まれた。

しかし2000年には、強硬派が選挙民たちのわずか20%の支持しか得ていない、ということは明らかだった。
2005年までに、強硬派は改革を後ろへと押し戻し、改革派は不満げな表情をうかべて敗退した。彼ら改革派の多数は、彼らのなかの候補者で17%の票しか得ていないKaroubiを支持しなかった。彼ら改革派はしかし、強硬派で、ポピュリストであるマフムード・アフマディネジャドと、現実主義的な保守派の億万長者アクバル・ラフサンジャニの2者の中間の順位を得て逃げ切った。そしてその選挙ではアフマディネジャドが勝った。

アフマディネジャドの05年の勝利はしかし、改革派支持者たちが幻滅し、広範に選挙ボイコットをしたことにより実現した。つまりうんざりしていた多くの若者や女性は投票所には赴かなかった。

そのため、2001年に20%だった強硬派への支持率は、2009年には63%に達した。我々が仮定するのは、8年前に比べて、イランは都会的ではなく、文盲率も高まり、文化的な事柄への興味も低下してしまったのではないか、ということだ。我々は改革派が再度、選挙をボイコットし群れをなして投票日に家に留まっていたのではないかとも考える。
すなわち、これは北部テヘラン 対 南部テヘランの問題ではないのだ。ハタミが勝利したときは、北部テヘランでも支持を得ていたにもかかわらず、大差で勝利していた。

それゆえ、ムサヴィのスムースなアッパーミドル・クラス風の小わざに屈した我々に、罪悪感へのトリップをさせたいと考える傍観者たちは単に、過去12年間にわたるイランの歴史を無視しているのだ。それは文化戦争であり、階級戦争ではなかった。投票権を与えられた典型的なイランの有権者の男女が、保守派や宗教家たちに投票したというのは単純にいって真実でない。事実ムサヴィは実質的に2000年に選挙で勝利を喫した典型的な政治家達に比べてもより保守的だ。80%もの高い投票率のもとで、またイランでの都市圏の拡大、識字率の向上、強硬派の清教徒的保守主義との対決意識の拡大などからも、ムサヴィは現在進行形の文化戦争のなかで勝利をとげる筈だった。

アフマディネジャドが“little people(小さな人々)”のチャンピオンとして振るまったことも、必ずしも彼のポリシーが労働者や農民たち、労働者階級の女性たちにとって良いポリシーだった事を意味しない(そのような社会階級の人々の多くは、彼の政策がそうである事を知っている。)

それゆえ、この罪悪感のトリップを、ここで止めよう。第2波の Khordad運動はこの10年間のよりよいパートのための、勝利の連合のためにあった。その支持者達は彼らが前回勝利を得た時より8歳年をとった、しかしそれは若い政治運動だった。彼らが皆180度転回し、ハタミからアフマディネジャドに支持を乗りかえることがあるか?それは考えにくい。ハタミに群れをなして投票したイランの女性たちは、どこにも去ってなどいない、彼女らはアフマディネジャドの、女性に関する政策的立場には少しも関心を払っていないのだ。

BBCのニュース・インタビューのなかで、イラン女性センターNGOのメンバーである、Mahbube Abbasqolizadeは語っている、「アフマディネジャド氏のポリシーとは、つまり女性は家庭に戻るべきだし、そのプライオリティは家族であるべきだ、という考えなのです」…

*アフマディネジャドは彼の政府組織である、「女性の参加のためのセンター」を「女性と家族の事柄のためのセンター」へと改称した。

*アフマディネジャドは男性が妻に告げることなく妻と離婚していい、という新たな法律を提案した。さらに、男性は離婚後の妻に払う扶助料を今後、支払わなくてよいという法律を提案した。これに答えて、女性グループは100万人の署名キャンペーンを実施し、こうした方法に対抗した。

*アフマディネジャドは社会治安プログラムを実施し、このなかで、女性の服装を監視すること、女性が学校に行くには父親か夫の許可を必要とすること、そして大学に進学を許される女性の人数を限られた割当て数に絞る、QUOTA SYSTEMを導入した。


ミル・ホサイン・ムサヴィは改革派にとってもっともらしい候補者だ。彼らは彼と同じような人物を70%と80%の差で2,3年前にも選挙で選出した。我々は北部テヘランのビジネス・ファミリー(ビジネスマン達)の支持はうけてはいない。我々はそれよりも、全国民の少なくとも20%は存在する、強硬派支持の選挙民たち、唯一のイラン革命の継承者であると自称し、どの票が陽の目を見るかをもコントロールしている、そうしたグループによってこれまで支配されてきたのだ…
http://www.juancole.com/2009/06/class-v-culture-wars-in-iranian.html