Friday, June 8, 2012
エジプトの大統領選は、法と秩序 v.s. フーリガンの争い?Law & Order v.s. Hooliganism in Egypt?
ムバラク政権の前首相シャフィーク氏がエジプト大統領選で
上位の得票を得た理由は「法と秩序」?
エジプトの2010年代は、アメリカの1960年代の再演なのか(5/26, By Juan Cole)(抜粋)
エジプト大統領選の決選投票は今や自由公正党・ムスリム同胞団のMuhammad Morsiと、先の政権の航空相で、独裁者ムバラクの最後の首相でもあったAhmed Shafikの間に争われることが明白となった。この結末は二極化しているといえるが、エジプトの民主制への移行の試みが岩だらけの道だ、と約束しているようでもある。Shafikは金曜日の開票結果では3位だったが、同日のその後カイロとその他の地方票が開票され、さらに上位の得票数を得た…
この結果とは、エジプトの選挙民の間に強い「Law and order 法と秩序」への願望があることの表れだ。先日、私が論じた世論調査の回答者たちは、治安の問題を経済の問題よりもはるかに優先事項に挙げていた… Shafiqとは、まさに「法と秩序」的な候補者なのだ…そして、同胞団のMuhammad Mursiは彼よりもずっと、イスラム法の施行を約束する人間である。そのことをエジプト人たちはHooliganism…フーリガン主義で国を支配しようということだ、と解釈しているのだ…
2011年の革命の崩壊と、それに引き続いて警察が露呈した低いモラル、銃火器を使う機会の増加、そして、ムバラク政権が最後の日々に何千人もの犯罪者たちを刑務所から釈放したこと…これらはエジプトで犯罪が緩やかに増加している事に貢献している。エジプトは未だに、多くの西欧諸国の首都よりは安全なのだが、人々は長年、警察国家の下に住んでいたのだ…そこでは犯罪は少なく、公的な秩序が紊乱されることも少なかった、それなのに今、犯罪の波がおきているように見える。Detroit地域に住んでいたことのある私には、彼らのいう「犯罪の波」は笑いごとのようだが、しかし彼らにとってそれは問題なのだ。
皮肉にもエジプトにおける…社会的な混乱の後の「法と秩序型」の候補者への嗜好とは、1960年代にアメリカに起きたことの鏡像のようだ。カウンター・カルチャーの反戦運動の群衆と、公民権運動が南部の民主党員に与えたダメージが、Lyndon Johnson大統領の退陣の決意にも寄与した(ちょうどMubarakと同様に─)しかしこの主に若者による蜂起の後には、Richard Nixon と Ronald Reaganの勝利が引き続いて、そしてそれ以降の、国内政治における宗教右派の台頭をもたらしたのだ。David Horowitzのようなアメリカのラディカルな左翼が徐々に共和党の右翼や福音主義の宗教保守派と連携して行ったように、2011年の革命を支持した小説家のAlaa al-Aswanyのような人物も、この決選投票のために現れてムスリム同胞団への支持を表明している。多くの革命左派たちは疎外されているが、そのなかにはムバラクのクローンのような後継者でなければ誰でもいい、と投票する人々が居るかもしれない。
選挙の票の約5分の1は労働者寄りの左翼候補のHamdeen Sabahiに投じられた。彼の選挙田の一部はリベラルなムスリム候補者のAbdel Moneim Abou’l-Futouhにも投票し、アメリカ流の二大政党制による予備選では不可能なことだが、Sabahiは決選に臨む2人のフロントランナーの一人となった可能性もある。しかしエジプトのシステムはよりフランスのものに近く、複数の候補者が政治的なスペクトラムをめぐって争うのだ。エジプトでは、フランスの大統領選で起こったこととは丁度逆のことが起きた。フランスでは、最初に極右勢力が右翼のNicholas Sarkozyから票を奪い、そのため彼の決選投票における支持の大幅な低下を招いた。エジプトでは、中道派のAbou’l-Futouhがおそらく左派のSabahiの票を奪って、世俗派右翼の候補者と宗教保守派候補者を決選投票へと送り出すに至った…
(後略)
http://www.juancole.com/2012/05/is-the-egyptian-2010s-a-replay-of-the-american-1960s.html
*このコラムでふれている、エジプトのフーリガン主義とは?
これはこの2月にエジプト警察との大きな衝突事件のあったフーリガン(ウルトラ)について検証している記事─
エジプトの怒れるサッカーファンたちが深く政治に入り込む ‐ By ハムザ・ヘンダウィ (2/10, AP)
エジプトを支配する軍司令官たちは、新たな敵を獲得した─最近、軍部に政権からのステップダウンを要求する民衆運動に熱気を注ぎ、カイロの街で何日もの間警察と戦った怒れるサッカー・ファンたちの部隊だ。 Ultraとして知られ、長らくフーリガンだとみなされてきた彼らが、ますます政治的になってきている─昨年の革命の蜂起に始まり、先週のサッカーの試合において彼らは死者のでる暴動という一線を越えた。
それは軍部による権力の移行への道のりの険しさが、いかにますます多くのエジプト人たちをアクティビズム(政治運動)へと駆り立てているかのサインだ…多くの人々が1年前にムバラクを引き継いだ軍人たちと、経済や治安の不安にフラストレーションを覚えている時期に。
Ultraのメンバーたちは、長年の独裁者ムバラクの政権を転覆させた18日間の民衆蜂起にも、また最近の警察との街頭での衝突にも大きな役割を果たしたことで信頼を得ている。彼らは最悪の衝突の起きた2011年2月2日、ムバラク支持者たちがラクダや馬の背に乗って現れ反対派を挑発した折にも民衆の蜂起の震源地タハリール広場の主な擁護者だった。
先週のサッカー暴動で74人が死亡した際には…その多くはカイロを拠点とするサッカーチームAl-Ahly clubを応援するUltraのメンバーだったのだが…この運動の一団の間にも大きな怒りを喚起し、そして多くの人々はUltraが今後街頭の反対運動により多くの人数をもって現れるだろうと感じた─軍部の支配に対して反対するにせよ、あるいはより革新的な政策の要求をするにせよ。
「彼らの反対デモへの参加は目だって増えることだろう」と、Ultraに関してアラビア語の本を書いたMohammed Gamal Bashirはいう。 「当局は彼らを敵視しているが、それは大きな間違いだ。彼らは情熱的だが、何も期待してはいない。彼らに政治的にレッテルを貼るべきでない。端的にいえば、彼らは抗争には参加しているが、彼ら自身が何らかの地位を得ようなどとは思っていない」
ムバラク失墜の4年前にUltraはほとんど毎週のようにエジプトのスタジアムで治安勢力と衝突し、しばしばむやみに逮捕、拘留され脅迫を受けていた。彼らの組織は何千人もの…失望した、失業中の、教育のない若者たちで膨れ上がって、彼らは彼らに未来の希望をもたらさない警察と政権を軽蔑していた…
死者を出した暴動以来Ultraは、独立系メディアや人権運動家たちからもムバラク追放の背後の革命家たちと理想を分けあう、真に勇敢な愛国者たちとして英雄視された。 「我々は正しいものを擁護する、我々は威張らない。我々は我々の行動によって名誉を得ようと思わない」とUltraのリーダーの一人はいう…彼は彼のファーストネームのSalahという名だけを出して欲しいという。
しかし彼らへの溢れる賞賛は、その運動の源が元々ライバルチームのサポーターたちや治安部隊ともすすんで衝突する獰猛なサッカーファンたちだったことを隠蔽する。2月1日のエジプトの歴史上最悪のサッカーに関わる暴動はエジプトで最も人気のあるサッカー・チームAl-Ahlyのホームの地中海岸の町ポート・サイードで発生した。その際はAl-Masryが3対1で勝利していた。
余りにも多くのAl-Ahlyのサポーターの死…死者は主に10代から20代の若い男性たちだが…そのことは先週ずっとエジプトの政治的アジェンダを支配し、新聞の一面ヘッドラインを飾り、数知れない陰謀説が渦巻いた。 人々の中には、治安勢力がAl-Ahly Ultraに彼らが昨年タハリール広場での反対運動と、それに続く反政府デモで目だった存在感があったが故に懲罰を加えようとしたという者もいる。
多くの運動家やコメンテーターらは、長い間の敵対関係とファンの暴力の歴史をもつ2つのサイドを対戦させるこの試合には試合前から多くのトラブルの兆候があったにもかかわらず、警察の怠慢や軍部の無策ゆえにこの事件が生じたのだと非難する。それは、何日もにわたり警察とカイロや国内各地の抵抗運動者たちの間で衝突の火花を散らせた。そして主にカイロで合計15名の死者が出た。
Ultraの憤激を煽ったのは、軍部のリーダーHussein Tantawiがこの悲劇についてメディアに語ったコメントで、「このような事件は世界のどこにでも起こる」といって軽視したことだ。多くの国民がさらに怒ったのは、彼が、人々がこのような事件を制止できなかったことについて苛立っている、と語った時だった─そのコメントは、エジプト人が法秩序を自分たちの手で守れといっていると解釈された。
Ultraは、エジプトの国民の中でも最も新しく、支配者の軍司令官たちに反対する最大の人口のセグメントだ。昨年10月には、ナイル河岸の国営テレビ本部の外で抵抗運動を行った27名の主にキリスト教徒たちが軍によって殺害された。ソーシャル・ネットワークに投稿されたビデオ・クリップでは、軍の車両が人々を轢いていた。12月にはカメラにとらえられた軍の部隊が抵抗運動の群集のなかの女性を殴り蹴りする映像が報道され、女性の内の一人は半裸にされていた。これらの2つの事件は大騒動を招き、軍人たちはムバラクと何ら変わらないとの批判を呼んだ。そうした怒りはムバラクの追放以降に、拘束した市民を拷問したり、軍事裁判にかけようと最低でも1万2千人の反対派等の市民を連行した軍司令官たちに対しても高まった…
http://newsinfo.inquirer.net/143309/egypts-angry-soccer-fans-are-deep-into-politics
Thursday, June 7, 2012
エジプト大統領選はシャフィーク氏とムルシー氏の決選投票へ Egyptian Election, final run-off
─何千人もの人々がカイロの広場で、4晩続けてAhmed Shafikの大統領選からの排除を要求 (6/6, Al-Jazeera)
何千人もの反対者がカイロのタハリール広場に集結、失権したムバラクの前政権の代表と目される大統領候補Ahmad Shafikへの反対を叫んだ…彼らは軍人でムバラクの最後の首相のShafikが、6月16日に投票開始が予定される決選投票から身を引くよう求めている。多くの人々は、もうひとりの候補、ムスリム同胞団のMuhammadMorsiにも怒りをぶつけている。
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Monday, May 28, 2012
エジプト当局、3大有力候補を大統領選から排除 - 3 Leading Candidates Barred in Egypt Race
大統領選から、合計10人もの候補が排除された理由は?
エジプトの選挙管理当局が、3大有力候補を大統領選から排除
Authorities Bar 3 Leading Candidates in Egypt Race By David Karkpatrick(4/14, NYタイムス)
エジプトの選管当局が土曜の夜に、予想だにせぬ決定で3人の有力候補たちを大きな一撃で吹き払い…Mubarak追放後のエジプトの未来を形作るコンテストは再び混乱に陥った。 最高選挙委員会は合計10人の立候補を却下したが、その中には二極化したこの国でにおいて最も熱烈な支持を集める3人━ムスリム同胞団の主導的戦略家Khairat el Shater、超保守派イスラム原理主義者のSalah Abu Ismail、そしてムバラク政権の前・副大統領で元諜報部チーフOmar Suleiman━も含まれた。
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立候補を却下されたel Shater, Omar Sleiman, Salah Abu Ismail |
…同時に、ムバラクが選任した5人の上級判事たちからなるこの委員会は、ムバラク政府と最も繋がりの深い候補者を却下し、また扉の外の怒れるイスラム原理主義者の群れをも無視して独立性を証明したようにも見える。Abu Ismail氏の立候補却下は予想されたことだった━彼のパスポートと有権者登録証が彼の母親が米国市民であることを証明したが、これは現在のエジプトの法律により大統領への立候補を無効にした。また、Shater氏の立候補却下は彼の過去の犯罪歴によるものだ━その罪状とはムバラク政府による反、政府的なイスラム原理主義のリーダーに対するでっちあげだった、と広くみなされるにもかかわらず。
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Mubarakの息子、Gamal (左)と Alaa がカイロでの法廷審問へ |
エジプト人たちは決定の範囲の広さに驚いた。汎アラブ的ネットワークのAlJazeeraのアンカーマンは微笑むことすら不可能な様子で、カイロの特派員からのレポートに信じられないという素振りで頭を振った。 「私の頭はグルグル回っている」、とニューヨークのセンチュリー財団のエジプト人リサーチャー、Michal W.Hannaは言った。「これは一掃されたということだ。何が起こっているのかますますわからないし、誰が支配しているのかもわからない」
この件の選挙委員会への異議申し立てには2日間しかなく、またこれより上級の申し立て機関もない。土曜の夜までにすでにこの決定の裏に秘められているやもしれぬアジェンダについての陰謀論も囁かれ始めている。 この選挙戦はイスラム原理主義者とムバラク政権の元官僚たちの争いに絞られてきている。この決定が立ち行くならばそれはこの2つの勢力の候補者たちに、もっとも効果的に二極化する。
Abu Ismail氏はもっとも強硬派のイスラム原理主義者だが、ムスリム同胞団の穏健派としてはShater氏が最も有力な人物だった。一方で、Suleiman氏は最もムバラク氏に近く、最も前政権の秩序に近いものの再建を試みる候補者だとみられていた。
こうした候補者らが消えると、争いの勢力ラインは同じではあってもその激しさは和らぐようでもある。残るイスラム原理主義者候補はムスリム同胞団の政党のリーダーで同組織の支持する候補者である Mohamed el-Mursiと、同胞団の元リーダーでよりリベラルな候補者であるAbdel Moneim Aboul Fotouhである(Futouh氏は昨年、同胞団の執行委員会の政治決定に反対して追放された)。
土曜の夜までにAbuIsmail氏の支持者たち街頭で抗議運動をするかもしれないと述べた。彼の支持者たちは、彼の母親の米国市民権の件が否認されたことに一層の怒りを表明し、米国の書類がエジプトの裁判所の決定には影響すべきでないと主張した…。
エジプト国営のAl Ahram政治戦略研究センターのリサーチャーDiaa Rashwanは、選挙委員会がイスラム原理主義者と彼らの宿敵のSuleiman氏の両方を撃ったこの決定は公平なものにみえると述べた。「これは彼らが、どちらか一方のサイドと結託していることはない、ということを示している」とRashwan氏はいう。「これは多くのエジプト人の目から見て、妥協のように見える。」 彼は、唯一の問題はAbu Ismail氏の支持者、すなわちSalafistとして知られる超保守派から反対運動が起きそうなことだという。「Salafistたちはとても憤激している、そして彼らは彼らに対する陰謀があるように感じて、我々は彼らから暴力的なリアクションがあるかもしれないと思う」と彼は言う。
ムスリム同胞団の弁護士らは土曜日夜に、選挙委員会を説得して決定を取り下げて貰うよう試みると述べた。同胞団幹部らは、Shater氏の立候補却下について、それは彼の犯罪歴といった法的な理由ではなく、もっと政治的な理由でなされたのだろうと言う。
…Suleiman氏が立候補に必要な3万名の署名を、国中から48時間以内の期限ぎりぎりに集めたことは政界を驚かせた。多くの論者は、こうしたことは諜報機関や軍による表面下の助力なくしては不可能だったに違いないという…
選挙委員会はさらに7人のより有力でない候補者の立候補を却下したが、そのなかには他の元諜報機関の役人と元野党の候補Ayman Nourがいる。Shater氏と同様に、Nour氏は政治的な告発を受けている。その他の人々は、必要な3万名の署名を集められずに却下された。
http://www.nytimes.com/2012/04/15/world/middleeast/ten-candidates-barred-from-egyptian-election.html?_r=1&pagewanted=all
http://www.nytimes.com/2012/04/15/world/middleeast/ten-candidates-barred-from-egyptian-election.html?_r=1&pagewanted=all
Interactive: Egypt election countdown13人の大統領選立候補者(~アル・ジャジーラ)http://www.aljazeera.com/indepth/interactive/2012/05/201251785750522366.html
Saturday, May 19, 2012
シチズン・エネミー(市民のなかの敵)Citizen Enemies -Those who protest the killing of Anwar al-Awlaki have to say what they would have done instead. By Christopher Hitchens
*昨年秋の米軍の空爆によるアンワル・アル・アウラキ殺害に関するコラム
シチズン・エネミー(市民のなかの敵):アンワル・アル-アウラキの殺害に抗議する者たちは、その代わりに何ができたのか語るべきだ
By クリストファー・ヒッチンズ(10/3, 2011, Slate.com)
おそらくそれは…主にヘルファイヤ・ミサイルによる終わりという成行きを特徴とする一種のつかの間の映画的な満足を与えたがために、アル・カイダの中心的なメディア向けスターの閃光のごとき最期は、ジハードの脅威についてのさし迫った問いのいくつかを再び、蒸し返しただけだった。それはまた、それ自身の行動規範も持たず、先例にも頼らずに作戦行動をする良心に欠けた犯罪的暴力の世界では、言葉が武器になるとか、思想(考え)と行動との関係とは何か、などの事項に我々が直面するようにと強いた。
その問題のエッセンスを簡潔なフレーズで言い表わすならこうだろう:
…あなたはこのコラムの読者として…手に入りそうな爆薬や発火装置を何でも見境いなく用いる「国内産(homegrown)の」、または「一匹狼の(lone wolf)」狂信的な人間の仕業によって…仕事や遊びの最中に、あるいは仕事や遊びに行く道すがらに爆破されるという可能性がより一層強くなるのだ。そしてあなたはアル・カイダ、またはシャバブ(あるいは彼らが方向転換したいかなる代理人でも)の手の中で死ぬかもしれない。同様にローカルな工作員たちは、一つのランダムで予測不能な行為を実行する為にアメリカの都市郊外の町からでも出現するだろう…それが時々起ったように…狂信的な人間は自らは我々の国の岸辺を離れて、ソマリアかイエメンかアフガニスタンに向かうことだろう。そして我々の足元には、Fort Hoodの基地で「神は偉大なり」と叫んで武器を撃ち放ったニダル・ハサン少佐Maj. Nidal Hasan (*1) のような人物や、またはTimes Squareで爆破を起こそうと彼のSUVの車両を改造したFaisal Shahzad (*2)、あるいは(彼自身の証言によれば、もっとイージーに…)下着に可燃性の薬品を詰めてデトロイト行フライトに搭乗したFarouk Abdulmutallab (*3) のような者らも存在する。
(*1)ニダル・ハサン少佐の記事:http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2009/11/hard-evidenceseven-salient-facts-about.html
(*2)ファイサル・シャハザッドの記事
http://hummingwordiniraq.blogspot.jp/2010/05/money-woes-long-silences-and-zeal-for.html
(*3)underwear bomber"と呼ばれた アブドルマタラブの記事
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/people/a/umar_farouk_abdulmutallab/index.html
「一匹狼lone wolf」という語をこれら全てのケースに当てはめるのは、厳密にみて精確とは思えない。なぜなら、単独行動する者に影響を及ぼすのは、土地の仲間言葉で話しながら「野獣の腹の中に住める」ような、国内育ちのカウンセラーたちかアドバイザーたちなどだからだ。一番最近の例ではAnwar al-Awlakiアンワル・アル-アウラキは古典的な、最も成功したその例だった。たとえば、彼のHasan大尉とのコンタクトは進化して行き、彼に対して意図的に人を撃つことの宗教的な許可を得るに至るすべてのステージ(段階)を歩かせたように見える経緯がとてもシステマチックだった。アウラキは我々のつい鼻の先で働いていた時期もあり、バージニアやその他の場所で、既存のモスクのコンテクストからプロパガンダを放っていたのだ(状況が揺れるなかで…そもそも彼がFBIの注意を惹いたのは彼が国境をまたいでハチミツを輸送していたためで、それ故我々が彼を知るに至ったのかもしれない) (*アウラキはかつてハチミツの交易を副業として、ビン・ラディンのためのテロ資金を稼いでいたとか)
しかし彼自身はそのステージ(段階)では、サラフィ主義に身を投じるジハーディストとして、充分に蛹(さなぎ)にはなってはいなかった。ゆえに我々は今、この国に住む人々の耳へと直接的に囁くことのできるアメリカ市民という現象に立ち会っている─しかし、最近まで彼は我々の国の法律が彼に届かない地理的ロケーションからのみ、それ(*テロ行為への協力)が可能だった。しかしこの種の法的、道徳的な挑戦というものには、どんなに遠まわしな物でも先例は存在しなかった─政治的、または軍事的な先例は勿論のこととして。このジレンマは暫くはずっと我々と共にあるだろうから、私に、この魅惑的かつ苛立たしい敵の出現の背景について大体の説明を提供した最近のブックレットを推薦させてもらえないだろうか。
─「アップルパイの様に極めてアメリカ的な:アンワル・アル-アウラキは、いかにして西欧流ジハードとなったのか」(As American as Apple Pie: How Anwar al Awlaki Became the Face of Western Jihad)とのタイトルでそれは、the International Center for the Study of Radicalisation and Political Violenceから刊行された(その著者とは…私はプライドを持って急いで付け加えたいが私の息子なのだ)そのブックレットは、英語を話し、欧米で活動するサラフィズムの扇動者らの伝統を検証している…その伝統とは大抵の人が考えるより長くより多岐にわたっているのだが…しかし私自身は今は亡き Samir Khanの書いた側面にもっと興味を惹かれるのに気付く─彼はパキスタン系のアメリカ人で、同じヘルファイヤ・ミサイルの攻撃で死ぬまでは、アウラキのゾッとするような(嫌悪すべき)雑誌「Inspire」のエディターだった。このユニークなオンライン出版物については、Yemenから我が国に向かう航空機に乗せられたプリンター・カートリッジ爆弾に関する、あざけりに満ちたそのアップビートな(調子のいい)レポートについて…またはあなた自身のママのキッチンのテーブルでこうした爆弾を作る方法についての、アップビートなカバーストーリーを思い出す人々もあるかもしれない(その同じミサイル攻撃で、こうした爆弾の製造者もまた死亡した可能性もあるが)
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Queens育ちのSamir Khan |
レトリカルな意味で、これはビン・ラディンの抱いていた強迫観念(オブセッション)─対インドや対イラクの作戦と区別する、スペクタクル的な「遠くの敵 the far enemy」への攻撃、あるいはアメリカの威光やセキュリティに対する攻撃と対照的な鏡像をなすのだ。この最後の日々に彼は彼自身の参謀たちとの間でさえ、この二番目のタイプの戦闘のリニューアルを論じていた。しかしそれは、ずっと壮大さに欠けたイメージを喚起していた─そうした哀れな場違いのアマチュアが恐らく一度だけの、悪意と恨みによる限定攻撃を、彼の近隣住民や同僚たちや通りすがりの人間たちだけに対して行うだろう…というイメージを。
私はこうした真性の退歩というものを眺めるのも重要だと思う…鼻面を突っ込みたがる、両親の家の地下室に住むテロリストのなりたがり屋(ワナビー)たち─なぜならそうした事の証拠(幼い子供らに自爆テロの爆弾を運ばせるといった…)が…通常であれば我々の不幸を願う者たちの間でさえも嫌悪の念を掻き立てているのだ。それはまた彼らが志願者をリクルートする度量をも劇的に減少させている。その一方で、余りに注意も払われていないことだが、そうした戦術はそこで大量に用いられる高価な爆破物をも代償にして潰す何かがある。彼らは信義と信頼を根こそぎにする。あなたは本当に(新兵訓練の)ブート・キャンプであなたの隣にいる男が、一日に5回も自らをひれ伏させる(*イスラムの礼拝をする)男であって欲しいのか?我々は隣のシートに座る髭を生やした男について何か語るべきだろうか?あなたはあなたの町で「包括性(inclusiveness」)とか「人種的多様性(diversity)」の精神のために心から歓迎すべき次に行われる開発が、モスクのためのものであってほしいのか?
この種のスローで、間接的な文化的浸食とは計算しがたい損害を生む。そして彼らは恐るべきチープなやり方で自己を複製しつつある─イスラム原理主義の不安に「過剰反応」する人々もいるだろうがそれは僅かで、そしてそれはただ祈りの宗教的義務に従おうとするだけの男の機嫌を害して、すべての想定されうる嘆きや軋轢の装置が是正を求めて行動へと繋がることだろう。しかしながら、こうした小さな騒乱のカーニバルと社会的な腐食は、我々の司法権の圏外から来るが、我々の軍事力のリーチの中にあって、そうした行為する間に我々を嘲り愚弄している。
我が国の政府が自国の市民たちを、誰にもはかり知れない方法や基準でリストアップした暗殺者リスト(death list)に掲載する権利がある、という恐ろしいアイディアに我々が加担することによっても…我々はいかなる地球上の国の政府も、私が自己防衛のための先制攻撃ドクトリンと呼べると思う物への誘惑の喚起に直面することはないだろうと思う(*それは先制攻撃ドクトリンとはいえまい、の意味)このような可能性において私の警告を共有する人たちや、また我々がそれを通じて(*国家テロの権力の)濫用を受けると思う人たちも、我々がそれに代わる代替手段として何ができるのか、を提案せねばならぬ重い義務を背負っているのだ。
*このcolumnの続編 Lord Haw Haw and Anwar al-Awlaki に続く… http://www.slate.com/articles/news_and_politics/fighting_words/2011/10/anwar_al_awlaki_assassination_the_one_legal_protection_the_unite.html)Thursday, May 17, 2012
ハンガーストライカーが、イスラエルの司法制度の土台をゆるがす Hunger strikers shake foundations of Israeli justice system - By Omar H Rahman
パレスチナの刑務所収監者たちによる
ハンストには長い抵抗の歴史がある
ハンガーストライカーがイスラエルの司法制度の土台をゆるがす
By オマール・H.ラーマン
Hunger strikers shake foundations of Israeli justice system (4/27, The National, UAE)
4月17日の深夜零時が近づいてきた時─ 政治犯で収監され66日間のハンガーストライキを続けた挙句に世界のメディアのヘッドラインを飾っていたパレスチナ人Khader Adnanは、彼の自宅に戻される途上でヒーローの歓迎をうけた。夜空を花火が彩り、車のクラクションが鳴らされ、歩いている人々も、車やトラクターに乗る人々も飛び降りてはAdnanを迎え入れようと村のゲートへと走り出していた。
「彼が刑務所から出たなんてこの目で見るまでは信じられない」と、夫の4ヶ月間の試練の間重荷を背負っていた見るからに心配気な彼の妻のRandaは言った。しかしAdnanは最近リーダーになった者らしい身振りで、未だに刑務所内に残ってハンガーストライキを続ける他の政治犯らの家族の家々を先に訪れてからでなければ家に戻らないと言った。
4ヶ月にわたって拘置されていたAdnanは、何ら犯罪行為の宣告も受けることがなく、いかなる悪事を働いた証拠もなかったのだ。しかも、最終的に彼の解放に繋がった合意の一部のなかでは、イスラエルが彼に対する新たな証拠を持ち込めば、彼を新たに裁判にかけることができるという条件が付されていた。彼のハンガーストライキの終わりから解放に至るまでの2ヶ月近くの間にそれに失敗したイスラエルは、そのようなことを始める証拠を入手していない、と暗黙に認めた。そしてまた、それはパレスチナ人が、何の容疑もなく家から連れ出された挙句に、何ヶ月も、あるいは最悪の場合何年も拘置されかねない状況に対して、いまひとつの安堵をもたらした。
彼のハンガーストライキは、イスラエルの複数の刑務所において似通った波状の抵抗運動を引き起こし… 彼が自由を獲得した暁には、およそ1,500人のパレスチナ人の収監者らがイスラエルが続ける大規模な収監のポリシーと、収監者たちへの取扱いに抵抗して無期限の集団的なハンガーストライキに身を投じていた。逮捕される以前には、単なるマイナーな公的人物に過ぎなかったAdnanだったが、彼の窮状とは殆どすべてのパレスチナ人にとって、親密なコネクションを分け合うことのできるものだった。
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Islamic Jihadのメンバー、 Khader Adnanの刑務所からの解放を 人々が歓呼で迎えた |
収監者権利擁護の代表的な組織Addameerによれば、イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地域を1967年に奪って以降、総計75万人以上のパレスチナ人がイスラエルの拘置システムによって捕らえられてきた。そのすべての時期を通じて、平均3百万人程度だったパレスチナの小さな総人口からみれば、それはその地域の人口のおよそ25%を占めており、すべての男性の半分近くを占めている。
「パレスチナの社会においては刑務所の収監者について話す際には、我々はそれを伝聞としての立場で話すよりも、むしろそこにいた経験をもつ者として話すものなのだ。だから、こうした過酷な試練を逃れたことのある、パレスチナの家族を見つけることは殆ど困難なのだ」、とパレスチナの政治と社会を研究する西岸の53歳のBirzeit大学の教授、Dr. Saad Nimrは言う…彼は、人生において合計8年間を刑務所で過ごしている。
パレスチナ人の人生における、収監者の問題の中心的な重要性とは、実質的に世界の他の地域での何にも比較しがたいものがある。パレスチナ政府─それは1993年から準自治体としてパレスチナ地域を治める─ は収監者問題の担当省庁を有し、そして、そこには多くの社会的クラブや組織、この運動に捧げられた博物館までもが作られている。
何年もの間にわたり、刑務所は人口の中の膨大な年代にとっての大学の代替物ともなり、また草の根的な政治運動組織のベースをも供給してきた。この国のもっともポピュラーな政治的人物であるMarwan Barghoutiは、現在5つの終身刑で服役しているのだが、いまだに大統領候補になりそうな競争者の一人だ。抵抗活動というものは珍重され、またイスラエルへの協力は最大の罪とされる軍事占領下で45年近くにわたって生きてきたあとに、刑務所に収監されるスティグマは、信用の失墜というその原則から名誉の印へと変貌して、無論プライドの源泉ともなるのだ。
単純に言えば、パレスチナ人にとっての収監者問題とは単なる占領下の人生のミクロコスモス(小宇宙)であり、多くの者達が大きな監房をより小さな独房の代わり、とみている場所に過ぎない。彼ら全員が解放されるまでは、その刑務所の壁の中ではなんら劇的な変化など起こらない。
今日イスラエルの刑務所には、およそ4千7百人のパレスチナ人収監者たちがいる。300人以上のこうした収監者たちが、Adnanのように「行政拘束administrative detention」を受けているが、そこでは6ヶ月までの間、犯罪の容疑や裁判もなしに人を投獄できる。この最初の期間が過ぎると、そのプロセスに対するいかなる是正の手段も回避して、軍事裁判官は収監者をさらに無期限に拘束できるとされている。
イスラエルの主要な人権団体NGO、B'Tselemによると、「行政拘束の対象者というものは、彼らの拘束の理由を一切告げられることはなく、また彼らに対する何の証拠があるかのも知らされることはない。それに加えて、特定の服役期間を宣告されて服役する囚人たちとは異なり、そうした人々が開放された後になってさえも、行政拘束の対象者は彼らがいつ解放されるのかを知ることができず、そして彼らが拘束されることのできる期間の長さには、何ら制限がない」という。
パレスチナ地域の軍事司法制度での罪の容疑の領域では、有罪という判決を受ける確率が99.7%という際だった数字に達し、逮捕はほとんどいつでも実施されている。いかなる抵抗活動も刑務所への投獄に繋がるもので、それは政党のメンバーシップの取得も含まれる。パレスチナ自治政府の現職大統領、マフムード・アッバスの政党であるファタハでさえもイスラエルの軍事当局からは禁じられている。
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33歳のKhader Adnanは人生で8回にわたって逮捕されている。彼の最近の収監とは、2011年12月17日の早朝にイスラエル兵たちが西岸の都市Jeninniに近いArrabeh村の彼の家を襲撃した時に始まった。Adnanは彼の妊娠中の妻と二人の娘の前で逮捕され、目隠しをされて尋問センターに連れて行かれ、そして彼が言うには、そこで何度も殴られたという。22日間にわたって彼は拘束されて尋問されたが、彼は逮捕された日以来、始めたハンガーストライキをずっと続けたという。1月8日に彼は軍事裁判官の前に出頭したが、そこで裁判官は彼に秘密の証拠に基づいた4ヶ月間の行政拘束を命じた。
ハンガーストライキを始めた最初の1ヶ月間、Adnanはパレスチナの内部でも海外からもほとんど注目を浴びることはなかった。通常の場合と異なり… そうした方法というものが、しばしば集団によって、そして普通は政党を通して行われるなかで、彼の行ったのは単独の個人による抵抗行為だった。彼の状況が悪くなり始めた頃に、ようやく人々が彼の行為に対するレスポンスを返し始めたのだ。
「それはグループとしての行動ではなくて、それは、同時に起こったいくつかの努力の行為だった」と、Nablusの22歳の活動家Bisan Ramadanは言う。「彼がハンガーストライキを行っている間に、あらゆる種類の人々が行動し始めたのを私は目にした。それは美しい行為で、このことを力づけるものだった」。
パレスチナの収監者たちにとって、ハンガーストライキは古くて、祝福された抵抗の形態(フォーム)である。1970年には、Ashkelon刑務所において収監者たちが15日間にわたって食事を取らず、一人の男が死に至って、現代におけるそうしたストライキの最初の例となった。1976年には、収監者たちは45日間にわたってハンガーストライキを継続した。何十年もの間、パレスチナ人は集団によるハンガーストライキを、彼らの権利を求める多くの抵抗の機会に行ってきた。最後に起きた大きなストライキは2011年の9月で、そこでは収監中に大学の学位を取得する権利が得られないということに抵抗した400人の刑務所収監者たちが含まれていた。そのストライキはその後に続いた何ヶ月間かの間に、イスラエルとハマスの間での捕虜交換の取引が成立したときに終焉したが…その時には2005年にハマスに捉えられていたイスラエル兵士の捕虜、Gilad Shalitの開放との交換という条件で、1,027名のパレスチナ人の収監者たちが解放されたのだ。
Adnanのケースは、その最も特筆すべき点として、特にこの「行政拘束」の制度そのものに対して抵抗したという点で、こうした過去のケースに対し際立った違いをみせている。
「それは、この人物一人の問題ではなかった」、とRamaanはいう。「このハンガーストライキは、行政拘束に脅威を与えていた。我々はこれを推し続けるなら、我々はこのことすべてを覆すことができるだろうと感じた」
Adnanのハンガーストライキはゆっくりと、より一層大きなレスポンスを生み出し始めた。パレスチナ地域ではデモが起こり始め、中東以外のメインストリームの報道メディアが、このストーリーを取り上げ始めた。しかしその一方で、イスラエル社会は何が起こっているかに対して気づかないか、関心のなさを示し、行政拘束の問題はイスラエルのメディアのなかでは論議されることはなかった。
「大半のイスラエル人は、パレスチナに関係のあることには何も関心をもたないのだ」、と、イスラエルの日刊紙Haaretzのシニア・コラムニスト、Akiva Eldarはいう。「人々は、(Adnanが)刑務所で死ぬことのリスクだけについて懸念した…それが彼らに対する、何らかの暴力行為を引き起こす可能性がある故に。イスラエル人に関する限り、Adnanが彼らに何の問題をも引き起こさない限りは、彼は(刑務所で)死ぬかもしれなかった」。
Adnanがハンガーストライキを終わらせるまでに1週間も満たなくなった頃、彼のハンガーストライキに、西岸地域のBurquin村から来た別の行政拘束者であるHana Shalabiが参加した。Shalabiは2年以上にわたって行政拘束を受けていた後、昨年10月にShalitとの捕虜交換で開放された収監者のうちの一人だった。Shalitの解放から4ヶ月たたぬうちに、彼女は30歳の誕生日の1週間後である2月16日深夜に、イスラエル兵らが彼女の家族の小さな家を急襲した時に、再逮捕された。
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ハンストをする娘、ハナ・シャラビの プラカードを掲げる母親 |
彼女の逮捕とそれに続く日々の彼女のハンガーストライキに対して、メディアの注目が加速的に拡大してゆき、人々からの支持がAdnanの周囲をも、奮い立たせた。このペアの実践しているハンストの行為にはその後、自分たち自身の行政拘束に抵抗するための他の10人の収監者たちが加わった。 「私は単に行政拘束と、我々(パレスチナ人)に対するすべての不当な逮捕に抵抗したかったがために、ハンガーストライキに加わった」、とShalabiは言った。「私は最初から、自分がこんなに長くやれるとは思っていなかった、だが、私の信念と意思、そして決意というものが私を継続させた」
Adnanによるハンガーストライキの66日目に、イスラエルの最高裁判所は行政拘束令について裁定を下し 彼の弁護士たちは彼の当初の刑期を、4ヶ月から尋問期間を差し引いた期間と定めるとの条件によって取引した。その時点が到来したなら彼が、新たに(提出される)代わりの証拠によって裁判を受けるか、あるいは解放される、という条件の下で。その取引はイスラエルとの(問題の)決着を容易にしてしまったものの、しかしおそらくそれはAdnanの生命を救った。イスラエルの重荷を除去することについてはいくらか批判もあったが、彼の弁護士たちは、これまで一度も法廷で真摯に問われたことのない、行政拘束の期間が設定(固定)されて、それが彼の素早い解放を保証することになるだろう、と感じた。
そのニュースは、彼女自身によってハンガーストライキの最初の1週間を継続していたShalabiの行動を終わらせた。次の数週間の間には彼女の行為がメディアの注目を喚起したが、目に見えた支持による真の成果は生じなかった。Shalabiにとって44日間の長い期間は、運動への機運やメディアの注目を惹き寄せるものだった。これらのすべての出来事を通じて、イスラエルはAdnanの取り扱いからも学びとり、拘束期間の間中にShalabiの家族が彼女を訪問することを禁止したり、弁護士や独立した医師とも接見することを制限していた、多くの戦術を変えるに至った。
「私はすべての肉体的・精神的なプレッシャーや、独房にも耐えねばならず、そして自分の周りで何が起こっているのかも自分でよくわからない中で、自分自身の運命を交渉(ネゴシエーション)した」、とShalabiは言った。
「最後には、彼女には余り自由な選択肢はなかった」、とAddameerのディレクターのSahar Francisは言う。「彼女は非常に悪い状態に陥っていた。彼女は44日間、ハンガーストライキをしていた。彼女にはプレッシャーがかかっていた。彼女は、彼女の拘束のケースが非常に深刻なもので、彼女が非常に長期間、行政拘束される可能性があるのでは、との恐怖を感じていた。こうしたすべての状況のなかで、どうして彼女にフリーチョイスがあるだろう?」
Shalabiのハンガーストライキは、彼女の弁護士、Jawad Bolousがイスラエル側と取引をして、即時の解放の代わりに彼女の3年間のガザ地域への追放を命じる、との条件を取り決めた後に、世間の論議の嵐が巻き起こったなかで、終えられる可能性があった。その後に続く日々に両者の属する側から告発が返されたのだが、そのなかにはShalabiの父親による、Bolousが彼の娘のことを勝手に操作している、との告発もあった。
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世間での論議にもかかわらず、AdnanとShalabiの解放は他のパレスチナの政治囚らが彼らに対する拘束に抵抗するための途を開く大きな勝利だとみなされている。2つのケースと、またそれ以外に今日もストライキを続けている人々のケースが、パレスチナの収監者たちのプロフィールを際立たせている。
「今日の、政党相互の間の関係はよくない」、と、1992年にパレスチナの史上最大の10,000人の収監者による協調行動のハンガーストライキを統率したPalestinian Prisoners Societyのリーダーの Qaddoura Faresは言う。「すべての党派が、どのようにハンガーストライキを行うかに彼らの独自のアイディアを持っており、彼ら相互の間にはもはや十分な信頼感というものがない。そこでは彼らが、それぞれの目的のために相手に利用されるのでは、との疑念がある」
マフムード・アッバス大統領によって出された声明では、彼は収監者による運動が党派ごとの分裂を生み、パレスチナ社会を苦しめないように、と焚き付けている。「収監者の抵抗運動においては統一を維持せよ、なぜなら、分裂や非合意が我々の故郷の地や、正しい運動に対してどう影響してきたかをあなた方は知っているはずだからだ」。
そしてさらに、大半のパレスチナ人たちは、彼ら自身を占領から解き放つ努力において、特に第2次インティファーダの時期における経験のために疲弊している。
彼自ら、「Release Marwan Barghouti(マルワン・バルグーティを解放せよ)」という運動のリーダーを務め、収監者問題担当省のチーフであり、収監者運動の組織化で長年の経験を持つSaad Nimrはこのように嘆く─、 「私はパレスチナ人たちに、孤立した事件で行政拘束に反対するデモ行動をとること以外は勧めることができない。我々は(その問題のポイントを)知っているし、我々はイスラエル人を知っている。我々は、デモがイスラエルの考えを変えさせられるとは信じられない」
しかし、おそらくすべての中で最も(彼らを)弱体化させている障害とは、構造的な…、イスラエルとの和平交渉の結果であるだろう。パレスチナ自治政府の本当の存在とは─ それはイスラエルとパレスチナの人々の間の緩衝物として機能して、占領者と占領される人々の間の緊張関係を緩和してしまい、そして後者に実質的に与えるはずの権利を何も与えないままでいる。パレスチナ自治政府はイスラエルによる占領の責任を吸収するばかりでなく、それは平均的なパレスチナ人からの抵抗への責任をも奪い取っている。パレスチナ自治政府の設立以前にはパレスチナ人たちは市民社会組織の広汎なネットワークを設立し、それが占領に対する集団的抵抗運動のバックボーンをなしていた。今日では、人々はパレスチナ自治政府が彼らの問題をイスラエルとの交渉を通じて解決するよう頼みにはしているものの、いかなる成果をも得てはいない。しかもパレスチナ自治政府は集団行動の喚起を嫌い、人々が彼らの権利のために路上で抵抗運動をすることには興味がない。
「ここには、ある種のスキゾフレニア的状況がある。あなたは占領に抵抗する人々を必要とするが、同時にあなたの指導者(リーダー)たちが彼ら(占領者)に会いに行くことも必要だ」とSaad Nimrは言う。「私は、パレスチナ自治政府が民衆の抵抗運動にとっての資産となり、それを支持するものへと、リフォームされて欲しいのだ。それは抵抗運動をリードする組織であった筈だ」。
現在のハンガーストライキの波が継続するにつれて、これらすべてが何に繋がるのかの判断は難しくなる。社会の他の側面と同様に、収監者の運動はパレスチナ自治政府、収監者問題担当省とその他の関連のシンジケートによって広汎に吸収されてきた。しかし、和平交渉の崩壊とともにパレスチナの政治は変化への絶壁に立たされて、そしてこれがいかに大衆的な抵抗運動の広がりに影響するかも、不明瞭だ。現在の事実上のパレスチナの首都のなかのRamallahで、Adnanは何かを打ち樹てようとした男であるかのように語る。彼は解放の夜に群衆に向かって演説をし、政治的党派のラインによる分裂の噂を払いのけて未来への展望を語り、集団行動の必要性について包括的に語った。
「今や、パレスチナの刑務所収監者たちの受けている苦悩をより一層、露わにすることが私の義務なのだ」、とその後AdnanはNational紙に語った。「この闘争は私の家から、私の村から、私の人々から始まった。それは草の根のレベルと、そしてオフィシャルなレベルで、西岸とガザで、(歴史的なパレスチナと)そして世界中のすべての自由な人々に向かって、収監者についての言葉として広めねばならない。この問題を、これ以上見過ごすことはできない」
その問題の固有の挑戦が巨大であるにも関わらず、Adnanが切り開いた端緒とは、意義ある変化を推進するのに必要なスペースをもたらすかもしれない。来りくる日々に、個人のハンガーストライカーたちの最近のラウンドが終着に達して、イスラエルが彼らを解放するか彼らを刑務所で死なせるかの選択をすれば、その結末はこの地域内と海外の双方にとっても大きなものとなるだろう。 「4か月にわたってパレスチナの収監者たちは、彼らの拘束への抵抗を行った」と彼は反逆精神で語った。「この占領を揺るがすには、何千人もの人間は必要でない、それには真の信念を抱いた10人が居れば充分なのだ」
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Palestinians holding Khader Adnan's poster カドゥル・アドナンのポスター |
ハンストのパレスチナ政治囚とイスラエル刑務当局が待遇改善で合意(5/14, JSR)
イスラエル刑務当局は、パレスチナ政治囚がハンストの終了に同意したと述べた。
パレスチナ囚人クラブの幹部筋も、当局と囚人グループの間で協定が成立したこ
とを確認した。刑務当局との交渉団のメンバー、サーレフ・アルーリ氏(ハマース幹部)によると、同当局は、行政拘留による投獄者のリストを提出し、期限終了時に彼らを釈放する(延長措置を取らないこと)ことに同意した。また、「パレスチナ情報センター」(ハマース系)のサイトは、エジプトの仲介のもと、対象の囚人すべての独房拘禁を72時間以内に解除することをイスラエル側は認めた。
さらに、イスラエル側は、ガザ地区からの囚人家族の訪問を認め、また、「シャリート法」を撤回する。同法は、捕まっていたイスラエル兵、シャリート曹長の
釈放圧力として、パレスチナ囚人への家族の面会や学習の便宜(著書の差し入れ
など)を厳しく規制するもの。
行政拘留問題では、刑務当局と囚人代表団の間で意見の対立が続き、激論が交わされたが、エジプトの情報幹部の介入でぎりぎり妥協が成立したという。
77日の長期ハンストを続けている、ビラール・ディアーブ氏(27)とサエル・ハラフラ(Thaer Halahla)氏(33)の弁護士によると、2人は、行政拘留期間切れまで絶食を続けると語った。(その後、長期絶食の囚人は、弁護士の説得でハンスト中止に同意、民間の病院に収容された。5/15 Maan News)
イスラエルの監獄では、4月17日からパレスチナ人の集団ハンストが始まり、約2000人(Maan News、Haaretzによると1600人)が約1カ月間絶食、一部の囚人は、以前からのハンストを続け、40日以上、最長77日に渡っていた。アムネステ ィ・インタナショナル、人権のための医師団=イスラエルなど内外の人道団体、EU、国連などが憂慮を表明、早急の囚人待遇改善を求めていた。PLO執行委員のハナーン・アシュラーウィ教授は、合意成立は非暴力抵抗の力を証明したと述べ、「この勝利は、囚人だけでなく、その家族、占領下とディアスポラにある、すべてのパレスチナ人の勝利だ」と語った。
クネセト(イスラエル国会)は8日に、安保関係を含むすべての囚人の人道的待 遇を求める法案を、第2、第3読会で承認している。(5/14 Haaretz, Maan News)
Monday, May 7, 2012
サルコ王の首と一緒に去れ…Off with King Sarko's head - By Pepe Escobar
サルコ王の首と一緒に去れ By ペペ・エスコバル(5/5、Asia Times)
彼は、リビアでの偉大なるスペクタクルにおいて、新帝国主義 neo-imperialismによる解放者として振舞った─ 彼の2007年の大統領選でMuammar Gaddafi大佐が彼に6500万ドルのクールな資金援助をおこなってから、わずか数年後に。

そして未だに、この日曜日にフランスの有権者たちは─Facebookスタイルのバスティーユ牢獄陥落によるリミックス状態のなかで…叫ばずには居られずにいる、「あいつの首と一緒に消えろ」と。
なぜかって?傲慢のせいだ。フランス大統領Nicolas Sarkozy、またの名を、新ナポレオン風のKing Sarko、元・成金趣味の王でイタリアン・ファースト・レディのCarla Bruniの「お気に入り」…それは彼自身にとっての最悪の敵なのかも知れない。
リッツ風のライフスタイル A Ritzy lifestyle

Bashir Saleh は元Gaddafiの参謀長で、リビアのソブリン債ファンドの社長だった。彼はその政権が2007年のSarkozyの選挙キャンペーンに資金を援助すると決めたとき、頼りにされた男だった。
予測に違わずKing Sarkoはそうしたことについてはすべて否定し、すでに多くの人に周知のその件を暴露したフランスのウェブサイトMediapartを告訴すると言った。しかしこの木曜日にリビアの前首相Baghdadi Ali al-Mahmoudi はそのことをすべて再確認した。それは、Gaddafiの息子で元・London School of EconomicsのダーリンだったSaif al-Islamが2011年3月に言ったことと、全く同じだった。「Sarkozyは、リビアから彼の選挙キャンペーンのために受け取った金を返すべきだ」、と。
Salehは今やインターポールの監視下にあるが…彼は、さもなくば4月までは彼を追いかける役割にあったはずのNATOの反乱軍政権による滞在認可を得てフランスに残っている。彼は偶然にも、モンブランを眺望するこじんまりした心地よい400万ユーロ(5200万米ドル)の住居をスイス国境付近に維持している。
彼はそうした生活状況はすべて「リビア〔暫定政府〕の大統領、Mustapha Abdel Jalilの同意の元に進行していることだ、と語ったKing Sarkoの警察によってまもられている。人生はすてきだ…今週Salehはパリのリッツ・ホテルにおいて目撃されている。
私の票はCarlaに投じる My vote is for Carla
フランスの大統領選キャンペーンは今週、King Sarkoと社会党の挑戦者Francois Hollandeとの間のディベートにおいて、おなじみの(いわゆる)期待はずれの結果に達した。その画面には3兆バイトのアクセスが集中したが、それはそのディベートが本質的に「はりつめていた」ことを示した。ノックアウトシーンはなかった。SarkoはコカインをやるDuracell bunnyのように振る舞い、いっぽうHollandeは─乾燥したソーセージの如きカリスマで─実際のところ堅固であり、相対的な精確さをみせていた。
嘘は止まるところを得ずに噴出した。Sarkoは自らの雇用創出の実績を弁護した。2007年4月に、彼は5年の大統領任期後には失業率をわずか5%に抑える、と公約していた。今日フランスの都市圏のアクティブな人口の失業率は、9.4%に達する。Sarkoの5年間の後、フランスの失業率は100万人増加した。
カフェで出されるお好みのマカロンのように、中道派のFrancois Bayrou ─選挙戦の初盤で9.1%の票を獲得した─はSarkoのキャンペーンを極右派を誘導して撃退するとのマニフェストを発し、彼自身Hollandeに票を投じるとも宣言した。
そんななかで、フランスの有権者の33%以上は予備選の投票に参加せず、その代わりにトップモデルのCarla Bruniの容姿の地政学的な効果(悪影響)に注意を集中していた。
予備選の本当の勝利者(それは有毒な政治的ヘルファイヤー・ミサイル以下のものではない…)とは、抜け目のないビジネスウーマンのMarine Le Pen…つまり、同党の創立者で証明書つきのファシストのJean-Marie Le Pen.の娘…を通じて「正常化」されたフランスの極右派National Front(18%の票を獲得した)なのだった。
1980年代以来、ヨーロッパの極右勢力において拡大するNational Frontの影響力はただただ驚くべき物だ。癌はそこらじゅうに広まり、フランスからイタリア、英国、ベルギー、オランダ、オーストリア、ハンガリー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、そしてギリシャにまで広がっている。
外国人嫌悪とイスラム嫌悪は健在で、恐ろしい危機に絡め獲られたヨーロッパ全土に拡大している。オーストリアでは、カリスマ的なJorg Haiderの何年もの政権の後に、極右がいま全面的に正常化し合法化された。オランダでは超イスラム嫌いのGeert Wildersの元に、PVV(Partij voor de Vrijheid - Party for Freedom自由党)が2010年の選挙で24%の議席を獲得して保守連合政権の一部となったものの、それはまた最終的に崩壊した…再び、Wildersのせいで。 スカンジナビアでは極右が大手をふるっている。
たとえばスウェーデンでは、Swedish Democratsスウェーデン民主党(ジョージ・オーウェル風で素敵なタッチだ)が、史上初めて議会に進出した。 ヨーロッパでは、極右主義者ほど悪く振る舞えるものはない:それはグローバリゼーションや「茶色人」や「黒人」の移民たちを激しく罵り、腐敗したエリート層を非難し、イスラムを悪魔呼ばわりし、危機のなかでのナショナル・アイデンティティ維持を警告する…多文化主義(multiculturalism)の横行のせいで…そして本質的に「反システム(反体制)」を標榜する。それはまるで、ナチスドイツの亡霊がフランスの南からカルパチア山脈に飛来してきているようだ。
極右政党が国の有権者票の15%をとっても不思議ではない、保守政党は慌てて政策を修正しようとする。それはまさしくKing Sarkoがフランスでやろうとしたことだ─1次選挙を失って、彼は狡猾なMarine Le Penが「共和国にも比較される」といった。しかしそうはならなかった、なぜなら何百万もの有権者たちのなかに実際、別の怒りが醸成されていたからだ…彼らのEURO嫌いというものが。
Europhobes, unite EURO嫌いたちよ、団結せよ
EUROゾーン危機は、国々が財政破たんするノン・ストップの正統的「緊縮経済」、失業、格付け会社の鉄槌、予算担当のテクノクラートたち、拡大する経済的な恐怖、何百万のフランス人たちは他のヨーロッパ人たちと同様、ブリュッセル(EU本部)を非難の対象とした。そしてKing Sarkoはたまたま、憎悪の対象のエリートの一部だった…理論上ではヨーロッパを「救おう」とした、ドイツの首相Angela Merkelとの「Merkozy」カップルの50%(片割れ)として。
それゆえに金ぴかキングのもう一つの問題は、彼が政治的・文化的・社会的プロジェクト─彼のヨーロッパのビジョンを全く売れなかったことだ。あるいは最低でもいかにして危機後のヨーロッパ(post-crisis Europe…その危機はまもなく消えると仮定して)を再創造するかを、指し示せなかったことだ。 Hollandeは冷えたキュウリのようなものかもしれず、彼の処方箋は「時代遅れ(期限切れ)」かもしれない─King Sarkoとエコノミスト誌が批判したように。しかし少なくともこの社会主義者のフランス政権復帰はすべてのチェス盤を揺り動かすだろう。 EU連合は強制的に、仏独の枢軸をその「post-Merkozy(メルケル・サルコジ後の)」の段階に再検討せねばならないが、しかしその枢軸は実際にヨーロッパ全土を支配している。
パリとベルリンには「継続」について多くの論議がある。それは前にも(仏大統領の)Giscard d'Estaing仏大統領と(独首相の)Helmut Schmidtの間にも、Francois Mitterrandと Helmut Kohlの間にも起きたことだ。 しかし、真のチャレンジとはHollandeの政権がより社会的で平等主義的なヨーロッパのために何ができるかだ。エコノミスト誌(それはロンドンのシティの金融業の利益を代弁するが)は、King Sarko(フランスだけでなくヨーロッパも「救おうと」していたが、それはナンセンスなのだ)にとても遺憾の意を表していた。 さらば金ぴか男─いい厄介払いだ。 (後略)
ニコラス・サルコジよ、退場せよ(Exit Nicolas Sarkozy) (5/7、NYタイムス)
フランス大統領 Nicolas Sarkozyがまもなく、エリゼー宮を明け渡すことの理由はいくつか存在する。彼のカラフルなライフスタイルは彼に、右派への投票率が増すという危険を冒させ、彼のおこなった移民反対論者(移民バッシャー)たちへの迎合は彼に、左派への投票率が増すという危険を冒させた。しかし日曜日(5/6)の選挙で彼のこうむった大幅なロスの圧倒的な原因とは、ヨーロッパの金融危機への処方薬としてドイツの首相Angela Merkel が拵えた痛みの多い非生産的な緊縮政策に、Sarkozyが温かい支持を与えたことに対する反感だ。
僅差で勝利を得た、外見的にぱっとしない社会党候補者François Hollandeは、その代わりに、政府の支出と徴税の能力を復興と経済成長へと向けるように要求した。
地域の問題の解決には何でも一つのサイズの政策で対応できるといった回答を万能だと信じて、政府支出の急激な削減を好む政治家たちを拒絶したのは、フランス人たちだけではなかった。ギリシャでの日曜日の議会選挙で有権者たちは、今年はじめにドイツが広く提唱した(財政危機の)レスキュー・パッケージ(1710億ユーロの緊急融資の代わりに、経済成長率をとめる歳出カットを行うとの要求を含んでいた)に賛意を表していた2つの主要政党の候補者らを敗退させた。
そして、そこには選挙の無視しえない暗い側面があった。外国人嫌い(Xenophobic)のメンバーがナチス式の敬礼を行う極右政党、Golden Dawnは史上初めて、議会進出を可能にする21議席を獲得した。
Merkel女史が、容赦のない緊縮政策には効果がない、と認めようと準備している兆候はいまだにみられない。月曜日に彼女はHollande氏の選挙結果を歓迎して、「成長」は「進歩」のために必要だと述べた、しかし彼女は、Sarkozy氏の助力により構想した緊縮政策協定には「交渉の余地はない」、と言い張っている。
Hollande氏はすでに、フランスの経済政策をリストラクチャリング(再構築)するつもりだ、と表明している─政府プログラムの刺激策によって成長と雇用を促進しつつ、富裕層と大企業に増税して国の負債に挑戦すると。その勝利宣言のなかで彼は、新たな経済協定を検討し、ヨーロッパにとっての「新たな方向」を模索するとも誓った。彼は明らかに、ドイツの政治家らを視野から外しつつ、主要な真実を掴んでいるようだ─ギリシャと他の諸国が、労働市場をリフォームして国家予算のコントロールの回復と取り組まねばならぬなかで…彼らは経済成長を許されることなしに、負債を再び支払うことはできない。
米国の経済は、大方のヨーロッパ諸国よりもよい状況にある。しかし、緊縮政策に関する議論はここでも続いている。それなら、共和党議員Paul Ryanの緊縮予算案を支持した上院の共和党議員たちにとって、警告は存在するのだろうか?そして、彼らの政党の大統領指名候補となりそうなMitt Romneyにとっては?財政赤字をコントロールすることは重要だが、過度の緊縮財政を早急にやりすぎることは経済回復を停滞させ、悪ければ生命を破滅させる。ヨーロッパの鈍い成長の数字がそれを証明しているのだ。そしてヨーロッパの有権者たちは、それを見出しているのだ。
http://www.nytimes.com/2012/05/08/opinion/exit-nicolas-sarkozy.html
*「フランス大統領選挙の本当の勝者はヨーロッパの極右勢力だ」
(Newsweek日本版・5.16号に日本語訳が掲載されている記事)
France’s Turn for the Worse - Europe's far right is the true winner of Frane's presidential election-
By Yascha Mounk
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/foreigners/2012/05/europe_s_far_right_is_the_true_winner_of_france_s_presidential_election_.html
Monday, April 30, 2012
「猫とネズミ」を演じる米国とパキスタン US playing cat and mouse with Pakistan - By Karamatullah K Ghori
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Hafiz Mohammad Saeed |
4月2日に悪魔がその時を得て…米国が、2008年の11月に武装グループがムンバイの街を襲撃し、7人の米国人を含む166人の命を奪った騒乱の影の黒幕としてインド政府が訴えている、Hafiz Mohammad Saeedの首に1千万ドルの懸賞金を懸けると宣言した。
Saeedの纏っている宗教的な外衣、Jamaat-ul-Dawa(伝教党Party for Propagation)はしばらくのあいだワシントンのテロ組織の指定リストにも載り、国連の作る同じカテゴリーのリストにも挙がっていた。Dawaは、Saeedがインドのカシミール支配に対抗する武装闘争のために設立し、2002年にはインド議会場への攻撃に関与したとして非合法化されたLashkar-e Taibaの後継の組織だ。
Saeedの逮捕や告訴につながる情報の提供に対して、ワシントンがこれほど高額の懸賞金を懸ける決断をしたとのニュースは、インドの首都New Delhiを公式に訪れていた米国務次官、Wendy Shermanによってリークされ、世界に報じられた─ それはSaeedをワシントンの「お尋ね者リスト」に掲載させ…アルカイダのリーダー・Ayman al-Zawahiri (2千5百万ドル)のみに次ぐ、世界で2番目に高額な懸賞金付きの者とした。
それは単なる偶然なのか…一種の臨床的なシンクロ現象の実例なのかは不明だ…4月8日にSaeedに対する懸賞金の件が新聞の見出しを飾ったちょうどそのとき、パキスタンのAsif Ali Zardari大統領 は丸一日かけて「個人的に」インドを訪問し、贖罪のために、Ajmar市のスーフィ派の聖人Khwaja Gharib Nawazの聖廟を巡礼に訪れていたとインド人らは外部世界に報じたのだ。
それは、陰謀の要素がこの事件にそっと忍び込み、外交問題の論客たちに疑問を抱かせた点だった…ワシントンが思いがけないイニシアチブで…ムンバイ・テロの主軸の役割を担った咎でインド政府が照準を定めてはいるが、米国の照準範囲にはなかった男の首を狙う、と宣言したことには…何らかの繋がりがあるのではないかと。
彼はまた、パキスタンの定める照準の中にもいなかった。2009年にSaeedが、ムンバイへの攻撃に関与したとの容疑で自宅軟禁された事への異議申し立てに勝訴し、パキスタンの最高裁は彼を解放するようにと命じていた。
米国の国務省が懸賞金に関する宣言を発した丁度一時間後、Saeedは、パキスタンのGeoTVに出演していた。彼は、彼が自由な人間として─パキスタンに住んでおり、米国政府の担当者との対話にはいつでも応じると宣言した。 「彼らは、私をテロリストと呼ぶ。だが、私は裁判所に行って、彼らに私に関する結論を出すように申し入れたのだ。インド政府は私に対して4通の事件調査書類を送ってきた。その案件の審理には、6ヶ月かかった。そして上級裁判所における判事全員が、私も私の組織も、ムンバイの攻撃や(あるいは、その他のいかなる)テロリスト活動にも何ら関わっていない、との結論を下したのだ」─Radio Free Europeと、Radio LibertyはSaeedに関して、そのように報じていた─
ザルダリ(大統領)は、多くのパキスタン人にワシントンの信奉者だとみられていて人気がない─彼の前任者のペルベス・ムシャラフ大佐が、最もそう目されていたときよりもずっと。彼は米国のカバン持ちとしてパキスタンの国益を犠牲にしながら、彼の米国の主人に卑屈な忠臣のごとく無条件に服従しているとみなされて、軽蔑感の槍玉にある。
「メモ・ゲート(*)スキャンダル事件」は、未だに上級司法機関の審議の最中だが、それはパキスタンの大衆に、彼らの大統領がワシントンの軍官である…とのより大きな疑いをもたせている。この論議は、米国の統合参謀本部議長、マイク・マレン(Mike Mullen)提督に宛てて書かれたメモをめぐり、渦巻いているものだ…そのメモでは昨年5月のパキスタンでの米軍のオサマ・ビン・ラディン殺害のあと、パキスタンで軍部が同国の文民政府を乗っ取ることを阻止すべく、バラク・オバマ政権にあからさまに助力を要請しており…また同時に、ワシントンの政府インサイダーが同国政府と軍部の機構を乗っ取るように促すようにも提案している。そのメモの草稿は、ザルダリの依頼で書かれたともされている。(* Memo-Gate パキスタンの「メモ疑惑」スキャンダル )
メモ・ゲートの主要なキャラクター、Mansoor Ejazはこう主張し火に油を注いだ…ザルダリは、彼の米国の操作役(ハンドラー)たちからビン・ラディン暗殺の隠密作戦に関して内報を受けていたのだと。このことは当然ながら、論客たちに疑問を持たせた…Saeedへの懸賞金についての発表というのは、ザルダリのインドへの「巡礼」訪問を容易にするために行われたのか、あるいはそれに影を落とさせるべくなされたのか?と。
ザルダリの聖廟への計画的訪問は、多くの人の眼にイチジクの葉(隠蔽目的の物)より以上のものではない、とみなされた…そしてまた彼がAjmerに赴く前に行ったManmohan Singh(インド首相)とのDelhiにおける会合は、そのことによる成果にも大いに便乗していたのだろう、と。
ザルダリは、ムシャラフ(前大統領)が7年前に、観光客のメッカである健康に良い保養地アグラの有名なタージ・マハール寺院の陰で、彼らの元に残した小片を、拾い集めようと試みることだろう。多くの論客たちが、ザルダリの「巡礼」外交とは、ムシャラフが気難しい近隣諸国との連帯を修復しようとした「タージ」外交の遅ればせながらの延長だろう、とみなしている。
2005年にムシャラフが当時のインド首相、Atal Bihari Vajpayee(アタル・ビハリ・バジパイ)と会合した折には、宿敵である両国リーダーらにとって、残る課題が細部への配慮となった最後の瞬間に交渉が決裂したが…それは大きな解決策のブレイクスルーを得る寸前だった。
両国は平和の流れを拾い上げることに真剣で、新たに刷新された活力と目的意識を抱いているようにみえた。
パキスタンはインドとの和解と関係正常化の途で大きな一歩を踏んだ…宗教的な右派勢力からの大きな反動にも関わらず…インドに「最恵国待遇」のステイタスを与えることで、その疎外された隣国との間の貿易・経済関係における巨大な振興策を講じ得るという利益を見出して。
ザルダリが、Delhiから幾つかのポジティブな勇気付けのシグナルを送られ、パキスタン大統領としてインドへの初訪問に乗り出したのは理解できるが─彼は、闇の中で充分に跳躍することができなかったのだ…特に、パキスタンのビザンティン風な政治文化の頂点での彼の謎めいた役割が、多くの疑念に取り囲まれているなかで。
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Asif Ali Zardari |
しかし予言者たちはインドの抱える他の二つの棘だらけの問題、つまりSiachen と Sir Creek両地方の領土紛争問題…において、折れるよう説得されるだろうとも言う。それは合意の補足的な例外条項の部分さえもが、何年も前から準備されていたものなのだが…1980年代末に、故・Rajiv Gandhi や故・Benazir Bhutto が政権の座にあった頃からすでに。
"great divide(大いなる断絶)"といわれるこの両国の軍司令部の…その仕事にスパナを投げ込んでいる司令官たちは、今や彼らの鼻先を超えた先を見たがっていると信じられているが─パキスタン主導の貿易自由化は、軍の司令部が留保を解いて政治的な事柄と足並みを揃えないことには、実現しない。
しかしながら、カサンドラ(凶事を予言する者)たちは…Saeedと他の同類の者たちをムンバイでの犯罪の責任者として充分に名指ししない限りワシントンのSaeedに対する懸賞金がザルダリのDelhi訪問のアジェンダに強いも悪影響を及ぼすかもしれず、インド政府がパキスタンに集中させる不平不満をも再燃させるかもしれない、と懸念している。
この懸念から得る儲けの種とは、Saeedへの懸賞金の動きを騒々しく歓迎するインドの官僚たちの、ほとばしる熱意なのだ。その懸賞金がパキスタンからの…冷たくはなくても中途半端に生ぬるい反応を招いたのは、驚くまでもない。同国の大衆感情はワシントンがあからさまにパキスタンの腕をひねり上げ、その領土内にNATOが設けている物資輸送の中継拠点のもつれた問題への非難を和らげるように画策していると感じている─その陸の回廊は、昨年11月に米国がアフガン国境近くの部族エリアで行った襲撃で24人のパキスタン兵を殺害した事件以来、凍結されているが。
パキスタンでは、議会がいまだにNATOの設備の再開の是非について、審議を続けている。しかし民衆の間には、ワシントンが近日中にパキスタン兵士の殺害に関する無条件な陳謝を行わない限りそれを再開すべきでないとの、完璧なコンセンサスがある。
飴とムチ政策では強硬なムチを行使する方針第一へと傾いたワシントンは、この二つの「同盟国」を、辛いコーナーから救い出そうと考えてくれるかもしれないパキスタンのエスタブリッシュメント(既成権力)に対して、その方針だけを貫いて留まるしかない。同時に米国人のそのようなドラマチックかつセンセーショナルな動きは、パキスタンの民衆の間での反米の御旗をより一層高めるだけだ。右翼的な宗教政党はすでに大衆の狂騒を焚きつけている─Saeedはポピュリストたちの反米運動の真只中にあり、彼の首に懸賞金をかけることは怒れる雄牛に赤い布を見せるのも同然なのだ。
http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/ND06Df02.html
米国の懸賞金は、パキスタンの武装派リーダーを捉えられるのか?

Saeedはパキスタンでお尋ね者でないだけでなく、定期的に公的な場にも出ている。4月3日、彼は首都から約1時間ほど北のAbbotabadで、彼の組織の集会を催した。
パキスタン政府でさえも、ワシントンによる彼への懸賞金告知には不意を突かれたようだった。「われわれはオフィシャルなチャンネルから、何の知らせも受けていない。外交チャネルからも。それゆえ、私はオフィシャルなコミュニケーションを通じた連絡を待つべきだと思う」と、4月2日に内務大臣Rehman Malikは述べた。
http://www.rferl.org/content/us_bounty_for_pakistani_militant_leader/24537868.htmlパキスタンが米国の新たな懸賞金に咳払い
…理論的には、米国の懸賞金はSaeed氏の所在というものを、アフガンのタリバンのリーダーMullah Muhammad Omar(パキスタンに住むとの噂の)の現住所と同じ位価値あるとものする筈だ…しかしタリバンのリーダーと異なり、Saeed氏は堂々とLahore市内に住み、先週にはパキスタンの首都Islamabadでの反政府運動にすらなんとか顔を出した…警察がそこに出させまいとした努力にも関わらず。
そしてまた最高200万ドルまでの懸賞金がHafiz Abdul Rahman Makkiの拘束に対しても賭けられたが彼はSaeed氏の義理の兄弟だ。これは彼を米国の「武装派お尋ね者賞金リスト」の39番目に押し上げた。米国の告知後1時間足らずの内にSaeedはその考えをからかい、彼と彼の親戚が潜伏する家でAl Jazeeraの電話取材 http://www.aljazeera.com/news/asia/2012/04/20124314501346522.html に答えた、「我々は我々の発見にかけられた報奨金のために洞窟に隠れてはいない。我々はパキスタンの何百、何千もの人々に毎日語りかけているのだ…」
もちろん、その61歳の元エンジニアリングの教授が最近、パキスタン全土での集会で演説した映像 http://youtu.be/JrDX6wKlWFM を探すのも容易だ。Saeed氏は米国の即時撤退を主張するデモを行う非合法化されたジハーディストのグループ、宗教政党や保守派政治家ら等の、新たな連合組織の主導的人物として台頭してきた。
Pakistanmp治安本部のあるRawalpindiでの1月の集会で、Saeed氏は軍の強力な諜報機関ISIの元・長官Gen. Hamid Gulを含む元軍人らに程近いステージの横で、Financial Timesの記者インタビューに答えているhttp://youtu.be/5Np_GD3MwEs Gen.Gulは1987年から89年に、パキスタンのスパイとCIAがソ連軍と戦うアフガン武装勢力を支援していた当時ISIの長官を務めた人物だった。2010年にWikiLeaksが入手した米国の秘密の軍事フィールド・レポートによれば…退官したGen.Gulは近年になって、対ソ連戦争時代のリーダーたちと協力していた疑いがもたれるが…それらのリーダーらの、何千もの武装勢力ネットワークは最近アフガンで米軍と戦っている…(後略)
http://thelede.blogs.nytimes.com/2012/04/03/pakistani-scoffs-at-new-u-s-bounty-on-him/
非合法のリーダーら市政府に困難の時を強いる
…6時間にわたり、非合法化されたAhl-i-Sunnat Wal Jamaat (ASWJ)のリーダー、Maulana Mohammad Ahmed Ludhianviと、Jamaatud DawaのチーフHafiz Saeedが火曜日にイスラマバードの警察と猫とネズミ・ゲームを演じた。彼らは現れては消え、止められては解放されて…スペクタクルを見ようと群衆が集まり、交通渋滞が続く中で、車に乗車中行く手を阻まれては、彼らの武装ガードたちに保護された。
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Ludhianvi |
http://dawn.com/2012/03/28/banned-leaders-give-tough-time-to-administration-2/
How childish are they?..
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