Wednesday, June 13, 2012

ザ・フェイスブック・イリュージョン The Facebook Illusion - By ROSS DOUTHAT


ザ・フェイスブック・イリュージョン The Facebook Illusion


By ロス・ドウザット (5/26. NYタイムス)

21世紀のはじめの10年間、アメリカ経済に関しては2つの巨大な錯覚が存在した。その1つ目とは、住宅の価格とはもはやノーマルな経済トレンドとは繋がっておらず、それはどんどん上昇し続けるものだ、との信条だった。2つ目の考えとは、WEB2.0 の時代において我々は、インターネットで果てしなく金を稼げる方法を見出している途上にある、といった考えだった。その最初の考えは、2007年と2008年における住宅価格と株式市場の崩壊と共に崩れ去った。しかし、WEB2.0に対する錯覚の方ははるかに長く生き延び、先週のFacebookの初めての株式公開に伴う災難では、騙されやすい投資家らに、少しばかりその財産を投じさせてしまった。

  私はブルームバーグ・ビジネスウィークが新たな株式公開後の5日間の取引の後にそれを「10年に1度の大失敗だ」、と宣言したFacebookの困難な着陸には、気難し屋のそこはかの楽しみを感じてしまったことを告白する。私は、インターネット時代の興奮の集中する主要なハブとしてのMark Zuckerbergのソーシャル・ネットワーキング・サイトには、常にオンライン・ライフのよりダークな一面に成功を依存する、最も不健全(有害)なものとして強く印象づけられていたのだ─その、絶え間なく続くセルフ・ファッション(自分を装う)行為や、セルフ・プロモーション(自己宣伝行為)、真正な本物にはほんの上っ面だけしか似ていない、ヴァーチャルな形の「コミュニティ」や「フレンドシップ」の探求、プライベートな事柄の範囲を広告料利益の追及のために容赦なく減退させる、といったことに。

 しかしFacebookを愛する読者や、それなしの生活が想像できないという人々でさえも、その株式市場での失敗については、インターネットのコマーシャルな限界の兆候としてみるべきなのだ。New Yorker誌上でJohn Cassidy が、同社の株式公開前の最も洞察に満ちた記事のなかで指摘していたように、問題なのはFacebookが金にならない、ということではない。それは─それが、余り金にならないこと─、そしてそれがより多くの利益を得るための明快な方法を、何ら持っていないということなのだ。なぜなら、(オンラインについての色々な懸念と同じ様に)それは、どうやってその何百万…何百万、と増えつつあるユーザーたちを効果的に金銭化して行くかという方法を、いまだに発見していないのだ。その結果とは確かに同社は、企業としては成功したのだろうがその財務表(バランスシート)というものは、facebookがオンライン上のどこにでもある偏在性が示唆するものに比べると、余りにも印象の薄いものでしかない。

 この「巨大なリーチ性と、限界ある収益性」という問題は、デジタル・エコノミーの全体を特徴づけるものなのだ。George Mason大学の経済学者Tyler Cowen2001年に書いた彼のe-Book、『大いなる沈滞(The Great Stagnation)』のなかで、 インターネットはそれが登場して「チープな楽しさ」を発生させた際には驚きだったと述べた。しかし「その製品の余りに多くのものが無料であったために」そしてまた、典型的なウェブ企業の仕事のかなり多くの部分が「ソフトウェアやサーバーによって多かれ少なかれオートマチックに遂行されてしまう」ために、オンラインの世界は、それが雇用を増加させ始めた頃とに比較すると却って印象の薄い世界となってしまった。

 こうした意味ではデジタル時代に成功した企業としてしばしば話題に上るアップル社やアマゾンなどが、どちらもノン・ヴァーチャルな商品の製造とその配送にしっかりと根付いたビジネス・モデルを持っていることは示唆に富んでいる。アップル社の競争力のコアとは、より良い、より美しい電気製品を製造することだ; またアマゾンのそれは、電気製品からDVD、おむつに至るまでの商品の何もかもをより素早く、より安くあなたのドア口まで配達することだ。

 これとは対照的に、企業の製品というものがより純粋にデジタルになればなるほど、そこに生じる雇用は減少し、1ユーザーごとに発生する利益は減少する傾向にあるそれは、ジャーナリストたちにとっては過去10年間に余りにもおなじみだったリアリティで、facebookへの投資家たちも先週ぶつかってしまった問題だ。このルールには例外もあるが、それらの数はあまり多くはない長らくインターネットで最大の金になる分野の1つだったポルノグラフィでさえ、アマチュアのサイトやビデオの蔓延によって、「プロフェッショナルたち」がわいせつ物のモノポリーを失っていくなかで不断に利益率を下げつつある。

 ドイツの哲学者のジョセフ・パイパーJosef Pieperは、1952年に「レジャー─文化の基礎(Leisure: The Basis of Culture)」 というタイトルの本を書いた。パイパーは、オンライン上に繁栄している文化には疑いなく失望しただろうが、レジャーとは明らかにインターネットの基礎でもある。ロウ・ブロウな文化からハイ・ブロウな文化まで、LOL cats からWikipediaに至るまで、インターネットにある広大なコンテンツというものは報酬を全く期待しない人々によって作られている。「ニュー・エコノミー」とはこうした意味で、常にそれがコマーシャル(商業的)なエコノミーであるわけでは決してない。その代わりに、それはslate.comのマシュー・イグレシアスMatthew Yglesiasが指摘したように、一種の「趣味に熱中する人の楽園(hobbyist’s paradise)」のようなものつまりそれが徐々に取って代わると思っていたオールド・エコノミーからの余剰利益(surplus)からの補助金によって成り立っているようなものだ。

 労働省の統計による最新の失業率をひと目見れば、そこにはこの件のリアリティが現れている。ここ20年近く続いていたドット・コム産業への熱狂にもかかわらず、情報産業部門(information sector)の経済規模というものは、他の産業分野に比べてかなり小さい。それは現在わが国で最高の失業率を示す分野でもあり、そしてそれは昨年1年間に失業率が実際に増加した数少ない産業分野の一つでもある。

 このことは、インターネットの革命性を減じたりすることは何一つない。しかし、インターネットとは、経済的革命というよりも文化的な革命をもたらしたのだ。TwitterFord Motor Companyではない; GoogleGeneral Electricではない。そして彼が、我々の目玉を二束三文で広告主たちに売り渡したりすることのない限り、我々全てがMark Zuckerberg のために働く、などということは起こらないだろう。







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